今日の一言「ルサンチマンの活用を考える」「奴隷道徳乙」
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
※本記事はネガティブモードであり、ポジティブ至上主義の方には精神異常を引き起こす危険があるため、これより先には進まないでください。
頑張ることへの批判
疲れた。MPというのは、ドラクエとかゲームにおける能力値の一つであり、マジックパワーという、魔法を使うための数値である。より強大な魔法になると、一回当たりの使用量が多くなっていく。
しかし現実世界に生きる僕らも、MPをもっている。それは、精神力――メンタルポイントである。
でも僕たちは、魔法を使うことはできない。では、どのようなときにメンタルポイントを消費するのか。それは、自らの行動規制を行ったとき、換言すれば、理性に従ったときである。
理性というのは、フロイトの学説によれば、スーパーエゴということで、本能的なイドを制御する働きがある。その理性というのは、「こうすべきだ」「こうしてはならない」という、内なる道徳法則である。
教育というのは、大人になるというのは、この「理性」を学んでいく過程と言える。その理性は、育ってきた環境や、現環境において大きく異なっていくのである。
そのうち大人になっていった僕らは、本能的なもの(もしくは自己的なもの)と、理性との違いが分からなくなっていく。これは、日々の生活の中に落ち着いていく、と言い換えることもできるし、決して悪いことではない。
ただし、理性と、本能との乖離が大きい場合、知らず知らずのうちに、MP(メンタルポイント)が大量に消費されているのだ。
突発性の鬱と慢性的な鬱状態について
鬱、についても、内因性の鬱と、心因性の鬱にまず分けられる。内因性の鬱というのは、脳機能など、身体的機能障害による鬱状態を指す。
心因性の鬱というのは、ある事象によって、心が影響を受けることによって発症する鬱である。例えば、失恋やリストラや結婚や出産など、一般に良いこと悪いことにかかわりなく、ある事象(環境変化)が与える心への影響が原因である。
その心因性のうつ状態は、突然の事象により発症する場合もあれば、「生きがい」を失ったことで、徐々に症状が重くなっていく場合もあるだろう。
後者の、慢性的な鬱状態を引き起こす原因の一つが、MP(メンタルポイント)の消費である。
例えば、失恋したとする。周りの人たちは、慰めてくれるだろう。それをもって、「そうだ、いつまでも一人の男にこだわっているなんて、もったいない。すぐに、新しい恋を探そう!」と思うことだろう。ところが、それが、「本能」的なものであるのか、実は、そうあるべきだという「理性」的なものであるのか、自分自身で理解し感じるのは、いささかそのタイミングにおいては難しいのである。
真面目な人ほど、明るい人ほど、突然鬱になる場合があるという。これは、理性的な傾向が強い場合、「こうした方がいい」という「答え」が、よく分かってしまうが故に、しばしば、自分の感情を蔑ろにするからである。
やりたいことを見つけられない人たちへ。
みたいな、ブログとか、動画とかをみた。「まずは何かにチャレンジしてみる!」とか、「やりたいことがないなら勉強して学歴を磨くべきだ」とか、「生きる意味なんて考えるなんてロクなことがないぜ」とか、そういった言説であった。
で、まぁそういったことに、「そうだそうだ!」と賛同する人が多いようである。
なるほど、僕も、そう思う。どうせいずれみんな死ぬのだ、精一杯、価値を高める行動をしていくべきだ! とね。
ところが、その言葉、「思いっきり頑張ってやろうぜ!」とか、そんな(似非)ポジティブな言葉。
ほんとーのほんとーに、君は、そう、思っているの?
やる気が無い奴は帰れ!
部活とかやってると、こんなことをコーチに言われた人もいるだろう。で、それで、本当に帰る人はそんなにいない。
「なんで契約取れなかったんだ?」「努力が……足りなかったからです」「そうだな、頑張れ!」みたいな変形パターンもあるだろう。
つまり、マウントポジション(優位)の状態で、「あるべき」を振りかざすことで、さも、本心から思わせるような風にして、自分の口で、「あるべき」を語らせるのである。
そういうことばっかり押し付ける会社なり、友人関係なり、恋人関係なり、家族なり、そういった集団とか関係というのは、まっぴらごめんである。俺はそんな同調圧力が蔓延した関係であれば、むしろ口をつぐんで孤独でいた方がよほどマシだと思う。
いやいや、君、それは違うよ? そうやって自分を押し殺したコミュニケーションになるのは、君自身が心を開放していないからだよ?
とか、こう、僕が書いてきたことに対して、批判をするのは良いのである。それはそれで、独善を回避する重要な関係性である。そうではなくて、自分の価値観考え方信念生き方信仰が、絶対的に普遍的に正しいと、そう思っている人たち。そういう人たちとは、可能な限り関係をもちたくないものである。
いや実は、本当の「エリート」は、弱者や凡人たちに、さも、「君たちのためだよ」とか「自分自身で考えたこととして」とか、「自分の力で」とか、そういった主体性すら与えつつ、必要な方向へコントロールするのである。それは巧みに「感情」をもコントロールした上で調整されるために、それを暴くことは甚だ困難である。いやむしろ、その統治するエリートたち自身も、そうした「支配する」感情を排している場合もあるから、より複雑怪奇である。
本気で休むことの勧め
疲れた。もう終わりにしよう。眠い。
本当は、こんなこと書く気じゃあなかったんだけどなぁ。
来週のアニメを見るまでは死ぬな!
的なことを書かれていた、ある精神科医さんの記事が面白かったので、それについて思ったことでも書こうと思ったけれど、いつの間にか苛々に心が支配されてしまってこんなん記事になっちまった。
いやぁ、その落ち込むことというか、嫌なことあったんだよな。
それをどう対処したらいんかね。まぁ、その、対処しようがないんだよな。自分の力じゃどうしようもないことってあるんだよね。そのうえで、どうすべきかを考えていく必要はあるのだけれど、でもそれって、頑張れば頑張る程MPの消費が激しいんだよな。
でもこのMPって、視認できないから、残りが自分じゃよく分からない。だから、よく「休む」ことが重要なのだ。
風邪の時もそう。鬱の時もそう。休息というのは、非常に重要なことだ。
創作活動をしているときもそう。何か煮詰まってしまったら、休むことが必要だ。
しかし、この、休むって、どうやったらえんやろう。
身体を休めるというのは、横になっていればいいかもしれない。でも、精神を休めるには、どうしたらいいのだ?
心の休め方
まぁ探してみても、そんなすぐ役に立つ情報は手に入らない。上の記事は、まぁ間違ってないだろうが、結局、「自分のこれまでの経験から、心休まる方法を思い出してみましょう」的な感じである。結局自助努力だ。まぁそういうことだ。結局、「良く生きるためには、良く生きることを知らねばならない」(エ・ンドウ著『生きる意味を徹底して考える』P.★引用)ということである。
(疲れた、というか、苛々、というか、何だか「めんどくせぇ」って感じだ)
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