今日の一言「分かりやすい表現を心がけましょう」「回りくどい表現は思考の迷い」
疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。

信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)
お金と時間と仕事と節約
いやぁ、今週も疲れたね。忙しかった。疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
資産運用と株
株の取り引きをやってみようかという気持ちが、今のところは強まっている。確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
時間の効率化
時間の効率化のための秘訣は、今費やしている時間のことを考えるよりも、まずは、「何に時間を費やすべきか」を考えることにある。整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。
価値観とは?
価値観とは何か、先日図をかいてみたので復習してみよう。信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
創作は力なり
それで、多分、僕は、きっと……と、歯切れが悪いが、何か創ることが好きなんだと思う。先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
アイデンティティとエポケー
まず一つ。俺は、俺のことを、100%理解できているのか?二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
近況メモ
ここからは消化試合みたいな感じ。◇ルーチンについて。
ルーチンは、何回か中断してしまっている。しかし、これは、自分自身を褒めてあげたいというか、今までの失敗をよく反映できていると感心したことだが、「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
◇けもフレについて。
けものフレンズ観て、ちょっとこれ、面白かった。ニコニコ動画では1話しかみれないけれど。ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)
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今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
頑張ることへの批判
疲れた。MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
突発性の鬱と慢性的な鬱状態について
鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
やる気が無い奴は帰れ!
部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
本気で休むことの勧め
疲れた。もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
今日の一言「何だか二日間ぐらい調子が良くないな」「失言か、頑張ろうという思いが原因なのでは?」
体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。
ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。
何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?
これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。
分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。
でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。
精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。
書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。
目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。
何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。
それが、抜け落ちていく。
以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。
あーその、なんだ、ダメだ。書けない。
余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。
電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。
そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
うーむ。高いな。減らそう。
物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
気乗り、しないな。
何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。
趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。
投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。
よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。
この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。
ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。
気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。
けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)
※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。
ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。
2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。
そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?
おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。
(魔女の宅急便風に)
何とも憂鬱である
不愉快な感覚が、どうにも続いている。体調が悪いわけでもない。何か、特段、イベント(事象)が発生したわけでもない。
ただ、得体のしれない苛立ちが身体の周りを浮遊しているようだ。
何故だ? 何があった? 俺は誰だ? 俺は何を求める?
これは、この感覚は、「生きる意味は何ぞや」とか、随分ユートピア的なことをのたまっているときには、発生していない状況である。これは、今までにあった感覚・感情なのか、それとも、上手く表現できなかっただけなのか。
分からない、ただ、あまり、良い状態ではなさそうである。この状況のときに、どう対応すればよいか、よく分からない。風呂か? ごはんか? ううむ、生理的な原因ではないのかもしれない。
書くことが分からなくなる
読む、ことの方が楽だなぁ。書くの、疲れる、アウトプットするの、疲れる。疲れるとか嫌だとか面倒だとか、そういうマイナス言語使うと、脳のパフォーマンスを下げるからよくない。でも、疲れるもんは疲れるんだ。休む時は休むんだ。そのバランスである。バランス……随分テキトーなものいいである。
精神医学において、精神療法と薬物療法とがある。どちらが重要かとか、そういう問題じゃない。鬱がひどくなって今にも自殺しそうな人に、薬の処方が必要な時もある。しかし、今まさに生きる意味を失って自殺しようとしている人へ、生きる意味を見つけるための療養が必要なときもある。
書きたいことは、結構、あったはずなのに、どんどん抜け落ちていく。そして、今、ここで、アウトプットしようとしたとき、何も浮かばない。この哀しさ……、自分というモノが、抜け落ちていくような感覚。
目のメタファー。正常な目の機能は、目、それ自体を見ない。異常になると、目、それ自体が見えるようになる、それは、まともな視野を保てないだろう。
自己、も同様であるという。正常な自己は、自己自身を見ない。自己距離化、自己超越化されている。
何か結節点、書くことの、そのきっかけ、契機。
それが、抜け落ちていく。
以外に早く帰ってきたと思ったら、既に23時を過ぎている。3時間ぐらいは、身体の重さで何もできなかった。寒かったのだ。部屋が、寒かった。
あーその、なんだ、ダメだ。書けない。
お金の話
家計の見直しをしてみると、スマホ代が高いことに気づく。データ容量的に、それほど使っていない。1か月1.5GBぐらいである。の、わりに、定額プランに入っている。よし、1GB制限に変えてみよう。それで1000円ぐらいは安くなる想定。現在7000円~8000円である。余計な通信をしない、とすれば、ダラダラとネットをみるようなこともなくなると思う。時間と、お金の節約だ。
電気代は、好き放題に使って4000円~5000円ぐらい。水道代は2か月で3000円ぐらい。ガス代が3000円~4000円ぐらい。ネットが、5000円ぐらい。
そうすると、インフラで2万3000円ぐらいになっていることになる。
うーむ。高いな。減らそう。
物も、もっと減らそう。書類は大分減ってきた。今年は整理の年だ。物も、お金も、思考も、全般的に、クリアにしていく。
そういや、大学の同窓会みたいな通知がきた。出会い(職業・異性)とか求めるなら、行った方がいーんだろうな。
気乗り、しないな。
何だか最近、先輩からの飲み会の誘いとかも断っている気がする。付き合い悪いとか思われてきたかな、さすがに。まぁ仕事が嘘じゃなくて忙しいってのもあるのだけれど、実際外の部署にいると分からないからな。
趣味のサークル的な奴(異性的なのは無い)も、先日は行ってきたけれども、何だか、気乗りがしていなかった。何故だ、まぁ、行ったらそれはそれで楽しかったけれど。
投資のセミナーにも参加してきた。一つ二つ、やってみようかな、というのがあった。けれども、気乗りがしない。
気乗り
あー、なるほど、これ、多分、あれだ、その、鬱モードだ。よくあるやつだ。躁鬱を繰り返すのである。それほど最近「躁」な気はしていなかったけれども、そうだったのだろう。
この状態になると、これまで続けられている、ルーチン作業、筋トレ、ストレッチ、音読なども、何だかめんどーになってくるのである。そして、一日、二日とやめてしまい、そのまま、ずーっと頽落堕落に陥っていくのである。
ここはまた、しばらく、ルーチンを維持することに意識を集中しよう。新しいこと、ヤメ。人と関わること、ヤメ。
無理しない。ここは、体力、精神を温存する。
いつも、この状態で、逆に「焦って」しまい、ますます鬱状態がひどくなっていくのである。そろそろ、自分の心身について、理解と実践をちゃんとさせたいものだ。
気乗りしない、というか、何だか、苛々めいた感覚なので、ちょっといつもと違うのかもしれないが。
む……鼻水が、これは、風邪気味なのかもしれない。やっぱり、睡眠不足は良くないのだろう。寝るか、しかし、昼寝して、変な時間に目が覚めてしまった。
こんな生活感まんさいの記事意味あるの?
まぁ、他者にとって、意味はないだろう。別にお前がどうなろうがしったこっちゃない、と。けれども、とあるリンク先の友人(※)のブログにおいて、ウォーキングしたとか、寝過ごして失敗したとか、何だかやる気でねーなぁとか、そんなの読んでると、ああ、あの方でもそんなこともあるんだなぁ、そんな風に感じることもあるんだなぁ、と思って、ちょっと面白かったり、やる気になったりするから、あながち、生活感的な記事が完全無駄、ではないと思うのだ。
これが、多分、FBとかツイッターとかだったら、うぜぇ、ってなるのかもしれない。その辺、よく分からないし、やろうとも思わない。というか、そう、ツイッターなんだが、そんなに呟きたいと思うことがない。いやお前、こんな長い愚痴とか書いとるやん、というのはその通りだけど、短い言葉で「疲れたー」とか、「ねむひ」とか書いて、それ、何? みたいな。これ、あまり公に書けないけれども、と言いつつ苛々のせいか、書いてしまうのだが、今とあるアカウントでやっているツイッターで、宣伝とか、そういった中身のない呟きが多すぎて、どうにもあまり、使う気になれない。正直無駄な情報が多い。俺の使い方が悪いのかもしれないが、例えば、世界の綺麗な風景BOTとか、創作に必要なネタBOTとか、定期的に面白い情報を投下してくれるものを読むのは良いのだけれども、同じ作品の宣伝を、何度も何度も繰り返したり、文脈が無いと分からないようなつぶやきだとか、先述の中身のないつぶやきだとかが多くて、辟易である。
(いや、最近ツイッター始められた某方のことは全く意図していない。サイト更新しました! とか通知は良いのだ、逆に嬉しいものである)
※友人、と書くと、おこがましいのだろうか? 友人……と言っていいのだろうか? 相手からはそんな風に思われてないのではないだろうか? そんな思いが即座にはしる。ただ、友人って、何なんだろう。会社で知り合って、趣味の活動を一緒に休日にする人もいるけれども、会社で知り合った人は友人とは言ってはいけないのだろうか? 年齢が違うと、先輩後輩、になって、友人ではない? ネットで知り合った人は友人ではない?
