今日の一言「ものすごく暗い内容のため読む際は部屋を明るくして心が落ち着いたときに読みましょう」
ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
誰か面白いこと書いてくれ
本当に誰か、心から感動して、何か前向きに突き進んで、今後ぶれずに人生全うできるような、考え方でも体験でも作品でも何でもいいから与えてくれよ。ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
メンタルポイントの回復
お疲れだね、休みな、という方策は正しい。しかしながら、最初に引用した素晴らしい方のお言葉のとおり、休みそれ自体は、必ずしも心と体を回復させるものではないのである。休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
物語も同様
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
幸せの次元の変化
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
二つの回答
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
理想の生活を想像する
不満があって、時おり楽しくて、大きな変化はないけれども、毎日それとなく充実して、お酒やおいしいものや友人に囲まれて生きていく。お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
身体的限界性による不幸
彼女ができたことがある、結婚したことがある、それらの経験は、もはや何の自慢にも、何の心のよりどころにもなりゃしない、ということが、最近の問題の一つ。いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
復讐としての生き方
全く無意味だ。何ら価値もない。でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
まだまだ大したことない
おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
諸先輩方のだらしなさ
あんまりやったことないことにチャレンジ。人のせいにするよー。あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
え、つまり逃げてるだけじゃね?
すぐ君はそんなことを言ってくる。頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
もっと暗いこと書いておこう
まだいいよ。取りあえず会社辞めても3年ぐらいは現行生活を続けられるぐらいの資産もある。まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
もう暗いこと書けません
……もう無理。これ以上はさすがに思いつかない。指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
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今日はかなりいやぁな仕事があったが、終わってみるとお客さんから意外に褒められたというか感謝された。
普段気難しい相手なので、逆に嬉しかった。
後は、知人と久しぶりの会食をした。
しかし、帰りは、23時となり、気分もよくない。
なんか、誰か、こんなときは面白いブログでも書いてくれよ。
リアル物語が読みたいんだよ。最近、婚活頑張っている女性のブログも読んでるけど、本当面白い。残念ながら、下手な小説より断然面白いよ。
でも、こういうときに限って誰も更新しない。
更新した人も、短い。つーか、アメーバブログ、クソ過ぎる。いつ開いても、スマホからだと読み込み遅すぎる。
こういうときは、自分の過去ログを読む。
完全に自画自賛、手前みそだが、
10個に1つぐらいで、そのうち三割ぐらいの内容は、結構面白い。最近読了押してくれる方が減っていったので、あーやっぱりつまんねーんだろーなーと思っていたけど、いや、たまには面白いよ、自分の書いた内容だが(笑)
まぁでも、面白いというより、きもい、と思う人が多いんだろうなぁ。
そんななか、自分で面白いとか、もう数ヵ月たってるから、書いたときの思考も感情もなくても、それでも面白いと少し思うのは、きっと、やっぱり俺は変人なのだろうか。
青年二人が、人生について、どうやって生きようか、仕事しようか、対人関係のありかたとか、色々話してるのが聞こえてきた。
いいぞ、色々なやめ若人よ。
そんななか、誰でも苦労して生きてるのを知って、自分も頑張ろうと思った、との発言があった。
うーん。いい考え方だけど、危険だな。
苦労というのを、相対化して自分のモチベーションにするのは良い方策とはいえない。
もっというと、苦労を前提に考えてしまってる時点で思考エラーだ。
頑張りゃ報われる、って考えは即刻捨てていい。
てめーの頑張りなんて、他者に伝わらなきゃ無価値だ。逆に、上手くその頑張りを伝えられるなら意味がある。しかしそれは、もっというと、自分自身で頑張ってる、と感じる必要がない、ということでもある。
わかるかな?
数ヵ月後の俺なら、分かってくれるだろうか?
最近、予約投稿をしている。
いまはまだ、数日程度だけど、忘れた頃に投稿されるぐらいになったら、新しい試みで面白いかなとか。
あーしかし、面倒だなぁ。
とか、そういったこと書くのを、無駄なのに、何故書いているのか、と、そのこと自体を問題にしている記事とか面白いよね。
話が少し違うが、
貯金頑張ってきて、いっぱいたまったなぁ、嬉しいなぁと思ってる人がいて、インフレなったらどうするのだろうか。
資本主義はイデオロギーであり、一種の信仰に過ぎないが、その支配下におかれると、お金が絶対価値に思えるが、そもそも金は流動的なものだ。
稀少性で価値が高まったり、バブル的に投資が投資を呼ぶといった自体もある。修正された資本主義と様々な現代システム、制度によって安定ははかられてるとはいえ、普通に交通事故で死ぬリスク程度にはあるだろう。
お金にもコミットできず、
恋愛にもコミットできず、
あとはなんだ? にんげん、人生で、絶対的なものは何かあるか?
