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死んだらどうなるかに唯物論以外の方向性を
2023/01/03 01:18 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「2023年よろしくお願いしますとか、ゼロポイントフィールドといったタイトルを避けることにした」

まえがき

 謹賀新年!
 ↑には、明けましておめでとうという意味があるので、「謹賀新年! 明けましておめでとうございます!」というと二重になってしまう、ということを聞いたことがある。あってたかどうか不安になる。
 謹賀新年、今年(2023年)もよろしくお願いします、だと正しいのだろうか。

 とか、そんなどうでもよいことに行数を使うのはもったいないのかもしれない。ただ、せめて、タイトルに、「2023年はじまりはじまりー!」みたいなものは避けようと思った。

 そして今回、年末年始に読んでいた「死は存在しない」という新書についての感想でも書こうと思ったわけだが、そのキーワードの「ゼロ・ポイント・フィールド」みたいなタイトルも避けた。
 ぜろぽいんとふぃーるど? みたいな言葉を使ったとて、全くインパクトがない。は? みたいになるから。

 タイトルの付け方って大事。
 いまいち、メールのタイトルを意識しない人が多い気がするけど、そもそもタイトルで読むか読まないか決めたりするからね……。

アカシックレコードみたいな話しだった

 1時間だ。ボクの書くことができるのは、1時間だ。
 それ以上過ぎると、途端に書く気力がなくなる。1時間でできるだけ書くためには、ポイントを絞っていく必要がある。

 まず、今回は、その「死は存在しない」という
>死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 新書 – 2022/10/19
 という本の感想だ。

 この本では、基本的に「ゼロ・ポイント・フィールド」という仮説について書かれていくわけだが、長いから以下「ゼロ説」って書く。

 で、「アカシックレコード」みたいな話だなと思った。でもアカシックレコードという単語は出てこなかった。なんでだろ?

 アカシックレコードとは、過去から現在までのすべての情報が記録されているという説で、非常に似ていると思った。

 ゼロポイントフィールドは、それを「量子真空」に保存されている、という説であった。

(追記)アカシックレコード、にふれてないと書いたけど、そもそもインドの「アーカーシャ」については触れられていた。アカシックの語源はアーカーシャだということなので(wiki)同じような意味で既に筆者も触れているということなのだろう。そういえば、アーカーシャって、FF14でも出てきたような。デュナミスという言葉で言い直してたりしてたね。

ゼロ説とアカシックレコードの違い

 ゼロ説との違いとしては、アカシックレコードはすべての情報といいつつ、未来までは保存されてないことかなと思う。ゼロ説は、文字通り「すべて」記録されているので、未来予知もできるということだ。

 オカルトだ……!
 という印象が先行してしまうけれど、最先端の物理学をもってして立てられた仮説、ということだったので読んでみたわけだ。

 たぶん、科学的な話を期待する方は、がっかりする気がする。

 そのゼロポイントフィールドという存在についても、「量子真空に、ホログラム原理で、波動情報として記録されている」という説明ぐらいしかなかった、気がする。何がどうなって何故そうなるのか……という理系的な思考で読み解いていくには、あまりにも情報が少ない気がした(科学的な知識が殆どないボクでさえ)。

 でもそのあたりは敢えてそういう読者層を狙っているのではないのだろうとは思った。

 例えばボクは初めて、「コンステレーション」という言葉をしった。星座という元々の英単語だが、転じて、何やら全体的に何か一つの示唆、意味をもっているように感じられる現象のことをそう言うらしい。

 例が浮かばない。

 色々、筆者は、「不思議な体験」をしたことがある方のようだが、残念ながら、自分はそういう経験があまりないので……とはいえ、「何か考えてたら、同じようなことが起こった」みたいな引き寄せの法則的なことは、ゼロではないから、完全に拒絶するほどではないけれども、「偶然」ということで片付けることが多い。

 ただ、そういった「偶然」と思われがちなことも、ゼロ説によると、意味を持っているし、原理的なものがあるということだ。

意識の5段階

 あと、表層意識、静寂意識、無意識、超個的無意識、超時空的無意識、みたいに無意識の中でさらに分類していくというのも面白いと思った。
 超時空的無意識というのが、その「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がった状態、というわけである。