なんだろ、俺は正直、どうでもいいと思う。他者との関係に対して、知り合いだとか、友人だとか、親友だとか、知己だとか、そんなレッテル貼ることに意味を感じない。とはいえ、その、関係の社会学的な、どこからが友人という状態になるのか、それが社会状況や、年齢コーホートや、文化価値などに左右されるのだろうか、という研究をやってみようと思ったことはある。先行研究が少なすぎてやめた。という、誰もやらないというのは、やっぱり、どうでもいいことなんだろう。
小見出しが超えてるよ!
これが6つ目か。ただ、この記事は複数日の「つぶやき」のまとめなので、まぁ許してもらいましょう(自分ルールに対して)。ふむ……しかし、若干、書く前よりは、気分が落ち着いてきたような、そんな気もする。
やっぱり、最近、何を書くかとか、構成とか考え始めちゃったのが、ストレスになっていたのかもしれない。
2016年の4月~6月ぐらいは、もうほんと脈絡なければ、テキトウ感まんさいである。いや今もそうだけれども、もっとひどかった。この「苛々対処」記事カテゴリは、ほんとチラシ裏みたいな感じだ。というか、このチラシ裏って、何だろ、チラシの裏って普通印刷されていて、あんまり後ろが白紙のチラシってみたことないんだけど。ってこう、どうでもいいことを書いているのである。
そうさなぁ、今日はもう時間切れだけど、またしばらく、無茶苦茶感情の吐露的なの書いてもいいかもしれない。それを公開するかどうかはおいておいて……いや、公開しないなら書かなくていい。公開できない感情ってなんだよ。素直になるんだろ? 率直に生きるんだろ? 自分を隠して生きるのはもう沢山なんだろ?
おーいい問いかけじゃないか。好きだよ、そういうの。ちょっとまた、書く気が発生してきた。そうだな、問いかけ、大事だな。先日も、コメントを頂いて、落ち込んだりもしたけれど、私、元気です。
(魔女の宅急便風に)
今日の一言「哲学のテクニカルタームが役に立つの?」「実践と実感が抜け落ちた言葉の定義に意味はないよね」
フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
存在と時間
ハイデッガーさんの「存在と時間」のさわりを読む。フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
愚痴だらけのブログは面白くない
過去を悔恨し、ひたすらに、嫌だ、つまらない、苦しい、痛い、絶望した、面白くない、会社辞めたい、友達欲しい、恋人欲しい、上司むかつく、あの女うぜえ、などなど、そんな愚痴ブログは面白くない。確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
本当の問題と煩悶について
生きる方策は、以下に整理される。1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
人間とは何か
今読み進めている、フランクルさんの本も、上の、「2.」か「3.」な感じである。まだどっちだかよく分かっていない。ただ、この「人間とは何か」では、少しその切り口が違っていて、期待している。それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
小見出しの5つ目
おー、おー、そして最後の小見出しか。難しいなぁこの書き方。何だか、制約があると、本当に書きたいことが書けないのではなかろうか? いや大丈夫、そんな、完全に暴走するときは、制約など無視して書きなぐることだろう。こういった意識が働いているうちは、それでいいのだ。あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
今日の一言「まぁいろんな人がいますわな」
おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。
恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。
ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。
ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。
もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。
(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)
このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。
人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。
だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。
というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。
うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。
驚きの短絡思考
何でもかんでも、すべての犯罪は、死刑でよい。現行法制度は手ぬるい。万引きや違法駐車など、軽犯罪であっても全部死刑にすべきだ、ということを本気で思ってます、というブログを拝見した。おおぅ……そうか、やっぱりそういったことを思っている人はいるんだろうなぁ。そしてきっと、少なくないのだろう。ニュースかなんかで、加害者の人権が守られ過ぎてる! とかいう言説をみてきっと思っているのだろう。
恐らく、そういう方々は、絞首刑を見たことないだろうし、どっかの国の処刑動画、首をナイフで切り落とされたり、人が死ぬということを見たことは無いだろうし、ましてや、自分自身が、その処刑を自らやろうともしないだろう。
てなことを書くと、お前は死刑廃止論者か、とすぐに突っ込まれるから、先に書いておけば、別に死刑廃止も賛成も特に僕は無い。それらは、社会と法によって決めていけばいいものだが、その論議に参加するほど今の僕には到底余裕はない。
というよりも、人が死ぬその残虐な情報を知っていてもなお、街でぶつかってきて舌打ちしやがるクソ野郎は死んでしまえ! と僕だって思うわけだが(ただ、それだって、本当に、そいつを殺しても、何ら罪をうけないとして、手軽にボタンをポンと押すだけで殺せる状況があったとしても、いざその瞬間になったとき、僕はそのボタンを押せるのか? これはなってみないと分からない。まぁそもそも、そんな状況の仮定がありえないから、思考実験にすらなっていないが)。
ただ、驚きを隠せなかったのは、その、軽犯罪でも何でも、悪いことしたら即死刑! という発想の貧困さである。
そして、恐らく気づいていないだろう、その「悪いこと」の定義がいかに難しいかということへの、理解をしようとできない態度である。
社会悪
一度、「サイコパス」という作品を見てみるといい。いや、多分みても理解できないのだろう。ちなみに、そのブログの作者さんは、ネガティブ思考で、無職の女性だということだけれど、ネガティブだったり無職だったりするのも、今の世界では「悪いこと」とされている。じゃあ即死刑なのか? んなわけねーだろう。
もう一つ、社会復帰できないようなクソサイコ犯罪者野郎もいるだろうが、そもそも、人間って、そんなに完璧で美しいものか?
