今日の一言「映像が綺麗でもストーリーがダメだと総じてダメだよな、というのは映画でもゲームでも同じ何だよな」
うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)
なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。
うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。
具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。
マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。
僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。
というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。
と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。
いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。
いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。
そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。
だから、他人のことなんて考えても無駄だ。
というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。
その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。
ものすごーく、端折って書いている。
恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
とても大事なことを書いている気がする。
明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。
他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。
こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。
愛して欲しい?
そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。
彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。
モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。
となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)
話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!
ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。
北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。
いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。
というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。
ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)
インプット無くして、アイディア無し。
何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。
反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。
……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。
人間(オーク)関係が希薄
オークと人間の橋渡し的存在を担うことになった女性性をもつハイブリットさんが、何故人間に心を寄せていくのかイマイチ理解ができなかった(というよりも、描写が足りなすぎる。一目ぼれして恋に落ちるレベルで理由が希薄)。うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)
なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。
うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。
具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。
その割に高評価である
と、正直、全くおすすめできる作品ではないのだけれども、案の定(?)、高評価なのである。マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。
僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。
というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。
と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。
周りに流されるな自分を信じろ
取りあえず、思ったのは、その、なんだ、好き勝手やるしかないってことだよ。いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。
いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。
そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。
だから、他人のことなんて考えても無駄だ。
というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。
その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。
ものすごーく、端折って書いている。
恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
とても大事なことを書いている気がする。
明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。
目的を果たす
他者の感情が重要なのではない。他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。
こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。
愛して欲しい?
そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。
主体的に生きる
結局、主体的に生きるしかないんだ、そう思った。彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。
モテたいという感覚への懐疑
なんだっけ、話しがそれた。モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。
となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)
話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!
ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。
北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。
いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。
プロットを書かないと収拾がつかなくなる
あれ、この記事って、ウォークラフトの感想じゃなかったの?(かっこわらい)というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。
ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)
インプット無くして、アイディア無し。
何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。
反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。
……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。
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今日の一言「影響されることの恐怖が孤独を招く」
ええと、サイコパス、一期の半分ぐらい見た。これは良作に思う。しかし、ちょっと調べたところ、一般的な評価はかなり低いようだ。シビュラシステムが欠陥システム過ぎてダメだ、ということが一つの要因らしい。
けれども、思うに、その「システム」というものに対する認識の違いが感覚の違いなんだと思う。
この作品はそもそも、システム(今流行のAIなどを含めてもいい)の完璧性への懐疑をしたいんだと思う。その意味で、この半分ぐらいみた段階では成功していると思うのだけれども、いやいや、裁判も何もないままドミネーター(対象となる人の性格や思考や感情などから判断する犯罪係数によって制圧から処刑までしてくれる銃)が全部判断してくれて、それを良しとする社会何て、リアリティなさすぎっしょ、というのが、批判の主たるものじゃなかろうか。
それは、もっともなようで、あまり興味をもてない指摘である。
人は何故生きるのか、生きるために生きるのだ、というぐらい、トートロジーでつまらない感想に思える。
そもそも、資本主義だとか、法律だとか、宗教とか、人のつくった広義のシステムで、完璧なものなどあったろうか。
世界的な宗教は、人類の愛と普遍性を求めていただろうが、聖地を邪教徒から取り戻そうと、幼い子供たちまで戦地に送り込んだ。そして、戦うことが死後神の国に行けると信じ込ませた。今の資本主義は大分改善されたものの、勃興期では、過剰な労働で多くの人が命を落とした。昨今のブラック企業どころの騒ぎではなかっただろう。
そうした、システムを信奉する人たちへの懐疑、警鐘というのをしたいのだろうと、2話か、3話ぐらいまで見た段階で何となく思ったが、半分ぐらい見た段階で、(恐らく)ラスボスのマキシマが登場したことで、彼の台詞の中などで分かった。
しかし、前述のドミネーターは反応しない。犯罪係数は低いままだ。撃てない。
ますますエスカレートするマキシマの行動、ついには人質を……。
それでも、ドミネーターは反応しない。おかしいだろ! 人を殺す意志をもつ相手に対して、犯罪ではないと、「悪」ではないというのか! 欠陥システムだ! というわけである。
しかしそれこそが、システムを「神」として信奉し、自らの意志を機械に任せてしまった人々への警鐘というわけである。
まぁ、これについては、今後、何故シビュラシステムが、マキシマの犯罪係数を計測できなかったのか、もう少し明確な説明が欲しいところだ。
ただ、批判ばかりする人のレビューはつまらないから、勝手な妄想を書くと、恐らく、多くの「普通の犯罪者」は、「自己の快楽」を求めているのではなかろうか。シヴュラシステムは、人類の幸福、正しいこと、正義、発展に寄与する指数を計測して定め、それと乖離する行動や思考や感情や性格を持つ人を、犯罪者認定していると思われる。
マキシマ氏の場合は、彼の言動の表面的に見てしまうと、全くもってクソ外道なわけだけれども、彼の本来的な意図、理念、理想自体は、シヴュラシステムをも、「正しい」と判断させるだけの、普遍性や正義をもちあわせているということなのでは無かろうか。