友情? 家族? 上司? 仕事?
時間? 寿命?
そうだな、いずれは死ぬ、ということは、今の僕も信じられている。
僕らは死ぬ。
いつか死ぬ。
死ぬとは何だ?
死ぬとは無だ。無駄か?
闇だ、ゼロだ、終わりだ。
しぬ、しぬ、死ぬ……
あぁ……めちゃくちゃ怖くなってくるな。
なんだろか。
頑張れば頑張るほど、無気力というか、虚しさが増していく。ゆいつ、物語を創作したりサイトつくったり、この書いていること自体は、無気力を助長しない。
だから、くだらなくても、書いていいのだと、過去の僕はかっぱしていた。ありがとう、おかげで、いま、なにもしたくなくて苦しくとも茫然としているなか、なんとか、時間を過ごせている。ありがとう、ありがとう。
離婚という自体に陥ったとき、僕が奇跡的に救われたのは、ある二方のおかげだと書いた。
もっと遡れば、その前の自分自身の危機を救ってくれたのが、反転してその離婚の危機を引き起こした方だけど、それ以前の危機においても、僕の思考に影響を与えたある一方がいた。
ゆえに、僕は孤独ではなく、多くの人に支えられてここまできた……と、書くのが一般的に美しい文章だが、残念なことに、家族兄弟を含めても、10人に満たないとしか思えない。
いやもちろん、ここでの支えというのは、存在規定レベルの重大な案件において、ということであって、それいがいにお世話になった人は多いだろう。
だが、正直、残念なことに、申し訳ないが、どうでもいいレベルだ。その程度俺も他者に与えているし、与えられてもいるし、その程度だ。
大分、暗黒モードになっているな。
何故、
もっとやれ、なのか。
これ書いてるときは本当に気分はよくないが、実はあとから読んで、あぁわかるわかる、となることが多いのである。
それは特に、本当にかなり落ち込むまで表現していた方がいい。
鬱の人は、重度になると、言葉がなくなるだろう。しかしだ、であればなおさら、その描写の価値というのはあるのではと思う。
よく、中高生のブログとかツイッターとかでも、まぁ日々の生活の不平不満とかは見受けられるし、街を歩いていても聞こえてくる。
けれども、所詮はひとこと二言の、賞味30秒の感情に過ぎない。
お前、よく人のこと書けるなと自分でも思うが、愚痴が多い人は嫌いである、この、嫌いという表現も実は厳密ではない、そもそも、嫌いになるほど興味をわけない、というのが実態だ。
人を憎んだり嫌ったりできるのは、ある程度の関係の上での話だ。あまり関わらなくていいひとが相手に、あいつは好きだ嫌いだと、よく女性のコミュニティにおいてはそれが噂話としてネタになって、そのコミュニティ維持に貢献するけれども、正直自分はそこに価値を見いだせない。
このあと、孤独についての記事を書くだろうが、むしろ一人でいた方がいい。むしろ、他者のなかにいることがもっと、孤独を深める可能性さえある。
愚痴を嫌いだといった。
一方、このブログ、特にこの記事なんてぐちでしかない。
が、
何故あとから読んで面白いと思うことがあるのか?
それは、自分のブログだけじゃない、負の感情や、日常の不満や問題点を表現されている方々の記事は、やはり面白いのだ。
それに、生産的な価値はないかもしれない
しかし、ランチで職場の上司の愚痴をいう程度のカタルシスよりかは、よっぽど有意義だ、というのはすぐさま、ある、特定の人の話題、に止めてはならないことかいておくべきだ。
僕が表現と書いたのは、
具体的描写が面白いとか、詳細だとかそういうことではない、
むひろ、抽象化である。
簡単に書けば、こういうことがあった、それはこうだから、社会は、人間は、現代は、こうこうこうだと感じる、と。
そういうロジックになってる話はちょっと面白い可能性が増える。
いつぞやの、ある、青年たちは、その結論がどうであれ、こういう、経験をして、こういう事情から、今後こうしていこうと思う、というロジックになっていた。
だから、僕は内容に共感はなかったものの、そういう考え方があるということを知ること自体面白かったし、興味がわいたのだ。
これは、一般的に面白いもの、とか、そんな意味ではない。
自分にとって、今後未来の自分が読んだときあっ、ちょっと笑える、とか、面白いなとか、役に立つ、とかイライラの溜飲がおさまったとか、いまも、10に1つくらいはそういうのあるが、その、割合を増やすにはどうしたらいいか?
