今日の一言「哲学のテクニカルタームが役に立つの?」「実践と実感が抜け落ちた言葉の定義に意味はないよね」
フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
存在と時間
ハイデッガーさんの「存在と時間」のさわりを読む。フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。
でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。
けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。
※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。
愚痴だらけのブログは面白くない
過去を悔恨し、ひたすらに、嫌だ、つまらない、苦しい、痛い、絶望した、面白くない、会社辞めたい、友達欲しい、恋人欲しい、上司むかつく、あの女うぜえ、などなど、そんな愚痴ブログは面白くない。確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない。
言語化できていない。
いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。
で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。
本当の問題と煩悶について
生きる方策は、以下に整理される。1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)
2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)
3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)
で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。
そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。
※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。
人間とは何か
今読み進めている、フランクルさんの本も、上の、「2.」か「3.」な感じである。まだどっちだかよく分かっていない。ただ、この「人間とは何か」では、少しその切り口が違っていて、期待している。それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。
ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。
小見出しの5つ目
おー、おー、そして最後の小見出しか。難しいなぁこの書き方。何だか、制約があると、本当に書きたいことが書けないのではなかろうか? いや大丈夫、そんな、完全に暴走するときは、制約など無視して書きなぐることだろう。こういった意識が働いているうちは、それでいいのだ。あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、
外見至上主義
↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。
まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。
この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。
その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。
それであー、その、時間切れ。
(どっと疲労感が身体を包み込む)
※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。
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コメント
コメントありがとうございます!
専門用語に対する認識は同様です。専門用語は、難しいのではなく、本来は、複合的な概念を簡単な語で言い表すための方法と思います。
それをひもとけば、具体的で、実感できる言葉に分解できるようなものとのイメージです。
一方で、ヒッグス粒子、のように、それとしか説明ができない、独自の概念というものもあるとは思います。
ゆえに、専門用語をひもといていくというのは、まさに、考えることになると思われます。
さて、今回のコメントについては、今後の方針へのご要望と承りました!
どうして○なのか? で、それがどうしたのか、どう自分に関わるのか、ということで、フレームワークとしようと思います。
ちなみに、ソクラテスとアリストテレスの、わかっちゃいるけどやめられない、アクラシアについての対比は面白いですよね。
何故ソクラテスは、本当にわるいことを知らなかったのか、というのは、真実や理想に対しての立場というか、考え方からきているようですね。つまり、真実なるものがある、とすれば、その真実に到達していれば、そもそも、悪いこと、事態が発生しない、と。だから、悪いことをするのは、どこまでいっても、真理、を知らないということになります。
アリストテレスの、理性と欲望の関係ですが、これは実は論理破綻なんじゃないか、という指摘もあるようです。つまり、アリストテレスも、理想とか真実は、ある、としているにも関わらず、欲望が理性に勝ってしまう場合があるというのは、それは結局、ソクラテスのいう、本当の真実、なるものを知らないだけなのではないかと。
なるほど、しかし、ソクラテスもアリストテレスも、現代の価値多様化社会には、思考が足りていない、という指摘もあるそうです。
すなわち、真理的なものにも、次元、が存在するのだ、というものです。
ダイエットを目的とした人がいる。彼は、しかし、美味しそうなラーメンを前に欲望に負けて食べてしまった。
これを、ソクラテスなら、本当の真理、ここではダイエット、を知らないというでしょう。しかし、ダイエットという目的を知らない、というのは、中々甚だ違和感です。
アリストテレスなら、ダイエットという真理は分かっていた、けれども、目の前のラーメンという欲望にまけてしまった、というでしょう。
しかし、欲望に負けるような真理って、真理といっていいのだろうか?
