今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
頑張ることへの批判
疲れた。MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
突発性の鬱と慢性的な鬱状態について
鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
やる気が無い奴は帰れ!
部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
本気で休むことの勧め
疲れた。もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
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今日の一言「何だか二日間ぐらい調子が良くないな」「失言か、頑張ろうという思いが原因なのでは?」
体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。
ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。
何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?
これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。
分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。
でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。
精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。
書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。
目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。
何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。
それが、抜け落ちていく。
以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。
あーその、なんだ、ダメだ。書けない。
余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。
電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。
そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
うーむ。高いな。減らそう。
物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
気乗り、しないな。
何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。
趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。
投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。
よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。
この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。
ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。
気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。
けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)
※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。
ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。
2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。
そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?
おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。
(魔女の宅急便風に)
何とも憂鬱である
不愉快な感覚が、どうにも続いている。体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。
ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。
何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?
これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。
分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。
書くことが分からなくなる
読む、ことの方が楽だなぁ。書くの、疲れる、アウトプットするの、疲れる。疲れるとか嫌だとか面倒だとか、そういうマイナス言語使うと、脳のパフォーマンスを下げるからよくない。でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。
精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。
書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。
目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。
何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。
それが、抜け落ちていく。
以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。
あーその、なんだ、ダメだ。書けない。
お金の話
家計の見直しをしてみると、スマホ代が高いことに気づく。データ容量的に、それほど使っていない。1か月1.5GBぐらいである。の、わりに、定額プランに入っている。よし、1GB制限に変えてみよう。それで1000円ぐらいは安くなる想定。現在7000円~8000円である。余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。
電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。
そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
うーむ。高いな。減らそう。
物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
気乗り、しないな。
何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。
趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。
投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。
気乗り
あー、なるほど、これ、多分、あれだ、その、鬱モードだ。よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。
この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。
ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。
気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。
こんな生活感まんさいの記事意味あるの?
まぁ、他者にとって、意味はないだろう。別にお前がどうなろうがしったこっちゃない、と。けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)
※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。
小見出しが超えてるよ!
これが6つ目か。ただ、この記事は複数日の「つぶやき」のまとめなので、まぁ許してもらいましょう(自分ルールに対して)。ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。
2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。
そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?
おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。
(魔女の宅急便風に)
今日の一言「哲学のテクニカルタームが役に立つの?」「実践と実感が抜け落ちた言葉の定義に意味はないよね」
フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
存在と時間
ハイデッガーさんの「存在と時間」のさわりを読む。フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
愚痴だらけのブログは面白くない
過去を悔恨し、ひたすらに、嫌だ、つまらない、苦しい、痛い、絶望した、面白くない、会社辞めたい、友達欲しい、恋人欲しい、上司むかつく、あの女うぜえ、などなど、そんな愚痴ブログは面白くない。確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
本当の問題と煩悶について
生きる方策は、以下に整理される。1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
人間とは何か
今読み進めている、フランクルさんの本も、上の、「2.」か「3.」な感じである。まだどっちだかよく分かっていない。ただ、この「人間とは何か」では、少しその切り口が違っていて、期待している。それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
小見出しの5つ目
おー、おー、そして最後の小見出しか。難しいなぁこの書き方。何だか、制約があると、本当に書きたいことが書けないのではなかろうか? いや大丈夫、そんな、完全に暴走するときは、制約など無視して書きなぐることだろう。こういった意識が働いているうちは、それでいいのだ。あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
今日の一言「まぁいろんな人がいますわな」
おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。
恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。
ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。
ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。
もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。
(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)
このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。
人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。
だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。
というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。
うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。
驚きの短絡思考
何でもかんでも、すべての犯罪は、死刑でよい。現行法制度は手ぬるい。万引きや違法駐車など、軽犯罪であっても全部死刑にすべきだ、ということを本気で思ってます、というブログを拝見した。おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。
恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。
ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。
社会悪
一度、「サイコパス」という作品を見てみるといい。いや、多分みても理解できないのだろう。ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。
もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。
(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)
愚かな人への説得
上の小見出し、そもそも、「愚かな人」という定義もまた、難しいのであって、そもそも、社会って共同幻想で成り立ってるんだよ、ということを信じているというか、理解している人は、どれほどいるのだろうか?このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。
人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。
だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。
選挙の重要さ
だから、選挙って本当は重要なわけだ。上のような頭のおかしい(というわけではないと思う。単に教養が足りていないだけ)の人が政治家にならないように、民衆はちゃんと監視して責任をもたなければいけないのだ。というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。
本ブログの主旨と合致する記事か?