まず、暗黒面に堕ちる。
ノンストップでわきあがる感情というか言葉を書きなぐる。
少し落ち着く。
書いた内容を構造解析する。
その上で、書いた内容にたいしての感想をのべる。
スケルトン作るとこんなものか。
抽象化するとものすごい簡単なんだけど、実践するのは難しいかな。
まぁ、今後、このあたりを、カテゴリ分けと合わせて注意していくことにしよう。
普段気難しい相手なので、逆に嬉しかった。
後は、知人と久しぶりの会食をした。
しかし、帰りは、23時となり、気分もよくない。
なんか、誰か、こんなときは面白いブログでも書いてくれよ。
リアル物語が読みたいんだよ。最近、婚活頑張っている女性のブログも読んでるけど、本当面白い。残念ながら、下手な小説より断然面白いよ。
でも、こういうときに限って誰も更新しない。
更新した人も、短い。つーか、アメーバブログ、クソ過ぎる。いつ開いても、スマホからだと読み込み遅すぎる。
こういうときは、自分の過去ログを読む。
完全に自画自賛、手前みそだが、
10個に1つぐらいで、そのうち三割ぐらいの内容は、結構面白い。最近読了押してくれる方が減っていったので、あーやっぱりつまんねーんだろーなーと思っていたけど、いや、たまには面白いよ、自分の書いた内容だが(笑)
まぁでも、面白いというより、きもい、と思う人が多いんだろうなぁ。
そんななか、自分で面白いとか、もう数ヵ月たってるから、書いたときの思考も感情もなくても、それでも面白いと少し思うのは、きっと、やっぱり俺は変人なのだろうか。
ある飲食店においての客の会話
青年二人が、人生について、どうやって生きようか、仕事しようか、対人関係のありかたとか、色々話してるのが聞こえてきた。
いいぞ、色々なやめ若人よ。
そんななか、誰でも苦労して生きてるのを知って、自分も頑張ろうと思った、との発言があった。
うーん。いい考え方だけど、危険だな。
苦労というのを、相対化して自分のモチベーションにするのは良い方策とはいえない。
もっというと、苦労を前提に考えてしまってる時点で思考エラーだ。
頑張りゃ報われる、って考えは即刻捨てていい。
てめーの頑張りなんて、他者に伝わらなきゃ無価値だ。逆に、上手くその頑張りを伝えられるなら意味がある。しかしそれは、もっというと、自分自身で頑張ってる、と感じる必要がない、ということでもある。
わかるかな?
数ヵ月後の俺なら、分かってくれるだろうか?
最近、予約投稿をしている。
いまはまだ、数日程度だけど、忘れた頃に投稿されるぐらいになったら、新しい試みで面白いかなとか。
あーしかし、面倒だなぁ。
とか、そういったこと書くのを、無駄なのに、何故書いているのか、と、そのこと自体を問題にしている記事とか面白いよね。
金
話が少し違うが、
貯金頑張ってきて、いっぱいたまったなぁ、嬉しいなぁと思ってる人がいて、インフレなったらどうするのだろうか。
資本主義はイデオロギーであり、一種の信仰に過ぎないが、その支配下におかれると、お金が絶対価値に思えるが、そもそも金は流動的なものだ。
稀少性で価値が高まったり、バブル的に投資が投資を呼ぶといった自体もある。修正された資本主義と様々な現代システム、制度によって安定ははかられてるとはいえ、普通に交通事故で死ぬリスク程度にはあるだろう。
お金にもコミットできず、
恋愛にもコミットできず、
あとはなんだ? にんげん、人生で、絶対的なものは何かあるか?
友情? 家族? 上司? 仕事?
時間? 寿命?
そうだな、いずれは死ぬ、ということは、今の僕も信じられている。
めめんともり
僕らは死ぬ。
いつか死ぬ。
死ぬとは何だ?
死ぬとは無だ。無駄か?
