今日の一言「虚しさの対処」
期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。
土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。
「やる気」
どこかにいってしまっている。
https://menhera.jp/7699
いや、曲解か。
ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。
よく分かる。
女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)
――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。
だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。
もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。
そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。
しかし果たして。
俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。
第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。
俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。
だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。
人と関わらなければ幸せなのだろうか。
何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。
気遣い。
100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。
だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。
やはり、このスパイラルなのだろう。
若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。
俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。
いや、回りくどい。
そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。
これはやばい。
他人にたぶん興味がないんだろう。
他人だから当たり前か。
いやそうじゃない。
問題は、興味、そう興味である。
よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。
だが、それも書かねば分からなかったことだろう。
とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄だ。
アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。
楽しいことがない。
これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。
あった。
素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。
他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
ここが問題だ。
つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。
いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。
じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。
なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。
そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。
でもそれは、「自分で作った」からなのだ。
……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
時間切れ。
(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)
前書き
書くべきといったら、仕事が憂鬱だ、ということ。期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。
土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。
「やる気」
どこかにいってしまっている。
弱い男の生きづらさ
これも読んだ。メンヘラの男に生きる価値はない、ということである。https://menhera.jp/7699
いや、曲解か。
ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。
よく分かる。
女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)
――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。
だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。
もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。
やる気さん戻ってきてくれ
だから。そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。
しかし果たして。
俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。
第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。
俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。
だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。
人と関わらなければよいのか
いろいろ悩みながら書いてきたせいで、もうそろそろ時間切れである。人と関わらなければ幸せなのだろうか。
何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。
気遣い。
100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。
だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。
やはり、このスパイラルなのだろう。
若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。
俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。
いや、回りくどい。
そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。
これはやばい。
他人にたぶん興味がないんだろう。
他人だから当たり前か。
いやそうじゃない。
問題は、興味、そう興味である。
楽しいこと
そうなのだ。「めちゃくちゃ楽しいッ!!!」ってことが不在である。これが問題だ。よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。
だが、それも書かねば分からなかったことだろう。
とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄だ。
アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。
楽しいことがない。
これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。
あった。
素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。
他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
ここが問題だ。
つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。
時間切れ
なんか、ここで話が終わったら、ヤバい奴、でしかない。まぁ実際そうだから仕方がないのか。いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。
じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。
なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。
そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。
でもそれは、「自分で作った」からなのだ。
……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
時間切れ。
(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)
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今日の一言「30分で書くルーチン更新」「コメント返信は後程!」
早いような、長いような。よく分からない。きっと早いんだろう。
24時間×7日=168時間。
168時間といわれても、そんなに長いのか。
とある友人のブログにおいて、残り時間がどれぐらいか、というサイトが紹介されていたが、すでに削除済みだったので、どういったものだか分らなかった。
意外に少ない。
という結論だと思う。
そうだと思うが、それと、一日をちゃんとしっかり過ごせるかは別だ。
問題だが、職場全体がそもそも遅いので、それに比べたら割と早い方だったりする。
新しく職場に入ったという状況もあるし、全体をよくみなければ、非常に苦しくなるのは目に見えている。
だから、直近、ここ数か月は、状況把握のためにも、できるだけ多くを残し、感じる必要があるだろう。
とにかく、雰囲気よく働くことが大事である。
うーん、これは、いったい、ちゃんと表現できているのだろうか、否、できていない。
びしっと、仕事を終わらせて、他者のことも見てやりつつ、必要ない仕事はカットしながら進めていく。
まぁ、「理想論」的なのは当たり前である。
まったく役に立たない。
商品企画とかって仕事って、本当に俺は向いていないだろうと思う(いや、そういう仕事ではないのだが)。
別にそれ、本当に必要なのか、って思ってしまうし、そもそも、一般大衆が欲しているニーズなんてものに興味がない。
そういう意味では、今の仕事のほうがあっている。
あっているが、それでも、本当にやりたいことかというと良くわからない。「よくわからない」とか表現している時点で、「違う」と思っているのだろう。
俺としては、「文字数カウントツール」とか、何かものを作っているのが本当に楽しい。
しかしそれは、一般大衆が欲しているというものではなく、「その人」自身が欲しているか、という点である。
誰かが困っていて、「こういう解決方法がありますよ」ということの提示できるのは楽しい。
だが、いろんな利害関係者が絡んだうえで、「じゃあ、こういうものを作りますか」というのはつまらない。
あと、「自分で」作っているのが楽しい。
