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案の定というか苦笑いになる
2024/11/26 00:44 | Comments(0) | 思考及び書くこと

まえがき


 先日「何を信じればいいのか」という記事を書いた。
 ネットニュースにおける、某兵庫県知事をめちゃくちゃ叩いておいて、選挙になったら持ち上げて、ということが起こったので、何を信じればいいのか、となったということだった。

今度は公職選挙法違反という

 それで、今度は、SNSでプロモ会社に委託したことが公職選挙法違反の疑いがあるのでは、ということだ。
 それで、例えばヤフーコメントなどでは、批判コメントが多くて、それにたいしての「イイネ」も多い状況。

 なんだこりゃ……。

 新しい問題が噴出したから、またネット民が手のひらを返した、ということだろうか?

 よく分からない。


 某知事が悲劇のヒーロー的に返り咲いたとき、そういうこともあるんだな、という感覚でいたが、同時に、なんかもはや怪しいな、信じられないな、という気持ちもあったが、こうなってくると、その感覚どおりだったなと思う。



身ぎれいな人間なんていないのか

 まぁ自分も、車の運転をしてるときに、ふつうに走っていて、時速〇キロオーバーをしたことはある。
 交通ルールを守れない人間だ、ということになるだろう。ただ、〇キロ程度ではあまり問題にならない。でも、違反と言われたら違反だ。

 敵というか、誰かをおとしめようと思ったら、いくらでも貶められる気がする。

 誰かの恨みはかわないほうがよい。

 できるだけ仲間が多い方がよい。

 しかし、ほんと、そういうの面倒くさい。

 もちろん、感情的な面で、誰かをひきづりおろしたいとか、復讐したいという気持ちはあまりない。
 ただ、政治とか、金銭、または生命が絡んでくると、簡単ではないだろう。または宗教的にとか。

あとがき

(かっこ書きである。まぁほんと、やっぱり、もう政治的なこと……もちろん、別にこれまでも政治的なことを書いてきたわけではないが、より深く、もう書かないように気を付けよう。まぁでも、選挙には行った方がよいと思う。でも確か、選挙って、国民の義務ではないんだよな。権利ではあったはず。でもそれもどうなんだろう。選挙の率が高くなると、よりポピュリズムになりそうな気もするしなぁ。正直、理屈はよくわからないが、でも、選挙には行った方がよいと思う。そもそも、民主主義という国家形態をとってるわけだから、国民が政治家を選挙で選ぶというシステムなわけである。その「国民」という概念は、非常にあいまいな気がするが、でも、ここでいう国民は、自らの意思で選挙する概念という意味だと思うので、システムの条件として、国民は選挙にいった方がよいと思う。こういった理屈を学ぶのが政治学なんだろうな。専攻とかしたわけじゃないしよう分からんが。でも、衒学じゃ意味ないと思う。いくら概念的に正しくても、実践不可能な理論って意味がないと思う。というか、実践不可能とうことは、どこかしら破綻した条件設定ということだ。というか、大学の時学んだ気がするんだが、人文科学の「正しさ」って何なんだっけ……。科学とは、「再現性」のことだが、人文科学の場合、例えば心理学とか、何をもって再現性があるといえるんだろう。100人いたら、100人とも絶対あてはまる、という場合はない気がする。統計論になるんだっけっか。統計的に正しい、ということも、学んだ気がするけど、忘れてしまったや。でも、宝くじに当たる可能性は、ゼロではないわけだ。でも、宝くじに当たることを前提に人生設計する人はいない。でも、当たる可能性はある。どうしたらいいんだ。人生。ようわからん。ほんとによく分からない。こういう、わけわからない人生とは、ということを話せる飲み会なら参加したいが、正直、ふつうの人はそんなこと興味がないわけだ。つまらない。なんで生きてるんだ。家族のためか、恋人のためか、セックスのためか、おいしいものを食べるためか、映画とか見て感動するためか。人生は、楽しむためにあると思う。その楽しいというのが、刹那的な快楽というのには限らなくても、「苦しむために生きている」という言説には賛同しかねる。だって楽しい方がよいじゃん。崇高な、宇宙の真理を解き明かすために生きている可能性もある。しかしそれだって、それ自体が「面白い」ということじゃないと、到底続けられないと思う。痛みや苦しみを得ながら、もがきながら、真理を発見できるのだろうか? 天才といわれるアインシュタイン氏は、果たして、科学しているとき、苦しかったのか? いや苦しい場面もあったろうが、でも、「楽しい」という面もあったのではないか。わからんけど。まとにかく、生きてることに意味なんてそんなにないのである。10億年もしたら、海洋が消滅し、すべての現在地球上に存在する声明は消滅する。1万年でも、10億でも、138億年後、でもそこが問題じゃなくて、いずれ、生命も消滅する、ということだ。ここが非常に重要だと思う。つまり、永遠という概念は、ない。いや素粒子の存在は、永遠といえるのかもしれない。でも、反粒子とぶつかって消滅するんだってさ。ようわからんけど。それって永遠っていえるんか。よく分からないが、「永遠」という概念は、「ない」と思う。いずれみんななくなる。無だ。だからといって、無駄というわけではないと思う。永遠が有意義に必要条件というわけではないだろう。一瞬だって、そこに燃え上がるよな命をほとばしったら、それは意味があったといえるだろう。でも、ちっぽけだ。非常にちっぽけだ。意味があるとしたら、自分を中心に関係するその関係の中でしかないだろう。であれば、本当に、孤独というのは、人間としてあるべきではないのかもしれない。いますぐ結婚して、子供をもうけないといけないのかもしれない。それが、可能なことであるならば。僕には、その選択肢があったのかもしれない。でも、今現在、それを求めようとは思えない。10代ぐらいの時は、それを求めようと思えないのは、すっぱい葡萄理論だった可能性があったが、いまとなっては、もう現実的に相当厳しいだろうので、たぶん無理なんだろう。でも、1%ぐらいは可能性があるかもしれない。そこに、さっきの、宝くじ理論が登場する。宝くじに当たる可能性すなわち、結婚して子供が4人もできて幸せな家庭を築くという可能性もゼロではないが、でも、限りなく低い可能性のものは、排除していいはずなのだ。選択肢になし、としてもいいはずなのだ。だって、いろんな選択肢があったとしても選ぶことができるのは、1つだけなのだ。なぜか。時間軸は一つだけだからだ。タイムリープできるわけじゃないのだ。だから、1つ選ぶとは、それ以外を選ばなかった、ということになる。それでいい。それしかないのだ。いやそんなこといってないで、早く結婚相談所にいくべきなのかもしれない。そう思って、「結婚するのはやめました」という本を読んでみたが、まぁ、行かなくていいや、って思った、かっこ笑い)

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