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私が私であるということ
2022/06/19 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「書くことは大事だ」

まえがき

 マンガは結構読んでいる気がするが、アニメも、映画も、本も、全然読んでいない最近。
(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)

 マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
 そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
 これは、一気読みを防げる。
 繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
 そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
 企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。

あずみ

 あずみ、という漫画は古い漫画なのだけれども、これは面白くて、課金(購入)もして読み進めた。
 何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
 その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
 書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。

 とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。

私が私であるということ

 中学や、高校のころの私と、今の私は、同じ私なのだろうか。
 住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。

 そこに連続性はある。

「私」

 というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。

 デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。

 でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
 ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。

 物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
 なんの夢もロマンもない考えである。

 魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。

 でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。

 ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。

過去の自分と未来の自分

 10代の自分は、就職して結婚して子供を育てておじいちゃんになって死ぬ、ということを思い描いていた気がする。周りにそういうモデル(親とか)が多かったからだ。

 それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。

 今は、そこまで強く求める気持ちはない。

 ……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。

 一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。

 ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。

 ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。

自分の変化

 それで、そういったライフステージのことをどうこう考えること自体がどうでもよくなっており、そのことについて書きたい、ということですらない。

 主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。

 例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
 そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。

 外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。

 果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。


 一般的に、「ある」といえるだろう。
 僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。


 とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。

何をもって幸せとなすか

 昔のメールというか、文章というかを見る機会があった。たまたま。
 んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
 ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
 いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。

 私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。

 執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。

 執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。

 いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。

 僕は、普通の人になりたかったのだろう。

 将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。

 何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。

あとがき

(かっこ書きである。「コロナ」ということが、免罪符のようになったかもしれないが、「リア友」と殆ど連絡をここ数年とっていない。リアルの友達の存在を維持しなければいけない(ちょくちょく連絡を取ったりメンテナンスする)ということが必要だと、ある種強迫観念がずっとあったのだ。しかし、なくても、こう、2、3年? ぐらい経って、むしろ、心が平穏な日々が多くなった気がする。仕事は忙しかったが、それだけでよかったので楽だったともいえる。仕事して、返ったらゲームして遊んで、の繰り返し。それで十分楽しかった。……いや、それどころか、今までで一番楽しかった気すらする。社会的なしがらみというのが、どれだけ僕の心の負担だったかが分かった気がした。そして、いざなくても、別に困らない社会だったのだ。すばらしいことだ。お金があれば、権力者への顔色を窺わなくても、スーパーマーケットやコンビニで、美味しいご飯を買うことができるのだ。お金があっても、楽しいことがなければ、無味乾燥な人生だろう。でも、それこそ、漫画や、ネット、ゲームなどあれば、「普通に」楽しいのである。リアルな友達とスポーツで汗を流さなくても、自己啓発本を読んで更に資産を増やすための努力をしなくても、普通に楽しい一日が送れるのである。これ以上、特に僕は何も望まない。もっとも、何度も書いてきているように「現状維持」をするためには、プラスアルファの努力が必要である。まったく100%同じ繰り返しでは、現状維持はできないのだ。だが、150%を目指すと、疲れる。105%ぐらいを目指すのが、ちょうどよいと、思う。漸近的な成長をしていけるというのが、幸せということだと思うし、「私」という自我同一性の安定にもよいと思う)

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環境が変われば気持ちも考えも変わる
2022/05/04 17:18 | Comments(0) | 思考及び書くこと
しばらく書いていなかったのに、すぐに、いいねというか拍手を頂いた。

まだこの場を覚えてて下さる方がいるのだな。嬉しい。



物事の考え方として、二項対立があって、リア充というのは、非リア充という状況があるから、想定できる。
考えることや、感じることができる。

認識できることで、問題として設定し、解決するか決められる。



知ることで、急速に気持ちが冷めることもある。

昔とか、ニュースとかの匿名掲示板みたりしてたら、どんどん気持ちがふさいだりした。
いまも、Yahooのニュースとかでコメント読んでると、気持ちが下がることが多いのであまりみたくない。気になってしまうのだけど。

他者の意見は、知りたい。
小説の感想とかも、やっぱり書いたら欲しい。

完全に、自己完結で満足して生きることができたら、それは理想に思う。
ただ、人間の共感能力からいけば、厳しいだろう。

ヤフーのコメントは、コメントにいいねがつくので、それによって、ああ、これが大半の意見なのかな、と判断したりする。
それがよいのかどうかは分からない。正しい使い方があれば知りたい。



