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徒然思ったことを(後身に伝えるということ)
2016/10/22 23:10 | Comments(0) | イライラ対処
ある10億円以上を稼ぐ野球選手のインタビュー動画を見てその中で、
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。

ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。

今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。

さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。

その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。

第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。

ダメだろうが何だろうが敵は

比較思考の無意味性。

昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。

そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。


というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。

いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。

いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。


表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。



とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。

僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。

上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。

本当に望んだこと

でも、思うに、

そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。

その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。

とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。

この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。

ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。

「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。

と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。

ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。


ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。

行動のための第六歩

そうだな、だから、取りあえず、就寝時間が大幅に狂って、起床時間がくるって、睡眠時間が狂ったとしても、友人たちとの会話は有意義であったし、あはは、昨日の記事で、行く前に何だか面倒だなぁ……という思いがあったにせよ、最終的には、言ってよかったなと、そう思ったということは書いておこう。

とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。

けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。



例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。

うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。

上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。





でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)

そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。

そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。

うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。

そう考えると、いま、すげー幸せだ。

……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)

そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。


あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。

もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。


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