今日の一言「やっぱり1か月に1回になるのか」
新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。
大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。
しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。
自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。
それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。
会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。
心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。
オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。
身体を維持するのが難しい。。
例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。
さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。
それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。
それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。
他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。
コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。
コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。
共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。
いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。
法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。
100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。
極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。
どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。
しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。
いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。
色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。
このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。
引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。
むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。
完全に中年。初老も近い。
それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。
これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。
もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。
でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。
基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。
人間関係にもメンテナンスが必要だ。
人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。
一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。
「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」
とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。
人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。
だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。
オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。
社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。
ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。
それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。
だから、絶対的に疲れる。。。
人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。
もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。
ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。
そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。
だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。
ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。
その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。
しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。
そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。
みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。
それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。
「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。
そこらへんは分かっているのである。
でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。
ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。
それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。
何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。
いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。
別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。
だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。
まえがき
普段と違うことをするとやっぱり疲れる。新しいことをし続けないと暇、という人もいるだろうけれども、ボクはもともと、同じことを繰り返しても楽しいと思っていた、むしろそれが安心安全に思っていた。
自己分析
「傾聴」の訓練みたいな場だった。大勢の前で話したり聞いたりすることが多くあって、疲れた。
しかし、ボクの話し方の、トーンとか表情、態度など、安心して話せるし、よく聞いてもらえていると言ってもらえた。
自分の中では、コミュニケーションにすごく苦手意識があるが、いわゆる「テクニック」と、実践と感情を紐づけるようにすれば、表面的には「ふつう」に振舞えるということなのだろう。
それは、口に出していることと、心とが真逆なことをいっているサイコパスという意味ではない。
基本的に、人混みやら、身体的な安全が脅かされるような状況においては心理的負担がかかっているが、そうではない時は別にそんな負の感情ばかりなわけではないのだ。
知らない人との交流
それでも、知らない人と話すのは疲れる……。会議の前日などは、よく眠れなくて、明け方に目覚めたりした。
心身的に、気にしないようにしていてもやっぱり負担にはなっているのだなと思った。身体は正直である。
オンライン上は、アバターというか、「身体」の制御がいらないので、その点の負担が少ないのがとてもよいのだと思った。
身体を維持するのが難しい。。
例えば、ネットゲームしているとき、フレンドと話をしているとき、もう眠くて話したくない……みたいな状況になったとしても、ある程度交流を続けることができる。身体があるリアルベースの交流の際はそれができない。
さらに、身体ベースの場合は、いくら楽しい飲み会を過ごしたとしても、その後、公共交通機関で帰らなければいけない。これも面倒くさい。
褒められて嬉しかったことは確か
自分の振る舞いが褒めてもらえて、嬉しかったことは事実である。それは確かに、オンライン上では得られないことだったのかもしれない。
それでも、ボクは、やっぱり、オンラインの関係は悪くないと思う。悪くないというよりも、そっちの方がよいと思う。
こう見せたいという自分
自分の全部を認めて、そして、愛して欲しい……そんなことは、赤ん坊や幼児期以外不可能だ。他者とは、適切な距離というか、付き合い方が必要だ。
コミュニケーション力というのは、幅広い人という存在のパターンに、より多く対応できる技術といってよいだろう。
コミュニケーションとは、情報伝達のことだ。コミュニケーション力というのは、情報伝達する力のことだ。