闇だ、ゼロだ、終わりだ。
しぬ、しぬ、死ぬ……
あぁ……めちゃくちゃ怖くなってくるな。
なんだろか。
頑張れば頑張るほど、無気力というか、虚しさが増していく。ゆいつ、物語を創作したりサイトつくったり、この書いていること自体は、無気力を助長しない。
だから、くだらなくても、書いていいのだと、過去の僕はかっぱしていた。ありがとう、おかげで、いま、なにもしたくなくて苦しくとも茫然としているなか、なんとか、時間を過ごせている。ありがとう、ありがとう。
救ってくれる人
離婚という自体に陥ったとき、僕が奇跡的に救われたのは、ある二方のおかげだと書いた。
もっと遡れば、その前の自分自身の危機を救ってくれたのが、反転してその離婚の危機を引き起こした方だけど、それ以前の危機においても、僕の思考に影響を与えたある一方がいた。
ゆえに、僕は孤独ではなく、多くの人に支えられてここまできた……と、書くのが一般的に美しい文章だが、残念なことに、家族兄弟を含めても、10人に満たないとしか思えない。
いやもちろん、ここでの支えというのは、存在規定レベルの重大な案件において、ということであって、それいがいにお世話になった人は多いだろう。
だが、正直、残念なことに、申し訳ないが、どうでもいいレベルだ。その程度俺も他者に与えているし、与えられてもいるし、その程度だ。
いいぞもっとやれ
大分、暗黒モードになっているな。
帰宅後
いいぞ、もっとやれ。何故、
もっとやれ、なのか。
これ書いてるときは本当に気分はよくないが、実はあとから読んで、あぁわかるわかる、となることが多いのである。
それは特に、本当にかなり落ち込むまで表現していた方がいい。
鬱の人は、重度になると、言葉がなくなるだろう。しかしだ、であればなおさら、その描写の価値というのはあるのではと思う。
よく、中高生のブログとかツイッターとかでも、まぁ日々の生活の不平不満とかは見受けられるし、街を歩いていても聞こえてくる。
けれども、所詮はひとこと二言の、賞味30秒の感情に過ぎない。
お前、よく人のこと書けるなと自分でも思うが、愚痴が多い人は嫌いである、この、嫌いという表現も実は厳密ではない、そもそも、嫌いになるほど興味をわけない、というのが実態だ。
人を憎んだり嫌ったりできるのは、ある程度の関係の上での話だ。あまり関わらなくていいひとが相手に、あいつは好きだ嫌いだと、よく女性のコミュニティにおいてはそれが噂話としてネタになって、そのコミュニティ維持に貢献するけれども、正直自分はそこに価値を見いだせない。
このあと、孤独についての記事を書くだろうが、むしろ一人でいた方がいい。むしろ、他者のなかにいることがもっと、孤独を深める可能性さえある。
愚痴も表現になれば面白い
愚痴を嫌いだといった。
一方、このブログ、特にこの記事なんてぐちでしかない。
が、
何故あとから読んで面白いと思うことがあるのか?
それは、自分のブログだけじゃない、負の感情や、日常の不満や問題点を表現されている方々の記事は、やはり面白いのだ。
それに、生産的な価値はないかもしれない
しかし、ランチで職場の上司の愚痴をいう程度のカタルシスよりかは、よっぽど有意義だ、というのはすぐさま、ある、特定の人の話題、に止めてはならないことかいておくべきだ。
僕が表現と書いたのは、
具体的描写が面白いとか、詳細だとかそういうことではない、
むひろ、抽象化である。
簡単に書けば、こういうことがあった、それはこうだから、社会は、人間は、現代は、こうこうこうだと感じる、と。
そういうロジックになってる話はちょっと面白い可能性が増える。
いつぞやの、ある、青年たちは、その結論がどうであれ、こういう、経験をして、こういう事情から、今後こうしていこうと思う、というロジックになっていた。
だから、僕は内容に共感はなかったものの、そういう考え方があるということを知ること自体面白かったし、興味がわいたのだ。
面白い記事を書くには?
これは、一般的に面白いもの、とか、そんな意味ではない。
自分にとって、今後未来の自分が読んだときあっ、ちょっと笑える、とか、面白いなとか、役に立つ、とかイライラの溜飲がおさまったとか、いまも、10に1つくらいはそういうのあるが、その、割合を増やすにはどうしたらいいか?
まず、暗黒面に堕ちる。
ノンストップでわきあがる感情というか言葉を書きなぐる。
少し落ち着く。
書いた内容を構造解析する。
その上で、書いた内容にたいしての感想をのべる。
スケルトン作るとこんなものか。
抽象化するとものすごい簡単なんだけど、実践するのは難しいかな。
まぁ、今後、このあたりを、カテゴリ分けと合わせて注意していくことにしよう。
時間ない!
いやそれは、主体的でない言葉だ。時間はただ無常に過ぎていくのみである。
とか、いったところで、やっぱり、時間ないわなぁ。
帰宅がやはり23時過ぎると、ほかにできることがない。その中で、ひとつふたつだけ、選んで行う。その優先度は、先日書いた通り、物語だ、とはいえ、他にゴミ捨てとか作業があったり、やらなきゃまずいこともあるので、やっぱり、時間ない! という感覚になる。
だが果たして、本当にそうか?
もっと前から準備し、対策をしておけば、回避できたのではないか?
