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行動のための第五歩
2016/10/20 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
いったい、いつではでこのタイトルが続くんだ。
きっと、もう大丈夫、ここまできたら習慣になったと、そう実感できるまでだ。
でもそうしたら、たぶん、10年ぐらい続かないだろうか?
いや、エビングハウスの教えから、だんだん、思い出す感覚は広げていっていいだろう。

いまは、筋トレと音読を、と、毎日インプットせねばならない。
30日、3ヶ月ぐらいはいままでの実績から余裕だ。その前に潰れることは数知れないが、とりあえず、30日続いたら三ヶ月くらい大丈夫だ。

そして、三年間毎日続ける、というのは、残念ながら今までの人生一度もない。

もちろん、睡眠とか、歯磨きとか、それぐらいのことは続いていたかもしれない。ただ、歯磨きもキャンプとか友人宅で夜通しとか、クラブでオールナイトとか、そんなこともあった気がするから、厳密には毎日じゃないかもしれない。

そうすると、別に、一日二日守れなくても、さほど、習慣化において気にする必要はないのだろう。
ただ、三年間のうちの一日か、一週間のうちの一日かでは、重みが違う。


ゆえに、この、計画を立てることが最重要だが、実行時においても、この序盤が非常に重要なのだ。

そして、恐るべきは、例外事象。
必ず、ああ、今日は仕方がないな、だって○○があったんだから、というのが発生する。

そこをどう乗りきれるか。

いまが勝負だ、帰ってからが勝負だ。



昨日の記事に対する考察



昨日の、第四歩の記事……あれ、そうか、これ、昨日じゃなくて今日か。もう、相当前に書いたような感覚。


読み返して、やはり、全く、そのとき感じただろう、不快感や、夢の緊張感、そんなの、全然感じない。
こんなこと書いて大丈夫だろか……と心配していたはずだが、いま読むと、別に大したこと書いてない。


他者からの自分のみえかたと、自分自身でリアルタイムに思うかんじ方。

こんなに違うんだなぁと思った。記述のリアルタイム性が強ければ強いほど、この感覚のズレは大きいのだろう。 


一日後の今日だから、その文章を書いたとき、苛立っていた、不安だった、意味不明な快感があった、など、それを言葉として思い出せるが、感情はない。



家に着いてからが勝負



筋トレストレッチ音読、と。言い聞かせる。

そこに思考は挟まないそんなことやって何になるんだとか思わない。

話が変わったな。昨日の記事は、何となく、大事なことを書いてた気がするのだが、いまいちよく分からなくなった。

恋するのが大事?

そうさな、そういえば、高校のとき、最終兵器彼女って作品がすげー好きだったけど、いつぞやか、物凄く嫌悪し全部売り払った。

そのあたりに、なにかヒントがあるきがする。

つまり、恋ってなにか、ってことだ。
どこか、相思相愛、という言葉とか、好きってことだよハートとか、何らか表現はあるけど、でも。

相手のことを全部わかってあげて、先回りして相手の望みを叶えてあげるとか。
脳内占有率を常に高い状態を保つとか。


そういうもんじゃねえ、恋ってのは感覚なんだ! とか。



思うに、この点に殆ど触れてこなかったのは、考えても無駄だと思っていたのか。それとも、自分のルックス的な問題か。


ああ、いや、これも、敢えて記憶から消しているだけで、昔いろいろ書いていたかも。ブログになってからは全く書いてないから忘れてしまっているのか。



そして次の日



昨日は、結局うだうだ上まで書きつつ、帰って筋トレストレッチ音読をすることができた。
3日達成! おめでとう。今日もできたら、三日坊主ではなくなる。


さて、ある精神科医のブログを読んで、仏教観というか、この世は地獄だぜ、というのに一定の共感を覚えつつ、やはり人間の畜生ととして、執着にまみれ、苦しみながら生きている姿が嫌いになれないのだと。