か弱い女性の喉を掻っ切ることは正義などでは無いだろう。しかし、それを補ってあまりあるほど、「人類」という存在への禍々しくも神々しい「愛」とか「正義」みたいなものに満ちているということなのでは無かろうか。
(そうはいっても、彼自身も何か楽しそうであるし、「自己」はなくて、人類の幸福を希求しているのだ、という説明はどうにも不十分な気がするし、まぁそこら辺は今後の展開に期待しよう)
問題は、面白いと、自分は思った、ということのメモなのである。一方で、この作品の評価はかなり低いようだ。何故二期まで製作が決まったのか全く理解できないという意見も多数のようである。
それによって僕は思った、あれ、やっぱり、この作品面白くないのかな、と。
他者からの影響というか、周りに流されるというか、空気を読むというか、そういうこと全般を、特に最近、嫌悪すべきと思っている。
いやもともと、何か流行にのるとか、そういうのに気持ち悪さを覚えていたし、右に倣え的な行動や考え方というのも違和感があった。いまさら、である。
ただ、そうはいっても、やっぱり、人間っていうのは社会的な動物であって~みたいな、そういう常識的なものによって、やっぱり、「正しい」考え方ってのがあるのだろうと、そんな風に合わせてやってきたことが多かった。
結局、何か上手くやろうと思ってやったことって、今になって残ってないよな。
サイトの運営なんて、金にもならなければ、周囲の人に言わせたら、無駄でしかないということになる。英単語の一つでも、数学の問題といたり、文系がいいなら、国語の文章題でもやってた方がましなんじゃないか、と言われるだろう。
けれども、交友関係然り、勉強しかり、趣味しかり。
結局、今となって、30代となって残ってるものは、本当に「やりたい」「やろう」と思ったことだけである。
これまでは、ローカルなコミュニティで一生を過ごした。家族、血縁、地域、学校、会社、など。それがすべてであった。だから、そこでの地位の向上や、周囲との関係性の円滑化が、人生始まりから終わりまで、至上命題だった。
今はどうなのか?
全部が全部そうじゃないし、未だローカルな関係が重要なのは、あまり変わっていないと思う。(よく分からないけどかっこいいから使えば、未だゲマインシャフトが有効である、とか言ってみたり)
だから、ローカルがいいとか、グローバルがいいとか、そういう問題じゃなくて、重要なのは、今の時代は、「選択が可能になった」ことにある。
そして、すぐさまインプットすべきは、自分はどうであるか、ということである。
一般論的なことしか書かれないブログは、総じて面白くない。
スピリチュアル系のブログであれ、そのスピリチュアルを批判するブログであれ、人類とはー、新興宗教の奴らはー、愛とはー、悩みを解決するにはーとか。ぶっちゃけ、全部くだらないと最近思う。いやもちろん、最初はいろいろ参考にさせてもらったものは大いにある。ザ・シークレットの引き寄せの法則とか、面白い本だった。けれども、いまや、それらの、二次、三次、四次……といった情報ばかりである。いや、反転すぐに書いておけば、それらが無駄とは思わない、何故ならば、最初に書いたように、ローカルなコミュニティは未だ有効性はなくなっていないと思うからであって、というのは、同じ神託であっても、全く知らない人からきくのと、信頼する身近な人から聞くのでは、意味合い(影響力)がまったく異なるからだ。
つまり、「僕にとって」は、それらはくだらない、というわけである。
何かを批判するということは、正直、あまり意味ある行為ではないのだ。
その批判とは、「批判しなければ自分に害が及ぶ」からするべきであるのだ。全く関係ないところで、ただ批判だけするというのは、「批評家」という職業であれば別だが、単なる暇つぶしでしかないのだが、それは全く持って悪趣味な暇つぶしと言わざるを得ない。
サイコパスで、全身サイボーグ化して、後は脳みそだけだね~その脳みそを若返らせるには、狩りで殺した人間の骨でつくったパイポを吸って、血肉わき踊るような壮絶な命のやりとりをすることだよねーといっていた、サイボーグ技術の会社の会長さんぐらい悪趣味である。
ただ、ちょっと離れて考えてみれば、どうして批判のための批判をしてしまうのか、その理由も理解できる。
つまり、秩序というのは、結局共同主観的なものであって、その批判する対象というのは、自分の感覚から「ズレ」があるものである。そのズレをほっておいて、そのズレが段々と大きくなって、それが主流となってしまうと、結局のところ自分が困るのである。
だから、異端をできる限り排除しようとする心が生じる。
だから、とても人間的な行為である。
けれども、それって、隣の国の野蛮人、ちょっと人間とは思えないから虐殺するよ~というのと、同じ心性と思ってしまう。いやもちろん、生物的に殺すのと、社会的に殺すのでは、意味合いもその抵抗感も違うことだろうが、まぁ、上に取り上げた会長さんの言葉を借りると「程度の問題」である。
猟奇的な殺人を繰り返す高校生女子の犯人を追い詰めた際、そのカリスマを持つ女生徒を先生も生徒もみんな守ろうとする。そんな中、マサオカさんは、クソ女を守ろうとする先生を取り押さえて、こう言い放つ。
「いやー先生、今のご時世、少年法とか無いんですわ」
やば、しびれた、濡れた、かっこいい!(とか、こんなシーンに感動するとかやっぱりちょっと俺はおかしいのか(かっこわらい))
まぁ、取りあえず、二期をみるかどうかはまだ未定だけれども、年内最後に近づいて、面白い作品に出会えたのはよかった。(年内期待していた小説は残念ながら翌年に持ち越しなのか……)
システムに対する認識
いやぁ、マキシマ氏チーター並みに強い。その強さが批判になっているようだ。ええと、サイコパス、一期の半分ぐらい見た。これは良作に思う。しかし、ちょっと調べたところ、一般的な評価はかなり低いようだ。シビュラシステムが欠陥システム過ぎてダメだ、ということが一つの要因らしい。
けれども、思うに、その「システム」というものに対する認識の違いが感覚の違いなんだと思う。
この作品はそもそも、システム(今流行のAIなどを含めてもいい)の完璧性への懐疑をしたいんだと思う。その意味で、この半分ぐらいみた段階では成功していると思うのだけれども、いやいや、裁判も何もないままドミネーター(対象となる人の性格や思考や感情などから判断する犯罪係数によって制圧から処刑までしてくれる銃)が全部判断してくれて、それを良しとする社会何て、リアリティなさすぎっしょ、というのが、批判の主たるものじゃなかろうか。