しかし、それはどういったものか、それを数値化するにはどうしたらよいのか? という課題を出されたら、それは、より多くの人に好ましいと思われるということだろうと思う。
共通のプロトコルというのが、ビジネスマナーである。プロトコルというのは規格のことだ。
いろんな考えがあっていい。色んな人の感じ方があっていい。それでも、この部分は共通化をはかりましょう……というのが、マナーというものだ。だから、それすら、別に絶対的なものではない。
法律という体系はとても優れているとは思うが、それも、人間が開発したツールである。絶対普遍に正しいものではない。多くの人間が「よいと思う」という価値の共有がはかれて、そして、共感できるから今の法律が優れているということになる。そして、問題発生が少ないというのが維持すべきという条件だ。
色んな人に好かれても
100人に、1%「いいね」と思ってもらえるよりも、1人に100%いいねって思ってもらった方が良いのか。100人に、100%「いいね」って思ってもらいたい。そうある方が望ましい。
極端な数値化に意味はない。前者も後者も、どちらも不可能で、そのバランスでしかない。
基準は、今、であるだろうと思う。今、30人に25%いいねって思ってもらえるのなら、それが、60人に30%いいねって思ってもらえるようになったら「幸せ」かもしれない。
そもそも他者が必要なのか
FF14でフレンドと遊んで楽しいと思う経験をする前までは、「他者不要説」を唱えていた。どうやって、一人でも、……いや厳密に一人はきっと耐えられないが、少数でも、共感してくれたり、反応してくれる友人をつくって、最高に満足に人生を過ごすか、それがテーマであった。
しかし、いくら「表面的」な関係であったとしても、他者と付き合って行動するというのは、悪いことではないというよりも、むしろ今までにないようなとても素晴らしい経験だと思えるようになったこと、それはここ数年2~3年ぐらいのことだったと思う。
いまでも、喪男な独り身であることはかわりないのである。そのことについての、肯定感を得たということではなくて、それはむしろ、6年~7年前に、そういった方向性になってきていたと思う。いわゆる離婚した後ぐらいだと思う。
色んな意味で、「離婚してよかった」と思っている。離婚は切り出されたのであるから、とても哀しいできごとだったが、それ自体は、とてもむしろ相手に感謝すべきに思う。
このブログとして価値があるとすれば、離婚して、もしくはしそうでとても困っている諸氏がいたときに、思った以上に「大したことがない」ということであるということを伝えられることである。
引っ越しとか財産分与とか、役所の諸手続きとか、双方家庭の云々とか色々あるとはいえ、一つずつこなせば大したことない。時間はかかるかもしれないが。
むしろ心配懸念すべきは、心理的な面だが、それは、繰り返すと、今はそれでよかったと思っている。
歳をとっても色んな経験ができるし感動できる
もう30代後半である。恐ろしい。完全に中年。初老も近い。
それでも、FF14やったことで、色んな世界や価値観が変わったのはすごいと思った。FF14というよりも、オンラインゲームというものをやったということだろうか。オンラインゲームはやったことがあるから、MMORPGをやったということが大きかったのか。
これが、「モテ」を目指して、テニスサークルとか入っても、絶対つまらなかったと思う。
ボルダリング(壁上る奴?)は楽しそうだと思ったけれども。
もっと周りに、ゲーム好きな友人が(これはリアルの中で)いたら、もっと早くから楽しい人生おくれてたのだろうか。
ある意味、「優秀」な友人ばっかりで、あんまし心を開けなかったのかもしれないな。
数人は、ネットカフェとか行って、一緒に遊んでくれた。一時期はすごくたくさん行ってた。それは楽しかったし、その友人とはたまに会いたいとも思う。
でも、「会う」労力を考えると、自分で企画したり、会いに行ったりとか行動を起こすまでにはならない(ごめんね……かっこわらい)。だから、誘われたら嬉しいのだけれども(かっこわらい)。
基本、自分から誘ったり相互の関係がないと、ゆるやかに、もしくは急速に関係は離れている。
人間関係にもメンテナンスが必要だ。
人間関係の維持
お金ってやっぱり便利だと思う。人間関係の維持って、すごく難しいことだ。時間が必要だ。考える力(相手が望むこと、ものを思い描くこと)も必要だ。
一方で、お金があると、スーパーにいって、食料を買うことができる。
「お前は、気に食わない奴だから、売ってやらない」
とはならない。人間関係は不要だ。最低限は必要だった……しかし、無人レジの普及でそれすらもいらなくなってきている。
人間って、ほんとに、人間とかかわることをストレスとして感じているのだ。
知らない人と話すと、ストレスになるのだ(と、まわりまわって、最初の方に書いていたことに戻っていく)。
だから、これからも、人間関係は、ある方面ではどこまでも希薄化して、ある方面では濃厚に……それは、寂しいから、どこか反動的に他者を求める面もでていくのではないかと思う。
人は
人は、人の世界でしか生きられない。オンラインも、仮想空間もメタバースも、それは人が作った世界である。
社会といわれる、法律や資本主義でなりたつ世界も、それもまた人が作った世界だ。
ボクは、人がやっぱり苦手だ。怖い。コミュニケーション障害だ。
