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近況のメモ(命は光陰に移されて暫くも止め難し)
2017/05/14 22:56 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「何だか気持ちが曇っているときは、とにかく書いていきましょう」「面白くないことを書いてしまうことの不安や恐怖もまた生ず」

当たり前の生活

 5月も中旬である。
 エアコンが不要になってから久しい。新入生、新入社員も、新しい環境に慣れ始め、五月病が深刻化している時期である。
 気づけば、こんな時期である。

 月日が経つスピードに唯々圧倒される。

 そういえば、昨年の今頃は、「いろいろ」あった。主に、生活面で変化が大きかった。
 一睡もできない日々が続いた、と書けたら分かりやすいけれども、厳密な徹夜は若いころから全然できない。ただ、1~2時間で目が覚めて、みたいな状態はあった。

 離婚、以外に、大事な人との永遠の別れもちょうど重なった。いろいろ、であった。

 けれども、終わってみると、何とあっけないものであろうか。



 ふと、数日間、異なる環境で生活していたけれども、いつもと違う人たちと生活すると、「ふつう」「常識」という言葉が、相当、かなり、自分の人生というものに対し影響していると気づかされる。

 
 例えば、学校に行って、部活動をして、友人をつくって、大学に行って、恋人をつくって、バイトをして、就職して、車を買って、部下を育成し、昇格して、結婚し、マイホームを買って、子どもをつくって、育てて、子どもとキャッチボールをして、両親の介護をして、二人目をつくって、退職をして、両親とお別れをして、孫をみて、……死ぬ。

 その順番とか、内容の深度とかは兎も角、なんとなく、地元で暮らしていた頃はそんなことを、当たり前だと思っていた、気がする。
 そいで、まぁ、そんなルートに外れないようにと、せっせと、「頑張って」いた気がする。

 小学生低学年の頃までは良かった。思考というものは殆ど生じていなかった。それ以降、その時々で、「当たり前」というのに、亀裂や懊悩が生じ、翳りを見せ始めていった。何とか、修正しようと試みた。しかし、それを「努力」と呼ぶことの、なんと哀しいことか。

幼いころの夢

 上のようなことを書いてしまうのは、自分はテレビを殆どみないけれども、テレビを長時間見る機会があったからだと思う。
 特に、若者の将来について、大人が夢を語るような、そんな番組をみた。

 それ自体は面白かったし、高校生や大学生が、真剣に議論する様は、応援したい気持ちになった。

 若者には未来がある。

 俺には、無い。


 いや、俺にも夢はあった……のか?
 漠然と、俺は、悩んでいる人に寄り添って、助けてあげたかった。生きていていいんだ、つらいのは貴方だけじゃないんだ、って、そんな風に励ましてあげるような、見守ってあげられるような、そんな仕事をしたかった。そういった仕事をして、お金をもらって生きていけたらいいなって思った。

 けれども、どこまで真剣に考えたかは置いておいて、そういった「導ける人」ってのは、根本から「明るい人」じゃないとダメなんだなって、そう思わされた。楽天的な人というのか、「人は何故生きるのか?」なんて考えないような人。そういった、カリスマ性がある人。ルックスや、腕力で人を納得させられる人。

 俺はどうやら、そういう人間ではないようだと、気づかされた。
 せいぜい、馴れ合い程度しかできない。「つらいんだね。僕もつらいんだよ」と、共感するぐらいしかできない。しかし、それは本当の意味での「救い」ではない。結局何も変えられない。


 だったら、悩んでいる人への救いは、そうした、カリスマ性のある人に任せる。俺には、向いていないのだ、と。

何故生きるのか、生きているからだ

 同語反復的に、自己言及的に生きよ、というのを、本で読んだ。

 宮台さんは、終わりなき日常を生きろという。

 フランクルさんは、人生に意味を求めるのではない、人生から意味を問われているのだ、と仰っている。

 ある方は、「生きる意味を考えるというのは、自分自身を知ることである」と仰っていた。その方は、自分を見つめる中で、自分のしたいことを漠然とした中で、少しずつ具体化していっている。

