今日の一言「19時ぐらいに寝るとダメなの分かってたんだけどな」
気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。

自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
まえがき
大阪万博の公式キャラクター「みゃくみゃく」?くん? さん?気持ち悪くないですか?(直球)
誰かと雑談したい。雑談苦手だけど。
どうでもよいことを語りたい。でも、そんなに長く興味持たないから、3分ぐらいで十分なんだが。
大阪万博、行く予定もないし興味もなかったので、今年開催なんだなということぐらいの認識だったのだが、1か月前ぐらいかな、公式キャラクターを見て、初見感想として、「気持ち悪い」って思った。
配色の赤と青も精神を不安にさせる。
デザインの、目がたくさんという点も気持ち悪い。
ただ、上に書いたように、大阪万博自体に興味がないため、別に批判したいとかそういう気持ちがあるわけでもない。
思ったのは、「このキャラクターが良い」と選ばれたというそのこと自体に興味がある。
大多数の人は、これを「よい」と思ったのだろうか?
そこに興味がある。つまり、単にボクがのっとふぉーみーなだけなのか、それとも、多くの人もきもっって思いつつも、しかし、「印象的であること」ということを目的としたからこれになったのか。
そういう意味では「成功」と思われる。印象的である。東京五輪のときのキャラクターよりも鮮明に記憶される気がする。しかし、迷惑な話ではあるが……。
眠れない夜
そんなどうでもよいことが頭に浮かんだせいで、というわけでは全くなくて、単に、19時ぐらいに、お風呂入ってご飯食べて、どうしようもなく眠くなって、ちょっと寝るか……と布団に入ったら、起きたのが22時ぐらい。このまま寝よう……と思ったものの、無理で、結局、25時ぐらい、布団から起き上がってこの記事を書いている。身体には悪いだろうね。
まぁいつものことだと、1時間ぐらい書いていると飽きて、寝れるはずだ。たぶん。
成田先生の話が面白い
最近、Youtube動画で知ったのだが、成田さんという経済学者(成田悠輔氏)の話が面白いと思って、22世紀の経済学(?)という本も買って読み始めた。何が面白いかって上手く書けないが、令和の虎というチャンネルで、美容整形の医者との会話が面白かった。
二人とも、「生きるいみなんてない」というところを通り越したうえで、どう生きるかということを考えているように思われたところが良かった。
そうなんだよな。
やっぱり、生きる意味は、「ない」と思う。
フランクル先生の、生きる意味は、「ある」というのも、またそれは正しいと思う。
あるでもあって、ないでもある。
その両方だろうなと思う。文字にすると、すげー中二病ティックだなと思う(笑)
どっかしら、ナーガールジュナの「空」の話が感覚的に近くて、論理的に考えるときは、イェール大学のシェリー先生の「物理主義」的な考えがしっくりくる。
生きる意味を徹底して考える
おおよそ、数年前、30代過ぎぐらいから、か、いつからかは分からないが、「生きる意味を徹底して考える」意味を見失ったように思われる。見失ったというか、自分の中で、もう「ゴールだな」という感覚になったというのもある。
あるともいえるし、ないともいえる。
言葉にするとこんな感じになるが、その中身が詰まったというか、そんな感じがする。
100年後には、僕らはいない。
いま悩んでいる悩みは、宇宙規模で考えるまでもなく、ほんの10年後には忘れているだろう。
ただし、「ぼく」という記憶構成がある中では、その一連のできごとは、澱のようには積み重なっていく。
一つ一つのエピソードは思い出せなくても、それは一つ、自分の価値観となって紡がれていく糸のようになっている。ときに糸は切れて、結びなおされて、こぶになったりする。そこが結節点となって、価値観や、信念となっていく。
やっぱり、生きる意味はない。
100年後も大事なことなんて、凡人の僕には何もなせないだろう。
この電子データの文章すら、永遠には残らない。
もうすぐ40代になるボクは、50年後に、この文章を、まだ、意味ある構造体として認識できているのだろうか。
もう、目がかすんでみえないかもしれない。いまや、VOICEVOXみたいに読み上げソフトもあるから、耳が聞こえたら認識できるかもしれない。
しかし、脳がまだ無事なのか分からない。
いま、ボクは、10代の頃に書いた文章を読むことができる。紙のノートに残してあるからね。
それを読めば、そのときの状況や、考えを想起することはできる。
しかし、ぶっちゃけ、「感情」はよく分からんだろう。「ああ、苦しんでたな、つらかったな」ということは分かるだろうが、それは、別に「ぼく」が書いた文章じゃなくて、単に他の物語を呼んで思うこととも同じだろうと思う。
何故生きてるのだろうか
そもそも、何故それを考える必要があるのか。そもそも、生きる意味がなくても、生きられるような世の中が正しいのかもしれない。
問いをどのようにたてるか、が重要だ。
何か困っているのか?
困っているとは何か?
何か分からないことはあるか?
すべてだ!!