それは、もっともなようで、あまり興味をもてない指摘である。
人は何故生きるのか、生きるために生きるのだ、というぐらい、トートロジーでつまらない感想に思える。
そもそも、資本主義だとか、法律だとか、宗教とか、人のつくった広義のシステムで、完璧なものなどあったろうか。
世界的な宗教は、人類の愛と普遍性を求めていただろうが、聖地を邪教徒から取り戻そうと、幼い子供たちまで戦地に送り込んだ。そして、戦うことが死後神の国に行けると信じ込ませた。今の資本主義は大分改善されたものの、勃興期では、過剰な労働で多くの人が命を落とした。昨今のブラック企業どころの騒ぎではなかっただろう。
そうした、システムを信奉する人たちへの懐疑、警鐘というのをしたいのだろうと、2話か、3話ぐらいまで見た段階で何となく思ったが、半分ぐらい見た段階で、(恐らく)ラスボスのマキシマが登場したことで、彼の台詞の中などで分かった。
ラスボス登場
マキシマは、頭も良くてイケメンで、運動神経も抜群だけど、犯罪者だ。女の子を人質にして、カミソリで切り刻むぐらい悪者だ。しかし、前述のドミネーターは反応しない。犯罪係数は低いままだ。撃てない。
ますますエスカレートするマキシマの行動、ついには人質を……。
それでも、ドミネーターは反応しない。おかしいだろ! 人を殺す意志をもつ相手に対して、犯罪ではないと、「悪」ではないというのか! 欠陥システムだ! というわけである。
しかしそれこそが、システムを「神」として信奉し、自らの意志を機械に任せてしまった人々への警鐘というわけである。
まぁ、これについては、今後、何故シビュラシステムが、マキシマの犯罪係数を計測できなかったのか、もう少し明確な説明が欲しいところだ。
ただ、批判ばかりする人のレビューはつまらないから、勝手な妄想を書くと、恐らく、多くの「普通の犯罪者」は、「自己の快楽」を求めているのではなかろうか。シヴュラシステムは、人類の幸福、正しいこと、正義、発展に寄与する指数を計測して定め、それと乖離する行動や思考や感情や性格を持つ人を、犯罪者認定していると思われる。
マキシマ氏の場合は、彼の言動の表面的に見てしまうと、全くもってクソ外道なわけだけれども、彼の本来的な意図、理念、理想自体は、シヴュラシステムをも、「正しい」と判断させるだけの、普遍性や正義をもちあわせているということなのでは無かろうか。
か弱い女性の喉を掻っ切ることは正義などでは無いだろう。しかし、それを補ってあまりあるほど、「人類」という存在への禍々しくも神々しい「愛」とか「正義」みたいなものに満ちているということなのでは無かろうか。
(そうはいっても、彼自身も何か楽しそうであるし、「自己」はなくて、人類の幸福を希求しているのだ、という説明はどうにも不十分な気がするし、まぁそこら辺は今後の展開に期待しよう)
他者からの影響
というよりも、レビューをしようと思って記事を書こうと思ったわけではないのだ。問題は、面白いと、自分は思った、ということのメモなのである。一方で、この作品の評価はかなり低いようだ。何故二期まで製作が決まったのか全く理解できないという意見も多数のようである。
それによって僕は思った、あれ、やっぱり、この作品面白くないのかな、と。
他者からの影響というか、周りに流されるというか、空気を読むというか、そういうこと全般を、特に最近、嫌悪すべきと思っている。
いやもともと、何か流行にのるとか、そういうのに気持ち悪さを覚えていたし、右に倣え的な行動や考え方というのも違和感があった。いまさら、である。
ただ、そうはいっても、やっぱり、人間っていうのは社会的な動物であって~みたいな、そういう常識的なものによって、やっぱり、「正しい」考え方ってのがあるのだろうと、そんな風に合わせてやってきたことが多かった。
結局、何か上手くやろうと思ってやったことって、今になって残ってないよな。
サイトの運営なんて、金にもならなければ、周囲の人に言わせたら、無駄でしかないということになる。英単語の一つでも、数学の問題といたり、文系がいいなら、国語の文章題でもやってた方がましなんじゃないか、と言われるだろう。
けれども、交友関係然り、勉強しかり、趣味しかり。
結局、今となって、30代となって残ってるものは、本当に「やりたい」「やろう」と思ったことだけである。
選択的関係性
これは、時代の進歩を素直に喜ぶべきである。これまでは、ローカルなコミュニティで一生を過ごした。家族、血縁、地域、学校、会社、など。それがすべてであった。だから、そこでの地位の向上や、周囲との関係性の円滑化が、人生始まりから終わりまで、至上命題だった。
今はどうなのか?
全部が全部そうじゃないし、未だローカルな関係が重要なのは、あまり変わっていないと思う。(よく分からないけどかっこいいから使えば、未だゲマインシャフトが有効である、とか言ってみたり)
だから、ローカルがいいとか、グローバルがいいとか、そういう問題じゃなくて、重要なのは、今の時代は、「選択が可能になった」ことにある。
そして、すぐさまインプットすべきは、自分はどうであるか、ということである。
一般論的なことしか書かれないブログは、総じて面白くない。
スピリチュアル系のブログであれ、そのスピリチュアルを批判するブログであれ、人類とはー、新興宗教の奴らはー、愛とはー、悩みを解決するにはーとか。ぶっちゃけ、全部くだらないと最近思う。いやもちろん、最初はいろいろ参考にさせてもらったものは大いにある。ザ・シークレットの引き寄せの法則とか、面白い本だった。けれども、いまや、それらの、二次、三次、四次……といった情報ばかりである。いや、反転すぐに書いておけば、それらが無駄とは思わない、何故ならば、最初に書いたように、ローカルなコミュニティは未だ有効性はなくなっていないと思うからであって、というのは、同じ神託であっても、全く知らない人からきくのと、信頼する身近な人から聞くのでは、意味合い(影響力)がまったく異なるからだ。
つまり、「僕にとって」は、それらはくだらない、というわけである。
批判軸の構築