さて、驚きのあまり書き連ねたものの、この記事は、このままだと正直消してもいいかな。自分自身の生きる意味、について、あまりにも関係ない気がする。うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。
今日の一言「必要な時に必要な言葉が欲しいんだけど」「二次元でも行ってろ」
いやほんと、そもそも、俺は、どうやって今まで生きてきた、いや、今俺は生きているのか?
とか訳の分からないことが頭に浮かんだ時点で、もう簡単に眠るのは無理だろう。
風呂に入ってもこの状態ということは、もはや取るべき手段は、書くことしか残されていない。
本当は、読んで、うんうん、そうだよねーあはは、分かる分かる~さーて寝るか、になればいいのだが、そう簡単にはいかない。
そうだな、遠藤浩紀さんの、「ソフトメタルヴァンパイア」、一巻全部先日読んだ。中々面白いねー、化学の知識がある人はもっと楽しめるのかな、そうでなくても、元素をもとにしてバトルするってアイディアもいいし(僕も高校生ぐらいのとき考えて何か作品にしたかった、けどダメだった)、独特の遠藤先生タッチ(シリアスだったりグロテスクだったりするのに何故かコミカルな部分があるところ)がやっぱり絶妙で面白いね~。
ただ、どうだろ、まだ、1巻だけだと、書庫に保存すべきかどうか悩みどころ。もう少し様子見だな。
うーん、何だかスタートダッシュがイマイチなのは、恐らく、毎年恒例の今年一年の目標を立てなかったことな気がする。
なんというか、「○○しない」という目標は、結構達成できるのだ。
禁欲的なことはどちらかというと得意なのだ。お金を使わないとか、自慰をしないとか、ゲームをしないとか、期間を決めて、それを達成することはできるのだ。
しかしなのだ、それじゃあ目標にならないのだ。
ルーチンをこなすことも、どちらかというと得意なのだ。筋トレストレッチ、音読は、ブログ横のカウンタみれば、もう少しで90日、三か月達成なのだ。素晴らしい、パチパチ。
しかし、なんだ、思いつかない。
先日ノートに書いたやりたいことリストは、実際取り掛かれば、99%ぐらい達成できそうな目標ばかりである。
ブログの説明文のように離婚ブログだとしたら、
「婚活して、相思相愛になる女の子を見つけて、幸せな結婚生活を送る!」
とかでも目標立てたらいいのだろうか。しかしこれは、目的程度にはなるかもしれないが、残念ながら目標としては欠陥だらけだ。その理由はいつも書いているとおり、「全然具体的じゃない」からだ。
俺は断食生活をしている、最近は飲尿を始めた
とかいうブログさんとか見つけて、「!? マジすか?」と思ったりもした、面白そうだった、しかし、それはもう数年も前の記事だった。今どうなっているのか分からない、そう、ブログのよさは、その人自身の存在が感じられることにある。生きている人、実在する人を感じられて、しかもそれでいて、現実ではとても言えないような、もしくは、普段僕たちが生活している環境では出会えないような人たちの話が、都合の良いタイミングで聞ける、というのが、ブログの良いところではなかろうか。
そんな、僕に何か、影響を与えてくれるような作品を生み出し続けている人に、中々出会えない(いや、最近段々増えてきてはいるけれども、まだだ、まだ足りない)。
どうにも、僕は、自己完結する傾向がかなり強いので、油断すると、世界でとーくべつなーオンリーワン♪ 的な感覚に陥る場合がある。本当はそうじゃないんだ、もっと僕に共感してくれる人も多いだろうし、僕自身も、「マジすげーッス!」と思える人も、もっと大勢いるはずなのだ。
そういう意味では、もう何人かには、ターゲティングしている。ふふふ、狙っているぜ(きもちわりーよ!)。
まぁ冗談はさておき、今年は取りあえず、結論めいたものを出すのはあきらめて、もう一度、環境に流されてみてもよいかもしれない。いや、ちょっと表現が違う、そうじゃなくて、「自分の考え」を確立するのではなく、他者の考えや生き方というのを、可能な限り吸収するということを、2017年全体目標としてみたらどうか、ということだ。