例えば、ロシアのウクライナ侵攻は悪いことだと、80%の日本人は思ってるはず。
ただ、その理由などは様々だろう。
僕は、ロシア国民も悪いと思ってる。大統領がいかに権力が強くても、それを支持する層があるからいけないのだ。

ただ、プーチン大統領だけが悪いと思ってる人もいる気がする。

そして、戦争が起きて、しかも何ヵ月も経ってもまだ止められない世界の秩序にがっかりもしている。
エデンという漫画の荒廃したプロパテール連邦が支配する世界はSFと思ってたのに、なんら変わらないのね。



ここしばらく、FF14もできなかった。
できなかったけど、やりたかったので、関連する記事とか読んでた。

プレイできず、匿名的な、いろんなコメントとか読んでたら、すごく気持ちが下がった。

例えば、新生と呼ばれる、最初のころのストーリーに対する、お使いでつまらない、というもの。

そういう意見の人もいることは分かるし、確かに、グリダニアという森の都のストーリーと、ウルダハという砂の都のストーリーとでは、正直グリダニアの方がわくわくして楽しかった。もしかすると、最初ウルダハスタートだったら、そこまではまらなかったかもしれない。



それでも、なんだか、メタ的な意見とかコメント読むと、せっかく物語とか、世界観とか、地理とかに感情移入していたのに、もりさがってしまう。

ネタバレは当たり前で、みないように注意してきたけれども、そもそものシステム的な話を知ってしまったりすると、「所詮ゲーム」感が強まってしまう。



まわりのフレンドさんたちにも恵まれて楽しんできたけれども、まわりの人たちとの進捗やPS的なのも離れてしまった。

一部の方々はボイスチャットや、オフ会などもしてたりするらしい。

羨ましい、というのはあんまりない。
昔はたぶん、羨ましかったと思う。

逆に今は、物語感、いわゆる世界観とかを楽しむ要素を遠ざけるように感じて、しまう。



はじめたての、夢中になるという気持ちを取り戻すのは難しいだろうから、どうしたらよいかは考えなくては。


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4月の終わり
2022/04/30 13:46 | Comments(0) | 思考及び書くこと
1ヶ月に一つ記事を書く、ということも難しい
何故
一日が早いから。

書く、には、

書こうという気持ちになること

書くためのデバイスを用意すること

書くことを考えること

書くこと

投稿すること

という段取りが必要。
目に見えるのは、書いた結果だけ。家事が大変なのは、準備だったり、段取りだったり、片付けだったりして、その中身は一部でしかないといわれたりするが、それと同じ。

面倒だな、と思うのは、その段取りとか準備の部分である

いざ書き始めると筆が進むというのは、面倒な部分を乗り越えられたから。


コロナ禍になって、引きこもりが承認されるようになり、トータルとしては、ストレスが減った

よいことか、悪いことか、二択でひとつこたえるなら、よかった。

住んだり生活しやすくなった

満足。

仕事も、大変なこともあるけども、いままでに比べたら、なんとかなりそう。これまでの苦労が活きる部署みたいでよかった。

FF14も、人間関係で気になることはあるものの、まぁよいか、といった感じ。ソロでも遊べるし楽しいし、何よりストーリーがとても興味深いので、まだまだしばらくは飽きなそう。

健康面もいまのところ問題ない。
筋トレさぼってるなぁ…。体組成計計でもかって、またちゃんとやろうかな。

というわけで、さして、問題はない。

リアル友とかと、話したことはもう二年ぐらいないのでは…。
友達いないし、彼女もいない。

これが、「問題」と思ってたころはとても生きにくかった。

でも、負け惜しみとかでなく、心底どうでもよい、と思えるようになると、人生って、わりとよいものではないか、と思う。


まさか、戦争が起こるとか、観光船が沈没するとか悲しいことがあるなかで、平穏に暮らせていることに感謝である。



死にたい消えたいとか思ってたころの自分とは別人なのかも。

アイデンティティーとは、結局は記憶なのだと思う。
自分の名前を思い出せて、それにまつわる記憶があるから、自分なのだ。

経験と、それにまつわる感情によって、個性はある。しかし、それらの蓄積がなければ、自分の同一性には関係しない。


欲しいものが手に入らないから苦しい。
しかし、欲しいものというのが、自分自身が本当に欲してるかはわからない。結婚してる友達ばかりのなかにいたり、就職してる人ばかりのなかで無職だったりしたら、負い目を感じる。