厳密にいえば、自分で理解できている範囲で作れると楽しい。完全に理解できている部分をアウトソーシングするのは、「楽しさ」を損なわないと思う。厳密に言っていったら、プログラム言語なんてのも、そもそも、誰かが作ってくれたものだし、このPCという箱だって、中身を完全に分かっているわけではない。なので、この微妙なグレーゾーンも、別に厳密に定義する必要があると思っているわけではない。
一週間が、5時間~6時間ぐらいの睡眠で、半分以上が仕事であると、余裕がない。
何故そんなに仕事が多いのか。
やることが厳密ではないからだ。(たぶん、ここまでやっておけば問題ないだろうが、こういうことを考えるとここまでやっておいたほうがいいだろう)
蓋然性が面倒くさい。
前任者の通りにやっていたら、先日少し触れたが、まずいことに巻き込まれたりした。結局責任は最終的には取らなければならない。
まぁそれも、お金的な損害を与えるようなレベルではないから、「あーすいません」ですませられるといえば、られる。
と、考えたときに、労働時間換算で賃金を考えて、その「あーすいません」で5分で済んだとして、その「あーすいません」が発生しないようなダブルチェックというか、確認はおそらく、1時間以上は要するものである。
どっちが価値があるか。
これは、現代思考的には後者、と断定されるだろうが、必ずしもそうではない。
いや、多くの人は、「いや後者だろう」というだろう。
だが、「人間関係」という要素と、「評価」という要素を考えたときに、正解とは言えない。
要するに、信頼感である。
要するに、評価者の価値観である。
俺が評価者なら、物事の度合いにもよるが、「あーすいません」でOKにするか、ほかの確認方法を検討するだろう。
しかし、そうしたチェックが重要と考える人が評価者のときは、前者を選択すべきだ。
一週間生き残って、それで、たいして面白い話もかけないというのは、生きている価値があるのだろうか。
なんだ、その、「からくりサーカス」のアニメがアマゾンプライムで見れるが、面白いのだが、アマゾンレビューの多くと同じ感想を抱く。
要するに、原作の重厚さがない、という点だ。
いや、クオリティは問題ないと思う。
某けものフレンズ2のような作品も上梓されるこの世の中、よくできた作品だと思う。
思うが、うーんやはり、尺的に無理があると思う。
だからといって、数年かけて表現したところで、興行収入があるのかというのもわからんし、手軽に見れないし、そうしたら逆に「尺が長くて飽きる」人も続出するだろうから、難しいと思う。
だから、僕は、「面白かった」と書くしかない。
書くしかないが、やっぱり漫画を読むのをお勧めするなぁ、ということになるだろう。
思うが、まだ足りないんだよなぁ。
不感症レベルが上がっているのもあると思う。歳をとると、感動しにくくなるのだ。
エヴァンゲリオンは、高校生ぐらいで見て面白かったが、たぶん今見ると、「面白いんだが……」レベルになるだろう。
------S------
シュタインズ・ゲート、攻殻機動隊
------A------
サイコパス
------B------
ペルソナ4、Angel Beats!、アンゴルモア
こんな感じになりそうだ。なんか忘れている気もする。見てきた作品も、昔は「オタク」って言われるのが怖いというのもあって、アニメを見てるというのは言いづらかった時代もあったが、まぁほんと、アマプラのおかげで手軽に見れるようになったおかげで、作品数は結構いっていると思うわけだが――逆に、すぐわすれてしまうというのは哀しきかな。
忘れてしまうというのは、その程度であったと言わざるをえない。
ああ、ブギーポップだ、最近みたやつだと。まぁまぁ面白かった。しかし「B」かなぁと思う。レクリエイターズも「B」かな。正解するカドも「B」かな……っと、Bは結構いっぱいあると思う。鉄血のオルフェンズも面白かったし。
しかし、今読んでいるのはそれしかない。
EDENを描いた遠藤浩輝先生の、元素を使ったバトルものも面白そうだが、巻を家に置くレベルではない。いずれ完結したら、漫画喫茶にいってよみたい。そうそう、狂四郎2030という漫画を、名前だけはずいぶん前から知っていたが、最近1~3巻読んだら面白かったので、続き読みたい。
あと、シグルイ作者の他の作品も読みたいなと思うところ、だが機会がなかなかなない。
あと、ラグナクリムゾンという作品も面白そうなので、忘れないようにしたいところ。
最近、音読と、過去記事のヒアリングができていないから、よくないな。
一日の大半を過ごしている仕事についてをもっと書いた方がいいのかなぁ。
日誌的なの(提出義務はなし。タスクリストともいう)みれば、まぁ、やったことは分かるけどな。そんなの何も面白くないだろう。
あ、30分経ってしまった。
(かっこ書きである。10の推し作品があって、それぞれ10分語れるとする。1の惜し作品があって、100分語れるとする。どっちが、他者をひきこめるのか。前者だ。1の作品が、他者の興味にそぐわなければ、100分は地獄だ。10分ずつなら、もしかしたら興味をもてるものがあるかもしれない。しかし、上の考え方は、若い人向けである。年寄りは、1の専門性の方がいい気がする。ただし、生き方のリスクマネジメントとしては大失敗だ。その1が、通用しなくなる時代がくるかもしれない。とりまず、一つ、思い出すべきとは、「苦労」しようがしまいが、それは他者には何も関係ないということだ。苦しんで出した答えが80点でも、楽々思い付きで出した答えが90点なら、90点が採用される。これは比喩であって、膨大な業務の中で、そんな具体的な点数など付けられないわけだが、要は、悩みや苦労はしない方がいいということだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」が胡散臭いと僕がどうしても思うのは、その点である。「買わざるを得ない」とは思う(思ってしまう)。だが、「するべきではない」という理想も同時にあると思うのだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」的な思考は、思考停止であると俺は思う。次善の策レベルでしかない。苦労から逃げまくっている人は、いずれ大失敗するとか、村八分(ハブ)にされるとか、そういったストーリーが大前提にあるし、僕らもそういったインプットをされているわけだが、しなくてもいい苦労をすべきなのか。――というよりも、リソースは限られている。誰しも、「自分」というリソースを使うしかないのだ。その点において、「頑張る」ことは必要不可欠である。であれば、みじめな境遇の人たちは、その「努力」が少なかったから駄目だったのか。そういう問題じゃないと思う。その議論に未来はないと思う。頑張ったところで報われないかもしれないが、現状リソースを活用するにおいては、頑張る以外に方法はないのだ、こういう言い回しをする人は僕は好感をもてる。ふつう、たいはんは、「面倒くさいやつ」と思われがちな人だろう。でも、僕は、好感がもてる。だから、そういうことを考えてしまったり、いってしまう人は、応援するから、頑張ってほしい(と、結局頑張るしかないというトートロジーで取り敢えず時間超過なので終わる。書きたりねえなぁ))
前書き
いやー一週間が終わった。早いような、長いような。よく分からない。きっと早いんだろう。
24時間×7日=168時間。
168時間といわれても、そんなに長いのか。
とある友人のブログにおいて、残り時間がどれぐらいか、というサイトが紹介されていたが、すでに削除済みだったので、どういったものだか分らなかった。
意外に少ない。
という結論だと思う。
そうだと思うが、それと、一日をちゃんとしっかり過ごせるかは別だ。
仕事の話:体調が悪かった
平日帰りが遅いのが問題だ。問題だが、職場全体がそもそも遅いので、それに比べたら割と早い方だったりする。
新しく職場に入ったという状況もあるし、全体をよくみなければ、非常に苦しくなるのは目に見えている。
だから、直近、ここ数か月は、状況把握のためにも、できるだけ多くを残し、感じる必要があるだろう。
とにかく、雰囲気よく働くことが大事である。
うーん、これは、いったい、ちゃんと表現できているのだろうか、否、できていない。
びしっと、仕事を終わらせて、他者のことも見てやりつつ、必要ない仕事はカットしながら進めていく。
まぁ、「理想論」的なのは当たり前である。
まったく役に立たない。
商品企画とかって仕事って、本当に俺は向いていないだろうと思う(いや、そういう仕事ではないのだが)。
別にそれ、本当に必要なのか、って思ってしまうし、そもそも、一般大衆が欲しているニーズなんてものに興味がない。
そういう意味では、今の仕事のほうがあっている。
あっているが、それでも、本当にやりたいことかというと良くわからない。「よくわからない」とか表現している時点で、「違う」と思っているのだろう。
俺としては、「文字数カウントツール」とか、何かものを作っているのが本当に楽しい。
しかしそれは、一般大衆が欲しているというものではなく、「その人」自身が欲しているか、という点である。
誰かが困っていて、「こういう解決方法がありますよ」ということの提示できるのは楽しい。
だが、いろんな利害関係者が絡んだうえで、「じゃあ、こういうものを作りますか」というのはつまらない。
あと、「自分で」作っているのが楽しい。
厳密にいえば、自分で理解できている範囲で作れると楽しい。完全に理解できている部分をアウトソーシングするのは、「楽しさ」を損なわないと思う。厳密に言っていったら、プログラム言語なんてのも、そもそも、誰かが作ってくれたものだし、このPCという箱だって、中身を完全に分かっているわけではない。なので、この微妙なグレーゾーンも、別に厳密に定義する必要があると思っているわけではない。
体調の話ではなかったのか
金曜日遅くて、夜更かしすると土曜日がまた昼過ぎに起きてしまい、一日中だるくて何もできなくなるだろうことは分かっていたから、可能な限り早めに寝て、土曜日朝早めに起きたけれども、結局、昼過ぎにどうしようもなく眠い――というかだるくて、頭が痛くて寝てしまって気づくと夕方だった。おうふ。一週間が、5時間~6時間ぐらいの睡眠で、半分以上が仕事であると、余裕がない。
何故そんなに仕事が多いのか。
やることが厳密ではないからだ。(たぶん、ここまでやっておけば問題ないだろうが、こういうことを考えるとここまでやっておいたほうがいいだろう)
蓋然性が面倒くさい。
前任者の通りにやっていたら、先日少し触れたが、まずいことに巻き込まれたりした。結局責任は最終的には取らなければならない。
まぁそれも、お金的な損害を与えるようなレベルではないから、「あーすいません」ですませられるといえば、られる。
と、考えたときに、労働時間換算で賃金を考えて、その「あーすいません」で5分で済んだとして、その「あーすいません」が発生しないようなダブルチェックというか、確認はおそらく、1時間以上は要するものである。
どっちが価値があるか。
これは、現代思考的には後者、と断定されるだろうが、必ずしもそうではない。
いや、多くの人は、「いや後者だろう」というだろう。
だが、「人間関係」という要素と、「評価」という要素を考えたときに、正解とは言えない。
要するに、信頼感である。
要するに、評価者の価値観である。
俺が評価者なら、物事の度合いにもよるが、「あーすいません」でOKにするか、ほかの確認方法を検討するだろう。
しかし、そうしたチェックが重要と考える人が評価者のときは、前者を選択すべきだ。
からくりサーカス
面白い話を書きたいなぁぁぁ!!一週間生き残って、それで、たいして面白い話もかけないというのは、生きている価値があるのだろうか。
なんだ、その、「からくりサーカス」のアニメがアマゾンプライムで見れるが、面白いのだが、アマゾンレビューの多くと同じ感想を抱く。
要するに、原作の重厚さがない、という点だ。
いや、クオリティは問題ないと思う。
某けものフレンズ2のような作品も上梓されるこの世の中、よくできた作品だと思う。
思うが、うーんやはり、尺的に無理があると思う。