上のようなことは、それ自体くだらないと思っている。何かを批判するということは、正直、あまり意味ある行為ではないのだ。
その批判とは、「批判しなければ自分に害が及ぶ」からするべきであるのだ。全く関係ないところで、ただ批判だけするというのは、「批評家」という職業であれば別だが、単なる暇つぶしでしかないのだが、それは全く持って悪趣味な暇つぶしと言わざるを得ない。
サイコパスで、全身サイボーグ化して、後は脳みそだけだね~その脳みそを若返らせるには、狩りで殺した人間の骨でつくったパイポを吸って、血肉わき踊るような壮絶な命のやりとりをすることだよねーといっていた、サイボーグ技術の会社の会長さんぐらい悪趣味である。
ただ、ちょっと離れて考えてみれば、どうして批判のための批判をしてしまうのか、その理由も理解できる。
つまり、秩序というのは、結局共同主観的なものであって、その批判する対象というのは、自分の感覚から「ズレ」があるものである。そのズレをほっておいて、そのズレが段々と大きくなって、それが主流となってしまうと、結局のところ自分が困るのである。
だから、異端をできる限り排除しようとする心が生じる。
だから、とても人間的な行為である。
けれども、それって、隣の国の野蛮人、ちょっと人間とは思えないから虐殺するよ~というのと、同じ心性と思ってしまう。いやもちろん、生物的に殺すのと、社会的に殺すのでは、意味合いもその抵抗感も違うことだろうが、まぁ、上に取り上げた会長さんの言葉を借りると「程度の問題」である。
マサオカのおやっさんの台詞
突然、サイコパスの作品に戻ると、一番好きなキャラはマサオカさんだな。猟奇的な殺人を繰り返す高校生女子の犯人を追い詰めた際、そのカリスマを持つ女生徒を先生も生徒もみんな守ろうとする。そんな中、マサオカさんは、クソ女を守ろうとする先生を取り押さえて、こう言い放つ。
「いやー先生、今のご時世、少年法とか無いんですわ」
やば、しびれた、濡れた、かっこいい!(とか、こんなシーンに感動するとかやっぱりちょっと俺はおかしいのか(かっこわらい))
まぁ、取りあえず、二期をみるかどうかはまだ未定だけれども、年内最後に近づいて、面白い作品に出会えたのはよかった。(年内期待していた小説は残念ながら翌年に持ち越しなのか……)
今日の一言「よ、ようやく、目途がついてきた……ぜ。かはッ(吐血して倒れる)」
外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
SQLの勉強不足が身に染みた
今回の改修工事は、PHPのプログラミングというよりかは、データベースの取り扱いで四苦八苦した気がする。外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
終わりなき欲望
ここで、「お金」とか、「資本」というものの重要性が出現する。嘘喰い、とか、カイジ(カイジは殆ど読んだことも見たこともないのだが)とか、闇金ウシジマくんとか、何かでも触れられていることである。お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
考えるべきこと
奇妙な違和感がある。どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
囚われてはいけないことと成すべきこと
OKそうやな。マイナスの感情にとらわれちゃあいかんよな。明日から仕事だろうが、そんな憂鬱な気分なんてふっとばしゃあやろうじゃないきゃあ!しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
フルスロットルの後に
と、もう少し余裕があれば、じっくり考える時間ももてたろうに、もう24時をまわっている。ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
今日の一言「忍者ブログのコメントの返信分かりづらい」
SQLが難しい。
やりたいことは、複数のデータベースのテーブルから、各話に紐づく感想&批評の件数を集計し、指定したIDに紐づく作品とそれに紐づくサブタイトルと外部結合して表示しろ、ってだけなんだけど、これが恐らく、3時間以上かかった。
GROUP BYとcount関数と、外部結合と外部結合キーとの関係とか、基礎が分かってないからぐちゃぐちゃになるんだろうなぁ……。
まぁ結論的に、できた。
細かい仕様とか、方法は別のファイルにメモしたから、ここで残しておくべきは、できたときの「できたぞぁあわわあああ!」という感覚だろう。
プロの人たちからしたら、こんな単純なことに何時間もかけるなんて、仕事できない使えない奴……扱いなのだろうが、しかし、この、試行錯誤しながら、苦労しながら、「もうやめるか……」とか「他の方法にするか」とか、「まぁこの機能いらなくね?(はなほじ)」とか、妥協の心が舞い降りてくる中、なんとか壁を乗り越えてやりきった、というのは、中々の達成感である。
よく、スポコンなどでは、努力して壁を乗り越えた先に勝利がある、的ななんか熱い感じのがある。
努力、友情、勝利! 的なあれだ。
なんか、ちょっと引いてしまう感覚が僕はあるけれど、本当にやりたいことだったり、楽しいことに対して、壁を乗り越えて、できることが増える、というのは、楽しいし、充実したものだろうと思う。
勉強頑張って、いい大学に入る。
転職活動頑張って、いい会社に入る。
あー、そりゃあ、確かに、すげーことだし、頑張ったんだろうし、いいことなんだろう。
けれども、本当の達成感とか、充実感ってのが、そこにあるかどうか、それは別問題だ。
じゃあ、よく引き合いに出す、ゲームとかはどうか?
そこで出てくるのは、インプットとアウトプット、生産と消費の考え方だ。
ゲームはやっぱり、消費的な側面が強い。100対ゼロで、消費かというと、そうではないけれども、やっぱりその傾向が強いだろう。
と、考えたとき、ゲームのクリア的な要素で達成感を得る、というのは、自分のスキル(知識も、指の動きも、動体視力的な何かも全部含めてもよいが)の向上との関連が少ないから、そこに全力投球というのは問題があるのではないか、と思う。
じゃあ、知識とか、腕っぷしとか、それだけがやはり重要な要素なのか?
