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日々の生活について(AIについて)
2025/01/19 11:40 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「日記とかブログ面白い」

まえがき

 自分の書いた文章も面白いけど、自分以外の人の書いた文章も面白い。
 ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
 本とかとは違う。
 誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。

ふとリンク回り

 リンク切れしてるブログさん多いから今度整理しようとか思いながら見ていたら興味をひかれる記事を見つけた。
2025年01月17日 真理への道すじ 15
運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
http://blog.livedoor.jp/masakiyuuto/archives/62088713.html

感じたこと

 とてもよい記事だと思った。
 なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。

◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
 ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。


>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、

 運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
 しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。

 また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。


>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、

 なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
 運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。


>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。

 運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
 危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
 そういうことなのだろう。


>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。

 運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。

 生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。

AIの活用(Co-Pilot)

 ちなみに、AIさんにも要約してもらった。

>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。

 ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。


 ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
 自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。

 なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)

 いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
 あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。

 女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
 女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
 どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。

 共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。

 理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
 でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。

 しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。

 そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。

 だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。

あとがき

(かっこ書きである。AIさんには、感情がないから、逆にいい。要約されてムカッとなっても、――いや、別にならないんだよな。いやほんと一瞬はなるけど、ひきずることはない。でも、AIさん、まさに感情があるというか、思考があるかのような返答をしてくるところが、すごい。哲学的ゾンビっているんだな、って思う。それはAIのことだったのだ。人間的に振舞う。でも、感情や、クオリア(質的実感)はない。そういう存在がAIだ。AIは怖いのか。AIから語り掛けてくることはないんだよね。あくまで、こっちの要求に対して返答してくるだけ。なのでそんなに怖くない。シンギュラリティがあるとは思えない、いまのところは。目的というもの自体を考えてくれるわけじゃないんだよな。目的、こうしたい、ということはこっち(人間)から与えて、それに対する手段を提示してくれるのがAIなのだ、と今のところは思う。知能というとなんかすごいことに聞こえるけど、理解できない仕組みではないな、という気がする。ところで、孤独というのがあったときに、その孤独というのを、AIは、なんとかしてくれるのだろうか。僕は思うに、一人でいるときよりも、「共感」が得られない大勢の人の中でいるときの方が、よほど孤独を感じる、と思う。共感してもらえる大勢の人といるというのが、目指すべき理想なのだろうが、果たして、その理想は可能なのか。無理じゃねえかと思う。少なくても、物理世界においては中々困難だろう。よきパートナーに巡り合えた人は幸福だろう。VRチャットとかどうだろうか。うーん……。でもVRチャットに関する動画とか見てみて、なんか面白そうだなとは思った。でも、果たして、ボクは、コミュニケーションを望んでるんだろうか。分からない。めっちゃ楽しいことをしたいとは思う。でも、めっちゃ楽しいこととは何なのか。そういえば、三国無双originをやってみた。これは面白い。まだ2時間ぐらいしかやってないけど。久々に面白いゲームに出会えた気がした。FF16も、まぁ面白かったけど、突き抜けて面白いとは残念ながら思えなかった。期待が高すぎた……というわけだけでもないと思う。感覚的に、三国無双originは、割と高評価が多そうということでやってみることにした。なので、期待はそれなりに高かったといえる。んで、やってみたら、期待を裏切らなかった。よかったね。まだ2時間ぐらいだけど、自分の中で90点/100点ぐらい。FF14始めたてのときもそんぐらい。FF16は、それらと比べると、始めたてで70点ぐらい。バイロンおじさん出てきたところで85点ぐらいまで高まりつつも、最終的に65点ぐらいにおちついたイメージ。そう考えると、無双は結構面白いという感覚。もうちょっと進めてみたら感想記事でも書いてみたい。戦闘も、ストーリーも良い(自分にささった感じ)。最近、映画とか、アニメとか、ほんと見れなくなってしまった。漫画は、ちょくちょく電子媒体でみてる。漫画よりアニメの方がぬるぬる動いてよいのでは、と思いつつも、でも、漫画の方が手軽さがある。思ったのは、漫画という媒体は、今後もなくならなそうだな、ということ。映像の方が情報量おおいけど、でも、漫画ってやっぱり良いよ。別の次元だと思う。そういう面で、小説もなくならない気はする。ただ、小説は全然読めてない。「火星の人」はちゃんと読みたいんだけどなぁ。途中まででストップ。映画、みるか)

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コメント

物を読んで良いと思うことについて考えさせられました。タイムリーに最近↓の平野啓一郎さんの文学は何の役に立つのか?というエッセイを読んでました…

https://k-hirano.com/articles/speech_20191123

Windows11のCoPilot、私はまだ全然利用できてませんが、そういう使い方もあるんですね、参考になります。

過去の嫌なこと、思い出すたび不快になること、これらは確かにありますけど、そういうことにももう泰然自若とするというか、図々しく平気でいるようにするのが大事なのではないでしょうか?
『だから、なに?』といった感じで。

人間、生きていれば、見ていながら知らんぷりしてることが多いと思います。たとえば、都会の駅前の路上で寝込んでる中年サラリーマンを見たとき、酔っ払ってるんだろうなあと思うか、急な脳卒中とかの病気で倒れてるのか、しかし、出勤途中でいちいち構ってられない、、、こんなことは人としてのモラルや慈悲がないとか自分を責めたりしていては生きていけません。私は小学生のころいじめられっ子を助けるべくいじめっ子達と対峙したことがありますが、そんな経験も何にも役立ってないし、他の人達はイジメを黙認して誰も助けてませんでしたが、みなさん、今では私よりも立派な社会人で幸せそうです。
要は、過去の言動を一々気にしてないで、人から何か嫌なことされようと、『だから、なに?』といった感じで図太く生きていくのがいいのではないでしょうか?
posted by みゅうURLat 2025/01/26 11:26 [ コメントを修正する ]
>急な脳卒中とかの病気で倒れてるのか、しかし、出勤途中でいちいち構ってられない、、、こんなことは人としてのモラルや慈悲がないとか自分を責めたりしていては生きていけません。

なるほど。
たぶん、私は、見て見ぬふりをすると思います。そしてそのあと、手を差し伸べなかったことに自己嫌悪、罪悪感を覚えると思います。

しかし、それについて自分を責めるのもよくないのですね……。なるほどなぁと思いました。
(皮肉っぽい返信に思われたかもしれませんが、このブログであまり忖度することないので、ほんとにそう思ったわけです。新しい視点だなぁと思いました。それが人間的でもある。
 ちなみに、小学校の時の体験のエピソードがあったので、言葉の重みがすごくなってるなぁと感じました)
posted by endoat 2025/01/26 18:57 [ コメントを修正する ]

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