だからといって、数年かけて表現したところで、興行収入があるのかというのもわからんし、手軽に見れないし、そうしたら逆に「尺が長くて飽きる」人も続出するだろうから、難しいと思う。
だから、僕は、「面白かった」と書くしかない。
書くしかないが、やっぱり漫画を読むのをお勧めするなぁ、ということになるだろう。
アニメ:サイコパス
最近話題にあがることもあるから思い出したが、そう考えると、最近みた作品で面白かった、というと、シュタインズ・ゲートは別格として、サイコパスが挙げられると思う。アンゴルモアも、ペルソナ4も面白かったし、Angel Beats! も面白かったが、心ゆさぶられ具合でいくと、サイコパスの方かなぁと思う。思うが、まだ足りないんだよなぁ。
不感症レベルが上がっているのもあると思う。歳をとると、感動しにくくなるのだ。
エヴァンゲリオンは、高校生ぐらいで見て面白かったが、たぶん今見ると、「面白いんだが……」レベルになるだろう。
------S------
シュタインズ・ゲート、攻殻機動隊
------A------
サイコパス
------B------
ペルソナ4、Angel Beats!、アンゴルモア
こんな感じになりそうだ。なんか忘れている気もする。見てきた作品も、昔は「オタク」って言われるのが怖いというのもあって、アニメを見てるというのは言いづらかった時代もあったが、まぁほんと、アマプラのおかげで手軽に見れるようになったおかげで、作品数は結構いっていると思うわけだが――逆に、すぐわすれてしまうというのは哀しきかな。
忘れてしまうというのは、その程度であったと言わざるをえない。
ああ、ブギーポップだ、最近みたやつだと。まぁまぁ面白かった。しかし「B」かなぁと思う。レクリエイターズも「B」かな。正解するカドも「B」かな……っと、Bは結構いっぱいあると思う。鉄血のオルフェンズも面白かったし。
やっぱりS級が欲しい
漫画ランキング的には、現時点の推しは、有名どころ過ぎるが、進撃の巨人が面白い。しかし、今読んでいるのはそれしかない。
EDENを描いた遠藤浩輝先生の、元素を使ったバトルものも面白そうだが、巻を家に置くレベルではない。いずれ完結したら、漫画喫茶にいってよみたい。そうそう、狂四郎2030という漫画を、名前だけはずいぶん前から知っていたが、最近1~3巻読んだら面白かったので、続き読みたい。
あと、シグルイ作者の他の作品も読みたいなと思うところ、だが機会がなかなかなない。
あと、ラグナクリムゾンという作品も面白そうなので、忘れないようにしたいところ。
仕事の話のほうが面白いのか
何を書いたら面白いのか。最近、音読と、過去記事のヒアリングができていないから、よくないな。
一日の大半を過ごしている仕事についてをもっと書いた方がいいのかなぁ。
日誌的なの(提出義務はなし。タスクリストともいう)みれば、まぁ、やったことは分かるけどな。そんなの何も面白くないだろう。
あ、30分経ってしまった。
(かっこ書きである。10の推し作品があって、それぞれ10分語れるとする。1の惜し作品があって、100分語れるとする。どっちが、他者をひきこめるのか。前者だ。1の作品が、他者の興味にそぐわなければ、100分は地獄だ。10分ずつなら、もしかしたら興味をもてるものがあるかもしれない。しかし、上の考え方は、若い人向けである。年寄りは、1の専門性の方がいい気がする。ただし、生き方のリスクマネジメントとしては大失敗だ。その1が、通用しなくなる時代がくるかもしれない。とりまず、一つ、思い出すべきとは、「苦労」しようがしまいが、それは他者には何も関係ないということだ。苦しんで出した答えが80点でも、楽々思い付きで出した答えが90点なら、90点が採用される。これは比喩であって、膨大な業務の中で、そんな具体的な点数など付けられないわけだが、要は、悩みや苦労はしない方がいいということだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」が胡散臭いと僕がどうしても思うのは、その点である。「買わざるを得ない」とは思う(思ってしまう)。だが、「するべきではない」という理想も同時にあると思うのだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」的な思考は、思考停止であると俺は思う。次善の策レベルでしかない。苦労から逃げまくっている人は、いずれ大失敗するとか、村八分(ハブ)にされるとか、そういったストーリーが大前提にあるし、僕らもそういったインプットをされているわけだが、しなくてもいい苦労をすべきなのか。――というよりも、リソースは限られている。誰しも、「自分」というリソースを使うしかないのだ。その点において、「頑張る」ことは必要不可欠である。であれば、みじめな境遇の人たちは、その「努力」が少なかったから駄目だったのか。そういう問題じゃないと思う。その議論に未来はないと思う。頑張ったところで報われないかもしれないが、現状リソースを活用するにおいては、頑張る以外に方法はないのだ、こういう言い回しをする人は僕は好感をもてる。ふつう、たいはんは、「面倒くさいやつ」と思われがちな人だろう。でも、僕は、好感がもてる。だから、そういうことを考えてしまったり、いってしまう人は、応援するから、頑張ってほしい(と、結局頑張るしかないというトートロジーで取り敢えず時間超過なので終わる。書きたりねえなぁ))
今日の一言「タイミングがよいのか悪いのか」「ルーチン更新扱いにしたい」
無職の男性が、子供を含む数人を殺傷したのである。
青猫さんというかたが、5月29日の記事で書かれていたが、「きもいおっさん」は大変である。これは他人ごとではない。
https://kodokunikki.minibird.jp/nikki/
かっこ書きの部分を書いていて思ったが、なんでもかんでも清潔にする、という方法では、解決しない問題は多いと思う。
例えば、風俗とか。
例えば、人殺しをするゲームとか。
俺は認めたくないが、タバコとか。
生きていくうえで、困難は避けられない。乗り越えられる問題もあれば、どうしようもない問題もあるのだ。本記事では、「居場所」が重要だと書いたが、同時に「逃げ場所」も必要だと思う。
俺の場合、ここが、居場所でもあり、逃げ場所でもあり、そして、思考を少し前に進めるための場所でもある。
――以下、本文再開――
おいおい、テレビとゲームがない人、どんぐらいおるんねん。他に書くことなかったんだろうなぁ。
漫画はなかったんだろうか。えっちな小説はなかったんだろうか。
要するに、二次元的要素があると危険だと、世間は判断したいと思っているのだろうか。
じゃあ、えっちな実写本ならOKなんだろうか。
まぁ、そういった大人になってもゲームやってるやつは危険、という露骨なレッテルはりはむしろ、昔からあったわけだし、そんなに驚かないが、「テレビ発見」ってのは、え、なにそれ(笑)と思った。
減ってきているとは思うが、今のところは、テレビを持っていない人の方が少ないと思う。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/
きっと上のURLはしばらくしたらリンク切れになるだろうから、抜粋しておけば、
様々な背景や、理由や、条件があるのだろうが、僕は上の意見に全面的に賛成だし、共感できる。
俺は、歩きたばこや車の運転中にたばこを窓をあけて吸っている奴は死んでもらって構わないと思っているし、よっぱらって路上や車内に吐き散らかす奴も死んでもらって構わないと思っているが、それでも、すぐさま更生の機会もなく処断されるような社会は間違っていると思う(個人的には、死んでもらいたい……おっと、言葉が最近きつくなっている。ストレスという言い訳は通用しまい)。
そうした機会もなく、殺人というのは、すべての可能性を奪う行為なので、断じて許されるべきではない……って、話がずれている。最近上の出来事に出くわしたせいで挿入されたエピソードだが、本記事の事件についてとは関係なかった。
まずもって、通り魔殺人の犯人は、許容されてはならない、ということは前提にすべきだ。だが、「幸せな奴らが憎い」という感情そのものは、果たして、発生しては絶対にならないほどのものなのだろうか。
金ではない。
金があると、その大切なものを得る手段や可能性が増えるので、金はあったほうがいい。だが、必要条件ではない。(もっといえば十分条件でもないが)
一番大切なものは、自己肯定感だ。
自分は存在していてもいいんだという自信だ。敷衍すれば、自分は誰かの役に立っていると思える確信だ。
それを得るために必要なのは、居場所だ。
誰しも、居場所が必要なのだ。
しかしたいてい、人は、親の元で育つ。親は子供を愛する。家族、というのが、居場所ではないのか。
……しかし、昨今のひきこもりや、実家暮らしという状況は、そう簡単でもないだろう。
確かに血のつながりはあっても、世間体が悪い状況が続けば、親ですら、子に対して、嫌悪感を抱くことであろう。
親と子。
という関係は、例えばの数字だが、50歳ぐらいと、18歳ぐらいで成り立つのだ(てきとーな数字だ)。
70歳と50歳は、親子ではないのだ。(戸籍上は親子だ。いっぱんに「言語」としてイメージされる親子ではない)
だから、上の藤田さんがいうところの、「社会は何もしてくれないと思わせてはいけない」というのは、正しいことだと思う。
が、しかし。
正直言って、こっからは、個人的なことなのだが、なにかこう、「社会」ないし「他者」に対しての信頼感がものすごく薄い人を扱うのは、非常に難しいことだろうと思う。
おそらく、そういう人は、「プライド」は非常に高いのである。
「もっと俺はできるんだ」「何者かになれるのだ」
という思いだけはあるのである。
実際は大した能力はないのである――いや、ふつーの能力はあるのだ。ある程度はできることがあるのだ。だが、そのある程度のことで評価されうる程度では、「承認欲求」が満たされないのである。
そのギャップ。
ゆえに、ずーっと前から、10年前ぐらいから書いてきているが、「理想と現実の差異を埋めることが重要」なのである。
適切に自己評価して、その評価を甘んじて受け入れられる人じゃないと、生きづらさは一生解決しないのだ。
が、もちろん、その、評価に満足できないがゆえに、奮起して成果を出す人もいる。
が、それは、「基盤」があればこそである。
自己肯定感の基盤、戻れる居場所、が重要なのだ。
一切の基盤がなくて、さらにそのギャップが広がり続ける人は、もうすべてが嫌になるだろう。そして、すべてを壊したくなるかもしれない。
仮に、1人殺せば、10ptの快楽を得られるとする。爆弾をコンサート会場にしかけて、数千人を殺せたとしよう。それは、快楽ポイントは、10pt×1000になるのか。ならない。手ずから殺さない場合は、1pt程度しか得られないだろう。数千人死んだ、というのを、自ら確認するすべがないのだ。
じゃあ、トラックで歩行者天国に突っ込んで、そのあとナイフで襲いまくる、という方法で、秋葉原の事件では、7名が死亡した。それぐらいの大きな事件を起こせば、必ず逮捕され、絞首刑になるだろう。
川崎の事件では、2名が死亡した。犯人は自殺した。
帰結は、死である。
秋葉原の事件で犯人は、やや後悔した記述もしていた。
殺人で、犯人たちは幸せになったのか。否である。
そもそも、彼らは、人を殺して快楽を得たというわけではないだろう。
津山30人殺しの犯人も、快楽を得たわけではないだろう。
ロンドンの切り裂きジャックは、もしかすると楽しんでいたのかもしれない。
津山、秋葉原、川崎の犯人は、怨恨であった。
浮気した妻か、間男を殺すのと同じような、「憎しみ」という感情による殺人である。それは、マイナスを、少しでも埋めようかというものであって、プラスになどならない。30人でも、100人殺したところで、決して幸せになどなれないのである。
それはもはや、地震や台風などの、自然災害と同じである。思考の埒外である。
一方、怨恨――自暴自棄による凶行は、僕は、何か救える手立てがあるんじゃないかと思うのである。
僕自身が、承認欲求が中々満ちない穴だらけの容器的人間だからなのかもしれないが、しかしそれは、現代的な病理の一つであると思う。