違和感があるが、うまい具合の表現が見つからないし、さほど今回書きたいことでもないからスルーしよう。
今度から普通にフォームから投稿しよう。
あー、でも、もう外真っ暗だなぁ。昨日買い物とかクリーニングとか行ってよかったなぁ。
そして休みが終わるのか……。クレジットその他住所変更しないとなぁ。
ああ、本当に、時間が過ぎるなぁ。
これまで費やしてきた時間を考えると、三国志シリーズに100時間以上費やしたのではなかろうか。それ以外にも、サードパーソンシューター(TPS)というジャンルのシューティングゲームとかにも、結構使った気がする。今やっている黒い砂漠も、これ、放置時間長いけれども、有に100時間以上は使ってるよなぁ。
(三国志13もいつの間にやら発売されているんだな。やってみたい気はするが、12でのがっかり感があり、レビューも相変わらず低いようなので、これも大分、「やってみる」ことへの労力がでかい。ある意味壁である)
時間って、ほんと有限だなぁ。
もう休みが終わるのかぁ。
愁いを帯びたこの眼差しはどこに焦点をあてるのか……。
さて、そんなこんな、ボケっとしていても仕方がない。気分転換にと始めたブログだけれども、指が止まるぐらいなら、熱いシャワーを浴びるでも、仮眠するでも、他にすることはあるだろう。
よし、残り時間も5時間程度となったが、もうひと頑張りするか。
(しかし、何故最近仕事へ対して特にやる気が起きないのだろうか。明日の憂鬱さが気になるところ)
サイト改修工事状況
SQLが難しい。
やりたいことは、複数のデータベースのテーブルから、各話に紐づく感想&批評の件数を集計し、指定したIDに紐づく作品とそれに紐づくサブタイトルと外部結合して表示しろ、ってだけなんだけど、これが恐らく、3時間以上かかった。
GROUP BYとcount関数と、外部結合と外部結合キーとの関係とか、基礎が分かってないからぐちゃぐちゃになるんだろうなぁ……。
まぁ結論的に、できた。
細かい仕様とか、方法は別のファイルにメモしたから、ここで残しておくべきは、できたときの「できたぞぁあわわあああ!」という感覚だろう。
プロの人たちからしたら、こんな単純なことに何時間もかけるなんて、仕事できない使えない奴……扱いなのだろうが、しかし、この、試行錯誤しながら、苦労しながら、「もうやめるか……」とか「他の方法にするか」とか、「まぁこの機能いらなくね?(はなほじ)」とか、妥協の心が舞い降りてくる中、なんとか壁を乗り越えてやりきった、というのは、中々の達成感である。
壁を乗り越えるということ
壁、ね。よく、スポコンなどでは、努力して壁を乗り越えた先に勝利がある、的ななんか熱い感じのがある。
努力、友情、勝利! 的なあれだ。
なんか、ちょっと引いてしまう感覚が僕はあるけれど、本当にやりたいことだったり、楽しいことに対して、壁を乗り越えて、できることが増える、というのは、楽しいし、充実したものだろうと思う。
勉強頑張って、いい大学に入る。
転職活動頑張って、いい会社に入る。
あー、そりゃあ、確かに、すげーことだし、頑張ったんだろうし、いいことなんだろう。
けれども、本当の達成感とか、充実感ってのが、そこにあるかどうか、それは別問題だ。
じゃあ、よく引き合いに出す、ゲームとかはどうか?
そこで出てくるのは、インプットとアウトプット、生産と消費の考え方だ。
ゲームはやっぱり、消費的な側面が強い。100対ゼロで、消費かというと、そうではないけれども、やっぱりその傾向が強いだろう。
と、考えたとき、ゲームのクリア的な要素で達成感を得る、というのは、自分のスキル(知識も、指の動きも、動体視力的な何かも全部含めてもよいが)の向上との関連が少ないから、そこに全力投球というのは問題があるのではないか、と思う。
じゃあ、知識とか、腕っぷしとか、それだけがやはり重要な要素なのか?
違和感があるが、うまい具合の表現が見つからないし、さほど今回書きたいことでもないからスルーしよう。
時間はえーなぁ
忍者ブログのコメント、管理ページの返信からすると、非常に分かりづらい。今度から普通にフォームから投稿しよう。
あー、でも、もう外真っ暗だなぁ。昨日買い物とかクリーニングとか行ってよかったなぁ。
そして休みが終わるのか……。クレジットその他住所変更しないとなぁ。
ああ、本当に、時間が過ぎるなぁ。
これまで費やしてきた時間を考えると、三国志シリーズに100時間以上費やしたのではなかろうか。それ以外にも、サードパーソンシューター(TPS)というジャンルのシューティングゲームとかにも、結構使った気がする。今やっている黒い砂漠も、これ、放置時間長いけれども、有に100時間以上は使ってるよなぁ。
(三国志13もいつの間にやら発売されているんだな。やってみたい気はするが、12でのがっかり感があり、レビューも相変わらず低いようなので、これも大分、「やってみる」ことへの労力がでかい。ある意味壁である)
時間って、ほんと有限だなぁ。
もう休みが終わるのかぁ。
愁いを帯びたこの眼差しはどこに焦点をあてるのか……。
さて、そんなこんな、ボケっとしていても仕方がない。気分転換にと始めたブログだけれども、指が止まるぐらいなら、熱いシャワーを浴びるでも、仮眠するでも、他にすることはあるだろう。
よし、残り時間も5時間程度となったが、もうひと頑張りするか。
(しかし、何故最近仕事へ対して特にやる気が起きないのだろうか。明日の憂鬱さが気になるところ)
今日の一言「ええーもう終わりなの」
でも面白かった!