 超個的意識……というのは何だっけ? 仏教の唯識派の提唱した阿頼耶識みたいなもんだっけかな……。阿頼耶識≒超時空的無意識だっけ。そのあたり曖昧。

 一読して、全部理解したり、記憶したりするのは難しい。

 色々、勉強しようと思って読めば、どんな本でもいくつかためになることがある気がする。

「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で本を読むのはあまりよくない。

 とはいえ、何も考えず(何か学ぼうとか意識せず)に引き込まれて熱中できる本の方がよいのは間違いないけども。

死とは何かの方が面白かった気はした

 唯物論をボクは信じてる、と思う。筆者もそうだったそうな。でも、考え方が変わったという冒頭で、それで「ほほー」と思って手に取ってみた(買った)わけだ。

 読み終わって、でも、「そうだゼロ説はある! 唯物論は間違ってる!」という素直な気持ちになれたわけではなかった。
 でも、「生きる意味を徹底して考える」ということについて、「唯物論」というのが前提になっていたから、その点では違う視点もありえるのだなと思えたことは、1000円いくら、の価値がある本だったと思う。

 といいつつ、「死とは何か」という本の方が、ボクは面白いと思った。こっちは3000円越えなんだけどね。
>「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12

 唯物論とは何なのかというのが良く分かるし、意識というのが、ものすごい機能と結果を生み出す身体(脳)による物理現象なのだ、という説明がすごくしっくりくる。

 死んだら無になる……というのも分かる。そして、無になる……ということについても掘り下げて書いてると思う。結論的に、死はそんなに悪いものではない……死よりももっと恐ろしい状況というのがあるというのも良く分かると思う。

 それでもやっぱり、死ぬのは怖くて怖くて恐ろしいことだけれども、冷静になるために、冷静に考えるために大事な考え方や視点を教えてくれていると思う。

 まぁそれでも、余命1か月とかいわれたら、取り乱すのだろうけれどもね。

あとがき

(かっこ書きである。えっと。1時間たったかしら。分からない。まだ30分ぐらいな気がする。でも書きたいこと書き終わった気もする。さて、「ゼロ・ポイント・フィールド」。興味を持たれた方はいるだろうか。取り敢えず読んでみてくださいなー、1000円ぐらいだし! みたいな感じだ。死は存在しない、というタイトルだけれども、それは宇宙意識(ゼロ・ポイント・フィールド)に還るということであって、肉体的な死は必ず発生するわけだから、タイトル詐欺な気もする。とはいえ、商業的にもキャッチーなタイトルは必要だろうから仕方がなかろう。結論的にも間違ってるわけじゃないし、詐欺というのは、ボクの方がそれこそキャッチ―に書き過ぎだ。なんか、感覚的には「EDEN」という漫画の「コロイド」のイメージにも近かった。とある主人公と関係のある女の子が死んじゃうシーンで、首が爆発して、ぽろりと、首が昏い海に沈んで行って……。そこで、意識がなくなる前にコロイドが女の子に見せるシーン。お話し。説明。女の子(名前)という個はなくなるけれども、集合的意識の一つになるということ。肉体的な死は迎えたけれども、新しい世界に行くという意味だよと、コロイドの使徒は言う……。漫画の世界……ということではあるが、現実世界でも、そういったことが起こりえるという理論(仮説)があるというのは悪いことじゃないと思う。そもそも「色」的な世界……要するに、現実、物理世界だけが真実で普遍で不変……という考え方は、やっぱり面白くない。物語世界というのは、現実を直接的に動かせるわけではないにしても、人はやはり、「物語」をもってして生きているとボクは思う。お金がすべて、……お金が何より大事……という人も、そういった物語を信じてるからそういった行動様式をとって、そしていつか死ぬわけだ。そうそう。もう一つ、ふと目にした記事だが、コミケ? よく分からないけども、同人誌を販売する大きなイベントがあって、そのイベントに参加した翌日に、がんで亡くなった人の話を読んだ。そのイベントで出品する作品を、闘病で苦しみながらも、最後まで描き続けたのだそうな。すごく涙があふれた。創作ってそういうものだ。そういうものであっていい。スポーツも、その他のエンターテイメントも、仕事も、何だって同じだけ価値があるとボクは思うし、すごいことだと思うけれども、死ぬ最後までできることって、「物語」や作品を創ることだとも思う。めっちゃ野球が好きでそれが生き甲斐で……という人でも、ピアノがそれである人でも、最後の最後までそれをするのは厳しい気がする。ピアノはできるかも……? そういうことを言いたいんじゃない……。スポーツは、具合が悪いと、もうできないと思う。キャンプとか、そういう趣味も。最後に残るのは、やっぱり脳(意識的な意味で)だから、それに近いことが生き甲斐の方がいい気がする。最後までこれをしてたら幸せだ、というもの……そういうものをボクは作っていきたい。今はまだ分からない。ただ、このブログは一つそうなる可能性もある気も、しないでもない)