いやいや二人とも違うよ。そもそも、真理には次元があるんだよ、と。ダイエットというのは、健康だったり、モテだったり、より高次の真理なのである。しかし同時に、ラーメンというのは、食欲を満たすという、低次の真理なのである、と。
とはいえ、その高次と低次との関係性については……(スマホからのためひとまずここまで)
専門用語に対する認識は同様です。専門用語は、難しいのではなく、本来は、複合的な概念を簡単な語で言い表すための方法と思います。
それをひもとけば、具体的で、実感できる言葉に分解できるようなものとのイメージです。
一方で、ヒッグス粒子、のように、それとしか説明ができない、独自の概念というものもあるとは思います。
ゆえに、専門用語をひもといていくというのは、まさに、考えることになると思われます。
さて、今回のコメントについては、今後の方針へのご要望と承りました!
どうして○なのか? で、それがどうしたのか、どう自分に関わるのか、ということで、フレームワークとしようと思います。
ちなみに、ソクラテスとアリストテレスの、わかっちゃいるけどやめられない、アクラシアについての対比は面白いですよね。
何故ソクラテスは、本当にわるいことを知らなかったのか、というのは、真実や理想に対しての立場というか、考え方からきているようですね。つまり、真実なるものがある、とすれば、その真実に到達していれば、そもそも、悪いこと、事態が発生しない、と。だから、悪いことをするのは、どこまでいっても、真理、を知らないということになります。
アリストテレスの、理性と欲望の関係ですが、これは実は論理破綻なんじゃないか、という指摘もあるようです。つまり、アリストテレスも、理想とか真実は、ある、としているにも関わらず、欲望が理性に勝ってしまう場合があるというのは、それは結局、ソクラテスのいう、本当の真実、なるものを知らないだけなのではないかと。
なるほど、しかし、ソクラテスもアリストテレスも、現代の価値多様化社会には、思考が足りていない、という指摘もあるそうです。
すなわち、真理的なものにも、次元、が存在するのだ、というものです。
ダイエットを目的とした人がいる。彼は、しかし、美味しそうなラーメンを前に欲望に負けて食べてしまった。
これを、ソクラテスなら、本当の真理、ここではダイエット、を知らないというでしょう。しかし、ダイエットという目的を知らない、というのは、中々甚だ違和感です。
アリストテレスなら、ダイエットという真理は分かっていた、けれども、目の前のラーメンという欲望にまけてしまった、というでしょう。
しかし、欲望に負けるような真理って、真理といっていいのだろうか?
いやいや二人とも違うよ。そもそも、真理には次元があるんだよ、と。ダイエットというのは、健康だったり、モテだったり、より高次の真理なのである。しかし同時に、ラーメンというのは、食欲を満たすという、低次の真理なのである、と。
とはいえ、その高次と低次との関係性については……(スマホからのためひとまずここまで)
posted by 遠藤at 2017/01/31 20:37 [ コメントを修正する ]
回りくどくてすまない。
つまり、哲学などの専門用語を役に立たせるには「考える」事が重要だということだ(哲学的な思想についても同様)。
ここでいう「考える」って何かと言えば以下の2つの疑問に答えることだ。
1.どうして○○なの?
2.で、それがどうしたの?
1と2は同時に考えても考えなくてもいい。不適切な場合もあるからそれぞれ判断して欲しい。
例えば、以下のページの記事を見てほしい。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/akrasia.html
「本当に悪いことと知っていたならば、買春はできなかったはずだ。 本当のところは、欲望に負けたのではなく、何が悪いことかよく知らなかったのだ」というソクラテスの考え方に対して
1.なぜ彼がこの様な考え方にいたったのか?
2.この考え方に私は賛成なのか・反対なのか・その理由は?
の様に考えることが出来る。
やや飛躍するが、これは「犯罪を減らすためにはどうしたらよいか」といったテーマともとれる。ソクラテスの考えによれば教育が重要になるし、アリストテレスは犯罪への欲望をコントロールする習慣付けが重要になる。
(ちなみに正解を求めているわけではない)
「哲学者の思想について考えることで、今の社会のあり方について考えることが出来るというのが利点」というのが私の考え。
専門用語についても、その用語が生まれた背景や意味や意図について考えることで同様の効果が見込めるのでは?と思っています。