 俺は、まだ立ち止まっているのか。

 
 
 余談だが、俺はこう、夜更けに、もしくは黄昏時に、一人思索に耽っているのが好きだ。
 毎週バイトだり、出かける用事があったり、忙しい日々が続き、ふと予定がなくなった日などとても良い。
 窓から差し込む燃ゆる夕陽が、部屋に明暗の縞をつくる様など、思考を止めて侘寂の思いを生じさせる。
 ただ、こうした思いは、日々の生活の「切れ目」にあるからこそ、静かに心を打つのであって、その「日常」が無いときには、黄昏の思いは生じないのではないかと思う。


 閑話休題。

 5月は、あっという間に終わるだろう。

 一年は、あっという間に過ぎるだろう。


 気づけば、いろんなものを手にして、そしてそれ以上に無くしているのだろう。

 お金は大事。だが、それ以上に、時間が大事。

役に立つことを書きたい

 と、まぁ、つらつら書いていくのはいつものことだけれども、まぁ、公開する以上は、なんらか、役に立つことを書きたい。

 役に立つというのは、そう、別に、お金になる儲け話とかじゃなくてもいいし、ライフハック的な何かじゃなくてもいい。
 ただ、誰かに、何らかの影響を与えられるような、そんな可能性が欲しい。

 その影響は、できれば、プラスのものであったら嬉しい。
 いやむしろ、マイナスな影響何て与えたくない。

 よし、何か最近のことメモをしてみるか。

笑うセールスマン

 笑うセールスマンNEWをアマゾンプライムで見た(無料の奴だけ)。オープニングの曲とアニメーションのセンスがいいと思った。NEWというか、NEWじゃない奴はみたことないのだけれど。
 話は、うーん、見たやつがたまたまだったのかもしれないけれども、世にも奇妙な物語とかの方が話の深さ的には面白いと思う。ただ、何か作業中に見るのはいい気がする。

アラビアの夜の種族

 一巻を読了す。
 アニメーションと同じで、途中まではちまちま読んでいて、後半が近づくにつれて一気に読んでしまう。電車から降りても中々やめられず、そのまま立ち尽くしながら読んでいた。それだけ引き込まれていった。
 序盤は、詳細な歴史の教科書を読んでいるようで、少々退屈であった。章立てのタイトルも分かりづらい。きっと意味があるのだろうけれども、一巻を読み終えてもまだ分かっていない。「読者諸氏に置かれては、主人公の人となりについて、まずはこのような描写に止めておくことで満足されたい」とか、そんな視点(書き方)も気持ちを倦厭させた。時折入る訳注は、確かに、アラビア(イスラム圏)についての知識が足りない自分にとってはありがたかったものの、何だか物語の趣向を削がれてしまう。

 おそらく、某氏の勧めがなければ、書店で手に取ったとしても購入することはなかったであろう。しかし、一巻を読み終えた今だから分かる。これは面白い。ということで、二巻、三巻の購入も決定した。

 しっかし。一巻に登場する稀代の魔術師である主人公は、なんとも醜悪な男である。
 途中までは、ルックスから疎まれ、蔑まされた王子が知略をもってし成り上がる話だと思っていたが、――いやその予測はある意味当たってはいたのだが――とんでもなかった。

 だがこの物語はまだ始まったに過ぎない。二巻、三巻とどのように展開していくか楽しみである。

創作進捗グラフ作成ツール

 どうやら、さっそく使ってくださっている方がいるようなので、バージョンアップをしてみた。
 ブログ公開用のグラフ画像をワンクリックで出力できる機能を追加。
 現状、一か月おきの集計なので、半年ぐらいしたら、年次のグラフを出力できる機能を追加して、ひとまず完成ということにしようかと検討している。

 そして、某WEBサイトでも、大きな改修を近々に行うことを宣言したため、これもスケジュールを組んで対応していきたいと思う。

黒い砂漠

 相変わらずストーリーや戦闘(狩り)によるレベルアップを進める時間がなく、単に放置でできる料理とか、野菜果物栽培、まき割りと、生活をしている。
 まとまった時間があれば、いろいろ進めてみたいと思いつつ、平日とか、優先度はどうしても低くなる。

