今日の一言「やっぱり最後はまとめて一気に見てしまう」
※本記事はネタバレを多分に含むために注意願います。
ああ、なんだか、良い作品が終わると、黄昏時の気分になる。ラスト8話ぐらい一気に見たため、どっと疲れがおしよせて、23時に寝るという目標を立てつつも床に倒れこんで寝てしまった。
この作品は、以下の点において、忘れられない作品になったと思う。
・ガンダムシリーズで初めて面白いと思った(ただし、本作を除き、初代の劇場版しかみたことはない)
・ほぼネタバレ状態で見た
・二期まである作品を短期間で見終わった(というよりも、二期まである作品で最後まで見ることができたのって、攻殻機動隊以外ないかもしれない。ガンスリ、おめーは駄目だ(※))
※ガンスリンガーガール:一期は名作。あの重苦しくも健気な雰囲気がよい。原作漫画も、後半はなんだかぐちゃぐちゃ感があったけど、全体的に良かった。二期目の方向転換は残念だった。なんだか、最初は「おとな」向けの作品だったのを、モンハンとかデジモンとかの低年齢向けにしたような……。いや、いい大人がアニメなんてみるなということなのか。
ある方が挙げられていた第二期の問題点、
・ラストバトルに挑む主人公たちの動機の薄さ
・マクギリス・ファリドことマッキーの肩透かしによる後半の一本調子
であるが、僕は、一気にまとめて見たのも影響するかもしれないが、一点目については特に気にならなかった。
確かに、演出がおざなりじゃあないかと、そんな感覚もあると思うし、
名瀬のアニキと、結果的に義兄弟になったとはいえ、最初は「俺の傘下に入らないか?」と持ち掛けられていたが、「鉄華団の仲間たちをバラバラにするわけにはいかねぇ!」とオルガ団長は足蹴にしたり、メルビットさん(大人の女性)からは何度も、「戦わない道もあるのでは……?」と諫められつつも、結局、「俺たちは戻るとこなんかない。前に進むしかねーんだ!」と突っ走り続ける。(そしてそれを後押しする三日月主人公とその仲間たち(※))
僕はそれを「攻めの人生」と表現して、「んー、なんか、違和感があるなぁ」と書いたけれども、結局彼らは、最初から最後まで、自分たちの「筋を通した」のではなかろうか。
そういった意味で、オルガ団長のあの無意味であっけない死というのも、
いやむしろ、このあっけなさというのは、もっと他のシーンでもあったではないか。ある女性パイロットが、ひと仕事を終え、これから違った人生を歩んでいこうと、恋心を抱いた男性とも今は別れを決意し、でもその人の面影がみえるテディベアを手に取った、その瞬間、あっけなくマフィアの凶弾に倒れる。
さらにその女性は、モビルスーツに乗っては、才能あふれ強かった。それが、道端で、ふつーの鉄砲で殺されてしまうのだ。主要人物は(敵ですら)モビルスーツに乗ってるときに何らか命を散らすものだと、あまりロボットものを見ないからなのかもしれないが、そんな先入観が自分にあったことを確認したその瞬間に完全に砕け散るという非常に面白い体験だった。
※しかしその仲間たちの中には、突っ走るしかないその危なっかしさについて、一期で参謀役を努めていたビスケットくんとか、二期で妹との生活のために鉄華団を辞める決意をしたタカキくんとか、「おめーら、こんなわけわかんねー戦いに参加するなんて、頭悪すぎだろ!」と戦闘前に出ていったザックくんとか、気づき、行動していた人たちもいた。
そういった人物も描いているということは、鉄華団全体としては、戻ることができなく、戦うしかできない子供たちという表現だろうと思う。
ただ、二点目の、マッキーの戦略のなさには、確かにもはや「不思議」な感覚すら覚えた。
まぁそれも、彼の生い立ちとか、「アグニカ」という伝説を頼るしかなかった幼少期のことを思えば、伝説の機体バエルに期待が大きくなっていたということで、仕方がなかったようにも思える。
しかし確かに、一期目の、あの冷徹沈着、先を見通す戦略性などの印象とは異なり、戦力がどんどん削がれて不利になっていくなか、なんか言い訳じみた感じで鉄華団に、「君たちらしくないな」とか言って戦力をあてにしている様は、あれ、本当にこれ、同じ人だっけ? ぐらいに思わせられた。
幼妻に背徳を罵られ、ナイフを突き付けられた際のシーンとか、カッコよかったんだけどなぁ……。
たぶん。
勝手な感想だけれども、ヒロインの一人、クーデリアもまた、世界を改革したいと考える一人であって、その人も、「革命の乙女」の「物語」を自らの根拠としていた。
マッキーも、現政治体制(軍事組織)の創立者とされる「アグニカ」の「物語」を根拠としていた。
両者は似ている。
しかし、マッキーは、他者を頼ることができなかった。
自分に恋心を寄せてくれる女性(権力もあり、自身もモビルスーツのパイロット)をも捨て駒にし。
自分に憧れをもってくれて、良き理解者たりたいと願う幼馴染をも捨て。
――ただ絶対的な力だけで世界の改革を望んだ。
そういう意味では、敵組織の親玉は、戦略性もさることながら、人脈も盤石たるものだった。
