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書類整理より頭の整理をしたい
2016/01/09 17:02 | Comments(0) | 整理用

部屋の整理を実施

部屋が混沌としているため、整理を実施、10%ぐらいは片付いた。
もっとがばがばと、捨てていきたいけれども、必要な物が多い。探していた仕事の資料などがでてきて、ファイリングしたり、と。
時間がいくらあってもたりないんだよな、こういう作業。
十年ほど前に、思い切って、すべて捨てたことがある。すべてといっても、生活雑貨まで捨てたというわけではないが、思い出の品とか、教科書とか、懐古系のものをすべて処分した。
なので、幼いころにもらった賞状とか、メダル、写真といった類は、何もない。

捨てた結果困ったのか?

幼いころの思い出の品をすべて捨て去った、それによって、何か困ったのかというと、正直、何も困っていない、ということになる。
それで良かったのか、という問いに対し、何と答えるかは、感情的にその都度変わる気がする。
記憶とは面白いもので、やはり、「モノ」を手に取ると、浮かび上がってくることがある。
きっと、そのモノがなければ、永遠に思い出すことがないのではないか、と思う。
では、その思い出が、生きていくために必要か、その点をドライに問うならば、きっと必要ない、ということになって、問題ないということだ。

人は記憶によって成っている

アイデンティティというものを考えたとき、それは、ある場面における行動で示される場合もあるけれど、結局それというのは、経験とか感情とかそういったことをひっくるめて、「記憶」といって理解しても差し支えない。
例えば、記憶喪失の人が発生したとして、その人を「○○さん!」と呼び悲しむ行為において、それは、その周りの人の「記憶」によって記憶喪失の人は「生かされている」のである。
その記憶喪失の当人としては、もはや、「○○さん」としてのアイデンティティは失われている。それは、人格としての死といえる。

思い出を捨てるという事は人格を捨てることになる

すなわち、過去の記憶を思い出すきっかけを捨てるという事は、自分自身の人格を捨てていくという、ある種の自傷行為ともいえる。
だから、恒常的にモノが捨てられない人が発生する(片づけスペシャリストさんたちに何と言われるかは分からない、私が今思いついただけのこと)。

仕事の資料はまた別の話し

ただ、仕事に使う資料を捨てるというのは、また別の話しではないかということになる。いやいや、そもそも「仕事の資料」を捨てていいというわけはない。ここでの資料とは、いわゆる、自分で作ったり集めた、「マニュアル」というとちょっと大げさだけれども、まとめみたいなものだ。
それが今の、今後の業務に対して役に立つかどうかという点、その点が重要な捨てるポイントなわけだ。

仕事論になりそう、追記に書きます。

全部の仕事を記憶することは不可能

職人、は、すべて、頭の中とか、体に染みついている、手に職というやつだ。そういう仕事は、マニュアルなんていらない、というか、つくれないようなものだろう。
私の仕事は、ある意味で専門的で、ある意味でジェネラリストであることを求められる、と思う。
特に、1月からの配属は、今までの超応用編というか、営業職みたいなものだ、と思う。
(思う、がつくのは、まだ、始まって一週間が終わったばかりだからだ)

今までも悩んだ部分だが、いったいぜんたい、どこに力をいれていいのかが、さらに不明になったわけだ。
ということで、困ったなぁ、悩ましいなぁとぐちぐち言っていたわけだ。

先日、ちょっとやる気になったぜ、みたいなことを、書いたけれども、まったく馬鹿らしいったらありゃしない。やはり、酒というのは、気分を高揚させてくれるものなのだろう。自覚はあまりないのだけれどなぁ。

取りあえずあれもこれも必要になる

いや、営業とは、専門的に知っている人を紹介してまわる仕事だと思う。それにお金をやりとりするというのは、まぁ、別の業務である。まず、ニーズを探り、それを解決する手法を提供するのが営業だ。
ニーズを探るには、コミュニケーションを取らなければいけないので、飲み会とかも繰り返す必要があるわけだということだ、名刺交換とかそういうものだ。

どんどん足を運べ! と発破をかけられる、のだけれども、いやしかし、その、営業する商品をよく知っていないまま行ったら、「お前何しにきたんだよ」ということになる気がする。いや、その足を運べというのは、まずは名刺交換でも、名前を憶えてもらうことが先だ、ということなのだろう。ある商品知識を叩き込んでも、実はそんな商品もう必要とされていなかった、となるから、まず多くの顧客にあたってみろ、ということなのだ。
合理的な、考え方……なのだろうが、ハードルが高いなと、感じてしまう、いやはや、外面はよくても、豆腐メンタルなんだよな。