生きる意味は重要だ、としながらも、未来なんて分からない、と思う、
それは、明日のことでさえもそうだ。
ある方のスケジュールみせてもらったが、分刻みで予定がはいっていた。
サイト構築が思いの外進んだのが日曜日だが、土曜日の予定によって、身体と精神的には、正直休みなしの二週目に突入した感覚である。
新しいデータベースの設計と構築ができたのは進捗だなぁ、この、サイトのことと、このブログのこと関係しないし
そして、二日後のいまにおいて、何が、残すことなのか。
感想。
人に伝えるプラス要素
断片的な過去の記憶
テーマパークで過ごした甘い一夜
家族
人
拒絶といじめ
不合理、理不尽
目のいたさ
仕事が重い。
ある、精神科医のブログにおいて、恋愛至上主義も崩壊した、とあった。
この恋愛至上主義への懐疑はかなり以前からあって、その要請から逃れるため、様々な努力をしたことは記憶に新しい。
そしてこの記事では、新しい価値観を、やはり早急に探し求めなければ、いつまでもレイトマジョリティとして、苦しみ続けるだろうということだ。
ある方が、小説は、ある程度の技術がそなわれば、答えのない無限大の世界であると述べられていた。
視点や気付きが神がかっている。しかし、重要なのは、そのあとの感想や感覚の表現、すなわち、答えがない何でもありという価値観自体への疑念という点。
これは、ものすごく重大で重要な感覚に思われる。
世界の反転、価値観の反転、劇的な思考の変化は、莫大なエネルギーを必要とする。
残念なことに、この問題点を、うまく表現するすべをいまはもっていない。
だが、この問題が明確になれば、いわゆるふわふわした、生きづらさ的な感覚を、ようやく言語表現としてとらえることができそうなのだが、いま、こうして言語化していくなかで、ますます遠ざかる感覚である。
消えていく、消えていく、世界が、
詩的な表現にならざるえないほど、この問題は、未踏の場所でに或る
確信的に増していくのは、この、世界にたいしての、アプローチとしての、実感めいたものである。
認知するものが世界であり、この認知は己の生み出すものでありかがら、その自らはせかいにより規定され続ける。
この連関により、僕の感覚は変化し続け、そして、緩やかに思うがままにかたちづくられる
異なる時系列の短文をひとつの記事にすると、カオスだな。
短い記事で投稿したが、あまりにつまらないと思って消してしまった。それをいくつかまとめてみた。
書いているときの感覚が違うとどうだろう。
とりあえず、
もういろいろやってられねぇと、泣き言やてきとーなことを言いまくって逃げ出した!
まぁそのおかげで、上手くいった部分もありそう。
他の人の約束とかも反故にした。
そのせいで、自分を責めるクソ良心の奴が俺を苛めてくるが、知るか、と言いたい。
言いたいけど、どこか、完璧を求めてしまう、誰からも好かれたいと思ってしまう。
ああ、面倒だ!
誰からも好かれたいために、そもそも他者存在自体が面倒なものにかわっていく。
やりたくない。
その感情は、面倒だ、という感情である。
面倒だ、とはなんだ?
つまらない、苦労する、嫌な思いをするものが、面倒なものだ。
じゃあ、小説書くのとか、ピアノの練習とか、それは時に苦しいが、面倒なものなのか?
面倒なものは、できるだけやらなくていいのか?
ストイックさとは何か。自分に厳しいことだ。自分に厳しいとはなんだ? いやなことを、苦しいことをむりやりすることか?
仏陀さんや、ヘルマンヘッセのシッダールタさんほどじゃないが、嫌なことを耐えるのであれば、俺は結構頑張れる。頑張れていた、やんなきゃだめなこと、といわれたら、感情なんて後回しである。
その結果、その結果として、この世界が残酷で苦しみに充ち溢れて無味乾燥でクソつまんねえものに見えてきたわけだ。
いや違うのか?
そもそも僕に、感情はあったのか?
何か、やりたいことはあったのか?
面倒じゃないことってあったのか?
いやそれは、主体的でない言葉だ。時間はただ無常に過ぎていくのみである。
とか、いったところで、やっぱり、時間ないわなぁ。
帰宅がやはり23時過ぎると、ほかにできることがない。その中で、ひとつふたつだけ、選んで行う。その優先度は、先日書いた通り、物語だ、とはいえ、他にゴミ捨てとか作業があったり、やらなきゃまずいこともあるので、やっぱり、時間ない! という感覚になる。
だが果たして、本当にそうか?
もっと前から準備し、対策をしておけば、回避できたのではないか?