いくら理念が素晴らしいものでも、「こころ」が伴わない暴力では、世界を救うことはできないと、そんなことが表現したかったのではなかろうか。いやー軽い言葉を吐いてるなぁ。まぁ単なる戯言であろう。
追記:某氏の仰るマッキーサードガッカリ事変とは、幼馴染の友との最後の会話ではなかろうか。最後まで信念を貫いて果てるというよりも、多分「憧れ」とか「嫉妬」の感情でしかなかったところがガッカリなのかもしれない。まぁでも、そういうキャラというか、立ち位置だったんだろうなぁと、全体を見てからだと思ってしまうところが少し哀しき哉。
一気に見ると、その感覚が全体感として薄まってしまう点が問題である。
とはいえ、「いろいろ思った」ってことは、それは、僕の中の基準では、名作・傑作であったということになる。
こういった、いろいろ思いを馳せられる作品を次から次へと消費していくというのもいいなぁ。
いやいや。
それはきっと、いずれ行き詰りに陥るだろう。
エンタメと現実を同一視しなけりゃならないとか、そういうことではないけれども。
エンタメはエンタメ。
現実は現実。
仕事は仕事。
遊びは遊び。
そんな風に、「人生」という総体を、その時その時で分割して生きてくというやり方。
フェイスブックとかでアカウントを変えて、そのサークル(集団)ごとに役割(ロール)を変えて適切な「個性」を選択して生きていくってのが、上手い生き方なのかもしれないが、俺はやっぱり、そういった生き方はできない気がしてなない。
(精神的、技術的にはできるし、そうやってうまくやってきた面も多くあるわけであるけれど)
で、まぁそういうのもいいんじゃないかと思う。「俺はこれはできない」というのは、逃げだったり、老害だったりするわけだけど、でも、「自分」ってのを貫き生きてくのって、やっぱりかっこいいと思う。
ああ、いや、その、かっこいいかどうかはどうでもいいけれども、僕自身、やはり、憧れあているということなんだろうか。
(さてここで問題です。では「自分」とは何でしょう? ある方のコメントのとおり、自分とは、「変化するもの」であるとも言える。で、あるならば、「自分を貫く」というのは、一体全体本当に可能なことなのだろうか? そうした問いは、本記事ではやめておこう。とにかく、今は、良い作品を見終わった後の、感傷的な気分に浸っていたい。なに浸っちゃってるの? ウケるんだけど(わら)という批判はもっともだけど、いやそうなのだ、浸っていたいのだ。これはとても、贅沢な時間の使い方だよ)
※本記事はネタバレを多分に含むために注意願います。
鉄血のオルフェンズ第二期視聴完了
見終わった。ああ、なんだか、良い作品が終わると、黄昏時の気分になる。ラスト8話ぐらい一気に見たため、どっと疲れがおしよせて、23時に寝るという目標を立てつつも床に倒れこんで寝てしまった。
この作品は、以下の点において、忘れられない作品になったと思う。
・ガンダムシリーズで初めて面白いと思った(ただし、本作を除き、初代の劇場版しかみたことはない)
・ほぼネタバレ状態で見た
・二期まである作品を短期間で見終わった(というよりも、二期まである作品で最後まで見ることができたのって、攻殻機動隊以外ないかもしれない。ガンスリ、おめーは駄目だ(※))
※ガンスリンガーガール:一期は名作。あの重苦しくも健気な雰囲気がよい。原作漫画も、後半はなんだかぐちゃぐちゃ感があったけど、全体的に良かった。二期目の方向転換は残念だった。なんだか、最初は「おとな」向けの作品だったのを、モンハンとかデジモンとかの低年齢向けにしたような……。いや、いい大人がアニメなんてみるなということなのか。
傑作かどうか
自分の中で敢えて評価をするのなら、上位にランクインするのは間違いないだろう。ただし、傑作か、名作かどうか、とか、そういった基準はあまり意味がないだろうとするレビューというか感想のとおり、様々な要素が詰め込まれているので、様々な感想があるんだろうなぁと思う。ある方が挙げられていた第二期の問題点、
・ラストバトルに挑む主人公たちの動機の薄さ
・マクギリス・ファリドことマッキーの肩透かしによる後半の一本調子
であるが、僕は、一気にまとめて見たのも影響するかもしれないが、一点目については特に気にならなかった。
確かに、演出がおざなりじゃあないかと、そんな感覚もあると思うし、
早急な結果を求めるあまり、自分のものではない主事主張に乗せられて受動的に戦争を始めてしまったことへの、これは因果応報を描いたものだったのかもしれない。だがしかし、やはり俺は、どのような理屈があろうと最終決戦に主人公陣営が挑むときに切実な動機がないことは正当化されるべきではないと思う。――螺旋のモノリスという、「切実な動機の不在」というものが、物語(創作)においては必要だというのも最もに思える。
行き当たりばったり感
