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ウイスキーと新しいスポーツと
2016/07/14 00:00 | Comments(0) | イライラ対処
新しく始めたスポーツをしてみた。楽しかった、それようの施設の使い方、ロッカーとか、分からないことも多かったけれとも、仲間と一緒にわいわい楽しんだ。

そのあと、別のグループから、大事なはなしがあると、呼ばれた。最初のグループで、の見に行こうと誘われたが、大事なはなし、とは、それは、先日書いた、頼る頼られる、の話しに通じるのでは、と思って、そちらに向かった。

話としては、仕事の悩みであった。そのさいに、元気付けようと、死からの逆算のはなしをした。それは、意思というよりも、自然にはなしてしまった。

とても説得力があるといわれたが、いや、そもそも、自分の問題は自分でしか解決できず、それは、僕のはなしをきいて、そのなかで、違うと思うような部分、それが、自分なのだと、話をした。


伝わったかどうかわからないし、忘れてもらってもいいと思う。

でも、なんらか、すこしでも、考えることについて、指針やネタにしてもらったのなら、嬉しいと思う。

ポイントは、他者との比較の無意味性だが……


僕が普段、こんなこと話さないから、驚いていた、でも、明るく振る舞う相手にたいして、それは、元気になったということではないのだと、その分析が、深いなと、よくみてくれていると、そういってもらえたのは、はずかしながらも話してよかったといえる。


ブログの意味


思った以上に自然に口に言葉がでたのは、ふと、このブログのおかげと思った。

まぁ、確かに、考える生き方の作者や、思考の部屋の作者など、先人たちすごい人たちは多いし、それにうちひしがれている。

が、まぁ、一般的には、狭いコミュニティにおいては、それなりに思考というものが何かを知っているし、実践している、その自信がある。

まぁ、大したことないんだけど、ただ、本気で落ち込んだ人の気持ちは、それが実際に僕の体験などから全然別だったとしても、わかる、のである、とかいうと上から目線なんだけども……

他者を褒めること


今回、二つのグループでのコミュニケーションにおいて、ひとつ実践できたのは、相手を褒めることだ。

自然に、思ったことの表現ができたと思う。

これは、磨けば磨いただけ、光ることであるので、実践どんどんしていきたい。


ところで、僕の発言と、このブログへの記載について、今回はとくに、ブログへの記載内容と同じことをいってたわけだけど、きっと、グループの方々が、このブログを読めば、不快になるのではないか。

なんとなく、そうだと思う、それもあって、あまり具体的なことをかけないけれど、まぁ、具体的な、例えば飲んだお酒の銘柄とか行ったスポーツについてとか書いても、脇道でしかない。

本当にメモすべきことは、メモできたのか。


いや、もうひとつ、ある人が、やはり、複雑な悩みを抱えていることがわかったことだ。

僕にしてみれば、贅沢な悩みなきもしたが、ただ、その重さは、それこそ比較のしようがない。

僕が強調したのは、その比較性の無意味さであるが、果たして伝わったかどうかは分からない。

うーん、まぁ、あまり、僕の話は面白いはなしじゃぁないんだろうし、やはり、もっと自重した方がいいのかもしれない、が、……もうそれもいいや、という気持ちになった。

確かに僕の話は僕の弱味でもあって、利用しようとすればできて、いまの地位を、といっても大したことないが、引きずり下ろすことも容易になるだろう。でも、相手がそれをするかは分からないし、それにされても、それもまた人生だろうし、というよりも、そのていどの人格否定ぐらいは経験すみなのであまり怖くもない。

とかくと、言い過ぎなんだろうけど、ともかく、このブログのようなはなしをできて、不快感はなかった。別の部分でいらっとしたが、大した問題ではない、むしろ、無心になる試みが成功したとも思える。



若いうちの苦労はなんやら


若いうちはいろんな経験して苦労したほうがいい、とかしたりがおで言う奴らがいる。

耳を傾ける必要ない。

所詮それは、深い絶望レベルのものではない。

本当の苦悩など、

味わう必要はない。でないと、僕のように、

いきる意味なんて、答えがなくて無だな、もうしゅうにとらわれてしまうことがある。


人生なんて楽しんだものがちだ!



小学校で自死を考え、中学校で人は楽しむために生きるのだと、哲学的解をだし、結局その楽しむとは何かをわからずいまも悩んでいる。それでいいのかもしれない。


これが僕がこの世に生を受けた意味なのか。


苦しみ悩み、それを表現し、それが他者にすこしでも影響を与えることが、僕に与えられた使命なのか。



使命?
くそくらえ。

そんな、超越的なもののために、僕がいま生きているのだとしたら、あてつけに死んでやりたいくらいだ。

そうじゃない。
自分の問題は、自分でしか解決できないのだ。

その答えを、超越的なものに求めるのであれば、僕のこれまでの思考はすべて無駄であったことに過ぎなくなる。

それは、身体的な死ではないが、精神的な死となるのである。






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