ぐじぐじ言うのはこの場だけ

「実は僕、人と話すの苦手なんです!」なんて言ったら、クビになるだろう。人は社会で生きる上で、二重性は絶対に必要だ。
ビジネスマナーとかいうものも、二重性である。
しかし、それは否定されるべきものではなく、ある程度の「様式」がなければ、人はコミュニケーションが取れない。「言語」もまた同じである。

創作活動も様式は必要である

創作活動だって何ら変わらない。創作活動は、完全にオリジナリティを出すというものでは、決してない。……、イラスト、とか絵画とか、音楽とかは違うのだろうか。何の様式がなくても、心に響いて感動する、ということがあるのだろうか。そんなことは決してないと思うな。共通的に「良い」と思われるものは、ある。じゃあ、マイノリティからメジャーになっていく作品とか、様式とか、風潮、とか思想、とか、そういったものは何なのか。

人は、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」という本能がある。社会は変わる、世界は変わる、自然は変わる。変化があれば、それに順応する言動、行動が発生する、結果として、少数派だったものごとか、主流になっていく、という流れはあるのだろう。

そして、その主流を操る人が、お金を多く稼ぐことができる、そういう世界構造である。

俺の目指す生き方とは?

別に最先端を生きていこうとは思わないな、いや、思ったところでできないから、はなから諦めているだけなのだろうか。
でもなぁ、「物語」は、確かに、先端モードをいく作品が、「○○賞」を受賞したりするのだけれども、同時に、現代風潮を的確に表す作品も評価される場合がある。後者は、娯楽小説と呼ばれて、前者は「文学」とかたいそうな名前がつく場合がある。

僕は、娯楽をたしなみながら、たらたらと生きていくので満足なのだろうか?

煽り文句に溢れる世の中じゃ

現代社会、どこにでもそういった「煽り」が存在する。商品を売るための手法として、不安を煽って、消費意欲を発生させるというものがある。
もちろん、「煽って」という言葉も、扇動的であって、正しくはない場合がある。というか、主観ですらない問題だ。その「不安」というのが、科学的根拠に基づいて正しい、なんて、今の世の中で立証しながら、一つずつ積み重ねていく、というそんな時代はとうの昔に終わった(科学が全盛期だった17世紀~18世紀の科学革命だって、思想として成り立っていただけであって、実情は違った可能性だってある)。

真理が見えにくい時代

僕は、「不透明な時代」という言葉をもって、表現したことがある。別に僕の造語ではなくて、よく言われていることだ。何が不透明化、という感覚は、昔と今とで、僕自身異なっていると思うけれど、「何をしたら正解か」というのが分からない時代、といえる。
人の幸福とは何か、という疑義自体が、イデオロギーがあった時代には、発生する余地がなかったわけだ。共産主義だろうが、資本主義だろうが、どっちかは正しい、と信じられていた。
でも、資本主義ってのも、結構大変だね、となって、修正論にあふれて、ちぐはぐすぎて、もうよく分からなくなっている。社会保障制度とかも同じだ。政治的な話になると、「利権」ってやつもからむのだろうけど。誰だって楽をしたい、利益を得たい、そう考える、公共の精神なんて嘘っぱちである。

公共の精神が嘘っぱちというのは

いつもの癖であって、極端なことを一度書いてみて、批判していく作業である。本気で思っているかというと、一時的には思ったのは間違いないだろう。ただ、こういうことを、言わない方がいいということは、さすがに経験上分かってきている。ただ、「理解」と「実感」は違うんだ。
ここに深いりすると、今度は、「正義」の話しになる。哲学の話にもなる。無理だよ、一個ずつ、万人に納得してもらえる理論なんて、そんなものありえない。唯物論、唯心論だって原理的に決着はつかないのだ、と、ロボット工学の偉い先生(前田さん、だっけ)が言っていた気がする。