もうほんと、人を殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない人は、人の社会から退場いただくしかないだろう。
しかし、秋葉原の人も、川崎の人も、弱い人間を虐げて喜んでいるような人間や、いじめをしていじめ被害者が間接的に死亡しても死刑にもならずにのうのうと幸せに生きているような人間よりかは、僕は同情したくなるのである。(もっとも、そんな同情できるような感情的余裕などほとんどないわけだが)
↑のことをもう少しわかりやすく書こう。
例えばの話だが、パワハラによって、もう何人も心の病におちいらせて、一方自分は出世して金ももって、美人な妻もいて、子供にもめぐまれて、ベンツ乗って庭付き一戸建てに住んでいる奴と、なんか分からないけどテレビとゲームしか持ってなくて独身で発作的に子供を含む多くの人を切りつけた人とを比べた時、僕は、前者の人の方を憎いと思う、というわけである。
別に、どっちが良いとかじゃないからな。どっちも許されない。死ぬべきだ、と思うのだが、それはそうとして、俺が神で、どちらにチャンスをやるかといえば、間違いなく後者を選ぶ、というわけである。
(もう一つかっこがきしておけば、「死ぬべきだ」と書いたが、同時に僕は最初のほうで、「すぐさま社会が人を処断するようなことは避けるべきだ」とも書いている)
とはいえ、仕事でいっつもミスをして、足を引っ張り、それでいて卑屈で成長する気もなさそうな奴は、やっぱり排除されるだろう。
みんなが必要とされているんだ。のけものはいない。みんな大切だ。
とはいえ、役立たずは、「あいつ、うぜーよな」って言われるのだ。怖い。
だから俺は、そうならないように、余計な気苦労をしながら頑張ってきたのだが、ほんと余計な気苦労である。
そして何より、世界的真実において、別に人の数人が死のうが、たいせいに影響はないのである。
(とかいうことを、大学時代から言っていたから、「お前、変なことばっかいってたようなぁ」と言われたのだろう。当たり前である。だが、そこじゃあないのだ。違うんだ。そっから先が重要だったのだ、俺の気持ちが、全然伝わっていなかったのだ、それが悲しかったのだ)
数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。
この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。
いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭弁なのかもしれない。
だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。
そこが問題だったのだ。
(かっこ書きである。きもいおっさんの話にならなかったな。5月も終わりである。いやその、俺の関心はそこにはもはやないのだが、ないんだけど、表現的に、文字にしていくと、どうしてもそのレベルの話を書かなくてはならなくなる。なにせ、今のところ、妻と子供に恵まれた人が、通り魔事件なんか起こしてないからな。先日、恋人の必要性について書こうかと思って飽きてしまったと書いたが、要は異性の承認というものがないと、人格が狂いだすのではないかということである。つまり、若いころでも若くなくてもいいが、「女の子と付き合えた」という事実(ここでいう事実は、「実感」という意味)が必要だということである。だから、独身男性でも、風俗やキャバクラやガールズバーなどで充実した時間を過ごせている人は、きっと通り魔事件は起こさないのではなかろうか。本文の中で、殺人はコスパが悪い、と書いたが、風俗でとにかくエロいことするのじゃあ、満足できなかったんだろうか、と思う。行くお金がなかったのかな。じゃあやっぱりお金が諸悪の根源なのか。でもどうなのか、50代ぐらいになると、性欲はなくなるのだろうか。性欲がなくなってしまって、しかし、異性からの承認欲求が満たされていないと、もうどうしようもなく他者を殺したくなるのだろうか。わからない。俺は今回の記事でも、相当変なことを書いてきたし、おそらく世間的に気持ち悪いことを書いてきたし、こいつやべーなと思われるのだろうが、しかしそれでも、誰でもいいから人を積極的に殺したいという気持ちにはならないし、なったこともない。「死んでしまえ」とはよく思う(危険だっ!)のだが、「殺したい」とは思わないのである。しかし、この違いは結構重要だと思う。「殺したい」というのは、相当激しい欲求である。人を憎むのも、結構精神も、体力も使うのである。「死ね」というのは、危険でひどい言葉だが、ある意味、無責任な言葉である。命令しているだけなのだ。自ら責任取って排斥しようとはしていないのだ。だから、「死ね」と言われているうちは大丈夫である。その言ってくる奴は、大した力はないのだ。「殺してやる」と言われたら危険だ。そのときは逃げよう(もう何の話だよ……(かっこ乾いた笑い))
前書き
正義について、人殺しについて、という内容でブログを書いた当日かその次の日ぐらいに、神奈川県で痛ましい事件が発生した。無職の男性が、子供を含む数人を殺傷したのである。
青猫さんというかたが、5月29日の記事で書かれていたが、「きもいおっさん」は大変である。これは他人ごとではない。
https://kodokunikki.minibird.jp/nikki/
追記
珍しく、投稿後に追記。かっこ書きの部分を書いていて思ったが、なんでもかんでも清潔にする、という方法では、解決しない問題は多いと思う。
例えば、風俗とか。
例えば、人殺しをするゲームとか。
俺は認めたくないが、タバコとか。
生きていくうえで、困難は避けられない。乗り越えられる問題もあれば、どうしようもない問題もあるのだ。本記事では、「居場所」が重要だと書いたが、同時に「逃げ場所」も必要だと思う。
俺の場合、ここが、居場所でもあり、逃げ場所でもあり、そして、思考を少し前に進めるための場所でもある。
――以下、本文再開――
ゲームしていたらきもいのか
ニュース記事のタイトルで驚いたが、「犯人の自宅からテレビとゲームが発見」と書かれていた。おいおい、テレビとゲームがない人、どんぐらいおるんねん。他に書くことなかったんだろうなぁ。
漫画はなかったんだろうか。えっちな小説はなかったんだろうか。
要するに、二次元的要素があると危険だと、世間は判断したいと思っているのだろうか。
じゃあ、えっちな実写本ならOKなんだろうか。
まぁ、そういった大人になってもゲームやってるやつは危険、という露骨なレッテルはりはむしろ、昔からあったわけだし、そんなに驚かないが、「テレビ発見」ってのは、え、なにそれ(笑)と思った。
減ってきているとは思うが、今のところは、テレビを持っていない人の方が少ないと思う。
死にたいなら一人で死ぬべきは危険
死にたいなら一人で死ぬべき、というのは避けるべきだ、と、藤田さんという方が主張されていた。https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/
きっと上のURLはしばらくしたらリンク切れになるだろうから、抜粋しておけば、
ということである。秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
様々な背景や、理由や、条件があるのだろうが、僕は上の意見に全面的に賛成だし、共感できる。
俺は、歩きたばこや車の運転中にたばこを窓をあけて吸っている奴は死んでもらって構わないと思っているし、よっぱらって路上や車内に吐き散らかす奴も死んでもらって構わないと思っているが、それでも、すぐさま更生の機会もなく処断されるような社会は間違っていると思う(個人的には、死んでもらいたい……おっと、言葉が最近きつくなっている。ストレスという言い訳は通用しまい)。
そうした機会もなく、殺人というのは、すべての可能性を奪う行為なので、断じて許されるべきではない……って、話がずれている。最近上の出来事に出くわしたせいで挿入されたエピソードだが、本記事の事件についてとは関係なかった。
まずもって、通り魔殺人の犯人は、許容されてはならない、ということは前提にすべきだ。だが、「幸せな奴らが憎い」という感情そのものは、果たして、発生しては絶対にならないほどのものなのだろうか。
居場所が必要
人にとって一番大切なものはなにか。金ではない。
金があると、その大切なものを得る手段や可能性が増えるので、金はあったほうがいい。だが、必要条件ではない。(もっといえば十分条件でもないが)
一番大切なものは、自己肯定感だ。
自分は存在していてもいいんだという自信だ。敷衍すれば、自分は誰かの役に立っていると思える確信だ。
それを得るために必要なのは、居場所だ。
誰しも、居場所が必要なのだ。
しかしたいてい、人は、親の元で育つ。親は子供を愛する。家族、というのが、居場所ではないのか。
……しかし、昨今のひきこもりや、実家暮らしという状況は、そう簡単でもないだろう。
確かに血のつながりはあっても、世間体が悪い状況が続けば、親ですら、子に対して、嫌悪感を抱くことであろう。
親と子。
という関係は、例えばの数字だが、50歳ぐらいと、18歳ぐらいで成り立つのだ(てきとーな数字だ)。
70歳と50歳は、親子ではないのだ。(戸籍上は親子だ。いっぱんに「言語」としてイメージされる親子ではない)
居場所がなくなるとき
誰からも必要とされなくなった(と、自分で思うようになった)とき、人は凶行に奔るのだろう。だから、上の藤田さんがいうところの、「社会は何もしてくれないと思わせてはいけない」というのは、正しいことだと思う。
が、しかし。
正直言って、こっからは、個人的なことなのだが、なにかこう、「社会」ないし「他者」に対しての信頼感がものすごく薄い人を扱うのは、非常に難しいことだろうと思う。
おそらく、そういう人は、「プライド」は非常に高いのである。
「もっと俺はできるんだ」「何者かになれるのだ」
という思いだけはあるのである。
実際は大した能力はないのである――いや、ふつーの能力はあるのだ。ある程度はできることがあるのだ。だが、そのある程度のことで評価されうる程度では、「承認欲求」が満たされないのである。
そのギャップ。
ゆえに、ずーっと前から、10年前ぐらいから書いてきているが、「理想と現実の差異を埋めることが重要」なのである。
適切に自己評価して、その評価を甘んじて受け入れられる人じゃないと、生きづらさは一生解決しないのだ。
が、もちろん、その、評価に満足できないがゆえに、奮起して成果を出す人もいる。
が、それは、「基盤」があればこそである。
自己肯定感の基盤、戻れる居場所、が重要なのだ。
一切の基盤がなくて、さらにそのギャップが広がり続ける人は、もうすべてが嫌になるだろう。そして、すべてを壊したくなるかもしれない。
殺人のコスパの悪さ
いや、気持ち悪いと思われるのを覚悟で書けば、殺人で得られる快楽は、どう考えてもコスパが悪いのである。仮に、1人殺せば、10ptの快楽を得られるとする。爆弾をコンサート会場にしかけて、数千人を殺せたとしよう。それは、快楽ポイントは、10pt×1000になるのか。ならない。手ずから殺さない場合は、1pt程度しか得られないだろう。数千人死んだ、というのを、自ら確認するすべがないのだ。
じゃあ、トラックで歩行者天国に突っ込んで、そのあとナイフで襲いまくる、という方法で、秋葉原の事件では、7名が死亡した。それぐらいの大きな事件を起こせば、必ず逮捕され、絞首刑になるだろう。
川崎の事件では、2名が死亡した。犯人は自殺した。
帰結は、死である。
秋葉原の事件で犯人は、やや後悔した記述もしていた。
殺人で、犯人たちは幸せになったのか。否である。
そもそも、彼らは、人を殺して快楽を得たというわけではないだろう。
津山30人殺しの犯人も、快楽を得たわけではないだろう。
ロンドンの切り裂きジャックは、もしかすると楽しんでいたのかもしれない。
津山、秋葉原、川崎の犯人は、怨恨であった。
浮気した妻か、間男を殺すのと同じような、「憎しみ」という感情による殺人である。それは、マイナスを、少しでも埋めようかというものであって、プラスになどならない。30人でも、100人殺したところで、決して幸せになどなれないのである。