そういう風にできている。、同調共感、するようになっている。そのほうが生存に適してるからだ。

でも、みんなが欲しい、気持ちいい、ということが、必ずしも自分にもそうではない。

とにかく、全然暇ではない。
やりたいことも、やりたくないけどしなきゃなこともたくさんなので、今は何か悩んだりしてる暇もないのかも。

そういってしまうと、悩んでたり、ブログ書いてた時間をばかにするようだが、それはちがう。
今あまり悩まなくてすんでるのはそのおかげかもしれないし、今後また悩むことが必要になるかも。

しかし、三十半ばになると、何者にもなれない苦しみというのは少なくなるのだなと思う。

百億、四十億の宇宙や地球の経過の中で、生まれて消えて、というのはちっぽけだ。

何故生きるのか。それを問うこと自体が、生きてるということなのだと思う。








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インターネット回線覚書
2022/03/21 16:42 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「安定性が大事」

まえがき

 インターネットはインフラの一つである。
 数年前、某ケーブルテレビ会社とトラブルがあり、特に不都合はなかったが解約し、Wi-Fiという無線規格になった。

 その後、数年は特に問題なかったが、無線端末の不具合により回線の種類が変わり……さらに。



GMOのWi-Fiは不安定過ぎる

 Wi-Fiは当たり外れがある、ということが分かった。

 そして、速度計測のサイトの数値とかはあまり意味がないことも分かった。
https://speedtest.gate02.ne.jp/

 ↑こういうサイト。

 某社のWiMAX(以下「A社1」と呼ぶ)を使っていた当時は、正直特に不満はなかった。
 3日間で10GB使うと速度制限にかかってしまうということは、大容量のゲームをダウンロードするときなどは困ったけれども、それは「そういうもの」という納得があった。

 しかし、Wi-Fiのポータブル端末の弱点は、「電池」だと思う。

 3年目にかかろうとしたとき、「A社1」の端末の電池の入りが悪くなった。
 家で使うだけなので、充電器につなぎっぱなしで使えればそれでもよかったが、電源をつないだままでも端末が落ちてしまうことが頻発しだした。

 そのことを「A社1」に伝えると、ほどなく、(少々トラブルがあったが、別に我慢できる程度)代わりの端末と回線変更をしてくれることになった。これを「A社2」(クラウドWiFiという種類のようだ)と呼ぼう。

 A社2については、料金体系など何も変わらなかったが、速度が半分になった。
 最初、3日で10GBというしばりもなくなるということだったので、まぁいいかと思っていた。

 しかし、STEAMでゲームをダウンロードしたりすると、すぐさま速度制限にひっかかった。
 最初何が原因か分からなかったほどだ。速度制限は「原則なし」、とされていたからだ。

 どの程度使えば速度制限になるかが公表されてないため、非常にストレスになった。
 いつどのように使えば速度制限になるかが分からず、いつ解除されるかも分からない。

 ちょうど、3年目の更新月が近づいていたので、「A社2」については絶対解約しようと考えていた。

無事解約できてGMOと契約

 A社2については、端末を送り返すだけで解約ができた。
 電話とかしなくてもよかったから、楽ではあった。端末を送る送料1000円ぐらいは自費だったが、それぐらいは大した問題じゃない。

 問題は、安定したインターネット環境を維持することである。

 いろいろ調べて、A社1で、端末の電池が切れる問題を鑑みて、「ホームルーター」サービスにした。

 新しいルーターが届くまで、とてもワクワクしていた。

 申し込みをして、翌日には発送された。

 受け取りは土日となったが、すぐに受け取ることができた。設置も簡単。新しいネットにはすぐつながった。

速度は良好

 速度は良好。
 A社2の、2倍、3倍程度のスピードが出ていた。
 これで、ネットやオンラインゲームも快適にできる、僕は喜ばしい気持ちでいっぱいだった。

不安定過ぎる

 使用して、2、3日して、異常に気付き始める。

 まず、「画像」の読み込みが遅い気がした。

 もしかしたら、混雑したタイミングでたまたまだったのかもしれない。そう信じたい気持ちだった。
 しかし、朝も夜も、いつも、「なんとなく遅い」。

 極めつけは、ヤフーメールが中々開かないことだ。これはとてもストレスになった。
 他のサイトなどはともかく、ヤフーとか、ある程度知名度が高いサイトなども遅いということは、サーバー側の問題じゃないと思う。