その、「真理なんてない」ということ、それが、「不透明な時代」であるという理屈である。

で、何がいいたいのか

結局、不透明な時代を生きるしかない、ということだ。タイムスリップでもしたら別だが。
じゃあ、どうすりゃええんだ。
なんか、もう、自分が正しいと思うことを信じぬいて、実践して、できるだけ周りを巻き込んでいって、孤立しないように努力する、ということな気がするな。
幸いにして、「固執」ということに無縁な性格のようだ。ああ、これが、いいことか悪いことか、さっぱり分からないが。
そうそう、仕事関係で会った若い女の子に、「広い心をもってそうで(寛容そうで)素敵だと思います」と、言われたことがあった。原文のママ、メモしておけばよかったな、結局、他者の言葉を、自分の言葉に置き換えてしか記憶できないようだ、というのを、「この物語に共感したらアスペルガーである」といった心理テストをやって、ちょっと思った。ただ、営業センスとしては、相手の言葉をできる限り踏襲した方がいい、資料を作るというときもそうだ、できるだけ既にあるものを適切に利用した方がいい、……苦手なんだよな、自分で理解しやすいように作ってしまう、が、よくないことだ、し、結局、それって後で読んだら自分でもよく分からないな、ってことがあったりするから、最近とても意識していることでもあるけれど、まぁ、このブログぐらいは自由に書かせてもらおう、何の話だ?

固執しないから逆に信念をもて

ほっておいても、悩み始める性格なのであれば、むしろ、絶対これは正しい、と思えることを、一つ一つ作って、インプットしていくしかないと思う。

・幸福とは理想と現実のギャップが少ない状態のこと
・現代は不透明な時代である
・人は記憶で成っている
・人の本能は「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」である

少なくても、信じているというか、インプットはできているようだ、何も見ずに書くことができた。
例えば、量的緩和政策とは、日銀が公定歩合を下げる(金利の引き下げ)ではなく、日銀の預金額を増やすことで、市中銀行に貸し出しが多くできるようにする景気対策である――ということは、知識であるかもしれないけれど、それって、多分忘れる気がする。
そうではなく、むしろ、今の世の中は「資本主義である」といったことは、完全インプットである。

知識と思想の違い

僕がインプットするべきだというのは、知識ではなく、思想だ、ということだ。
アイデンティティとなる、信念、信条、モットー、座右の銘、思想、価値観――そういったものだ。
こうやって、類語がどんどん溢れてくるのは、学生時代の勉強の成果なのだろう、いいことだ、いや、そうでもない、結局、それらの違いが、「思想上」の問題とか、「辞書的」な問題として、上手く説明できない場合が多い。
だったら、余計な言葉は覚えずに、一つ、確固として、正確に、適切に記憶した方がましなんじゃないか、ということ、そういった面で、デメリットである。

でも、忘れようと思っても、長期記憶になった物事は忘れられない。

忘れられないって怖いことだ


完全に話しの方向性が分からなくなっているが、今身震いしたのは、忘れられないって、やっぱり、怖いことだなということだ。
ある意味病気で、すべてを記憶できてしまう天才、というのがニュースになったことがある。すごいなぁ、羨ましいなぁ、と思うところなのだけれども、その時僕は、同時に、怖いなぁとも思った。

だって、人生、いいことも悪いことも喜怒哀楽、四苦八苦溢れているわけだ。
失恋して哀しいなって思い、それがずっと残っていたら、……、ああ、思い出せるものだなぁ、と、机に臥せって行き場のない感情が渦巻いたような、そんな記憶があるが、それって、もう「知識」というわけではないけれど、感情が伴わない記憶になっていて、思い出したとしても、それほど問題はな……い、かな、やっぱり、嫌な感情も一緒にわいてきた気がする。ということで、やっぱり、忘れる、というのは、記憶が引出しから取り出せなくなる、というだけで、実は全部刻まれているのかもしれない。全部といっても、些末事は無いだろう、ただ、少なくても、こうしてブログに書いたこと、ログに書いたこと、それらは、脳に刻まれている気がする。

モノの整理

なんと、奇跡的に最初の話しに戻るが、だから、意識的に、嫌な気分を生じさせるような可能性があるモノは、捨ててしまった方がいいということだ。それは間違いない。
そして、そういうものは、もう、僕の部屋にはないと、思う。それにしても、モノが多い気がする。そのうちの一つは、「資料」というものであって、それらは、じゃあ、PDFにでもとってしまおうか、しかし、そんなことするぐらいなら、捨てた方がいいと思うな。

結局どうしたら整理できるのか

分からないなぁ。
何年前も同じように悩んだり考えたりしていた気がするし、何も変わってないんじゃないか、というのが、結局、「答え」が見つかっていないからだ。
何の答えかっていうと、「何故生きてるのか?」という問いになるだろう。でもって、その問いは、答えがないもの、という「結論」も出ているわけであって、であれば、もはや、悩み続けることを覚悟しましょう、という結論になるわけだ。それでいいのか?