これは、お前(俺)自身が汚れてるからそう思うだけだ、とか言われそうだけど、だが、アリストテレスだって、「アクラシア」といって、「わかっちゃいるけどやっちまう!」的な、間違いを犯すものだと言っている。それらを、片っ端から消去していけばいいというのか? そもそも、死刑を執り行うコストというものだって存在する。社会秩序は、「何となくみんなルールを守ってる」状態が「信じられている」から上手くいっている面があって、神の裁きのように、完璧に罪を裁こうとすると、これはもう大変な作業になるのである。
(こんなこと書いていると、じゃあお前は何かやましいことでもあるのか? 犯罪者の味方なのか? キモチワルイ奴だな! とかコメントが沢山くるのである。まぁそんなことより気になるのは、そう思っている人が、果たして本当の意味で多数派なのか、少数派なのか、ということだけれど。)
愚かな人への説得
上の小見出し、そもそも、「愚かな人」という定義もまた、難しいのであって、そもそも、社会って共同幻想で成り立ってるんだよ、ということを信じているというか、理解している人は、どれほどいるのだろうか?このことは、別に気付く必要もないのだけれども、エリート層とか、支配者層とか、経営者とか、統治者とか、上司とか、先生とか、そういう上に立つ人たちがそれに基づいて色々考えてくれないと、本当に大変なことになるのである。
人任せ、だけれども。いや本当は、民主主義なのであれば、人民がちゃんと、その政治的思考、正義とは何か、悪とは何か、ということについての、基礎的な「合意形成」が図られるべきなのだけれども、実際、発展した国家であればあるほどに、「政治的無関心」は避けられない。
だから教育が重要なのだけど……ただその教育って、「美しい国、美しい道徳、美しい人格を目指しましょう!」というのが中心であって、いやその、「美しいもの」は重要なのだけれども、ただ、それを形成するために必要なこと、そもそも、その「美しい」の定義は多様な価値観のもとで醸成されるものであるとか……もろもろの大切なことを、ちゃんと伝えられているのだろうか?
伝えられていないから、結局、「美しくない犯罪者は消し去りましょう!」という思考体系になってしまう。
選挙の重要さ
だから、選挙って本当は重要なわけだ。上のような頭のおかしい(というわけではないと思う。単に教養が足りていないだけ)の人が政治家にならないように、民衆はちゃんと監視して責任をもたなければいけないのだ。というのは当たり前なのだけれど、でも、その立候補者が、どんな思想信条をもってるかなんて、簡単に分かるはずもないわけだ。だから、マスメディアが、政治家たちの発言の節々をとらえて、大げさに報道したりするのだけれども、まぁ、そういった細かい言動からしか、判断材料が無いのだから、仕方がないともいえる。ただ、そんな情報しかないと、やっぱり選挙とかに興味をもてない人は多くならざるをえないと思う。
本ブログの主旨と合致する記事か?
さて、驚きのあまり書き連ねたものの、この記事は、このままだと正直消してもいいかな。自分自身の生きる意味、について、あまりにも関係ない気がする。うん、まぁ、1年ぐらいは残しておこうか。見返してみて、何を思うか、それはまた気になるところだ。