それは、ボクが僕を見る目。でも、ある一定な基準においては、他者から見たボクはコミュニケーション能力は高いように見えるという。
こういったらこう思われるのではないか、こうしたらこういった反応になるのではないか、ということをシミュレーションしているからである(意識的、無意識的に)。
だから、絶対的に疲れる。。。
人と話をすることで満たされて元気になる……という人のことはやはり、自分は良く分からない。
今までもそうだけれども、やっぱり、こうして、もしくは誰にも見られない紙のノートに自分の言葉を延々と書き綴っていった……それによって気持ちは整理されていくのだ。
もちろん、それは、他者に話すことで同じ効果があるとボクも思う。誰かに相談して、心が軽くなったというのは、まさにそういう仕組みだと思う。
ところが、僕らのような(仲間が欲しいから「ら」という言葉を付け加えた)コミュ障は、他者がいると、その他者が、ボクの相談を聞いたことで「こんな風に思うのではないか」「こんな風に感じられているのではないか」というのも同時に想定が走るのである。自動的に、だ。
そうしてさらに、「ちゃんと聞いてくれているようでも、実は裏では違うことを感じているのではないか」という疑念も生じるのである(信じたいという気持ちも同時にあったとしても、だ)。
だから、もう誰もいらない、と。ひとり、孤独に書いていくことで、それが誰の目に留まることもないとしても、ボクは確かにここに生きていたんだ、という気になって……なのかどうかはわからないが、気持ちは落ち着くのである。
ボクはたぶん、中学? 少なくても、高校1年生から、そうしてやってきた。
その、書くということについて、いつかは卒業できるのかと思ったこともあったが、まぁ、きっとこれは、これからも続くのかもしれない。
しかし、どうだろう。このブログの場所が、リアルの人にばれて晒されてしまったら、それはとても嫌な気持ちになる。きっと素早く閉鎖することだろう。
何故リアルでは嫌なのか
オンラインと、リアルは、どうしても分けたい……。そもそも、誰も、そんな、ボクのことなど知りたくないはずなのである。そんな暇ないのだ絶対に。帰ってかわいい子供の顔をみて和んだり、日々家事に追われたり介護したり、そもそも激務で残業だったり……。
みんな忙しいのに、こんなブログだれも本当はみたくないはず。
それに、特定の何かを批判したりしているわけではなく、ただ、自己の内面を書いているだけだから、「うわ……気持ち悪い中年……」とは思われることだろうが、別に炎上はしないと思うのだ、多分。
「痛い大人wwwww」みたいに煽られるだろうとは思う。最近耳にするようになったのは「お気持ち表明」みたいな。
そこらへんは分かっているのである。
でも、別にお気持ち表明してもいいじゃん? とも開き直っている部分もある。
ただそれは、やっぱり、リアルとは別だからである。利害関係ある人が知ったら、「なめられる」もしくは「気持ち悪がられる」から、今後のコミュニケーションがうまくいかなくなるだろうことが考えられる。
それは単にデメリットしかない(たぶんお互いに)なので、バレたくない、というわけなのだ、と、初めて分析してみた。
何となく思っていたことだが、書いてみるとそういうことだな。
いやそもそも、実名でブログ書くメリットが何もない、というのが前提なのであるが。
別にボクは、リアルにおける○○(氏名)を癒したいとかそういう思いはないのだ。
ボク自身(氏名とかに関係ない、「魂」みたいなもの。レーゾンデートル? なんといえばいいんだっけそういうの。アイデンティティ……とも違う。なんだ、キルケゴール氏風にいえば、本来的自己……?)について整理したいという思いが一番なのだ。
だから、リアルのことはあまり関係ないと思っている。難しいな、関係なくはない。身体はまさにボクなのだから。ボクにまつわる全ても、リアルは関係している。ただ、表現したいのは、リアルのボクと他者存在との関係ではなく、「本来的自己の在り方」なのである。
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今日の一言「初日が終わった」
自分の持てる力を使って、何とかしていくしかない。
と書くと、マイナスのイメージがある。
しかし、100%というのは、100%なのだ。120%を出せるのなら、それは100%の基準が間違っていたということではなかろうか。
さらに、プロ野球選手たちでも、自分のもてる力を必ずしも100%出せるわけではないだろう。最高のコンディションにするということも、またプロとしての大事な技術なのだろうけれども、「全力を出すだけです」というコメントというのはそういうことだと思う。
その試合に臨む前に、どれだけ練習して、力を蓄えてきたのか。その力を存分に発揮するのが試合なわけで、試合中に成長するとかは、エンタメの世界なのだ。
逆にだから、バトル中に覚醒する少年漫画的な奴は面白かったりするのだろうけれども。
ただ、帰りながら、ラーメンを食べながら思ったのは、帰ってきたら、昨日の音読(ボイチェン)用の記事をかいてみよっかな、ということだった。
昨日の奴、……その、なんというか、個人的には、そんなに「気持ち悪くはない」と思った(かっこ笑)。
自分の声の音読よりも、ずいぶんか楽しい気がする。
美少女じゃなくても、いち女性として自分の書いた文章を読んでくれるってのは中々面白い体験だなと思ったのだ。