役に立たないこと

 うーむ。最近、何だか、某氏に教えてもらって気に入って使っているブラウザ「スレイプニール」がもっさりしている。
 文字がかなり綺麗に見えるし、クロームで書いていて頻発したクラッシュ問題も一度も起こったことがなくて気に入っていたのだが……。試しに、クロームを起動したら、やっぱりサクサク動く。となると、やはりブラウザに原因がありそうだ。他にも、クリックごとに新しいタブが開いたり、使いづらい点が多かったりするが、だが、文字の表示のきれいさは、段違いである。やはりスレイプニールを使いたい。遅い原因を探ろう。

 そして、次回は、「コンプレックス」について書こう。もう時間がなくなってしまった。

 役に立つ情報とは、「客観的」なものだ。つまり、事実であれば再現性があって、思考ならば論理性が求められるものである。
 それ以外のものは、一人称に過ぎず、つまり、「あー、君がそう思うんなら、そうなんじゃないの」程度のものである。

 仕事って、そういうものである。感情は、唾棄される。

 コミュニケーションとかいうけれど、それは、再現性と論理性を円滑にまわしていくための「技法」に過ぎない。本当の、人間的な、カオスの、アナログな、複雑な感情というのは、もともとノーサンキューなのである。

 という観点でいけば、僕のブログの役に立つ度は、0.001%に満たないだろう。

 唯一、かどうか分からないが、真理に近いのは、「唯一絶対普遍の真理など存在しない」というものであるが、じゃあこれが「論理的」かというと、そうではないし、むしろ、真理に対する否定である命題のため、甚だ役に立つか不明である。

 だがここで、僕は一つ言いたくなることがある。「役に立つ情報」=「客観的」(=再現性があり、論理的であるもの)という等式が、果たして役に立つのか。

 もちろん、「役に立つ情報」∋「客観的」(※1)というのは正しいだろう。その逆は疑問だ。客観的であれば、必ず役に立つかは疑問だからだ。
 必要条件というのと、十分条件という言葉が、何回覚えても忘れてしまう(※2)が、「役に立つ情報」と「客観的」というのは、

 (1)役に立つ情報 ⇒ 客観的
 (2)客観的 ⇒ 役に立つ情報

 結局どちらも成り立たないから、必要条件でも、十分条件でもないってことか。
 つまり、反例が一つでもあればよいので、(1)は、役に立つ情報が、必ずしも客観的ではないこともあるから、偽。
 (2)は、同じく、客観的であるからといって、必ずしも役に立つとは限らないから、偽。



 じゃあ、役に立つ情報って、なんだよ!

 となったとき、それは、「人の心を動かすもの」(感動させるもの)ではなかろうか。
 些末な情報だとしても、「へー、そうなんだ」と少しでも思わせたなら、それは感動したということであり、何らかの影響をその人に与えられたということだ。「よくわらかない」「つまらなかった」というのは、確かに「なんの役にも立たなかった」と言いたくなってしまうが、しかしそれでも、感動ではある。
 ということは、「あれはつまらなかった」ということが分かったということで、それは一種、「役に立つ情報」と言えるのではなかろうか。

 ということは、以下の図式が成り立つ。

 役に立つ情報 ⇒ 感動する

 逆に、

 感動する ⇒ 役に立つ情報

 とも言えるのではなかろうか。ということは、感動させる情報というのは、役に立つ情報の「必要十分条件」なのではなかろうか。



※1 A∋B としたとき、BはAに属する、つまり、包含されること(BはAの要素であること)を示す。

※2 p⇒(ならば)q が真のとき、「pは、qの十分条件」「qはpの必要条件」となる。
 例)遠藤⇒人間 は真
   人間⇒遠藤 は偽
   この場合、「遠藤⇒人間」が真なので、遠藤は人間であるための十分条件。
   人間は、遠藤であるための必要条件。(=遠藤であれば、必ず人間である)



(だから何だ? という突っ込みが生じたところで、今日は終わり)

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