設定をいろいろ試した

 まず、有線にしてみた。
 ホームルーターは、有線でPCとつなげるのである。

 結果は、もっと悪化した。これは不思議だった。


 次に、2Ghzから5Ghzに接続設定を変えてみた。これは劇的に改善した。
 速度が2倍ぐらいになった。
(この設定変更がやや難しかったので、変更が無事できて、速度が速くなったことに僕は歓喜した)

 これで解決……とはならなかった。
 多少読み込みが早くなったものの、やっぱり画像読み込みが遅かったり、オンラインゲームをしていると寸断される現象がたまにおきるのである。

結論GMOのWi-Fiサービスはダメ

 動画とかオンラインゲームの用途とかそういう問題じゃなくて、あまりに不安定過ぎて使い物にならない、というのが僕の結論。

 これは、速度が遅くて、速度制限がいきなりかかってびくびくしていたA社2の方がましだった。
 少なくても、突然接続が切れたりすることはなかったし、遅いなりに安定していた。

 もっというと、スマホのテザリングの方が安定していた。


 夏ごろには、「5G」に対応するらしいから、そうしたらもっとよくなるのかもしれないが、早々に対応を検討している。

 代替案も、ひょんなことから出てきたので、試してみる予定。

 解約違約金がいくらかかるのかは心配だけれども、月額5000円だとして、1年間は6万円になるわけだ。
 そしたら、仮に2万円ぐらい解約違約金がかかったとしても、ストレスを抱え使い続けるるよりかはましな気がする。

あとがき

(かっこ書きである。GMOさんすみません。別にみんながみんな困っているとか、僕のように不安定な回線状況なわけではないと思います。ただ、僕の環境(地域?)はあまりに相性が悪かったということです。口コミとか見てみても、そんな不満があるものは見当たらなかったから、たまたま僕が運が悪かったのでしょう。なので、自分の運の悪さを悲しんで記事にしちゃいました。ネットはインフラ。生きがいなのです。だから、「安定している」ということがとても大事だなと思いました。電車とか輸送、電気水道ガスとか、そういうインフラストラクチャー(基盤となるものこと)がほんと大事だなと思います。ウクライナの戦争とかね。自暴自棄になってた頃(死にたい死にたいとか思ってた頃)は、世界なんて壊れてしまえぐらいに思ってた気がしますが、どんな建前や理想を語ろれようが、「ウクライナがかわいそう」としか思えない。こんな簡単に戦争が起こってしまうんだと、現代人はとてもショックを受けたろうと思う。3.11もそうだし、新型コロナもそうだし、安定しているころは「当たり前」としか思えないけれども、いざ当たり前を奪われたときに、それがどれだけ大切だったか。まぁ、そんなことはみんな分かっていても、逆に「当たり前」だから意識できないのである。奪われてから気づいて後悔するというのは、愚かな人間としか思えないけれども、でも、そういう風に人間はできているともいえる。当たり前が奪われてしまうということを逆に意識し続けてしまうと、それはそれで生活できなかろう。とはいえ、だからといって完全に忘れていていいものでもない。ということで、安定した「ネット環境」のために僕はまだ奮闘しなければならない)

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1か月に1回のペースはまだ続けられる
2022/02/20 08:43 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「2022年2回目の記事」

まえがき

 endoは、この場所がどうでもよくなったのだ……と、思われてしまっても仕方がないとは思う。
 けれども、そうではないとは、自分の心の中に問うても答えられる。

 しかし、それを示すには根拠があまりにも少ない。

 あと、最近思ったのは、「やりとりの多さ」的な繋がりの強度というものである。

よく会う人が大事な人なのか

 全然あさってな方向から書くと、大学時代、とても仲の良い友人がいて、授業などほとんど一緒にとっていた。
 住んでいたアパートもとても近くだったので、朝寝坊しないように一緒に大学に行ったりもしていた。

 仲が良かった、そう思っていた。

 しかし、大人になってしばらくして、その友人が、別に私のことはそんなに仲良いと思ってなかったと聞いた。とってもびっくり!!
 多感な時期に聞いたら、(そもそも人間不信気味だったのに)さらに人間不信になっていたことだろう。
 いやむしろ、「ほらみたことかっ」って持論が証明されたと悦に浸っていたかもしれない。


 というわけで、「よく会う人」が大事な人でも、仲良い人でもない、とそんな風に僕は思う。

 そもそも、よく会う人というたら、同じ会社の人と会う頻度の方が絶対多いだろう。でも絶対大事かというとそうではないだろう。すぐさま言っておかなければいけないのは、「それでいい」のであるということだけれど。