なんだろ、女性だから、というのもあるのだろうけど、「他人感」があっていいよな、と思った。
なんというか、イマジナリーフレンド、みたいな。想像上の友達。
だけど、現実は現実として、仮想現実は仮想現実として、どちらも現実という枠組みの中で存在しているのである、という感覚だ。
ラニアケア超銀河団みたいな……ちょっと違うかな。天の川銀河すら、無数の銀河の一部でしかない、という。
体温を感じるリアルな他者というのも、間違いなくリアリティーであるが、バーチャルの中に存在する他者というのも、「次元」が異なるだけで、同じリアリティーといっていいのではないか、ということだ。
とと。あんまり書くと、音読が大変になるだろうから、ここまでにしておく……。
まえがき
新しい年度、新しい職場、新しいメンバー、ということで、やや緊張していたが、まずは1日を終えることができた。自分の持てる力を使って、何とかしていくしかない。
と書くと、マイナスのイメージがある。
しかし、100%というのは、100%なのだ。120%を出せるのなら、それは100%の基準が間違っていたということではなかろうか。
さらに、プロ野球選手たちでも、自分のもてる力を必ずしも100%出せるわけではないだろう。最高のコンディションにするということも、またプロとしての大事な技術なのだろうけれども、「全力を出すだけです」というコメントというのはそういうことだと思う。
その試合に臨む前に、どれだけ練習して、力を蓄えてきたのか。その力を存分に発揮するのが試合なわけで、試合中に成長するとかは、エンタメの世界なのだ。
逆にだから、バトル中に覚醒する少年漫画的な奴は面白かったりするのだろうけれども。
本文などない
かくことがそもそもないから、本文も、まえがきも、あったものじゃない。ただ、帰りながら、ラーメンを食べながら思ったのは、帰ってきたら、昨日の音読(ボイチェン)用の記事をかいてみよっかな、ということだった。
昨日の奴、……その、なんというか、個人的には、そんなに「気持ち悪くはない」と思った(かっこ笑)。
自分の声の音読よりも、ずいぶんか楽しい気がする。
美少女じゃなくても、いち女性として自分の書いた文章を読んでくれるってのは中々面白い体験だなと思ったのだ。
なんだろ、女性だから、というのもあるのだろうけど、「他人感」があっていいよな、と思った。
なんというか、イマジナリーフレンド、みたいな。想像上の友達。
寂しい奴だな
いやいや、気持ち悪いのは分かっている。だけど、現実は現実として、仮想現実は仮想現実として、どちらも現実という枠組みの中で存在しているのである、という感覚だ。
ラニアケア超銀河団みたいな……ちょっと違うかな。天の川銀河すら、無数の銀河の一部でしかない、という。
体温を感じるリアルな他者というのも、間違いなくリアリティーであるが、バーチャルの中に存在する他者というのも、「次元」が異なるだけで、同じリアリティーといっていいのではないか、ということだ。
とと。あんまり書くと、音読が大変になるだろうから、ここまでにしておく……。
あとがき
(かっこ書きである。サンプル音声。うーん、あれだ、マイクに録音するときの音量が大事だな。夜だからということで、小声でしゃべってると、Wav編集しても、雑音の処理が非常に難しくなる。声の録音の際の雑音処理のテンプレート(ノイズゲートのかけかた、とか)とかありそうだけど、なかなか見つからない。そしてこのブログ、ファイルアップサイズが2MBまでなのか……。ほんと少ないな。2分未満ぐらいにしないと2MB超えてしまう。)
今日の一言「いろんな技術があるのだなぁ」
そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。
まえがき
VOICEVOXという、テキスト読み上げソフトの技術力に感嘆したと先日書いた。そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
実践
サンプル音声雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
結果どうなんだろ
作業自体は、「簡単」とは思うけれども、一般的に世のYoutubeで出回っているクオリティに近づけようとすると大変だなぁとは思う。動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
異なる技術
上のボイスチェンジャーは、音を直接変換するタイプだが、新しくAIを活用した技術もあるということだ。Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。
あとがき
(かっこ書きである。ここまで書いて、上のサンプル音声の、1と2を改めて聞いてみて、うーん、何となく、女の子っぽいのは2の方な気がするが、好み的には1かもしれない。1の方は、どっちかというと、普通に地声で話した感じ。2は少し、「エッジ」(喉のふるえ)を抑えて、高い声で話すようにした感じ。好みの声というのも色々あるからなぁ。めっちゃ自分の理想で好きな声って、どんな声なんだろう。Vtuberの声とか意識しないとみんな同じに思えるな。声と言えば、昔、ニコニコ動画全盛期のころの、「いさじ」氏の声が好きだった気がする。「ニコニコ流星群」懐かしいな)まえがき