でも、なんか、鉄華団の面々は、一期目から、必ずしも切実な動機(この表現を、合理的判断と読み替えるとより僕の表現したいことに近い気がするが)のもとに戦ってきたわけじゃあない気がしていた。いってみれば、行き当たりばったり感がずっと付きまとっていた。名瀬のアニキと、結果的に義兄弟になったとはいえ、最初は「俺の傘下に入らないか?」と持ち掛けられていたが、「鉄華団の仲間たちをバラバラにするわけにはいかねぇ!」とオルガ団長は足蹴にしたり、メルビットさん(大人の女性)からは何度も、「戦わない道もあるのでは……?」と諫められつつも、結局、「俺たちは戻るとこなんかない。前に進むしかねーんだ!」と突っ走り続ける。(そしてそれを後押しする三日月主人公とその仲間たち(※))
僕はそれを「攻めの人生」と表現して、「んー、なんか、違和感があるなぁ」と書いたけれども、結局彼らは、最初から最後まで、自分たちの「筋を通した」のではなかろうか。
そういった意味で、オルガ団長のあの無意味であっけない死というのも、
私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。――シロクマの屑籠と、ぞんざいな感じはあるとはいえ、僕は、「立ち止まるんじゃねーぞ」と言い残して倒れるその姿には感動を覚えた。
いやむしろ、このあっけなさというのは、もっと他のシーンでもあったではないか。ある女性パイロットが、ひと仕事を終え、これから違った人生を歩んでいこうと、恋心を抱いた男性とも今は別れを決意し、でもその人の面影がみえるテディベアを手に取った、その瞬間、あっけなくマフィアの凶弾に倒れる。
さらにその女性は、モビルスーツに乗っては、才能あふれ強かった。それが、道端で、ふつーの鉄砲で殺されてしまうのだ。主要人物は(敵ですら)モビルスーツに乗ってるときに何らか命を散らすものだと、あまりロボットものを見ないからなのかもしれないが、そんな先入観が自分にあったことを確認したその瞬間に完全に砕け散るという非常に面白い体験だった。
※しかしその仲間たちの中には、突っ走るしかないその危なっかしさについて、一期で参謀役を努めていたビスケットくんとか、二期で妹との生活のために鉄華団を辞める決意をしたタカキくんとか、「おめーら、こんなわけわかんねー戦いに参加するなんて、頭悪すぎだろ!」と戦闘前に出ていったザックくんとか、気づき、行動していた人たちもいた。
そういった人物も描いているということは、鉄華団全体としては、戻ることができなく、戦うしかできない子供たちという表現だろうと思う。
マッキー
一点目は、一期から短期間で一気に見たのと、毎週毎週じわじわと見ていったのによっても、感覚が違うところがあるだろうし、鉄華団の面々も、途中で「なんかやべーな」と気づき始めた描写もあったし、何か気づいた時にはもう引き返せなくなってたということで、僕はあまり気にならなかった。ただ、二点目の、マッキーの戦略のなさには、確かにもはや「不思議」な感覚すら覚えた。
まぁそれも、彼の生い立ちとか、「アグニカ」という伝説を頼るしかなかった幼少期のことを思えば、伝説の機体バエルに期待が大きくなっていたということで、仕方がなかったようにも思える。
しかし確かに、一期目の、あの冷徹沈着、先を見通す戦略性などの印象とは異なり、戦力がどんどん削がれて不利になっていくなか、なんか言い訳じみた感じで鉄華団に、「君たちらしくないな」とか言って戦力をあてにしている様は、あれ、本当にこれ、同じ人だっけ? ぐらいに思わせられた。
幼妻に背徳を罵られ、ナイフを突き付けられた際のシーンとか、カッコよかったんだけどなぁ……。
たぶん。
勝手な感想だけれども、ヒロインの一人、クーデリアもまた、世界を改革したいと考える一人であって、その人も、「革命の乙女」の「物語」を自らの根拠としていた。
マッキーも、現政治体制(軍事組織)の創立者とされる「アグニカ」の「物語」を根拠としていた。
両者は似ている。
しかし、マッキーは、他者を頼ることができなかった。
自分に恋心を寄せてくれる女性(権力もあり、自身もモビルスーツのパイロット)をも捨て駒にし。
自分に憧れをもってくれて、良き理解者たりたいと願う幼馴染をも捨て。
――ただ絶対的な力だけで世界の改革を望んだ。
そういう意味では、敵組織の親玉は、戦略性もさることながら、人脈も盤石たるものだった。
いくら理念が素晴らしいものでも、「こころ」が伴わない暴力では、世界を救うことはできないと、そんなことが表現したかったのではなかろうか。いやー軽い言葉を吐いてるなぁ。まぁ単なる戯言であろう。
追記:某氏の仰るマッキーサードガッカリ事変とは、幼馴染の友との最後の会話ではなかろうか。最後まで信念を貫いて果てるというよりも、多分「憧れ」とか「嫉妬」の感情でしかなかったところがガッカリなのかもしれない。まぁでも、そういうキャラというか、立ち位置だったんだろうなぁと、全体を見てからだと思ってしまうところが少し哀しき哉。
いい作品だった
いろいろ書いたけれども、なんだか、もっと書きたいと思ったことがあった気がする。一気に見ると、その感覚が全体感として薄まってしまう点が問題である。