快楽殺人犯は例外にする理由
いつも、念頭には置くが、快楽殺人犯については、いろいろなことを考える際に、例外として切り捨てている。それはもはや、地震や台風などの、自然災害と同じである。思考の埒外である。
一方、怨恨――自暴自棄による凶行は、僕は、何か救える手立てがあるんじゃないかと思うのである。
僕自身が、承認欲求が中々満ちない穴だらけの容器的人間だからなのかもしれないが、しかしそれは、現代的な病理の一つであると思う。
もうほんと、人を殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない人は、人の社会から退場いただくしかないだろう。
しかし、秋葉原の人も、川崎の人も、弱い人間を虐げて喜んでいるような人間や、いじめをしていじめ被害者が間接的に死亡しても死刑にもならずにのうのうと幸せに生きているような人間よりかは、僕は同情したくなるのである。(もっとも、そんな同情できるような感情的余裕などほとんどないわけだが)
↑のことをもう少しわかりやすく書こう。
例えばの話だが、パワハラによって、もう何人も心の病におちいらせて、一方自分は出世して金ももって、美人な妻もいて、子供にもめぐまれて、ベンツ乗って庭付き一戸建てに住んでいる奴と、なんか分からないけどテレビとゲームしか持ってなくて独身で発作的に子供を含む多くの人を切りつけた人とを比べた時、僕は、前者の人の方を憎いと思う、というわけである。
別に、どっちが良いとかじゃないからな。どっちも許されない。死ぬべきだ、と思うのだが、それはそうとして、俺が神で、どちらにチャンスをやるかといえば、間違いなく後者を選ぶ、というわけである。
(もう一つかっこがきしておけば、「死ぬべきだ」と書いたが、同時に僕は最初のほうで、「すぐさま社会が人を処断するようなことは避けるべきだ」とも書いている)
とはいえ役立たずはやはり排除される
だから、みんなが必要とされて、弱いものも守られて、生き生きと、自分らしく生きられる社会にしよう!とはいえ、仕事でいっつもミスをして、足を引っ張り、それでいて卑屈で成長する気もなさそうな奴は、やっぱり排除されるだろう。
みんなが必要とされているんだ。のけものはいない。みんな大切だ。
とはいえ、役立たずは、「あいつ、うぜーよな」って言われるのだ。怖い。
だから俺は、そうならないように、余計な気苦労をしながら頑張ってきたのだが、ほんと余計な気苦労である。
そして何より、世界的真実において、別に人の数人が死のうが、たいせいに影響はないのである。
(とかいうことを、大学時代から言っていたから、「お前、変なことばっかいってたようなぁ」と言われたのだろう。当たり前である。だが、そこじゃあないのだ。違うんだ。そっから先が重要だったのだ、俺の気持ちが、全然伝わっていなかったのだ、それが悲しかったのだ)
数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。
この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。
いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭弁なのかもしれない。
だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。
そこが問題だったのだ。
(かっこ書きである。きもいおっさんの話にならなかったな。5月も終わりである。いやその、俺の関心はそこにはもはやないのだが、ないんだけど、表現的に、文字にしていくと、どうしてもそのレベルの話を書かなくてはならなくなる。なにせ、今のところ、妻と子供に恵まれた人が、通り魔事件なんか起こしてないからな。先日、恋人の必要性について書こうかと思って飽きてしまったと書いたが、要は異性の承認というものがないと、人格が狂いだすのではないかということである。つまり、若いころでも若くなくてもいいが、「女の子と付き合えた」という事実(ここでいう事実は、「実感」という意味)が必要だということである。だから、独身男性でも、風俗やキャバクラやガールズバーなどで充実した時間を過ごせている人は、きっと通り魔事件は起こさないのではなかろうか。本文の中で、殺人はコスパが悪い、と書いたが、風俗でとにかくエロいことするのじゃあ、満足できなかったんだろうか、と思う。行くお金がなかったのかな。じゃあやっぱりお金が諸悪の根源なのか。でもどうなのか、50代ぐらいになると、性欲はなくなるのだろうか。性欲がなくなってしまって、しかし、異性からの承認欲求が満たされていないと、もうどうしようもなく他者を殺したくなるのだろうか。わからない。俺は今回の記事でも、相当変なことを書いてきたし、おそらく世間的に気持ち悪いことを書いてきたし、こいつやべーなと思われるのだろうが、しかしそれでも、誰でもいいから人を積極的に殺したいという気持ちにはならないし、なったこともない。「死んでしまえ」とはよく思う(危険だっ!)のだが、「殺したい」とは思わないのである。しかし、この違いは結構重要だと思う。「殺したい」というのは、相当激しい欲求である。人を憎むのも、結構精神も、体力も使うのである。「死ね」というのは、危険でひどい言葉だが、ある意味、無責任な言葉である。命令しているだけなのだ。自ら責任取って排斥しようとはしていないのだ。だから、「死ね」と言われているうちは大丈夫である。その言ってくる奴は、大した力はないのだ。「殺してやる」と言われたら危険だ。そのときは逃げよう(もう何の話だよ……(かっこ乾いた笑い))
今日の一言「眠れなかった」「午前二時」
眠れない。
昼夜逆転か。
日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。
正義と、死について。
たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
社会のルールだからだ、といってもいい。
要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。
「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」
と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。
作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。
そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。
そのルールの源が、正義といわれる。
遅いか、早いかだけだ。
限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。
望んで生まれたわけではないかもしれない。
それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。
僕らは、死という概念を超越するかもしれない。
肉体は時間経過とともに衰えていく。
頭、脳も同じく衰えていく。
アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。
その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。
心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。
記憶。
記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。
しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。
それが思考――ないしは、感情である。
記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。
桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。
自己とは、かくも不思議な現象なのである。
データは、不死である。
ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。
技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。
そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。
もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。
コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。
ましてや、人は今、不死となった。
リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。
電子データを機能させるには、電力が必要だ。
太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。
クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。
その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。
データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。
エネルギーは、電力だけである。
水も、食料も必要ない。
肉体がないのだから当然である。
インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。
それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。
子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。
人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。
脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。
そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。
すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。
肉体は、破棄されなければならない。
さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。
このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
死もなければ、老いもない。
永遠の世界。理想郷。ユートピア。
新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。
最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。
スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。
だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。
故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。
人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。
(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)
前書き
午前二時に踏み切りに望遠鏡を担いでいこうかと思った。眠れない。
昼夜逆転か。