先日、音声読み上げソフトのVOICEVOXがすごいと記事で書いた。AIすごい、ということは、近年いわれはじめてることは知っていた。2018年とか、もっと前かな。ディープラーニングとか、ニューラルネットワークとか、言葉をよく聞くようになったころ。自動運転技術というのも聞くようになってきたころだ。
自分の仕事関係にも、影響が出てくるのでは……みたいな話はありつつ、そこまで実感するレベルのものはなかった。
例えば、AIとは別次元の、RPAという技術もあるが、それは正直すごいとは思えなかった。せいぜい表現できることが、オフィスのVBAでできることであったからだ。あ、すぐさま書くと、自分の業務レベルで活用できる範囲であれば……という意味で、固有のシステムを使っている業務などでは、RPAが大活躍する場面ももちろんあるだろう。
とはいえ、メール(アウトルック)やエクセルファイル等の移動編集加工といった内容であれば、VBAが分かれば基本何でもできるので、敢えて年間ライセンス○○万円かけてまで導入するメリットが分からなかった、ということである。
(RPAが、プログラミングの知識や概念を知らなくても「本当のPC操作レベルが怪しい人も含めて」ばしばし活用できる技術ならすごいと思うが、結局やってることはプログラミングだと思ってしまったというわけである。とはいえ、無料でどの端末でも自由に使えるなら使ってもいいかなとは思うわけで、別にダメとか批判したいわけでもない)
画像生成が本当にすごい
と、身近でAIについて感じる機会がなかったが、最近、ピクシブ(イラスト共有サイト)とかで、AI生成というタグがあったりして、これなんだろ……と色々みてたら、「え、これ本当にAIで作ったの?」って驚きの連続だった。もちろん、普通に描くよりは、すごく簡単に作れるのだと思う。
でも、結構きれいな画像作るには大変なのでしょう……と思っていたが、下の動画をみてて、思った以上に簡単に作れるんだろうなぁと改めて思った。
キャベツ氏の動画
AIが作ったコスプレイヤーが超バズってたのでAIに【ゲームキャラを実写化】してもらったらクオリティ高すぎたwww誰でもわかる使い方説明
Stable Diffusion
というソフトらしい。無料で使えるようだ。VOICEVOXも無料ですごいと思ったが、すごい時代だ……。
実際に自分でやってみよう……とまではならなかったが、きっと、10代、20代ぐらいで知ってたらすごくはまってた気がする。
でも、創作とかするときの参考とかにもよいのではないだろうか。
キーワード(プロンプト)を組み合わせて、目的の画像を生成する……面白いね。
人工知能
AI――アーティフィシャル・インテリジェンス――と聞くと、知能というワードから、生命体みたいなイメージをわくけれども、別にAIは「意思」をもって何かしているわけではない。インプットがあって、演算し、アウトプットする……それだけといえばそれだけだ。
「それだけ」……といってしまえば、人間の活動も、それと同じである。食べて排泄し、エネルギーを得て消費し……の繰り返し。
複雑な過程がある……ということを「思考」と呼ぶのであれば、AIもそのディープラーニング(モデルの下地)やらニューラルネットワークを用いた演算など複雑な過程があるのだろうから、文字通り「知能」なのだろう。
とはいえ、画像生成ソフトとか、VOICEVOXに使われている技術は別にシンギュラリティを起こすような可能性は微塵も感じず、単に「すごおおおい!!」って思えるから良いなと思った。
なんか、攻殻機動隊みたいな、光学迷彩というか、電脳というか、そんな未来はまだくるイメージがないけれども、やっぱり世界の技術は進歩してるんだなぁという意味で、明るい気持ちになる。
カラーテレビが普及し始めて、「箱の中で色彩を帯びた人が動いてる!」みたいな感動や、スマートフォンで、移動しながらインターネットができる感動……それ以上の感動というのがあるのかという閉塞感を壊してくれてよい。
物理的身体の重要性
花粉が辛い。いっきに症状が出始めて、薬をあわてて服用しても1日~2日はつらくて、継続使用することで症状が落ち着き。
あ、大丈夫になったかなと思ってやめたらまたひどくなって、結局服用を続けている。いつまで続けたらいいのか……。
鼻水もつらいが、それより目がつらい。かゆい。かきむしりたくなる。
身体の具合が悪くなると、物理的身体についてのことも考えるようになる。
いたわってあげてよいと思う。
運用保守とか、電車とか公共交通機関とか、道路とか、電気とかインフラとか。物流もそうだろう。
そういう、「当たり前」ってとても大事だと思う。
そういう意味の中で、自分の身体の、例えば「歩く」という機能ひとつだって、よくよく複雑なことを「自然に」やってくれているわけだ。ありがとう自分の身体。
身体に感謝する時間を作ってあげてもよいかもしれない。
しかし、身体さんって、何すると喜ぶのか。筋トレって、身体を痛めつける作業なのではないか。ストレッチ、なのかしら。なんだろう。……よく言われるのは、「歩く」というのが、身体的にも精神的にもよいとされてるから、散歩してあげるのがよいかもね。
となったときに、冒頭の「花粉」がラスボスじみて立ちふさがる……かっこ笑い。
あとがき