とはいえ、「いろいろ思った」ってことは、それは、僕の中の基準では、名作・傑作であったということになる。
こういった、いろいろ思いを馳せられる作品を次から次へと消費していくというのもいいなぁ。
いやいや。
それはきっと、いずれ行き詰りに陥るだろう。
エンタメと現実を同一視しなけりゃならないとか、そういうことではないけれども。
エンタメはエンタメ。
現実は現実。
仕事は仕事。
遊びは遊び。
そんな風に、「人生」という総体を、その時その時で分割して生きてくというやり方。
フェイスブックとかでアカウントを変えて、そのサークル(集団)ごとに役割(ロール)を変えて適切な「個性」を選択して生きていくってのが、上手い生き方なのかもしれないが、俺はやっぱり、そういった生き方はできない気がしてなない。
(精神的、技術的にはできるし、そうやってうまくやってきた面も多くあるわけであるけれど)
で、まぁそういうのもいいんじゃないかと思う。「俺はこれはできない」というのは、逃げだったり、老害だったりするわけだけど、でも、「自分」ってのを貫き生きてくのって、やっぱりかっこいいと思う。
ああ、いや、その、かっこいいかどうかはどうでもいいけれども、僕自身、やはり、憧れあているということなんだろうか。
(さてここで問題です。では「自分」とは何でしょう? ある方のコメントのとおり、自分とは、「変化するもの」であるとも言える。で、あるならば、「自分を貫く」というのは、一体全体本当に可能なことなのだろうか? そうした問いは、本記事ではやめておこう。とにかく、今は、良い作品を見終わった後の、感傷的な気分に浸っていたい。なに浸っちゃってるの? ウケるんだけど(わら)という批判はもっともだけど、いやそうなのだ、浸っていたいのだ。これはとても、贅沢な時間の使い方だよ)
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今日の一言「面白い物語欲しいようがー」「感動する曲がききたいようがー」
と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
キャッシュ
面白い物語に触れたい! と同時に書きたい! と思って、ちまちまと書き進める。しかし、面白いのか自分で分からない、というか、これ、説明多すぎやろ! 物語性ないやろ! うがーダメダダメダダメだ!!と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
まどかマギカ
魔法少女まどかマギカの、オープニングテーマは好きで、曲は知っていた。けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
エンターテイメント
そもそもエンタテインメントというものは「人生の意味を問いかける」純文学とは違って、「人生は生きるに値する」という前提から出発します。哲学や芸術を追求するのならばエンタメに手を出してはいけません。ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界です。目的はただ一つ、時間を忘れて楽しんでもらうこと。エンタメとは、不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在であることをけして忘れないでください。自分の主張や意見をただ発表してもしょうがないんです。読者に心の底から愉しんでもらえないと意味がないんです。http://www.0874296.com/skillup/processという講座を読んだ。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
消費的なエンタメと生産的なエンタメ
思うに、「うひゃひゃ! おもろかった! さーて、明日から仕事かー」的な作品と、触れた後、しばらく茫然自失して、己の魂魄や信念が揺さぶられるような、そんな生産的(再構築的)な作品と、二種類ある気がする。後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
今日の一言「近況を書いてみよう」
感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。
※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。
※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。
※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?
※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。
うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。
SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。