未来予測
生きる意味は重要だ、としながらも、未来なんて分からない、と思う、
それは、明日のことでさえもそうだ。
ある方のスケジュールみせてもらったが、分刻みで予定がはいっていた。
答えのない毎日が
サイト構築が思いの外進んだのが日曜日だが、土曜日の予定によって、身体と精神的には、正直休みなしの二週目に突入した感覚である。
新しいデータベースの設計と構築ができたのは進捗だなぁ、この、サイトのことと、このブログのこと関係しないし
そして、二日後のいまにおいて、何が、残すことなのか。
感想。
人に伝えるプラス要素
断片的な過去の記憶
テーマパークで過ごした甘い一夜
家族
人
拒絶といじめ
不合理、理不尽
目のいたさ
大音量で
仕事が重い。
恋愛至上主義
ある、精神科医のブログにおいて、恋愛至上主義も崩壊した、とあった。
この恋愛至上主義への懐疑はかなり以前からあって、その要請から逃れるため、様々な努力をしたことは記憶に新しい。
そしてこの記事では、新しい価値観を、やはり早急に探し求めなければ、いつまでもレイトマジョリティとして、苦しみ続けるだろうということだ。
虚無主義の否定
ある方が、小説は、ある程度の技術がそなわれば、答えのない無限大の世界であると述べられていた。
視点や気付きが神がかっている。しかし、重要なのは、そのあとの感想や感覚の表現、すなわち、答えがない何でもありという価値観自体への疑念という点。
これは、ものすごく重大で重要な感覚に思われる。
世界の反転、価値観の反転、劇的な思考の変化は、莫大なエネルギーを必要とする。
表現の足りなさ
残念なことに、この問題点を、うまく表現するすべをいまはもっていない。
だが、この問題が明確になれば、いわゆるふわふわした、生きづらさ的な感覚を、ようやく言語表現としてとらえることができそうなのだが、いま、こうして言語化していくなかで、ますます遠ざかる感覚である。
社会要請の崩壊
消えていく、消えていく、世界が、
詩的な表現にならざるえないほど、この問題は、未踏の場所でに或る
確信的に増していくのは、この、世界にたいしての、アプローチとしての、実感めいたものである。
認知するものが世界であり、この認知は己の生み出すものでありかがら、その自らはせかいにより規定され続ける。
この連関により、僕の感覚は変化し続け、そして、緩やかに思うがままにかたちづくられる
そして三日後
異なる時系列の短文をひとつの記事にすると、カオスだな。
短い記事で投稿したが、あまりにつまらないと思って消してしまった。それをいくつかまとめてみた。
書いているときの感覚が違うとどうだろう。
とりあえず、
もういろいろやってられねぇと、泣き言やてきとーなことを言いまくって逃げ出した!
まぁそのおかげで、上手くいった部分もありそう。
他の人の約束とかも反故にした。
そのせいで、自分を責めるクソ良心の奴が俺を苛めてくるが、知るか、と言いたい。
言いたいけど、どこか、完璧を求めてしまう、誰からも好かれたいと思ってしまう。
ああ、面倒だ!
誰からも好かれたいために、そもそも他者存在自体が面倒なものにかわっていく。
面倒とは何か
やりたくない。
その感情は、面倒だ、という感情である。
面倒だ、とはなんだ?
つまらない、苦労する、嫌な思いをするものが、面倒なものだ。
じゃあ、小説書くのとか、ピアノの練習とか、それは時に苦しいが、面倒なものなのか?
面倒なものは、できるだけやらなくていいのか?
ストイックさとは何か。自分に厳しいことだ。自分に厳しいとはなんだ? いやなことを、苦しいことをむりやりすることか?
仏陀さんや、ヘルマンヘッセのシッダールタさんほどじゃないが、嫌なことを耐えるのであれば、俺は結構頑張れる。頑張れていた、やんなきゃだめなこと、といわれたら、感情なんて後回しである。
その結果、その結果として、この世界が残酷で苦しみに充ち溢れて無味乾燥でクソつまんねえものに見えてきたわけだ。
苛々してるがゆえの戯れ言か?
いや違うのか?
そもそも僕に、感情はあったのか?
何か、やりたいことはあったのか?
面倒じゃないことってあったのか?
カテゴリ重視方針にしてから、初めての日常カテゴリ……あ、ないんだった、こういう気分の時は、ええと、どうすんだっけかな。
それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
金曜と土曜が微妙
なんだか気乗りがしないイベントが近いと、憂鬱だよね。それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
いずれやってくる破局
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
死ぬ
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
そして金曜日が終わる
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
作品創りもそうか
完璧なものを作ろうとするのは大切だが、そのせいでいつまでも完成しないのはよくない。とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
絶対的ポジティブ
うひゃーじんせい楽しいな! 幸せだな!!ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
カテゴリちがくね?