不透明な時代なんだから仕方がない。

幸福とは、現実と理想のギャップなのだから、その調整をはかればいい。

ということだ。だから、「人生楽なことばかりじゃないんだよ」「生きるって大変なことなんだよ」「困難とか悩みがない人生なんてないんだよ」とか、したり顔でいう大人が多いのだ。
俺は、それは、嫌だと思う。
楽園があってもいいじゃないか。

諦めるな

何故、いろいろ諦めながら、「まぁまぁ」「仕方がないじゃないか」とかいいつつ、夜な夜な居酒屋で愚痴を言い合うのだろう。
いや、それが重要なのは分かっているし、女性は特に愚痴を他者に話すことでストレスが軽減されるということも、社会的ではなく医学的に証明された、といった記事も読んだことがある(ホントかどうかはもうどうでもいいことだ)。だから、不満や愚痴をいうことが悪いことではないのは、当然だ。

だけど、何で、そうしていかなければ、人生を送れないのか。
みんな、子どもの頃は、未来に希望を持って、楽しく毎日を優しい家族や友人たちと過ごしてきたのではなかろうか。
(俺は違うけどね、と言いたい、それに比べたら今の方が楽しい気すらする、……このカッコ書きは不要な気がしてならない、後で消そうかな)

それが、何故大人になるにつれ、愚痴や不満が当たり前だと思っていくのだろうか。そして、ストレスがなくて、楽しそうな人をみて、「あの人はお気楽でいいね~」なんて、足をひっぱろうとするのだろうか。
断然、幸せで楽しそうな人の方が人間として完成されている。

愚痴や不満を言う人たちは、「欠陥品」だ。

グノーシス主義

紹介された書籍、面白いのだけれど、まだ70ページぐらいしか読めていない。けれども、思想の一部はちょっと分かって、プレーローマという完成された完璧な世界というか組織というか秩序があったのだけれど、ソフィアという神の一人(アイオーン)が、オイタをしてしまって、人間界(?)に落ちてしまう、その人間界ってのが僕たちの世界だ、だから、不完全なんだぜ、というものだ。

そういった思想に立ってしまうと、もう諦めの哲学だ。
いや、宗教的には、「だからこそ」、完全なる神のもとに行くために、修行したり信仰したりしなければいけない、というロジックになる。いやはや、だから、宗教ってすごいんだよ、神話ってのは、単なる「物語」ではなくて、哲学とか思想の域の作品なのだ。娯楽小説は、あくまでも、「楽しい」という感情を想起させるものであって……もちろん、優れた作品は、読んだ人に対して「生き方」みたいなものを与えてくれたりもするわけだ。ただ、基本は、エンターテイメントであるし、あるべきだ、ということを、いつぞやに書いた。

ほどほどに生きよう

ゆえに、凡人として、周りの人を大切にして、ほどほど楽しく生きていくのがいいんだよ、という思想もあるわけだ。
「凡人宣言」というのは、それを指していた。が、それらの記事において、僕は同時に、「そんなの無理だ」という思いもあったわけだ。
「ほどほど楽しく」なんて、むちゃくちゃだ。
宝くじで3億円当たったら、ほどほど楽しく生きられるのだろうか? 疑問である。買わなきゃ当たらない、というのはもっともだけれど、それはもはや競馬とかその他のギャンブルというか、娯楽だと思う。

結局整理には至らない

約1時間で7000字くらいか、疲れてきた。やっぱり答えは今日もでなかったか。ということになる。

だいたい、こんなこと、考えるんじゃなくて、もっともっと行動的に、楽しく生きて行こうぜ、という方針も実践して、何年かしてみて、やっぱり、何か物足りないというか、不安というか焦燥感が消えない、ということになって、こうやって言葉を作り出すことが必要になったわけだ。

このことは、まず、認めるべきというか、むしろ、進歩と考えるべきだ。

外的世界と思考は決して切り離して考えることはできないけれども、ただ現実に身を投じて楽しみ尽くす、ということは、不可能であるということが実証、少なくても自分の中では分かったことだ。
だから、「こんなこと書いていて意味があるのかな」とかいう、そういった懐疑はもう不要であるにして、ある意味覚悟を決めるべきである。

結局、今の世の中、考えなきゃ生きていけないんだよ――という、周りを巻き込むようなことを言う気はないが、少なくても、自分にとっては、それは一つ、上に書いた信念、というか、インプットというか、真理である。

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