大事と思うから大事、でも

 過日、久しぶりに会った方(ネット上だけどっ)と、お話ししたら、とても楽しかった。
 たぶん、1か月、2か月は会ってなかったと思う。

 でも、やっぱり波長が合うというか、話していて楽しいなという人は、しばらく会ってなくても構わないのだと、改めて思った。

 家族もそうだ。家族、が、必ずしも仲が良くないという人もいることは分かっているが、僕は割と家族関係は悪くない方なので、久々に会うと普通に話せる。会う前は、半年も、1年も会ってなくて会話が成り立つのか……ぐらいに思ったりもするけれども、1分~2分話してると、そんなことは全く感じなくなる。

 それはまぁ、それだけ濃密な時間を過ごしていたバックグラウンドがあって、その1分程度の時間に、そのバックグラウンドがすぐに想起されるからなのかもしれないけれども、分からない。


仕事は一つ乗り越えた、が

 このブログがあったから、そこにコメントくださった方々がいたから、僕は、一時期のつらいときを乗り越えられたと思っているので、「どうでもよくなった」なんてことはない。

 にもかかわらず、驚きの1月からほぼ1~2か月更新がなかったのはどういった了見なのか。

「時間がない」

 という言い訳は、もう僕は使わない。

 時間は、ある。
 24時間、睡眠時間を6時間確保したとしても(一時期それすらもできなかった時期もあることだし)、18時間はあるわけで、ご飯を1食ぐらい食べなくても死なないから、15分そこらの時間は絶対に、どんなに忙しくても作れるのだ。


 忙しいとは、心を亡くす、と書く、と何かで読んだことあるけれど、そのとおりで、「他のことに意識できなくなる」というのが忙しいということだ。

 正直に言えば、仕事と、FF14やってるせいである。

 頭の中のリソースを避けなかったのだ。

 そういう意味では、他の趣味の繋がりなども、ほとんど「無視」状態であった。さすがに「参加不参加」ぐらいの事務連絡も無視するわけにはいかないから、何とかしていたけれども、「大変」な気持ちだった。趣味だから楽しいはずなのに、ね。
 LINEも、最近、開くのが億劫である。億劫とは何か。面倒ということだ。気持ちが乗らないということだ。「やだなぁ……」ってことだ。

 それらのことに比べたら、このブログを書くことは、むしろ「したい」「やりたい」ことであった。

 それでも、他のこと(仕事・FF14)を考えている中で、こちらについても「考えて」「行動する」という気持ちまではなれなかった……いや、「したい」とは思ったけれども、「行動」までは結び付かなかったということか。

勉強するということ

 社会人になってから、資格をいくつかとったこともあるが、今考えると、自分よく頑張ったと褒めてあげたい(かっこ笑)。

 資格の勉強しているときは、合格率1%みたいな難関な資格でもないし、誰でも勉強すればとれるんだよなぐらいな気持であった。

 ただ、まぁ、その、「勉強する」ということ自体がすごいことであると今は思う。
 学生の頃は、それが当たり前であったのだけれども。ああでも、学生の頃は、それようの時間が用意されているわけだから、当たり前は当たり前か。

 でも、学校にいる時間の外まで勉強する、というのは、中々骨の折れることだったのではないだろうか。

 というか、授業があんまり役に立った記憶はないんだよな。
 学校の授業って、「訓練」でいいんじゃないかと思う。予備校とかカリスマ講師の授業を聞いて、「分かった!!」気になっても、「できる」ことは違うのだ……というのに気づくのは、だいぶ後の話だった。

 そういう意味で、「やる気」って大事なんだよな、と思うのだけれども、果たして。

あとがき

(かっこ書きである。モチベーションを維持するということはとても難しい。毎日コツコツ……というのが難しいことなのだ。そういう意味で、僕はある程度それが「昔は」できていた。できていたのに、それが「当たり前」で「簡単」なことなのだと思っていたから、つらかった。自分の怠惰を、日記でいつも叱っていた気がする。映画やアニメなど物語では、「修行」はすぐに終わる。「そして1年後……」みたく。でも、それって一番難しいことなのである。ワンパンマンのサイタマ氏が、強くなる秘訣を聞かれて、ランニング10km腕立て500回腹筋……みたいに答えて、聞いた相手が、「そんなのふつーすぎる! 特別なことではない!」みたいに反応するシーンが僕は印象的であるが、まさにそこである。その「ふつー」がとても難しいのだ。それをふつーにやってしまったから、サイタマ氏は無敵の強さを得たのだ。何の話だっけ)



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