これは別に、ネットに限った話である必要はないし、現実に限った話じゃなくてもいい。映画や小説など、エンターテイメントでもよいだろう。
つまるところ、ネタ探しというか、材料探し、基礎固めの一年にしてはどうか、ということだ。
仏教の八正道ではないが、(あ、昨年覚えたはずなのに、今もう忘れ始めている。ええと、正見、正語、正業、正命、正精進、正念、正定……あ、7つだ、やっぱり忘れてしまってる……哀しい)、正しい行動言動を行うためにも、その環境に応じた自分の言動行動に対しての価値判断を抽象化するため、経験の積み重ねと体系化が必要だ。
だから、そうだな、もう面白いか面白くないか、自分の記事に対して考えるのはよそう……というのは一つの方策足りえるが、ただし、そのとき、書いているときにどう思って書いていたか、というのも、重要な要素だったりするので、「面白くねぇなぁぁぁ」と思いながら書いていること自体は、あってもいいんじゃないかなと思う。我ながら気持ち悪いこと書いてるなぁという感情もまた、然り。というか、「キモチワルイ」って何だろな? サイコパス二期で、シモツキ監察官がトウガネ執行官のこと調べてて、トウガネさんがある方の犯罪係数を常日頃から観察記録していることを知ったとき、「うわ気持ち悪!」と叫んでいたけれども、そのキモチワルイとは何なのだろうか?
ストーカーというのは、気持ち悪いし、犯罪である。ただ、「愛」と、何が違うのだろうか。それは、相手が欲しているかどうかだ。嫌がってるのに、帰りで待っていたり、花束を送ったりするのが、ストーカーなのだ。相手を思う気持ちは、実はそれほど違いはないのだ(ただ、ストーカーとは、相手、よりも、自分の愛欲(そもそも、愛ってなんだろうね、この場合、性欲に近いんだろうか)を優先している傾向が強いだろう。本当にその相手を思うなら、相手が嫌がっているなら自分を押し殺してでも、もうアプローチしないだろうから)。
だから(シモツキさんがキモッ! と言ったのは)、実は、シモツキさんは、嫌っていて劣等感を感じているツネモリ先輩のことを、「思いやっていた」と言えるのである。どういうことか? トウガネさんが、ツネモリさんのことをストーキングしていようが、シモツキさんには直接的に関係はない、しかしながら「キモ」と思ったのは、自分がもしそんなことされたらイヤだな、と思ったからである。そう思うことができるのは、人間のミラーニューロンという働き、即ち他者への共感心に基づくのである。
いやもちろん、虫とか、グロテスクなものとか、キモメンとか、生理的に「キモチワルイ」というものもある。ただ、何でもかんでも生理的に……と片付けるのは容易いが、その感情は何故生じるのか? 脳機能の基本は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、である。後者2つの、知りたい、仲間になりたい、という働きが活性化していれば、むしろ、グロテスクな虫とか、好奇心的に「知りたい!」と思わなかろうか(思う人がいるから、昆虫研究家さんたちがいらっしゃる)。
にも関わらず、「キモチワルイ!(関わりたくない!)」と思うのは、その脳機能の、「生きたい」という本能に反する事象が発生しているから、というわけだ。
つまり、キモい人というのは、自己の生存を脅かすような危険な存在、ということなのである!!
って、あーもう、何言ってんだろうな。上のことは、何だか断定的に書いているけど、完全に5分ぐらいのノンストップ思い付きである。はぁ、疲れた、だが、何だか眠れそうだ。よかった、そういう意味でこの記事も意味があった、おやすみなさい。
(そうさな、今週の目標……は、今月の目標を立てる、ということにしよう。期限は、14日(土)23:59まで)
眠れない夜
ただ、苛々する感情を書きなぐるだけの記事はもうやめようと、思っていたけれども、筋トレして、ストレッチして、音読し、お風呂入って、サプリを飲んで、さーて寝ようか、と思ったけれども、眠れなかった。いやほんと、そもそも、俺は、どうやって今まで生きてきた、いや、今俺は生きているのか?