取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。
あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。
最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。
※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。
そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))
いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)
ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。
映画。
小説。
漫画。
ゲーム。
アニメーション。
音楽。
スポーツ。
他、娯楽って何かあるんだろうか?
料理、手芸とか?
何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。
モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)
精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。
いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。
上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。
……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。
(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)
SAOオーディナル・スケールを視聴
ソードアートオンライン劇場版、オーディナリースケールを映画館で視聴。きっかけは、先日、「君の名は。」を見に行った時に宣伝を目にしたから、が一つ。もう一つは、どうやら、かなりの鬱アニメっぽいという噂を聞いた(※1)からだ。マゾっ子としては見ないわけにはいくまい!(※2)感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。
※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。
※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。
※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?
※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。
オーディナル・スケールの感想というか
感想、……感想、だと?うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。
SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。
取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。
あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。
最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。
※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。
.hackとSAOの比較
ゲームの世界がリアルに及ぶ、というのは、ソードアートオンライン(SAO)が初めてではなくて、多分、僕が知る限りは、.hackという作品がある。自分は、.hack//signをみたことがあるぐらいで、ゲームも何もやったことなかったけれど、先日、ある方がブログで、.hackシリーズの解決をされていて、非常に分かりやすかった(なるほど、黄昏の腕輪はまた時系列が後なのか)。そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))
娯楽への意欲
けなしてるのか、褒めてるのかよく分からなくなってきた。いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)
ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。
映画。
小説。
漫画。
ゲーム。
アニメーション。
音楽。
スポーツ。
他、娯楽って何かあるんだろうか?
料理、手芸とか?