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ありのままの自分
2022/12/18 16:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「予約投稿にしてみよう」

まえがき

 暇な時間が多くなった。
 とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
 4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。

 寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。

大勢に囲まれている中の寂しさ

 幸せと言うのは相対的なものである。
 そして、大概全部、相対的である。

 最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
 コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。

 このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
 友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。

 とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。

 これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。

 本当に楽になった。

 と思っている。
 むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
 そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?

孤独な方が幸せという矛盾

 いっぽうで、FF14で色々人付き合いしていくことで……いや、「たかがゲーム」「しょせんげーむ」なのだけれども、相手が「人」として考えればそれはまごうことなき人である。
 身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。

 それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。

 これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
 好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。

 中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
 でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
 シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。

それでも一人がよい

 しかし、人付き合いを「維持」するのはやはり非常に難しいことなのだと思った。
 まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。

 でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。

 高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。

 でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。

 そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。


 しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
 しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。

 最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。

人と居るのに寂しい

 承認欲求、かまってちゃん……。
 自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。

 本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。

 孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
 このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。

何を書きたいか分からなくなってきた

 なんだっけ……なんか本筋からずれてきた気がする。

 とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。

 すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。

 正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
 これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。

 とりあえず、近々の職場では、の話しである。

 ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。

 何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。

 状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。

 つまり運……。

 ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。

遊びのコミュニティでもそう

 例えば、FF14において、タンクとか、ヒーラーとか、DPSといった役割(ロール)がある。

 4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。

 ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。

「あなたがいないと遊べない」

 的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。

 サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。

 一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。

 でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。

 控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。

必要とされたいし役に立ちたい

 要は、承認欲求と言うのは、誰かに必要とされたい、役に立ちたいという気持ちの現れなのでもあると思う。
 だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。

 かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
 かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。

 そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。

あとがき

(かっこ書きである。毎日通勤していると、「人多いな」って思う。こんなに色んな人がいるのにボクは孤独なんだ……とか思ったり思わなかったり。正直思わないことの方が多い。ただ、60歳とか80歳になったとき、どう思うんだろう。周りの人たちは孫に囲まれているのに、ボクは誰もいない。親は当然死んだし、親戚づきあいもない。パートナーもいない。友人もいない。誰もいない……寂しい……っとなるのだろうか。しかしながら正直、「寂しいからパートナーを探す」というモチベーションは、ない。60歳の自分からみたときに、今の自分に憤るのかもしれないが、ただ、思い出してほしい、その動機付けが起こりえたのかどうか、を。でも、真面目な話、60歳とか、80歳になったボクが、過去のボクをみて、後悔して欲しくないと思う。例えば、ボクの10代のころを……思い出してみて……うーん……。後悔は、まったくない。つまんねー人生だったなぁ、つらかったねぇ……と慰めたくはなるけれども、じゃあ、他にどうできたのか、といわれたら、正直思いつかない。もう一度やり直していいよ、と、仮に今の知識や思考をもったまま過去をやり直せるとしても、やり直そうとは思わない……。これはほんとに。やり直したくねぇ……(かっこわらい)。という思考実験からも分かるように、今の僕は幸せである。大人は、もっと、「人生幸せだ―!!」って言った方がいいと思う。大人になるということに、一切魅力がなかったもんな。つまらなそうだった。かといって、若い時は、今ナウ、もつまらなかったんだが。ニュースとか、世間話とかでも、暗い話ばっかりである。もっと生きてるのって楽しいんだよとか、楽しい場所って他にたくさんあるんだよとか、そういうの必要じゃないだろうか。ボクが見えてなかっただけなのだろうか、そうかもしれない、が、例えば、某匿名掲示板とか、ヤフーコメント欄とかみても、批判的な奴とか、つまらない意見コメントばっかりである。えっと、思考実験の話だ。どうにも、あとがきになると、もう文脈無視していいという気になるから色々書いてしまう。あの、その、とにかく60歳になったとき、自分に「おまえ……あのとき、ああしておけば……」みたいなことを思われないようにしたいとは思う。他人の責任を取ることは難しいが、自分の責任は、せめて取りたいとは思う)

