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日記は過去との対話のようで
2016/10/24 22:00 | Comments(0) | イライラ対処
気付いたら、今週の土日は泊まりの旅行だ。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。

前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。

では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。


いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。

さて困った。



例外規定



気合いだ!

として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、


ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。


勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。

しかし、

あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。

例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。

このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。

先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。





こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。

様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。

正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。


理想自己と現実自己の一致?

笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?

アホか。

合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。

まてまて



どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。



よし、
また、極端な話をしよう。

僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?


だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?

誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。

賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。

で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。

いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。


ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。

世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。




そして夜に



朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。

ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。


これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。

何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。


というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。

アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。

例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。


え、恋の話と何が関係するのか?

いや、そこは多分まったく関係ない。

とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。

時間経過が与えるもの


言葉が足りない。表現が足りない。

いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。

この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。

解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。



というのも、不思議なことではない。

信頼とは、相手の動機を信じることである。

信用とは、相手の行動を信じることである。

しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。



自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。

生存方策において、何ら疑問をもつものではない。


しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。


朝の自分といまの自分



朝の自分は、死んだ。

もう二度とよみがえらない。

人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。



もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。

筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。


ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。



どのタイミングで死ぬのか



ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?


寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……



むしろ、だ。

この瞬間も、死に続けているのかもしれない。

いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。



この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。


もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。


ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。


誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。


ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。

そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。


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