何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。
言の葉の庭
そうそう、忘れていた。この記事は、近況の記事だった。最近、新海誠さんの、「言の葉の庭」も視聴した。50分弱の短いアニメーション作品。これもまた、鬱アニメだった。どうした俺、そんなに自虐したいのか?!モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)
精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。
いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。
上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。
……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。
(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)
今日の一言「青春をテーマにした作品はエンディングに関わらず黄昏を思う」「時間の不可逆性が虚しくさせるのかもね」
おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
「君の名は。」を映画館で見てきた
映画って、何か月上映するかというのは決まっていないらしい。1か月で上映を終える作品もあるらしい。シン・ゴジラは4か月ぐらいで、君の名は。は、それを超えてロングランになっている。おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
記憶と思い出の大切さ
※ここから若干ストーリーについても触れるため、ネタバレほどにはならないですが、気になる方は注意頂ければと思います。ただ、まだ見たことない方にもそれほど影響はないように配慮はしています。が、ハッピーエンドかバッドエンドか、それすら知りたくない人はブラウザバックでお願いします(ただ、何をもってハッピーとするかは人それぞれでしょうが)。本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
5年が過ぎる
そして更に、5年が過ぎ去る。そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmとの違い
秒速5cmを見ていると、最後のシーンが、単純にああよかったね~で終わらず、何だかしみじみとした、感傷というか、何とも表現しがたい思いになることができる。秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
さてここから感想
まとめとして、ストーリーとか、そういう点はともかく、映像が綺麗だし面白かったので、満足である。特に批判とかはありません、良い作品だったと思います。で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
虚しさを乗り越えるために
まぁ、こんな感想を持つ人は、殆どいないだろうな。ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
答えが欲しい、けど足りないと。
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
たき君とみつはさんのその後
何度も書いたが、今作の主人公・ヒロインの二人は最後に出会った。名前は思い出せずに、「君の名は……」と同時に問いかけるシーンで終わる。感動的なシーンだ。きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
今日の一言「正解は、無い。あるのは妥協だけだ」
いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)
それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。
そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。
しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。
厖大に増えていく表現媒体。
そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。
本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。
例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。
ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。
年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。
うん、それはとても大事だ。
大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。
しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。
本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。
(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)
ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。
ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。
まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。
何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。
いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。
いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。
でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
もう一個引用すると、
「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)
とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!
何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、
僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。
その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。
その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。
願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。
しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……
時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。
オタクとアニメ
昔、アニメが好き、とか言うと、スクールカースト最下層であった。いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)
それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。
そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。
厖大な数の作品
その中には、低予算でつくられて、放映時間もあんまりよくなくて、殆ど見られず忘れられていった作品も多いことだろう。しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。
厖大に増えていく表現媒体。
そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。
本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。
趣味の枝分かれによる個人化
ところが、今は、趣味の多様化、分化が進んでいると思われる。(注:勝手な妄想だ)例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。
ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。
年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。
うん、それはとても大事だ。
大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。
一般論の無意味性とその標準化
まぁ、それは究極的にどうでもいい話である。上のような疑問立てをして、それを検証していくのが、文系学問の命題やお仕事である。しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。
本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。
(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)
あれアニメ感想じゃなかったの?
先日の記事で、サイコパスの公安局の局長が、「悪役っぽいんだけど明快な説明してくれるんだよね~悪役っぽいけど」って書いてたら、ホントに悪役だった(笑)。ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。
ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。
まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。
何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。
深くシニカルな群像劇
そして、群像劇が面白い。マサオカのとっつぁんカッコいい。上司と部下との軋轢に悩むギノザ監察官。「いったい何が正解なんだ……」それに答えるマサオカのとっつぁん、「正解はない、あるのは妥協だけだ」って。いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。
いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。
でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
もう一個引用すると、
「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)
とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!
まぁ自分の参考にはあまりならない
いやぁ面白いけど、このまま最後まで見てたら時間がやばい、ということで、そんなことを思っていたら、この記事の最初みたいなことを書いていたわけだ。何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、
僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。
その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。
精神力の回復
今年……いや去年かに読んだ、ある超人完璧な高校生が、神と合体して悪魔を倒していくという小説読んだときや、ヘルマンヘッセのシッダールタを読んだときとか、ああそう、無職転生も面白かったし、その他、色々思い返せばあるだろう。その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。
願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。
しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……
時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。