重い雰囲気は避けられないが、人の心の闇とか、悪といった面に焦点をあてて描く作品というのはこれまた面白い。
最近読み始めた奴だと、善悪の屑という作品。これも、胸糞悪くなる表現のオンパレードだが、面白い。なんというか、復讐屋みたいな家業の人たちの話しで、社会のゴミみたいなやつに、これまた狂ったような復讐を施していく作品なわけだけれども、直近の巻だと、復讐家業のライバル、みたいなのが現れたりして、何だか僕のテンションは下がったりしている。今後盛り返してくれるのかどうか期待したいところ。
嘘喰いも、面白いし、今後も記憶に残り続けるだろうと思いながら、手元に置いておきたいというと、ちょっと違うなと思ってしまった。手元に残っている漫画は、結構少ない。テラフォーマーズもキングダムも、面白かったし途中まで買い続けていたけれども、既に消えてしまっている。
闇金ウシジマくんも面白い。これもダークな感じだ。うーむ、しかし、ギャンブルにはまる人の気持ちがやはり分からない。ハニートラップというか、女性のお店的な奴につぎ込むのも分からない。いや、楽しいのは楽しいけれども、どうせ「虚構」なのだったら、もっと楽しい虚構を知っているがゆえに、なのかもしれないな。
いや、「虚構」を言い始めたらだな、現実世界、といつも規定しているものだって、どこまでそう言い切れるかというのが……おぉう、またこの流れの話しになると長くなりそう。今日はもう寝る。寝るけれども、メモしておかなければならない。
ゆえに、「因果」である。
因果により、一つ変えると、他にも大きな影響を与えていく。
というわけで、難航している。途中から、いっそ、一から全部作った方がはやいんじゃね? という魔のささやきが聞こえるぐらいである。
最近、扱うデータの容量も大きくなってきたため、効率的なデータの保存についても考えなければいけなくて、そっちをやり始めると、正直時間がいくらあっても足りない。
データベースの構造を考えるというのが、「正規化」というのであるけれども、これは結構専門的な知識体系が構築されていることで、素人が付け焼刃でやろうとすると、大変なことになりかねない。
しかも、あまりユーザに対して影響がある部分でないから、やりがいも少なくなっていく。しかし、非常に大事なところであるので、頑張らねばならない。
そして、簡易的な設計書を作りながら進めているけれども、これ、絶対、一気に仕上げないと、途中からやろうとするとどこをどういじっていいのか分からなくなるパターンだ。明日は、明日こそは、本気で進めていくことにしよう。
本当は、小説書くのと、半々ぐらいの配分にしようと思っていたのだけれども、難しそうだなぁ……。
いや、東京03というグループの一人の方が、離婚されていて、2年たったけど未練が残っていて、キャバクラに通い始めてしまった、的な歌は面白かったし、いや真面目に音楽的に上手だなぁと思った。とか思ってたら、ピアノでひぐらしの鳴く頃にのYOUの練習を始めてしまったりと、やりたいことを手あたり次第やってしまった日であった。反省。
……いや、あんまし反省してないんだな、これが。非常に楽しかった。久々にいい感じで時間を使えた気がする。
そして、また来週は怒涛のぐちゃぐちゃ忙し具合になるだろう。飲み会的なのも何回か入る。
あーでも、どうなんだろうな。
結局、こうやって楽しく過ごせるのも、リアル(現実世界的な、仕事的な)の営みがあるからであって、それがないと、闇金ウシジマくんや嘘喰いなんかで登場する借金して落ちぶれた人たちみたいになってしまうのだろう。
そしたら、配分が難しいよな。
配分? そう、つまりだ、「本当の自分」というのは、「引きこもり」の自分であって、「元気で楽しくてにこやかで仕事に真剣に取り組み周囲のことを考え成果を上げて皆のために働く」自分は、代替人格であり、しかしながらそれでいて、自らの生活は後者のそれによって成り立つとするならば、果たして、どこへ、どの程度、どのように力を、時間を投資すればよいのだろうか。
そして先日書いた通り、僕の意識は先にも向かう。この「引きこもり」の僕がいたとして、果たして、最後の日まで、その孤独という状態を是、とするべきなのかどうか。
答えは、でない。
答えは、今の手持ちの情報、知識、思考力、価値観、信念では、導き出すことができない。
よって、今は、反省などしている暇はなく、ただひたすら前に、前に、自らの感性と、「やりたいこと」の感覚を研ぎ澄ませ、進んでいくのみである。
とか何とか、かっこつけて書いていて、きっと後から読むと赤面するほど恥ずかしいのだろう。
まぁ、よい、それでもだ、自分の感覚を徹底的に構築していくというのが、ここの主旨なのだから。
あっという間に過ぎ去った土曜日
なんてこったい、思ったより進まなかった。買い物とクリーニングのため~っと、闇金ウシジマくんと嘘喰い読みにネットカフェに行ったのがいけなかったな! しかし、一週間に一度は愛馬に跨るのがやはり楽しい。明日も乗りたい、と思うのだが、寒かったり、出発するまでの準備がオックウになったりするのはいつものことである。嘘喰い
ある方のレビューというか感想において、殺人マシーンとして第二の人格を埋め込まれた哀しき青年のお話し……ということで、シグルイみたいなバトルモノだと思ってたら、全然違った! カイジとかみたいなギャンブラー(賭け)的な作品だった! 騙された!(笑)でも面白かった!