日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。
正義と、死について。
正義について
人を殺してはいけない、それは何故なのか。たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
社会のルールだからだ、といってもいい。
要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。
「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」
と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。
作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。
そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。
そのルールの源が、正義といわれる。
死について
我々は皆死ぬ。遅いか、早いかだけだ。
限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。
望んで生まれたわけではないかもしれない。
それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。
死がない世界
脳の機能をすべてマッピングできて、思考も感情も、記憶も、すべてが電子データとしてストックすることができるようになったら。僕らは、死という概念を超越するかもしれない。
肉体は時間経過とともに衰えていく。
頭、脳も同じく衰えていく。
アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。
その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。
記憶と思考
自我同一性は、記憶によるところだ。心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。
記憶。
記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。
しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。
それが思考――ないしは、感情である。
記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。
桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。
自己とは、かくも不思議な現象なのである。
脳機能のすべてを取り出せたとして
故に、仮定は、思考も感情も記憶も、すべて脳から取り出せるようになったとして、それが、人間が死を超越した瞬間になるだろう。データは、不死である。
ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。
技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。
そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。
もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。
コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。
ましてや、人は今、不死となった。
リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。
ディストピアかユートピアか
エネルギーの確保が優先される。電子データを機能させるには、電力が必要だ。
太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。
クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。
その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。
データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。
エネルギーは、電力だけである。
水も、食料も必要ない。
肉体がないのだから当然である。
インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。
子どもたちは
少子化によって、既に、旧人類の生産人口は、ロボットを大きく下回っている。それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。
子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。
人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。
脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。
記憶の連続性
目が覚める。そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。
すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。
肉体は、破棄されなければならない。
さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。
このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
死もなければ、老いもない。
永遠の世界。理想郷。ユートピア。
新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。
最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。
殺人
すべてが満ち足りて、すべての娯楽が提供される世界において、犯罪など発生しない。スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。
だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。
故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。
人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。
(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)
今日の一言「果たして書くことでどこまで冷静になれるか」
これは、鬱と換言してもよいと思う。
憂鬱な気分である。
気分が沈み込んでいる。やる気が起きない。モチベーションがない。動機を持てない。欲求がない。
生理的な、おなかがすいた、眠い、ぐらいは欲求があるかもしれない。しかしそれは、より動物的な、欲動といっていいものだろう。
人は何か、欲求があるから生きている。根源にあるのは、死にたくない、仲間を作りたい、知りたい、というものだろう。生得的な、遺伝情報を残そうとする意志。
まぁそんな次元のことを考えようというのではない。どうでもいい。分からないことは分からないのだ。
そんな曖昧なものではなく、いま、ここに生じている、このイライラをどうにかして対処し、より創造的な活動をするために何ができるのか、それを試みなければならないのだ。
しかし実際、僕が以前から書いているように、プライベートと仕事は、厳密に分けることは危険だし、あまり意味があることではない。
グレーゾーンとして通勤時間というものがある。または、会社に到着してから、始業開始時間までの間というのもある。サービス残業はこれからもっと規制されるだろうが、しかし、厳密に、就業のチャイムが(なる仕事場があるかどうか知らないが)なってから、すぐさま身支度をしている人がどれだけいるかも分からない。
ちなみに、今の職場は、そこのあたりはルーズである。
逆に、まぁ、それほど雰囲気は悪くないが、個人的に、「雑談」的なのがよくわからない自分としては、それ自体がストレスであったりする。
雑談ってのは、非常に面倒なものだ。だいっきらいだ。
その延長で、飲み会も嫌いだが、まぁしゃあない部分もある。
ある意味、仕事のためにメンバーのことを人間性を知るという意味で、飲み会などは重要だという感覚もあるため、そこまで毛嫌いするものとも思っていない。
だが、今の職場でより困るのは、相手にする人数が多いということだ。メンバーが多い、2桁以上である。
これ自体がストレスだ。
数人程度の協調関係を築くなら、「変人」の僕であっても、「マナー」によって関係を維持することはある程度できる。
いやむしろ、別に何人に増えようが、それは変わらない。
だが、それと、内面的なストレス・疲れとは別だ、というか、大いに関係がある。
……とそこまでではない。だが、基本的に、猜疑心が強い、とい言っていいだろう。
彼らはキラークイーンで最後まで殺し合うようです
http://gokumonan.blog87.fc2.com/blog-entry-7026.html
↑の「やらない子」氏、ほどではない……と信じたいが、まぁ似たようなものかもしれない。
いやどちらかというと、「ほむほむ」氏や「はるかちゃん」氏、のように、誰かに取り入らないといけないといったような脅迫観念なのかもしれない。
これはまぁ、過去にいじめられた経験なり失恋が原因だとか、トラウマ要因を挙げると、同情をかえるかもしれないが、正直、そこはどうでもいい――どうでもいいのかどうかはともかく、過去の原因はともかく、「信頼ベース」で人と付き合えないことは大分ハンデ、である。
一方で、「夜神月」氏や、「一条」氏や「やらない男」氏のように、頭がよければそれはそれで世の中を渡っていけるが、そこまでの能力もない変人は、目立った悪役にすらなれずに消えるMOBキャラである。
――という自己認識において、果たして、どうやって生きていけばいいのか。
非常に生きづらい世の中になるのは自明である。
早く死んだほうがいいんじゃないかと思っていた過去の自己認識は、あながちではなかったと、今思っても、同意見になるだろう。
もう、こんな毎日涙が出てくるような夜を過ごすなら、早く死んだほうが楽なんじゃないか……。
この感覚は、嘘、ではなかろうと思う。
ぶっちゃけ、〇もあるし、◎もいるし、●の関係もあるし、過去と比べると、今はパラダイスな条件がそろっていると思う。
しかし、財産があれば人は幸せか、というテーゼと同じように、得たものがあるとしても、その人にとって充足が得られるとは限らないのである。
ぶっちゃけ、組織も、人も、信じられていないのである。
それは、「裏切られた」ということではないのだ。
その「可能性」なのである。
特定の事象……が原因なのはそうだろうが、それだけではない。
人は、意味があれば、大抵の困難を乗り越えられる……といったのはニーチェ氏だったか。
それは確かに、と思う。
仕事の苦難も、その先に待つ出世なり、昇給なり、仕事の達成感なり、周囲の承認なり……なんらかの「意味」があれば、きっと乗り越えられるものなのだ。
それが、俺に、今の俺には何なのか分からない、そこに問題がある。
俺に、昇給なり、「褒め」なり、何かを提示しても、特にモチベーションにならないのだ。
こんなに扱いにくい人間はいないだろう。捨てた方がいい気がする……周囲のせっかく仲間で一丸となって頑張ろうといった雰囲気作りにも悪影響だ。
――ということも分かっている、だから、みんなのやる気をそがないように気を付ける必要もあるのである。
それは、正しいかもしれないが、不適切な対応だ。
そのあたりに、「誰かに頼る」という手段が、僕が選べない理由もある。
治療?