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宇宙の年齢
2022/12/18 15:18 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「タイトルと関係ない話が多くなるかも」

まえがき

 宇宙の年齢は、138億歳ということだ。

 ボクは、137億歳と覚えていたが、最新の研究では、138億±0.6億歳というのが正しいようだ。

 https://www.youtube.com/watch?v=gfQyO9XbTiM

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gfQyO9XbTiM" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>

 上の動画が分かりやすかった。

 しかし、それだけの知識だと、やっぱり「で?」ってなってしまう。どうして、138億歳ってのが分かるのか、というのまで知ってると、少し楽しいと思う。

宇宙マイクロ波のゆらぎ

 宇宙マイクロ波という、ビッグバンのときからあった光は、今も身近にたくさん存在しているという。それを観測すると、光の強さと弱さのむらがあることが分かった。
 それによって138億というのがわかった……といわれてもちんぷんかんぷん。

 天文学者のハッブルは、宇宙が膨張していることを突き止めた。それはどうやったかというと、遠くの星ほど速く遠ざかっているということから。
 なんで遠ざかっているのか。ダークエネルギーのおかげだ。ダークエネルギーの構成比を突き止めるために、宇宙マイクロ波が使われたということだ。

 宇宙が膨張していて、遠くの星が速いスピードで遠ざかっているということで、遠くの星の距離と、速さが分かれば、距離÷速さで、出発時間が分かるということ。出発時間というのが、生まれたタイミングというわけだ。いこーる、年齢。

 何かいてるかさっぱり分からないと思うから動画を見てもらうしかない。そういう意味でも、短い時間で分かりやすくまとまっているのはすごい。そして、動画見てからの自分の感想というか記憶力が上のレベルというので、知力が測られる……かっこ笑い。

 上の書いてみたことを踏まえて、もう一度動画をみると、色々漏れてる説明なども分かる。
 学習は、繰り返し定着させないと意味がないというのが分かる。

宇宙の膨張

 宇宙は膨張している。そして、その速度は加速している。
 なんとなくの知識だけど、それがへーというレベルで少し理解が深まった気がした。
 宇宙を膨張させているエネルギーのことを、ダークエネルギーというんだなーとか。

 そして、そのエネルギーが、宇宙全体の7割ぐらいもしめているということだ。4%ぐらいが知られている物質で、その他はダークマター(暗黒物質)ということだそうな。

 知らないことの方が多い、ということ、天才のアインシュタインでも、宇宙項の取り扱いで二転三転したみたいに、間違えることもある(結果的に合ってたというのが天才)。

 サンデージという科学者が、70億年から130億ぐらいと予測し、パールムッターという科学者が、1998年に、超新星爆発の研究から、宇宙は膨張していることを突き詰める。

知識

 知識は大事だ。どんどん増やしていくべきだ。しかし、知識があっても、幸せになれるとは限らない。
 知識がないと、幸せになれない可能性が高いというのは確かだと思う。しかし、美味しいビールを1杯2杯……まではいいとして、大量に飲めば飲むほど幸せかということは絶対にない。美味しいと感じるのも最初のうちだけだし、そのうち、二日酔いになったりするだろう。


 バランス感覚が大事だ。
 中庸だ。やっぱり仏陀は正しかった……。

 とはいえそれが一番難しい。VUCA、ぶーか? というのが言われたりする。もともとは軍事用語だったらしいが、ビジネスでも言われるらしい。
 あんまり聞いたことなかったが。

 Volatility
 Uncertainry
 Complexity
 Ambiguity

 綴り、間違ってると思う……。これが正直なボクの知識レベルである。ただ、訳語は覚えている。ボラティリティは、変動性のこと。アンサータンリィは、不確かなこと。こんぷれきしてぃは、複雑性、アンビギュイティは曖昧性。