重い雰囲気は避けられないが、人の心の闇とか、悪といった面に焦点をあてて描く作品というのはこれまた面白い。
最近読み始めた奴だと、善悪の屑という作品。これも、胸糞悪くなる表現のオンパレードだが、面白い。なんというか、復讐屋みたいな家業の人たちの話しで、社会のゴミみたいなやつに、これまた狂ったような復讐を施していく作品なわけだけれども、直近の巻だと、復讐家業のライバル、みたいなのが現れたりして、何だか僕のテンションは下がったりしている。今後盛り返してくれるのかどうか期待したいところ。
嘘喰いも、面白いし、今後も記憶に残り続けるだろうと思いながら、手元に置いておきたいというと、ちょっと違うなと思ってしまった。手元に残っている漫画は、結構少ない。テラフォーマーズもキングダムも、面白かったし途中まで買い続けていたけれども、既に消えてしまっている。
闇金ウシジマくんも面白い。これもダークな感じだ。うーむ、しかし、ギャンブルにはまる人の気持ちがやはり分からない。ハニートラップというか、女性のお店的な奴につぎ込むのも分からない。いや、楽しいのは楽しいけれども、どうせ「虚構」なのだったら、もっと楽しい虚構を知っているがゆえに、なのかもしれないな。
いや、「虚構」を言い始めたらだな、現実世界、といつも規定しているものだって、どこまでそう言い切れるかというのが……おぉう、またこの流れの話しになると長くなりそう。今日はもう寝る。寝るけれども、メモしておかなければならない。
サイト構築の進捗
システムとは、個々の要素が関連しあって一つの目的を成す体系のことである。ゆえに、「因果」である。
因果により、一つ変えると、他にも大きな影響を与えていく。
というわけで、難航している。途中から、いっそ、一から全部作った方がはやいんじゃね? という魔のささやきが聞こえるぐらいである。
最近、扱うデータの容量も大きくなってきたため、効率的なデータの保存についても考えなければいけなくて、そっちをやり始めると、正直時間がいくらあっても足りない。
データベースの構造を考えるというのが、「正規化」というのであるけれども、これは結構専門的な知識体系が構築されていることで、素人が付け焼刃でやろうとすると、大変なことになりかねない。
しかも、あまりユーザに対して影響がある部分でないから、やりがいも少なくなっていく。しかし、非常に大事なところであるので、頑張らねばならない。
そして、簡易的な設計書を作りながら進めているけれども、これ、絶対、一気に仕上げないと、途中からやろうとするとどこをどういじっていいのか分からなくなるパターンだ。明日は、明日こそは、本気で進めていくことにしよう。
本当は、小説書くのと、半々ぐらいの配分にしようと思っていたのだけれども、難しそうだなぁ……。
反省
そもそも、今日もユーチューブなんかで、歌が上手い芸人さんの番組とか見ちゃったのがいかん。いや、東京03というグループの一人の方が、離婚されていて、2年たったけど未練が残っていて、キャバクラに通い始めてしまった、的な歌は面白かったし、いや真面目に音楽的に上手だなぁと思った。とか思ってたら、ピアノでひぐらしの鳴く頃にのYOUの練習を始めてしまったりと、やりたいことを手あたり次第やってしまった日であった。反省。
……いや、あんまし反省してないんだな、これが。非常に楽しかった。久々にいい感じで時間を使えた気がする。
そして、また来週は怒涛のぐちゃぐちゃ忙し具合になるだろう。飲み会的なのも何回か入る。
あーでも、どうなんだろうな。
結局、こうやって楽しく過ごせるのも、リアル(現実世界的な、仕事的な)の営みがあるからであって、それがないと、闇金ウシジマくんや嘘喰いなんかで登場する借金して落ちぶれた人たちみたいになってしまうのだろう。
そしたら、配分が難しいよな。
配分? そう、つまりだ、「本当の自分」というのは、「引きこもり」の自分であって、「元気で楽しくてにこやかで仕事に真剣に取り組み周囲のことを考え成果を上げて皆のために働く」自分は、代替人格であり、しかしながらそれでいて、自らの生活は後者のそれによって成り立つとするならば、果たして、どこへ、どの程度、どのように力を、時間を投資すればよいのだろうか。
そして先日書いた通り、僕の意識は先にも向かう。この「引きこもり」の僕がいたとして、果たして、最後の日まで、その孤独という状態を是、とするべきなのかどうか。
答えは、でない。
答えは、今の手持ちの情報、知識、思考力、価値観、信念では、導き出すことができない。
よって、今は、反省などしている暇はなく、ただひたすら前に、前に、自らの感性と、「やりたいこと」の感覚を研ぎ澄ませ、進んでいくのみである。
とか何とか、かっこつけて書いていて、きっと後から読むと赤面するほど恥ずかしいのだろう。
まぁ、よい、それでもだ、自分の感覚を徹底的に構築していくというのが、ここの主旨なのだから。