今日の一言「なんか面白いことないかなぁ」「そんな発言する時点で人生オワットル」
集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
アイアムアヒーローの最終巻
昨日、書こうと思ったことがあったけれども、忘れてしまった、と書いたが、一つ思い出した。集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
アマゾンレビューさんにも納得
僕はあまり、他者の評価を、作品を読んだり見たりするときに気にしない。信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
バッドエンドが悪いのではない
強調したいのは、僕は別に、ハッピーエンドが読みたいとか、救いのある話が読みたいとか、そういうんじゃないのである。ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
期待していたことからの裏切り
と、まぁ、酷評したけれども、これは、愛情の裏返しでもあるのかもしれない。なんやかんや、期待していた作品であったのだ。21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
面白いこと無いかなぁ
ふぅ。んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
そもそもやることって何だ
1.食べること・飲むこと。2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
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今日の一言「いろいろ!」「借金しない程度の金で解決できる失敗はいろいろした方が良かろう」
原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
お金が吹っ飛んだ
詳しくは書いている時間がないから、結論だけ書こう! お金が、数万円、無意味に消失した!原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
まどかマギカは仏教的作品である
そして、そのイライラのせいか知らないが、じっくり見ていこうと思っていた魔法少女まどか☆マギカを、一気に12話まで見てしまった。これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
あとはもういろいろ
なんだか、あと三つぐらいは、書いておこうと思ったことがあった気がしてならない。が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
面白い記事とは
そんでは、せっかくなので、この記事の序盤の内容と絡めてみよう。ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
今日の一言「何とか山場を乗り切った、かな」「山、だと思ってたのが、もっと大きな山の一部だったりして」
大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
拍手コメント等ありがとうございました
拍手コメントくださった方々、どうもありがとうございました。大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
忙しい
いや、その、あれだね。忙しいことは全然自慢にならないぞ。どんだけ大変な経験をしたとか、そんな過去の武勇伝、もてないぞ? 問題はそこにあるのではない。ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
23時PC消灯ルーチンと禁欲
まああと少しで3連休だから頑張ろう。そうだ。休みで何して楽しもうか、考えよう。そうだそうだ。いろいろ、できなかったこととか、やりたいな。できなかったこと? あー、読書、とか。ゲームとか。サイトの運営(ココナラも始めてみたい)とか、株式投資とか(キーエンスって会社はどうやろ)。あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
小説を書きたい
唐突。いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
小説が書けない
唐突2。書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
凡人が背伸びするんじゃねぇ!
と、まぁ、そんな、すげー作品にあてられて、「ああ、もう、俺はやっぱり、何も書けないんだ、ダメなんだ、ダメな奴なんだ、人間としてダメなんだぁぁぁ!」なんてふざけたことぬかしてんじゃねぇ。努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
今日の一言「失くしたことを後悔しているうちに時間もなくしている」
大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)
高価な電化製品をなくした
最近、モノをなくすのは2度目である。一つは見つかってほっと一安心したが、今度は手がかりが全くない。いつ落としたかも不明。これは、ダメかも分らんね……。大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
逆説志向
あれを忘れた、これを忘れた、が繰り返されると、そもそも、いろんなことを忘れてしまっていることについて、強迫観念が生じてくることもある。でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
目標の達成状況
さて話を変えよう。2月末までの目標を立てたのが、1月末あたりだったと思う。気づけば、もう2月中旬が終わり、2月末に突入している。はえええええ! 驚くばかりだ。どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)
今日の一言「分かりやすい表現を心がけましょう」「回りくどい表現は思考の迷い」
疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。
信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)
お金と時間と仕事と節約
いやぁ、今週も疲れたね。忙しかった。疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
資産運用と株
株の取り引きをやってみようかという気持ちが、今のところは強まっている。確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
時間の効率化
時間の効率化のための秘訣は、今費やしている時間のことを考えるよりも、まずは、「何に時間を費やすべきか」を考えることにある。整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。
価値観とは?
価値観とは何か、先日図をかいてみたので復習してみよう。信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
創作は力なり
それで、多分、僕は、きっと……と、歯切れが悪いが、何か創ることが好きなんだと思う。先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
アイデンティティとエポケー
まず一つ。俺は、俺のことを、100%理解できているのか?二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
近況メモ
ここからは消化試合みたいな感じ。◇ルーチンについて。
ルーチンは、何回か中断してしまっている。しかし、これは、自分自身を褒めてあげたいというか、今までの失敗をよく反映できていると感心したことだが、「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
◇けもフレについて。
けものフレンズ観て、ちょっとこれ、面白かった。ニコニコ動画では1話しかみれないけれど。ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)