追記:惜しかった。正解は↓のようだ。
「Volatility(ボラティリティ:変動性)」「Uncertainty(アンサートゥンティ:不確実性)」「Complexity(コムプレクシティ:複雑性)」「Ambiguity(アムビギュイティ:曖昧性)」


 何が正しいか分からない、と一言でいえばそういうこと。

曖昧性

 まぁ、そんなことは、もう10年も20年も? 前から感じていた。
 自分の将来すら良く分からなかった。自分がどうしたいのかさえ。

 だから、生きづらい、とか言ってたり感じてたけれども、その段階が過ぎて、「意外と何とか皆している」ということに気づき始めた。

 世界は、危うい拮抗の中にあるのかもしれない。一瞬で、大地震が起こってすべてがなくなってしまう、その数秒前なのかもしれない。

 キャメロット。アーサー王物語の理想都市。

 しかし、1か月後は、取り敢えず大丈夫そうだ。1年先も、もしかしたら大丈夫かもしれない。

 大きくて、どうしようもない不安。

 先行き不透明。

 若い内は、それを感じる度合いも頻度も高いと思う。それは大人になっても続く。

 でも、それでも、何とかなる。

余命僅か

 10代でがんになって、最後までブログを続けた人の話とかも最近読んだ。
 すごいなと思う。自分が、もうすぐ死ぬ……ということは、中々意識できることでもないし、逆に意識しても正気を保てるというのがすごい。

 もちろん、文章に書き表せないほどの激情があったことは想像に難しくない。

 美談として残ったことばかりではないし、絶望して命を絶つ人だっている。それでも、最後まで自分の命を燃やし続けることができる人もいる。

 その中で、自分はどうなのか。

言葉での表現

 頭の中で考えていることを、アウトプットすること……。
 それは僕は得意な方だったはずなのに、最近、頭に浮かぶ事柄自体が少なくなった気がしてならない。

 気づけば同じことを考えていたり、何も考えていなかったり。

 退化だ。

物語の喪失

 インプットがないと、アウトプットはない。
 思考は経験から生じ、経験は行動から生じる。だっけか。

 違った。経験は思考から生じ、思考は行動から生じる、だった。

 そこら辺を間違えるというのは、ちゃんと理解してないからだな。ディズレーリだったっけ……。

 行動しないことには、思考は生じないということだ。

 頭でっかちだと、思考することから、行動をはじめようとするが、その逆なのだと。思考の体系化されたのが、経験なのだと、そういうことなのだろう。

あとがき

(かっこ書きである。宇宙って、すごいだなと思う。FF14やっている時間がものすごく少なくなったから、睡眠時間と、ぼーっとする時間と、ユーチューブみる時間になった。めでたしめでた……めでたくない! しかし、休日というのは、休む日なのであって、何かインプットとかアウトプットを必ずしもしなくてもよいものだと思う。「だらだら過ごす」ことも、それが目的であり、目標であればよいのだ。例えば、1年にある休日は、土日だけだと、104日なのだという。祝祭日含めると、118日らしい。ふーん。割と多いような気もする。まぁ、具体的な日数はともかくとして、そのうち、半分ぐらいの50日を「だらだら過ごす」=生産的なことを何もしない、と決めよう。来年、2023年の目標だ! とかにしたとする。そしたら、だらだら過ごせたら、むしろ目標に近づけたということで拍手喝采というわけだ。そういう風に考えれば、「ああ、せっかくのゴールデン休みを無駄にしてしまった……」と哀しむ必要はなくなる。むろん、それを、こて先に、当日にそう思おうとしたって無理だ。ちゃんと、自分の心に落とし込んだ目標にしていないとダメだ。そういうものだ。だが、上で書いた「知識」ということでもそうだし、「幸せ」ということでもそうだが、宇宙138億年の規模でかんがえたら、どれもこれも小さなものだ。落ち込んだり、嫌な気持ちになったり、哀しい気持ちになったり、これからさきも沢山あるだろう。そういったときにそういったことを乗り越えられる知識や考え方や感情を、涵養する必要がある)

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眠れない夜に書く
2022/11/27 07:41 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「眠れない夜に書く……というのは初めてではない」

まえがき

 前回の記事は、10月23日。今日は、11月27日。1か月は経ったのか。あまり、そういう感覚がない。
 もう11月も終わるというのか。
 早いな。年々加速している気がする。

 やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。

 仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。

 しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
 その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。

眠れない夜

 ということで、昨日から、3時間ぐらいしか眠れていない。27時(3時)~29時(5時)ぐらいは寝てたかな、という感じ。

 なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
 お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
 それでも全然眠れなかった。

 そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。

 おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。

 そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
 よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。

 でも大丈夫だった。

 仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
 イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。

 そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。

 なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。

チェックリスト

 ミスしたんじゃないか……という不安が、結構大きくなっているこの頃。
 これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
 結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。

 それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。

 これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
 だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。

 ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
 となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。

 もう、自分が信じられない。
 1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。

 自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。


 再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
 例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。

 財布を忘れて会社に行くときがある。
 それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
 それによって、忘れる可能性が減った。
 それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
 チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。

 認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。

 もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。

 まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。

FF14のコミュニケーション

 と……面白いものである。そもそも、悩んでいたこととは全く別の話を書いているのだから面白い。

 もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。

 やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
 だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。

 というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。

 自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。

 でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。

 そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
 離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。

 大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
 色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。


 で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。

 光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
 だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
 でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
 実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。

キャラクターとしての感覚

 なるほど……確かに便利だと思った。
 やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。

 でもボクはそれは、明確に嫌である。

 少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。

 最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。

 ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。

 とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。

 前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)

 アバターとは違うわけだ。
 アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。

 ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
 小説的に言えば、超・感情移入みたいな。

ボイスチャット

 それで、ボイスチャットの話に戻るわけだけれども、ボイスチャットは、どうしても「前世」(リアル・現実)を意識させるものであって。
 そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。

 とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。

 というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
 だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。

 ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。


 んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。

 ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。

 それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
 どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。

 そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。

 なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。


 んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。

 それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)

これからのFF14

 そのVC問題と同時に、そもそも、ストーリーもクリアしてしまってやることがあまりなくなったというのもある。「零式」という、難しい戦闘コンテンツに挑戦するというのが一つのステータスでもあるけど、「零式」は、やっぱりVC使う場面が多いということだし、また別のダメージを計測するツールの問題もあってとにかくややこしい面倒さがある。

 そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。

 やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。

 そういう新鮮さがなくなってしまった。

 そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。

 その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
 
 居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
 そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
 まぁそれでも全然いいのであるが。

 よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
 この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
 それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。

 これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
 同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。

あとがき

(かっこ書きである。落ち着いたのか、ボクは。言いたいことを言えないとやっぱり、人は苦しくなるものだ。しかし、言ったとしても理解されないことだったらどうだろう。幸いにして、ボクは、人を殺したくて殺したくてたまらないといった快楽殺人鬼的なことを思うことはないので、言っても理解されないということはそこまで多くないのではないかとは希望をもてそうだ。とはいえ……。今回書いてきたような、自己の存在の外側にあるような問題の場合は、「話してすっきり」みたいな方法は取れない。「死に至る病」というキルケゴールの著書と同名の漫画があるけれど、ネタバレになるけど、二重人格的になって、その二重人格の方が後天的に発生したものであり、それを認めてしまうとその人格自体のアイデンティティが否定されてしまう……という話しがあった。本当の自分が分からなくて苦しむ一方で、実は「本当の自分(二重人格の前の元の人格)」を認めてしまうで、その後天的な人格(二重人格)は死ななければいけないという、そんな話しだった気がする。問題は、解決されるためにある、と言われることもあるが、同時に解決できない問題もあるのだ。さらに、問題を解決することでそれが原因として起こる問題と言うのもある。直線的な問題だけでなく、サーキュラな(円環的な)問題というのが、実のところ多いのだろう。つまり、この記事は、結局のところ、問題を問題として認識するためのきっかけにすらなったか分からない。とはいえ、眠れない夜が明けて、朝になったというのは、この記事のおかげであるといえるので、その点は感謝しないといけないだろう。(と、最初に良そうしたとおり、ここまでで大体1時間だ))

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安全とセキュリティの違い
2022/10/23 21:39 | Comments(0) | 思考及び書くこと