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
おうちに帰った遠藤が引き取ります
お疲れ様。うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
時代の変化を問う
ある筋トレブログ何か見ていると、やっぱり、仕事は最前線で頑張るべきだとか、逃げたところで何も得るものはないだとか、修羅場を潜り抜けてこそ人は成長するだとか、そんな言葉がありふれている。中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
時間がないとは何か?
おめーはよ、時間がないとかいいつつ、何故こんなブログ記事書いてるんだよ?明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
うつ病はアホの子なのか?
という、煽りを間にうけると、「必死に」「頑張って」生きていかなければならない、という結論になりがちである。短慮だ。浅はかだ。そうじゃねぇだろうよ。鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
頑張ることとは何か?
僕が必要だという「頑張る」と、一般的に言われる努力だとか頑張るということの違いは、一つだけだ。主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
まとめ
ああ、もう、疲れたよ! 何でこんなこと書かなきゃいけないんだよ! 当たり前だろ? 何でみんなわかんねーんだよ。アホかよ! 何で世界は平和じゃないんだよ。争って人を殺して、奪って富を得て、それで何になるんだよ! バカか!ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
人間関係的調整関連の仕事と、専門的な仕事の両方が積み上がってきて、どうにも最近は調子がよくない。
どうしよう……と不安や焦燥がつのる。さらに、関係者に落胆させてしまうのではという申し訳なさも増していく。
といった、感覚になっていると、過労死とか過労死寸前になった人たちの記事とかニュースとか目に入り、いやあ、俺はまだまだ余裕なんだなぁ、とか、比較思考に陥る。
ダメだって。比較思考は百害あって一利なし。やめた方がよい悪習の1つだ。
しかしだ、疲れたー、ああ疲れたーとか、そんなこと書き連ねても、気分は晴れないし、未来の読者からも飽きられてしまうだろう。
よし、気分転換に何か別のことを書こう。
婚カツ頑張ってる女性のブログを読んだ。
かなり面白かった。まず、描写力がすごいいい感じ。
普通に体裁整えたら一人称の小説になりそうだ。
ダメブロ界の有名な方で、IT派遣されて英語の勉強も頑張ってる方のブログも、その幼少時代の孤独感と虐げられた生活と人間観が非常にコンパクトに核心ついてまとめられていて、すげーなぁっと思った。
リンクもさせていただいてる、様々なニュースや思想にたいして、独自の自分の見解を、軽妙かつ鋭い切り口でほぼ毎日のように綴られているかたのブログも、本当にすごいと思った。
毎日のように書く、というのであれば、文字数とか僕も負けない自信はあるけれども、テーマがとにかく大人なんだ。きっと波乱万丈修羅場を潜り抜けてきたかっこいい方なんだろう。
その方がおっしゃっていたのだけど、僕の言葉で置き換えてしまうと、選択的コミュニケーションの重要性について、触れられていたのが印象的だった。
いわゆる、全人格的な承認じゃなくてもいいじゃない、ということだ。
徒弟制度だと、そうはいかないかもしれないけれど、いちから百まで全部尊敬できる人、とか、それをメンターとか表現されたりもするけれども、そんな必要ないと僕は思う。
よく、世間的に好評な言葉で、みんなちがってみんないい、とかあるだろう。人は長所と短所もある、とか。
それはつまり、この分やはこの人、この場合はこの人、といったように、場面に応じた付き合い方を選択できてもいいじゃないかと。
組織、というのは、一定のルールにもとづいあ集団のことであり、集団とは、二人以上の相互行為が発する状態だ。
組織とか集団においては、中々、選択的コミュニケーションはとれないと思う。
難しいよね。物理的な時間を共有しているのだから、ある程度不都合や、不快感など、抑え込む必要があるだろう。
その点、ニコニコ動画は、非同期的なコミュニケーションでありながら、まるで<祭り>
に参加しているような感覚をコメントを読むことで味わえる点で画期的なのだ。
昔に比べて、昨今は人間関係が希薄になった、とかいう言説もある。
けれども僕は、別に今も昔も、コミュニケーションとりたい! って人々の思いは、別に変わってないと思う。ただ、その在り方が変わっただけだと。
そとそも、人の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、なのだ。
でもさ、男は一人の時間が必要だ、みたいなことがいわれる。
俺も一人の時間が別にそれほど苦痛に思ったことはない。が、ここ、別に女のひとだってそうだと思うよ。ここでジェンダーする必要ないと思う
それはそうと、では、本能は仲間になりたいと、思うはずなのに、何故孤独を求める心性も発生するのか?