治療とは、異常な状態を、正常な状態へ戻すことだ。
つまり、正常な状態は、「みんな助け合って一丸となって困難へ対処していくこと」――要は仕事頑張って成果を上げましょうという状態である、畢竟するに。
その、いわゆる「正常」に対して、俺は疑念が尽きないのであって、であれば、いったいどこに着地点があるのか。わからない、わからない、わからない……となるのである。
何せ、先日、俺は、「変人である」と定義した。
これは危険な思考であることも重々承知の上でだ。
何せ、変であることを前提としたら、いわゆる一般的に「正しい道」とされているところは、俺にとって正しくもなんともない、ということになるのだから。
孤独な戦いにならざる得ないのである。――ましてや、こういう物言いがそもそも、独善的だとか、特権意識だとか、勘違い野郎だとか、中二病だとか言われるだけである。こじらせちゃんだ。
俺は……幸せになりたいのか。
不幸せになりたいのか。
否、そういった二項対立的な問いは、そもそも生きるベースの思考に一切役に立たないことは、これまでの経験上分かっている。それが問題なのではない。
生きるか死ぬかの問いは、まず、現状追認するしかないのである。
ぐだぐだと、思考が止まらない段階で、まずもって、「生きている」のであるから、「死ぬべきだ」という答えがあったとしても、それは既に選択されていないのである。
だから、「苦痛でありながらも生きるためにはどうするか」という問いになるのである。
早く死ぬべきである、という答えは、役に立たない。
しかし、多くの人間とかかわるほどにストレスは貯まる。
これが新たに分かったことかもしれない。
人間嫌い……という表現を、俺は「エラー」と考えているが、しかし、やっぱり、数年を経て巻き戻った感想になるのだろうが、やはり「人間嫌い」なのであろう。
金があまるほどあっても、デスゲームを主催したり、それに参加しようとは思わないだろう。それは、人命尊重という意思ではなくて、そもそも人との関りを可能な限り避けたいと思う心性がゆえにだろう。
一方で、ブログなどで自己の心情を書くのは何故か。これは、イライラ対処に他ならない。イライラ対処だが、そのうえで、やはり「仲間」は欲しているのだろう。それは、同思考の人を得たいというよりも、「こうした変人であっても居場所はあってもいいのではないか」ということだと思う。
決して剥がれない仮面をかぶった「天海春香」氏のことを、読者的には、「裏がある怖い奴」とみなすだろう。
それを人は「打算」と呼ぶだろう。
だが、仮面をはずすことで、「社会」ないし集団に求められないということが分かっていて、もっといえば、それがゆえにひどい目に合うとして、それでも仮面をはずすという選択肢が正解なのか。
仮面とか、打算とか、裏の顔とか、そういう表現をすれば気持ち悪いことだろう。
だが、社会でいうところの、「マナー」はそうじゃないのか?
営業スマイルは?
建前は?
組織としての方針は?
汚い大人たち、と表現されるそのすべての要因は、いわゆる「仮面」であろう。
ぶっちゃけ、誰もお前のことなんてそれほど気にしてはいない。
土曜日・日曜日に、俺の存在を考えていた人なんて、果たして世界に何人いるだろう。
10人はいないと思う。
いて数人だ。
某国大統領は、数十万人は思い浮かべるケースはあるかもしれない。それと比べて、お前の言動など、たいしたことではないのだ。気にしすぎだ。気にしなくていい。適当にやればいい。無理をするな。
仮に、気にしないで、適当に、自分の思うがまま仕事なりプライベートなりを過ごしたとしよう。
――気にしないということは、それは、欲求の否定でもある。
気になっているのだから気になるのである。
何故気になるとかというのは、上に書いてきたが、「いつか裏切られるのではないか」「役立たずと思われるのではないか」「失敗するのではないか」といった不安が原因だろう。
裏を返せば、そうなって欲しくない、という思いがあるのだ。
その思いが欲求なのだ。
その思いを否定する方法を進められたとき、「俺」という存在はどこに行くのか。
そもそも、この記事の冒頭に、「どうしたらモチベーションを回復できるのか」というのがあったのだ。
そのモチベーションを回避するような方法が、どうして採用できようか。矛盾。アンチノミー。
書いて、書いて、書いて、出がらしになるまで、いや出がらしで滓しかでなくなっても、それでも書き続けるしかないのである。
ところで、さらっと、まぁいずれ書いてもいいかなぁとも思っていたが、離婚の原因は、こういった俺の思考なんだろうとは思っていた。
まぁ、こんな変人をパートナーにしたいと思う稀有な人は、70億人の中にいないだろう(かっこ笑い)。
もっとまともな人はたくさんいるのだから、うん、是非そうした方がいいと思う。
思う――が、そういったことも理解できる人だと俺は、相手のことを少し見誤っていたのだろう。
だがそれは、健常な人も、日々の生活で時折訪れる「闇」というか、疲労程度のものだったのだ。俺の抱えるわだかまりレベルの人は、ほとんど存在しないのだ。ゼロ、とは言わない。それはさすがに傲慢だ。だが、たかだか数十年の人生で見つかる程度の確率ではないのだろうと。
そういうことを、先日の友人との一件で思ったのである。
だから、変人であることをまず認め、より今後も注意しようと、そう思ったのである。
いや、保身だ、保身なのだが、しかし、俺のわだかまりを話したところで、いったい誰にメリットがあるというのだ。無い。ふつーに過ごしていた方がいいだろう。当たり前のロジックなのだ。そして、当たり前を自分自身も分かってしまうがゆえに、逆にそれがつらい。
大学時代、たぶん、一番過ごした時間が長かった友人だと思う。
同じ学部で、家も近かったので、通学も一緒にしていた。
生活のことも、勉強のことも、将来のことも、いろいろ話していた。
そういう人に、変なことばっか言ってたよなぁ、と昔の感想を言っていただいた、というそういった件である。
別に、それに対して、その友人を恨んだりとか、そういう気持ちではない。いやむしろ、そういう風に、率直に感想を言ったりしてくれるところは、そういえば昔からありがたかったかもしれない。
だが、あぁ……そうだよなぁ、やっぱり、「日本語との意味としては通じても、感覚としてはちっとも伝わってないんだなぁ」と、そう思った一件ということだ。
話は通じるが、交渉にはならない、とか、言葉は通じるが、話にならない、とかそんな感じ。
俺は、いったい、どうやってこれから生きていけばいいのか。(早く死ね、というのは、上にも書いたが、選択肢として、今回の思考としては除外だ。正解かもしれないが、次元が違うのだ)
パワハラいじめ虐待虐殺事故孤児裏切り貶め……もっと大変な人たちは、いる。
そういう苦しんだ、苦しんできた、そういった人たちの話を聞いたり見たりすることで留飲を下げる――そういう方法もある。
大っ嫌いだ。
他者を羨んだり蔑んだり、他者を基準として生きることを、俺は良しとしない。
そこに正解はない。
たとえ、80歳の寿命で死ぬまでに、その生き方で不自由をしなくても、満足して死んでいった人たちが多いとしても、俺は絶対にそれはしたくない。
これは単に感覚の問題だ。
周りの人間よりも恵まれていたから、幸せな人生だった……なんて、くそくらえだ。
そんな欺瞞の中で死ぬぐらいなら、怨嗟と怨念のままに朽ち果てたほうがましだ。
(まぁ、物理的に痛いのは嫌だ。そのあたりの次元は脳内変換してほしい)
ガン×ソードとか、フルメタルパニックとかの、過去をリセットしてユートピアを創造する、という方法は、俺は認めない。「ばーか、ばーか」だ。
フランクル氏のいうとおり、人生は、唯一性と一回性があるからこそ、人生なのだ。意味があるのだ。
唯一性と一回性をなくして、人生に意味はない。
タイムワープ・タイムリープものの、シュタインズ・ゲートは、唯一性と一回性の否定ではないか? それを何故お前は好きだといったのか?