とか訳の分からないことが頭に浮かんだ時点で、もう簡単に眠るのは無理だろう。
風呂に入ってもこの状態ということは、もはや取るべき手段は、書くことしか残されていない。
面白いことをしたい
御贔屓にしているブログさんがいくつかある。しかし、変な時間に更新なんてしてくれない。しかも、短かったり、逆に何か言いたくなったりもしてしまったりする。本当は、読んで、うんうん、そうだよねーあはは、分かる分かる~さーて寝るか、になればいいのだが、そう簡単にはいかない。
そうだな、遠藤浩紀さんの、「ソフトメタルヴァンパイア」、一巻全部先日読んだ。中々面白いねー、化学の知識がある人はもっと楽しめるのかな、そうでなくても、元素をもとにしてバトルするってアイディアもいいし(僕も高校生ぐらいのとき考えて何か作品にしたかった、けどダメだった)、独特の遠藤先生タッチ(シリアスだったりグロテスクだったりするのに何故かコミカルな部分があるところ)がやっぱり絶妙で面白いね~。
ただ、どうだろ、まだ、1巻だけだと、書庫に保存すべきかどうか悩みどころ。もう少し様子見だな。
うーん、何だかスタートダッシュがイマイチなのは、恐らく、毎年恒例の今年一年の目標を立てなかったことな気がする。
今から目標立てようか
絶妙に、微妙な時間なので、今日はもうやめよう。ただ、何も、目標を立てることをさぼろうと思ったわけじゃあない。2017年、いろいろ考えたのだ。ノートにやろうと思ったことを書いたりしたのだ。ただ、それらを眺めていても、何だか、それをスケジュールにプロットする気になれなかったのだ。何故だ、俺はいったい、何をしたいんだ。なんというか、「○○しない」という目標は、結構達成できるのだ。
禁欲的なことはどちらかというと得意なのだ。お金を使わないとか、自慰をしないとか、ゲームをしないとか、期間を決めて、それを達成することはできるのだ。
しかしなのだ、それじゃあ目標にならないのだ。
ルーチンをこなすことも、どちらかというと得意なのだ。筋トレストレッチ、音読は、ブログ横のカウンタみれば、もう少しで90日、三か月達成なのだ。素晴らしい、パチパチ。
何かを達成するという目標が必要
人間、達成できるか分からない、50%~70%ぐらいの目標がモチベーションによいという。しかし、なんだ、思いつかない。
先日ノートに書いたやりたいことリストは、実際取り掛かれば、99%ぐらい達成できそうな目標ばかりである。
ブログの説明文のように離婚ブログだとしたら、
「婚活して、相思相愛になる女の子を見つけて、幸せな結婚生活を送る!」
とかでも目標立てたらいいのだろうか。しかしこれは、目的程度にはなるかもしれないが、残念ながら目標としては欠陥だらけだ。その理由はいつも書いているとおり、「全然具体的じゃない」からだ。
他者のブログ記事の物足りなさ
人のことは言えないし、言ってる暇もないのだけれども、中々面白い作品に出合えない、というのは、「せっかくブログという個人の主義主張を発信するということが可能なメディアなのに、一般論的なことしか言えてないもの、詩的な抽象的なことしか書けていない記事が、何とも多い」ように思われるからである。俺は断食生活をしている、最近は飲尿を始めた
とかいうブログさんとか見つけて、「!? マジすか?」と思ったりもした、面白そうだった、しかし、それはもう数年も前の記事だった。今どうなっているのか分からない、そう、ブログのよさは、その人自身の存在が感じられることにある。生きている人、実在する人を感じられて、しかもそれでいて、現実ではとても言えないような、もしくは、普段僕たちが生活している環境では出会えないような人たちの話が、都合の良いタイミングで聞ける、というのが、ブログの良いところではなかろうか。
そんな、僕に何か、影響を与えてくれるような作品を生み出し続けている人に、中々出会えない(いや、最近段々増えてきてはいるけれども、まだだ、まだ足りない)。
憧れの人を見つけるとかどう?