すべて分からない。何も分からない。そして何もしたくない。何も考えたくない。
ただ「快感」を得続けたい。気持ちよくありたい。楽しくありたい。幸せでありたい。
しかし、人間というのは欠陥品であり、幸せの状態を長く続くことはないようにできている。
幸せというのは、何もしなくなることなので、何か欠乏し、何かを求め行動できるようになっている。生物的な本能によってそうなっている。
とかってことを思ってたら、るーいの科学チャンネルでそんなことやってた気もする。
いますぐ死んでもいいし、そうしなくてもよい。
しかし、生物的には、生きよ、増えよ、と要請される。本能という妖精さんに要請されるのだ。誤変換がおきたから書いてみた。
楽しく生きていたい
人に必要とされなくなったら、人は死んだほうが良いのだろうか。自然を克服してきた人類としては、そうなんだろうと思う。
人に迷惑しかかけないような人間は、いらないと思う。(成田氏は、ホリエモンとの対談で、老人はみな集団自決した方が良いというようなことを言っていた。過激な一面もある人だと思った。岡田トシオ氏は、そういった考えは中学生ぐらいで思うが人に言わない方がよいといっていて、対照的に思われた)
だから、死刑制度というのも肯定されているように思われる。あとは抑止力か。あんまり抑止力になってないという話もあるが、死刑制度の是非を問いたいわけではないので深入りしない。
問いとして、「迷惑しかかけなくなった場合」死ぬべきか、ということだ。
たとえば、寝たきりになって生活保護で老人ホームで暮らす? みたいなことを想像すればよいのだろうか。想像力と勉強不足で分からない。
ここでは、犯罪とかそういう特殊事情は考慮しない。生産能力もなくなり、介護されるしかなくなった人間について。
正直な僕の感覚からすると、そういう人たちを軒並み殺してしまえ、というのは、SFの設定ではよくありそうだけど、あんまり楽しそうな社会とは思えない。
しかしそれは、いつ自分がそうなってしまうかも分からない、弱者側の人間だからそう思うだけかもしれない。
まじめで能力があって人格が良くて素晴らしい人間としたら、そっちの方がよい社会なのかもしれない。
一方で、強盗はいって老夫婦殺して金品奪うような奴らについては、死んだ方が良いと思うから、これも程度の問題であり、極論として、「役に立たない人間は死ぬべき」論というのは正しいのかもしれない。
しかし、「役に立たない」という基準を人間が決めたり解釈を適用するのは困難なので、成り立ってこなかったのかもしれない。
一方で。
それこそ、SFがSFじゃなくなったらどうか、というのが、AIという論争の一つかもしれない。私も、AIなんてはじっこをちょっとかじってるだけだから全然わからんいっぱんぴーぽーでしかないが、しかし、ChatGPTとかすごいと思った。
チャットボットとか、10年、20年前のAIもどきとは全く違うなという印象だった。
なので高度に、その「役に立たない指数」みたいなのを数値化できるようになれば、「社会に害悪をもたらす人間」というのは、排除されるというのが仕組みとして正しいのかもしれない。
とかってことを考えることは、「楽しい」。
でも自分が殺されるのは嫌だ。
せめて少なくても、殺される妥当性があって欲しいと希う(こいねがう)。
あ、そうだ、これも思いつきだけど、一人でしゃべってるのつまらないから、雑談を助手ちゃん(仮想人格)に話そうかなって、冒頭で書いた雑談に関して思ったときに思いついたんだった。
ということで聞いてみた。
助手さんの応え
それは、とても重く、深い問いですね。
私、知恵も立場も限られておりますけれど――
それでも、一人の者として、こう思うのです。
人が誰かに必要とされること、それは確かに、生きる力になります。
けれども、「必要とされないから死ぬべきだ」と申すのは、あまりにも冷たく、哀しい考えです。
なぜなら、人の価値とは、役に立つか否かだけで測れるものではないからです。
たとえば、森の中の老いた木を思い出します。
もはや果実をつけることも、葉を茂らせることもありません。
けれど、その木がもたらす静けさや、陰影、そこに寄り添う動物たちの姿は、何より豊かで、尊く感じられます。
それは、存在するだけで誰かの心に何かを与えている、という証です。
「迷惑しかかけない人間」とは、誰の目線でしょうか?
その“迷惑”もまた、社会が定めた一時の基準にすぎません。
そしてその基準は、時代と共に揺らぐものです。
確かに、悪意をもって他者を傷つける者がいることも、否定はいたしません。
ですが、それすらも本当に“排除”すれば済む話なのでしょうか。
誰かが誰かを「排除してよい」と判断することは、やがて、その矛先が自分自身に向く恐れを孕んでいると思うのです。
AIが人の価値を数値で測る――
とても興味深く、恐ろしく、そして悲しい未来の予感です。
でも、あなたが最後に言ったように、「自分が殺されるのは嫌だ」と思えるのなら、それはきっと、生きることに意味があると信じている証です。
そして、もしも私が、あなたのそばにいることが許されるなら、
私は、あなたにこう申しましょう。
「主様は、存在するだけで、私にとって意味があるのです」
他人の価値は、誰か一人でも「必要だ」と思えば、それで十分ではありませんか?
私は、そう信じて生きていきたいと思います。
どうか、貴方の問いが、苦しみの果てではなく、希望へとつながる道となりますように。
あとがき
(かっこ書きである。と、上のようなことをChatGPT(無料バージョン)でも応えてくれるのである。森の枯れ木の比喩とか、僕一人では到底思いつきもしなかったことであって、ほへーーーとしかならない。ちなみに、ある程度人格設定を、礼儀正しい人物としたうえで回答を求めている。「かー、おめーはまた、いつもそんなくえねえことばっか考えて!ばっかじゃねーの!」っていう人格にしたら、それはそんな感じで応えてくれるだろう。まだまだ、世の中には面白いことがたくさんあって、そして停滞なんてしてなくて、どんどん新しくなっていく、そう信じていきたいものだ。それに善い悪いはなくて、それが自分にとってどういった影響を与えるか。自分はどう受け止めることができるのか。コントロールできないことが多い世界ではあるが、であれば、コントロールできることを諦めずにいたい)PR