忙しくて今日も今が帰りという事態だが、思うに、忙しい状況に陥ることがミスであり、能力不足という認識はある。
下請け会社をいじめてグレーゾーンに買いたたきしわ寄せがくるという事態に、下請け会社に非はないといいたいが、個人レベルでは、その会社に就職したことがミスである。
思うに、事象を他者のせいにする人間ばかりである。
環境も含めて自分の責任とする。
そうした主体性がない人ばかりである、そうした批判もまた他者のせい環境のせいにするその他大勢と同じである。
津波は防げなかった、ということを政府がいってはならないが、個人がいうのは自由とすることもできる。
思うに、戦国時代と思うのだ、下手な君主に仕えると、個人の裁量むなしく打ち首となる。
三国志などでは忠臣が美しく描かれるが、実際問題弱小劉備に仕えるのはリスクでしかない。
とはいえ、ここで短絡的に戦国時代と現代の戦国時代を比べてはいけない。ワーカホリックとの言葉はあれど、武人の最高の死に場所は戦場なのだ。
戦で死ぬ価値観が本当に普遍的な時代があったのかは分からない。とはいえ、自分の尻拭いを配下の首をはねることでとる者もいるし、同じようにも思える。
ところで現代の武器は、蛇矛ではなく言葉であり情報であるが、人脈が重要なのはいうに及ばない。
結局一旗あげるのは、個人の能力ではなく、大きな潮流に思える。
だから、中卒でも年収何億とかいうのはあながちでもない。
みもふたもないが、バランスに過ぎない。ルックスも声も、親の名声も、頭の良さも体つきも、笑顔の上手さも価値観や考え方、感情さえも、すべて構成要素にすぎない。
下請け会社をいじめてグレーゾーンに買いたたきしわ寄せがくるという事態に、下請け会社に非はないといいたいが、個人レベルでは、その会社に就職したことがミスである。
思うに、事象を他者のせいにする人間ばかりである。
環境も含めて自分の責任とする。
そうした主体性がない人ばかりである、そうした批判もまた他者のせい環境のせいにするその他大勢と同じである。
津波は防げなかった、ということを政府がいってはならないが、個人がいうのは自由とすることもできる。
思うに、戦国時代と思うのだ、下手な君主に仕えると、個人の裁量むなしく打ち首となる。
三国志などでは忠臣が美しく描かれるが、実際問題弱小劉備に仕えるのはリスクでしかない。
とはいえ、ここで短絡的に戦国時代と現代の戦国時代を比べてはいけない。ワーカホリックとの言葉はあれど、武人の最高の死に場所は戦場なのだ。
戦で死ぬ価値観が本当に普遍的な時代があったのかは分からない。とはいえ、自分の尻拭いを配下の首をはねることでとる者もいるし、同じようにも思える。
ところで現代の武器は、蛇矛ではなく言葉であり情報であるが、人脈が重要なのはいうに及ばない。
結局一旗あげるのは、個人の能力ではなく、大きな潮流に思える。
だから、中卒でも年収何億とかいうのはあながちでもない。
みもふたもないが、バランスに過ぎない。ルックスも声も、親の名声も、頭の良さも体つきも、笑顔の上手さも価値観や考え方、感情さえも、すべて構成要素にすぎない。
こうした記述をあえてかくのは中学生の精神とも思われるだろう。
実際、生きる意味だとかいう問いは無意味である、間違いないのだがしかしながら、こうした問いをもってしまう人間とそうでない人間がいるという違い、その違いが非常に重要なのである。
仕事で成功したい、彼女をつくりたい、そうした欲求によって行動を規定できる人間は幸せである。
実際就職したい、お金持ちになりたい、彼女をつくりたい、結婚したいと人前では、空気をよんで多くの人は発言する。ところが実際行動に結びつく人は僅かなのである。
思うのと実行することは全く次元が異なる。
あいつ殺したいと思うのが茶飯事でも、実際殺すと逮捕だし、実行する人としない人の精神は、一続きであろうが、大きな隔たりがあるといってよい。
だらだらと書き連ねたが、ある読者に、結局いいたいことはいつもシンプルだねといわれたことがある。
その通り、ひとことでいえば、「空」なのである。大学四年のときに学んだその思想は、未だに変わっていない。もちろんこの表現は、大学四年という点の前後で自己が大きく変容したということを意味しない。
単に、その言葉が表現としてしっくりきたということなのであって、それが学術的意味の正しさなどは考慮していない。
説得性を考えてはいないのであって、一貫性を求めているのではない。いわばメモの集合であって、意味のある文書ではない、しかしながら、全体を通して表現したいことは一貫されているのである。
こうした文章に価値を見いだせない人は多いのは当たり前だし、生きる意味だとかくそったれな思考が生じるのと同じぐらいに無意味である。
だが思うに、それこそ中学生のときから、安らぎは文字の中にあったようである。
あえて、という副詞は卑屈だが、理解を求めているのではない。
僕が親友という言葉を使うのを嫌ったあの人が、僕の承認欲求を満たしてくれてから、こうした文章は必要なくなった。
しかし、重要なのは、そのことがよい方向にいかなかったことである。
僕の表現することが、一言、凡人の悩みと一喝することが社会的に有意なのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが「ある」という認識が、2010年からの気付きであり、プラスマイナス上下は分からないが、「成長」と思う。
実際、生きる意味だとかいう問いは無意味である、間違いないのだがしかしながら、こうした問いをもってしまう人間とそうでない人間がいるという違い、その違いが非常に重要なのである。
仕事で成功したい、彼女をつくりたい、そうした欲求によって行動を規定できる人間は幸せである。
実際就職したい、お金持ちになりたい、彼女をつくりたい、結婚したいと人前では、空気をよんで多くの人は発言する。ところが実際行動に結びつく人は僅かなのである。
思うのと実行することは全く次元が異なる。
あいつ殺したいと思うのが茶飯事でも、実際殺すと逮捕だし、実行する人としない人の精神は、一続きであろうが、大きな隔たりがあるといってよい。
だらだらと書き連ねたが、ある読者に、結局いいたいことはいつもシンプルだねといわれたことがある。
その通り、ひとことでいえば、「空」なのである。大学四年のときに学んだその思想は、未だに変わっていない。もちろんこの表現は、大学四年という点の前後で自己が大きく変容したということを意味しない。
単に、その言葉が表現としてしっくりきたということなのであって、それが学術的意味の正しさなどは考慮していない。
説得性を考えてはいないのであって、一貫性を求めているのではない。いわばメモの集合であって、意味のある文書ではない、しかしながら、全体を通して表現したいことは一貫されているのである。
こうした文章に価値を見いだせない人は多いのは当たり前だし、生きる意味だとかくそったれな思考が生じるのと同じぐらいに無意味である。
だが思うに、それこそ中学生のときから、安らぎは文字の中にあったようである。
あえて、という副詞は卑屈だが、理解を求めているのではない。
僕が親友という言葉を使うのを嫌ったあの人が、僕の承認欲求を満たしてくれてから、こうした文章は必要なくなった。
しかし、重要なのは、そのことがよい方向にいかなかったことである。
僕の表現することが、一言、凡人の悩みと一喝することが社会的に有意なのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが「ある」という認識が、2010年からの気付きであり、プラスマイナス上下は分からないが、「成長」と思う。
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