あー、いいかもしれない、今年の目標。どうにも、僕は、自己完結する傾向がかなり強いので、油断すると、世界でとーくべつなーオンリーワン♪ 的な感覚に陥る場合がある。本当はそうじゃないんだ、もっと僕に共感してくれる人も多いだろうし、僕自身も、「マジすげーッス!」と思える人も、もっと大勢いるはずなのだ。
そういう意味では、もう何人かには、ターゲティングしている。ふふふ、狙っているぜ(きもちわりーよ!)。
まぁ冗談はさておき、今年は取りあえず、結論めいたものを出すのはあきらめて、もう一度、環境に流されてみてもよいかもしれない。いや、ちょっと表現が違う、そうじゃなくて、「自分の考え」を確立するのではなく、他者の考えや生き方というのを、可能な限り吸収するということを、2017年全体目標としてみたらどうか、ということだ。
これは別に、ネットに限った話である必要はないし、現実に限った話じゃなくてもいい。映画や小説など、エンターテイメントでもよいだろう。
つまるところ、ネタ探しというか、材料探し、基礎固めの一年にしてはどうか、ということだ。
仏教の八正道ではないが、(あ、昨年覚えたはずなのに、今もう忘れ始めている。ええと、正見、正語、正業、正命、正精進、正念、正定……あ、7つだ、やっぱり忘れてしまってる……哀しい)、正しい行動言動を行うためにも、その環境に応じた自分の言動行動に対しての価値判断を抽象化するため、経験の積み重ねと体系化が必要だ。
面白くない記事だな
何だか、良いアイディアに思ったところだけれども、果たして、数日後どう思うことやら。良い文章を書く秘訣は、寝かせる時間が必要だということだ。インプットとアウトプットをしながら、よいなと思ったことは積極的にメモしつつ、それを後でちゃんと見返しながら、繰り返し表現し続けることで、洗練されていく。だから、そうだな、もう面白いか面白くないか、自分の記事に対して考えるのはよそう……というのは一つの方策足りえるが、ただし、そのとき、書いているときにどう思って書いていたか、というのも、重要な要素だったりするので、「面白くねぇなぁぁぁ」と思いながら書いていること自体は、あってもいいんじゃないかなと思う。我ながら気持ち悪いこと書いてるなぁという感情もまた、然り。というか、「キモチワルイ」って何だろな? サイコパス二期で、シモツキ監察官がトウガネ執行官のこと調べてて、トウガネさんがある方の犯罪係数を常日頃から観察記録していることを知ったとき、「うわ気持ち悪!」と叫んでいたけれども、そのキモチワルイとは何なのだろうか?
ストーカーというのは、気持ち悪いし、犯罪である。ただ、「愛」と、何が違うのだろうか。それは、相手が欲しているかどうかだ。嫌がってるのに、帰りで待っていたり、花束を送ったりするのが、ストーカーなのだ。相手を思う気持ちは、実はそれほど違いはないのだ(ただ、ストーカーとは、相手、よりも、自分の愛欲(そもそも、愛ってなんだろうね、この場合、性欲に近いんだろうか)を優先している傾向が強いだろう。本当にその相手を思うなら、相手が嫌がっているなら自分を押し殺してでも、もうアプローチしないだろうから)。
だから(シモツキさんがキモッ! と言ったのは)、実は、シモツキさんは、嫌っていて劣等感を感じているツネモリ先輩のことを、「思いやっていた」と言えるのである。どういうことか? トウガネさんが、ツネモリさんのことをストーキングしていようが、シモツキさんには直接的に関係はない、しかしながら「キモ」と思ったのは、自分がもしそんなことされたらイヤだな、と思ったからである。そう思うことができるのは、人間のミラーニューロンという働き、即ち他者への共感心に基づくのである。
いやもちろん、虫とか、グロテスクなものとか、キモメンとか、生理的に「キモチワルイ」というものもある。ただ、何でもかんでも生理的に……と片付けるのは容易いが、その感情は何故生じるのか? 脳機能の基本は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、である。後者2つの、知りたい、仲間になりたい、という働きが活性化していれば、むしろ、グロテスクな虫とか、好奇心的に「知りたい!」と思わなかろうか(思う人がいるから、昆虫研究家さんたちがいらっしゃる)。
にも関わらず、「キモチワルイ!(関わりたくない!)」と思うのは、その脳機能の、「生きたい」という本能に反する事象が発生しているから、というわけだ。
つまり、キモい人というのは、自己の生存を脅かすような危険な存在、ということなのである!!
って、あーもう、何言ってんだろうな。上のことは、何だか断定的に書いているけど、完全に5分ぐらいのノンストップ思い付きである。はぁ、疲れた、だが、何だか眠れそうだ。よかった、そういう意味でこの記事も意味があった、おやすみなさい。
(そうさな、今週の目標……は、今月の目標を立てる、ということにしよう。期限は、14日(土)23:59まで)