今日の一言「よ、ようやく、目途がついてきた……ぜ。かはッ(吐血して倒れる)」
外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
SQLの勉強不足が身に染みた
今回の改修工事は、PHPのプログラミングというよりかは、データベースの取り扱いで四苦八苦した気がする。外部結合とか、グループ化とか、考え方が難しかったなぁ。それでいて、いざできあがると、え、こんな簡単でいいの? 的な感じである。これはきっと、誰か他のできる人にやってもらったら、「あーそういうものね」みたいに、あまり苦労せずにできてしまうことだろう。それがゆえに、苦労を知らないため、「本当の理解」に遠くなる。
この本当の理解というのは、もちろん、いつも書いているように、「実感」が伴うかどうか、というのもあるけれども、例えば単純な計算問題でもそうである。
四則演算は、現代日本人は、誰でもできる。しかし、3桁とか、5桁とか、単純に増えていったとき、絶対間違わずに、短時間で、正解することができるだろうか。
考え方は分かっている。ただし、「できる」かどうか分からない。この点を、よく銘記しておく必要がある。
往々にして、人がやっているのは、簡単なように思えるのだ。
映画だって、小説だって、受動的に見るのは簡単だけど、じゃあ自分が作れるか、となると、以前僕が「え、これ、ふざけてんの?」とこきおろした、紀元前1億年?だったか、そんなB級恐竜映画だって、いざ作ろうとしたらきっともっとひどいものになるだろう。
いや、それはお金をもらっているプロフェッショナル、なのだから、そんな品質が低いものじゃあだめだろうと、それはもちろんだ。
だが。どこまでもどこまでも品質をあげつづけること、コストダウンすることを求め続けて、いつまで続けるのだろうか。
終わりなき欲望
ここで、「お金」とか、「資本」というものの重要性が出現する。嘘喰い、とか、カイジ(カイジは殆ど読んだことも見たこともないのだが)とか、闇金ウシジマくんとか、何かでも触れられていることである。お金は、それ自体が目的になりえる、不思議な性質をもっている。
お金を何に使うのか、という問題ではなく、お金を増やすことが、それ自体が正解、正しいこと、立派なことになっていくのである。
こんな書き方すると、否定したいのか、と思ってしまうが、そうではなくて、「終わりなき高品質化と低コスト化」の中で、自分の身を守れるのは、お金、でしかなくなるのである。
どういうことか?
つまり、労働が無価値だ、ということである。
え、言いすぎ? そう、いつもの、ちょっと極端なことを書いてから掘り下げていく方法である。
いや単純なことである。どこまでもどこまでも、頑張っても頑張っても、もっともっと、もっと良いものを、もっと安いものを、と求められ続けるのである。
どっかで、折り合いつけなきゃまずいんじゃないか、ということだ。
ところが、だ、すぐさま書いておかねばならないのは、基本的に、生か、死か、といった状況において、選択など殆どなされない。
必死に生にすがりついていくしかないのだ。
どこか、途中でやめて、楽しよう、なんて、そんな虫のいい話などないのだ。働け、働け。
考えるべきこと
奇妙な違和感がある。どこか、この世界の構造、おかしくないかと。
いやいや、そんな暇はないのだよ、と仏教徒はいう。毒矢の、比喩である。恐ろしい毒矢で射られたとき、「この矢を打った奴の素性を、射った目的を、この矢の構成を……明らかにするまでは、手当などしてはならない」と言っていたら、たちどころに毒がまわって、死に至るだろう、と。
だから、考えても仕方がないことは、語るべきにあらず、と。
この世に目的はあるのか、この世は無限大なのか有限なのか、死後の世界はあるのか、無いのか。
――そんなことを考えている暇はない、と。今現に生きることを、正しい道を、正しいことをするのである、と。
僕は、その考えを、是、と思う。
ので、悩んだり、苦しんだり、悲しんだり、愁いたり、憎んだり、怒ったりすることは、基本的に「エラー」だと思っている。
ですがね。
果たして人はそう簡単に仏の教えを実践できるのでしょうか、と。
注意すべきは、シッダールタさん的にも、怒りや、憎しみを全くないものにするとか、その感情自体を認めないとか、そういうことではないのだ。
ただ、そこに「囚われてはいけない」というのである。
無為なる境地。常に心のジャイロスコープをもて、と。
囚われてはいけないことと成すべきこと
OKそうやな。マイナスの感情にとらわれちゃあいかんよな。明日から仕事だろうが、そんな憂鬱な気分なんてふっとばしゃあやろうじゃないきゃあ!しかしながら。恐れながら申し上げるに、「正しい道」を追い求めるのも、またそれは、「涅槃」という境地に執着していることになるのである。
ゆえに、仏の教えの実践とは、自己の禊ぎである。自分というものを、少しずつ少しずつ削って、削って、磨いて、磨いていくものである。
あーうん。
しかしあれだな、「仏の教え」とか書いていると、ものすごーく宗教くさくなるな、いや、まぁ宗教なんだが、しかしだな、宗教って何だといえば、道徳とか、資本主義とか、そこらへんのイデオロギーとか「概念」ってものと、ほとんど変わらないんだ、ということを、どうにもあまり、他者は理解しない(というより、どうやらできないのではないかと最近傲慢にも思ってしまっている)のである。
まぁ、それは、別に否定するべきことではなくて、結局、それが真実であろうがなかろうが、「物理的世界において役に立つか立たないか」そこが多くの人にとってのポイントなのである。
いや僕ももちろんそうだ。
そうなんだ、けどさ……。
フルスロットルの後に
と、もう少し余裕があれば、じっくり考える時間ももてたろうに、もう24時をまわっている。ああ、実質、10時間以上は作業していたなぁ。これ、家族とか恋人とか友人とかいたら、絶対できないな。あいつ何やってんだ? となる。
それでいて、成果物も、見かけ上(使う人)的には、あまり大きな変化はない。
立派な家が建っていても、その内部構造がどれだけ力を入れられているか、というよりかは、システムキッチンとか、内装とかの方が住む人にとって重要事項になりえる。
だから、誰かに「すごいね!」と言ってもらうためにやっていては、とても身がもたない、と思った。
ああ、そう、だから、「高品質低コスト」問題を書きたくなったのだろう。終わりなき欲求。要望。
自己肯定感。満足感。充足感。
言い換えると、自己満足、となる。
趣味、とは究極の自己満足なのだろうか。
うん、何だか、書いてること支離滅裂化している、よしもうやめよう。しかし、今日は頑張った。精一杯やった、と認めてあげよう。
食事もほとんど取らず、部屋もひどいことになってきたが、うん……。
これが、もう少し、平日も時間を取れるなら、バランスよく時間配分するものだが、今日がほんと勝負だったからなぁ。
しかし、小説の方は全く進められなかった。他の方から、メッセージなど頂いているが、返信することもできなかった。
いや、お前、その優先順位どうなのよ?
そうなんだよ、これだよこれ、まさにその、優先順位問題。
普段人と接していると、この問題が常に重要な問題になり、というのは……、ああ、もう今日は終わり。肩も目も腰も痛くなってきた……。ルーチンやって寝よう。
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