まえがき

 ふと思いついたことを書くだけの記事。
 生存報告という意味もあるかもしれない。私は元気です。
 でも、先週後半に、仕事でミスしたかもと気がかりになってしまったことがあって、ずっと気持ち的に引きずっている。大丈夫だろう……と思いつつ、しばらくしないと結果が分からない。
 なんか、思い切って楽しめない自分がいる。悔しい。時間がもったいない。

 頭の切り替え方、みたいな記事を調べても、役に立つものは出てこない。

 仕方がない、自分で書くしかない、しかし書くだけのことを思いつかない。まぁ諦めるしかない。

セキュリティ

 ぜんぜん話は変わるのだけど、セキュリティと聞くと、どんなイメージだろか。ハッカーとかの攻撃などを思い浮かべるだろうか。情報漏洩という言葉も浮かぶかもしれない。

 ただ、セキュリティというのは、3つの概念の総称である。機密性・完全性・可用性。

 情報漏洩というのは、その機密性の部分の話。ただ、セキュリティを守る、といったときは、残りの完全性、可用性も大事だ。

 情報漏洩だけを心配するなら、重厚な耐火金庫に入れて、鍵かけて出さなきゃいい、ということになる。

 必要なときに利用できて、それでいて完全な状態(改ざんされてない状態)であることが大事なのだ。

安全性

 観光……。スカイダイビングとかスキューバダイビングは危険だ。でも、それが趣味で楽しい人もいる。

 旅行も、危険だ。

 車の運転も危険だ。

 じゃあ公共交通機関は大丈夫? いやバスも危険だ。飛行機だって。

 電車は安全? 確かに安全だ。人が死ぬ確率が利用者数に比べてものすごく少ない。でも100%ではない。


 安全だとすれば、家の中でずーっと布団にくるまっているのが安全だ。



 何がいいたいかというか、ふと思ったかと言うと、どこまでいっても、危険(リスク)は0にはならないということ。

 危険をなくすことは大事だが、0にはできない。どこかしらで基準と言うか、諦めというか、妥協というものが必要になる。

 ノンアルコール飲料や、カフェインレスコーヒー。バーチャルセックス。危険を亡くして行った先は、なんかディストピアな気がしてならない。

命のリスクと娯楽

 アニメやゲームって、その点、素晴らしいと思う。安全性が確保されたうえで、脳内の「楽しい」が刺激できるのだから。

 リアルのスリリング……命の駆け引きが必要な娯楽……というのは、人間に絶対必要なのか。たぶん、いらない、という人が多いだろう。
 コロセウムの死闘なんて野蛮だと思うだろう。

 ただ、お酒はどうか、となったときにどうだろう。急アルで死ぬかもしれない。脳細胞が破壊されて、寿命が縮むかもしれない。
 それでも、「娯楽」のために飲むのか。ちょっと嗜む程度ならいいじゃない、というオチでおわるだけの話だけど、極論的に考えると、何でも間でも「ダメ」という社会になる可能性はゼロじゃない気がする。

 

 そしてそもそもリスクは、ゼロにはならない。

あとがき

(かっこ書きである。そんなことを思っただけ。思った時間は1秒。それを書いてみると、そうだな、ここまでで、10分? 15分? ぐらいかかる。書いたことの意味があるのか。分からない。後で読み返した自分が、ちょっと面白いなとか、あーそうそう、そう思ったことあったな、とか思えるぐらいか。しかし、書いて「できあがった記事(とか作品)」という意味だけでなく、書いたことによって生じる自分の脳内変化、というのがより大事な気もする。頭の中に浮かんでも、それをアウトプットしないと、鬱屈して思考ループになることもある。思考ループを防ぐ、ないしは解消するというのが、この書くという効果であると言ってよい。言ってよい、キリッとか、何を根拠に、と言うことになる。根拠がないと何も言えないこんな世の中なのかポイズン。親しい友人という存在は、こういう、根拠がないけどちょっと思ったことをいうときに大事なのである。しかし、リアル世界における物理友人が仮にいなくても、ブログやSNSなどで発信することで解消することもできる、といってよい(きりっ)。物理友人の方が、安心かもしれない。ネットだと、よからぬ輩によからぬことをされるかもしれない。しかし、そのリスクは両方にあるともいえる。リスクはなくならない……と、記事のテーマにちょっと関わらせつつあとがきも終える)









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