その表現が、自信の体験を踏まえて非常にリアルな筆致になっていて、感動した。

かっこいいおとなだなっと。

僕も、何だか誰かを感動させるようなこと書きたいな。創作でも、エッセイでもどっちでもいいけど。


人類補完計画的な、万人にとってのユートピア、というのが、決して成功せず、様々な物語でも、最後は破れてしまうイデオロギーな理由が少し実感できた。

いくら、生きることそのこと自体が苦しみであっても、人と人は執着によって争うものだとしても、そのこと自体が尊いものだと、価値があるものだと感じる人もまたいるのである。

生きる意味が不要な人もいるのである。


ただ必死に生きて、笑って泣いて、苦しんで楽しんで、突然死んでしまっても、それが決して不幸なんてものではないのだ。


真理は、必ず必要なものではないのだ。


お金もそう。

恋人もそう。

出世もそう。

子供もそう。

他、世間一般に価値があるとされている多くのもの。


それらが、必ずしもその人にとって必要とは限らないのだ。

低学歴だから、貧乏だから。それらすべての属性は、決して、その人にとっての幸せの絶対尺度ではないのだ。

すぐさま、その足りないことに気づいていないから、貧乏の自覚がないから、井の中の蛙であり、本来的な権利を知ったとき、その人は失意のドン底におちるとしても、その知識や認識のあるなしが、問題にはならないのだ。

他人を気にしないこと



他者の生き方は参考になったとしても、結局は、自らの意思に従い、行為を選択する必要がある。

すぐさま、その意思とは単一の存在ではなく、環境との相互行為であることを想起する必要がある。





だから、

やっぱり、大切なのは、物語だ。


ある人が、現実とフィクションとの二項対立的な考え方に違和感を覚えると記述していたが、その通りと思う。
その、フィクションを摂取した自分自身までもフィクションになるはずはない。
現実逃避という言葉は、その、正しいとされている現実の規定から外れることを指すだけの相対概念といえる。
受験生が、漫画やゲームや恋人に時間を費やすことは、現実逃避だろう。
それは、受験に受かるという現実が価値あるものとして存在するからだ。
やるべき仕事があるとき、単純作業や掃除を始めたとしたら現実逃避だろう。やるべきことをやっていないからだ。

それは正しい、しかし、その価値あるものや、やるべきものについての検討の余地はあるのだ。



  

そして、この現実とフィクションとの懐疑の重要な点はもうひとつあって、それは、かっこつけた一般論的な表現をすると、グローバリズムと価値多様化社会である。  

価値への懐疑



現実の規定は重要でありながら、ローカルなコミュニティで一生を終える可能性は小さくなった。

一方、物理現実、いわゆる僕らが直接的に接する、学校、会社、家族、それらは、それらにおけるローカルな価値を提供する。

それが謝っているか、正しいか、そこに問題はない。問題は、その価値を自らの意思が、自己が、許容し、同様に価値あるものと実感できるかどうかである。


そこへの矛盾を抱えていなければ、よい。

ただ、そこに矛盾があれば、その現実は決して、現実逃避とそしられるものでなく、むしろ、その現実に落ち着こうとすること自体が、本当の意味での現実逃避なのだ。



価値の反転。
さて、現実が、現実として機能しなくなったとき、どういった方策が考えられるか?


物語の重要性



ここでいう物語は、エンターテイメントと呼ばれる、小説映画漫画ドラマのみにとどまらない。

例えば、旅先で偶然出会ったひととの会話でもいい。
もちろん、僕が最近飽きたと連呼する自己啓発本でもいい、ビジネス書でもいい。

とにかく、物理現実から離れたところで紡がれる物語。

それが、反転した現実から逃れられる唯一の可能性ではなかろうか。


ファンタジーだろうが、サイエンスだろうが、ノンフィクションだろうが関係ない。

自分自身が、価値あると感じられるものを探していかなければならない。それは、ときに、物理現実のなかだけでは見つけられないのだ。


物語を糧に。




さて、では、僕が求める、必要とする物語とはなんだ?


分からないが、ただ、ハッピーエンドじゃなきゃいけないなぁと、そんな漠然と、おもう。






















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