……いかにも、答えがあるかのように問いかけたが、まさかこんな話になるとは、書き始めたときに全く思っていない(笑)
行き当たりばったりのログである。
頑張って答えを考えると、そうさな、おそらく、仲間になりたいという本能以上に、人間関係が複雑で面倒くさいものになっちまうから、だと思った。
やれ暑気払いだお歳暮だ、忘年会だ、空気よめだ、相手を慮れだ、思いやれだ、ビジネスマナーだ、笑顔が大事だ、同調圧力だ、だ、と、人間関係の維持は、かくもごとき、面倒くさいものである。
どうしよう……と不安や焦燥がつのる。さらに、関係者に落胆させてしまうのではという申し訳なさも増していく。
といった、感覚になっていると、過労死とか過労死寸前になった人たちの記事とかニュースとか目に入り、いやあ、俺はまだまだ余裕なんだなぁ、とか、比較思考に陥る。
ダメだって。比較思考は百害あって一利なし。やめた方がよい悪習の1つだ。
しかしだ、疲れたー、ああ疲れたーとか、そんなこと書き連ねても、気分は晴れないし、未来の読者からも飽きられてしまうだろう。
よし、気分転換に何か別のことを書こう。
30代女性の婚カツブログ
婚カツ頑張ってる女性のブログを読んだ。
かなり面白かった。まず、描写力がすごいいい感じ。
普通に体裁整えたら一人称の小説になりそうだ。
ダメブロ界の有名な方で、IT派遣されて英語の勉強も頑張ってる方のブログも、その幼少時代の孤独感と虐げられた生活と人間観が非常にコンパクトに核心ついてまとめられていて、すげーなぁっと思った。
リンクもさせていただいてる、様々なニュースや思想にたいして、独自の自分の見解を、軽妙かつ鋭い切り口でほぼ毎日のように綴られているかたのブログも、本当にすごいと思った。
毎日のように書く、というのであれば、文字数とか僕も負けない自信はあるけれども、テーマがとにかく大人なんだ。きっと波乱万丈修羅場を潜り抜けてきたかっこいい方なんだろう。
その方がおっしゃっていたのだけど、僕の言葉で置き換えてしまうと、選択的コミュニケーションの重要性について、触れられていたのが印象的だった。
選択的コミュニケーション
いわゆる、全人格的な承認じゃなくてもいいじゃない、ということだ。
徒弟制度だと、そうはいかないかもしれないけれど、いちから百まで全部尊敬できる人、とか、それをメンターとか表現されたりもするけれども、そんな必要ないと僕は思う。
よく、世間的に好評な言葉で、みんなちがってみんないい、とかあるだろう。人は長所と短所もある、とか。
それはつまり、この分やはこの人、この場合はこの人、といったように、場面に応じた付き合い方を選択できてもいいじゃないかと。
人間関係の組織的な規定
組織、というのは、一定のルールにもとづいあ集団のことであり、集団とは、二人以上の相互行為が発する状態だ。
組織とか集団においては、中々、選択的コミュニケーションはとれないと思う。
難しいよね。物理的な時間を共有しているのだから、ある程度不都合や、不快感など、抑え込む必要があるだろう。
その点、ニコニコ動画は、非同期的なコミュニケーションでありながら、まるで<祭り>
に参加しているような感覚をコメントを読むことで味わえる点で画期的なのだ。
昔に比べて、昨今は人間関係が希薄になった、とかいう言説もある。
けれども僕は、別に今も昔も、コミュニケーションとりたい! って人々の思いは、別に変わってないと思う。ただ、その在り方が変わっただけだと。
そとそも、人の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、なのだ。
孤独が好きとは何か
でもさ、男は一人の時間が必要だ、みたいなことがいわれる。
俺も一人の時間が別にそれほど苦痛に思ったことはない。が、ここ、別に女のひとだってそうだと思うよ。ここでジェンダーする必要ないと思う
それはそうと、では、本能は仲間になりたいと、思うはずなのに、何故孤独を求める心性も発生するのか?
……いかにも、答えがあるかのように問いかけたが、まさかこんな話になるとは、書き始めたときに全く思っていない(笑)
行き当たりばったりのログである。
頑張って答えを考えると、そうさな、おそらく、仲間になりたいという本能以上に、人間関係が複雑で面倒くさいものになっちまうから、だと思った。
やれ暑気払いだお歳暮だ、忘年会だ、空気よめだ、相手を慮れだ、思いやれだ、ビジネスマナーだ、笑顔が大事だ、同調圧力だ、だ、と、人間関係の維持は、かくもごとき、面倒くさいものである。