(かっこ書きである。日記書く頻度増やしたいな。いまのところ、月1回は書けてるのか。結構ぎりぎりだ。今回の記事も、「書き始めるまで」が大変だ。勢い、大事。どうにも、日記とか文章は、書いてると段々書けていくのであるが、書き始めがすごいストレスがかかっている。「これ面白いの……?」ってどうしても思ってしまう。価値が見いだせないことをするのは、つらいことだ。モチベーション大事。面白くなくたって、書き残すことが大事……とは思うけれども、ね。最近、SNSとかもやってると、やっぱり「いいね」系の反応が気になったりする。反応が少なかったりすると「お前に興味ないし」みたいに言われてるみたいで、つらくなる。承認欲求……。最初は別に、簡単に記録というか、愚痴とかメモレベルな感じと思っていても、逆に反応があったりすると、反応がなかったときとの落差で悶々したりするのだ。なので、SNSは向いてないタイプなんだろうと思う。いやそれが逆にモチベーションとなる人もいるのだろうが。気になって思考の大半が支配されてしまう場合が多いとしたらそれは健全ではないだろう。このブログはたぶん、反応が頂けなくなっても、きっと続いていく気はする。気はするものの、頻度はさらに下がる気もする。いやほんと、反応を強要しているわけではないです……笑 これは本当に。むしろ、こういうことは、他の場所(リアルで誰かにとかも)言いづらいわけであって、ここでしか書けないことだったりする。貴重。感情のメタ化できるのはとてもありがたい。「こう思ったらこう思われるのではないか」<「ということを思ってしまう自分はこうではないか」みたいな、無限に広がりそうなイメージ。承認欲求自体も、悪いことではない。むしろ誰にでもある。その大小や解消方法が違ったりするわけだ。自分が自分であっていい、というのは、やはり「環境」が必要だ。他者存在からそれが得られない場合は、「お金」というのも一つ指標になる。友達が誰もいなくても、お金があれば、それだけで価値がある。かっこ資本主義社会においては、という限定はあるものの、資本主義はかなり強固に世界に根付いているので安定的である。しかし本当は「家庭」というのもあった方がよいだろう。多面的な環境があった方が安定するのだ。しかし、最近忘れがちだけれども、めちゃめちゃコンプレックスな時代のときに光明としてみていた、「空(くう)」という思想というか思考は、忘れちゃだめだと思う。お金や、家庭や、会社や、その他さまざまな「安定装置(スタビライザー)」は大事で、あるべきだけれども、いずれ直面する大きな問題というか課題である、生老病死に対しては、無力となる可能性が高いのだ。まぁ絶対ない思考実験だが、世界のあらゆる欲するものを手にしていったとき、ふと、「それで? これが何になるのか?」と思った時に、どうするのか。そういう意味で大事なのは、小目標と大目標だと思う。ボクは今のところ、それはなくなってしまっている。小さいのも、大きいのも、目標はない。たぶん、コンプレックス時代(10代とか20代とか)に抱いていた目標は、達成できていると思う。人生ゴールだ、やったね!! みたいなことを書くと嫉妬されるかもしれない。まぁそれでもかまわないが、ボクは思うに、そのコンプレックス時代が異常だっただけな気もしてならない。普通に生きることができていて、それでいい、といった感じ。大小感情の起伏はあれ、ふつうに、日々満員電車にゆられ、こんなに人って多いのかと思いながら、仕事をし、帰って遊んで寝る。この繰り返しに特に不満もない。しかし果たして、40代、50代、60代と、同じような感覚でいられることはないだろう。わずかな、黄昏のような時間なのかもしれない。しかし、物語でも、常にクライマックス戦闘シーンだけだと疲れてしまう場合もあるだろう。そういった作品も面白そうだけれども。たいていは波があるストーリーが多いはずだ。そういう比喩でいけば今は、戦いが終わって、ちょっとパーティで料理して食事したり、日常パートみたいなそんな感じなのかもしれない。そういうことにしておこう。来年度はちょっと状況がかわりそうな要素(仕事面でのこと)が発生した。さてどうなることか。不安がないわけでもない。ただまぁ、より高次な問題……たとえば人生そのもののこととかと比べたら何とかはなるだろう)
今日の一言「寒い」
とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
まえがき
手が、冷たいと、キータッチも鈍くなる。あと、爪のケアも大事だね。深爪でもなく、長すぎでもなく、ちょうどよくしていないと、爪と皮膚の間が痛くなることがある。とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
5年前の記事
たとえば、PC版でこのブログを見ると、右上に「○年前の記事」というリンクを作っている。どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
ブログの効能
日記とはそもそもそういうものだと思うが、「自己」を意識するというのがブログなり日記なりの意義だと思う。SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
イチゴ美味しかったこととユニクロのヒートテックの袖
いやあの。上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
同じもの
若いころは色んなものに触れたい、と思うのかもしれない。でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