シュタインズ・ゲートは、時空ものでありながら、その唯一性・一回性を否定していない、むしろそれを特徴づけている。詳しくは、過去の俺のどっかで書いた記事参照だ。リンクを探す気分じゃない! ッ投稿後に思い出したらはるかもしれないっ!
ここまで60分ぐらいだ。ああ、まぁまぁ書いてきたなぁ。目が痛くなってきた。
うむ……、まぁ、その、少し収まったかな。だが完全ではない。むしろ、金曜日深夜に、めちゃくちゃイライラしながら書き綴って、いったん気持ちも落ち着いたと思うが、何もしない土日を過ごして、結局、完全解消はしなかったのである。だから、書き足りなかった……というよりも、問題解決に近づいていない、遊び、とか、逃避は、やはり何の意味もないのである。
風呂に入るか、散歩するか、それとも書くか。
それしかないのだ。
(かっこ書きである。難儀、な性格である。性格……なのか? 分からん。まぁ、思うに、「人に気に入られなくてはならない」というそういう強迫観念が、元凶の一つであるようには思う。それは承認欲求の枯渇なのかもしれない。ほんとは、仕事を辞めてもしばらくは失業手当(1年)で何とか生活できるだろう。それでも困窮したら生活保護が受給できるだろう。いろいろ批判にさらされる社会保障制度だが、使えない奴は今すぐ死ね的には、とりあえず、建前上はなっていない。だから、本当は、みながのびのび、自分の力を遺憾なく発揮していったら、もっと生産性もあがって、残業も少なくなって、幸せな社会になるんじゃないかなぁ……というのは日和見である。人間は、汚い。そう上手くいかないようにできているのだ。さもなければ、原人からの500万年間だか、文明の4000年+2000年からのだか、近代の400年前からだか、いつから数えるかは分からないが、ユートピアが成立していないのは不自然である。いい人もいる。悪い人もいる。変な人もいる。だが、その多くは、揺らぎがある中間人なのである。人は、「信念をもて」とか言いつつも、その信念に殉じれるほど強い人たちだけではないのだ。その信念を抱き、行動し続ける人だけが成功する(運だけでのし上がる人もいるだろうが、そういうのは、物語構造上は失敗したり、かませ犬になる)。そういう意味で、上の記事で書いた、「人間嫌い」という表現が、実はやっぱり、エラーなのだと思っている。エラー(=悪い人ばかりではない)なのだろうが、逆に俺が怖いのは、その揺らぎ、中間さ、なのである。安定などない。不安定の中に、そのリスク事態を楽しむかのように、人は生きているのである。一方で、文明は、そのリスクを軽減しようとシステムを構築している。だが、その安全性への希求と、人間本来の揺らぎとのギャップが、不自然さを醸し出している。――と、僕は思う。思い、そして、それが不安なのだ。なーってことを言っても、分かってくれる人は中々いないのだ、ということを、再認識すべきだ。だが、きっと、今回の記事においても、部分、部分においては、納得してくれる人がいるかもしれない。だが、一通りこうやって、ひとまとまりで「言う」「話す」「しゃべる」ことは、実際は不可能なのであって、そうすると、センセーショナルな表現にどうしても引きずられて、「こいつやべえ」となって、危険視されて……あああ、だから、もう、おとなしくするしかないのだが、それがストレスであって、俺は一体どうすれば……そう、だから書かなきゃなんねーんだ、ということで、ループの中でイライラが増幅されて、はて、どうしたらいいのだろう、風呂でも入ろう、勉強でもしよう、解決できなければ、対処するしかないのだ。感冒(風邪)は治せないが、症状を緩和することはできるのだ)
前書き
得体のしれないイライラというものをご存じだろうか。これは、鬱と換言してもよいと思う。
憂鬱な気分である。
気分が沈み込んでいる。やる気が起きない。モチベーションがない。動機を持てない。欲求がない。
生理的な、おなかがすいた、眠い、ぐらいは欲求があるかもしれない。しかしそれは、より動物的な、欲動といっていいものだろう。
人は何か、欲求があるから生きている。根源にあるのは、死にたくない、仲間を作りたい、知りたい、というものだろう。生得的な、遺伝情報を残そうとする意志。
まぁそんな次元のことを考えようというのではない。どうでもいい。分からないことは分からないのだ。
そんな曖昧なものではなく、いま、ここに生じている、このイライラをどうにかして対処し、より創造的な活動をするために何ができるのか、それを試みなければならないのだ。
イライラの根源
プライベート、仕事、このどちらかにまずは分けられるだろう。しかし実際、僕が以前から書いているように、プライベートと仕事は、厳密に分けることは危険だし、あまり意味があることではない。
グレーゾーンとして通勤時間というものがある。または、会社に到着してから、始業開始時間までの間というのもある。サービス残業はこれからもっと規制されるだろうが、しかし、厳密に、就業のチャイムが(なる仕事場があるかどうか知らないが)なってから、すぐさま身支度をしている人がどれだけいるかも分からない。
ちなみに、今の職場は、そこのあたりはルーズである。
逆に、まぁ、それほど雰囲気は悪くないが、個人的に、「雑談」的なのがよくわからない自分としては、それ自体がストレスであったりする。
雑談ってのは、非常に面倒なものだ。だいっきらいだ。
その延長で、飲み会も嫌いだが、まぁしゃあない部分もある。
ある意味、仕事のためにメンバーのことを人間性を知るという意味で、飲み会などは重要だという感覚もあるため、そこまで毛嫌いするものとも思っていない。
だが、今の職場でより困るのは、相手にする人数が多いということだ。メンバーが多い、2桁以上である。
これ自体がストレスだ。
数人程度の協調関係を築くなら、「変人」の僕であっても、「マナー」によって関係を維持することはある程度できる。
いやむしろ、別に何人に増えようが、それは変わらない。
だが、それと、内面的なストレス・疲れとは別だ、というか、大いに関係がある。
人に好かれなければいけないという強迫観念
裏切られる可能性。……とそこまでではない。だが、基本的に、猜疑心が強い、とい言っていいだろう。
彼らはキラークイーンで最後まで殺し合うようです
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↑の「やらない子」氏、ほどではない……と信じたいが、まぁ似たようなものかもしれない。
いやどちらかというと、「ほむほむ」氏や「はるかちゃん」氏、のように、誰かに取り入らないといけないといったような脅迫観念なのかもしれない。
これはまぁ、過去にいじめられた経験なり失恋が原因だとか、トラウマ要因を挙げると、同情をかえるかもしれないが、正直、そこはどうでもいい――どうでもいいのかどうかはともかく、過去の原因はともかく、「信頼ベース」で人と付き合えないことは大分ハンデ、である。
一方で、「夜神月」氏や、「一条」氏や「やらない男」氏のように、頭がよければそれはそれで世の中を渡っていけるが、そこまでの能力もない変人は、目立った悪役にすらなれずに消えるMOBキャラである。
――という自己認識において、果たして、どうやって生きていけばいいのか。
非常に生きづらい世の中になるのは自明である。
早く死んだほうがいいんじゃないかと思っていた過去の自己認識は、あながちではなかったと、今思っても、同意見になるだろう。
こんなつらい毎日が続くなら死んだ方がまし
今、僕は、過去を美化しているかもしれない。もう、こんな毎日涙が出てくるような夜を過ごすなら、早く死んだほうが楽なんじゃないか……。
この感覚は、嘘、ではなかろうと思う。
ぶっちゃけ、〇もあるし、◎もいるし、●の関係もあるし、過去と比べると、今はパラダイスな条件がそろっていると思う。
しかし、財産があれば人は幸せか、というテーゼと同じように、得たものがあるとしても、その人にとって充足が得られるとは限らないのである。
ぶっちゃけ、組織も、人も、信じられていないのである。
それは、「裏切られた」ということではないのだ。
その「可能性」なのである。
可能性への不信感
僕のイライラを表現するのは非常に難しい。特定の事象……が原因なのはそうだろうが、それだけではない。
人は、意味があれば、大抵の困難を乗り越えられる……といったのはニーチェ氏だったか。
それは確かに、と思う。
仕事の苦難も、その先に待つ出世なり、昇給なり、仕事の達成感なり、周囲の承認なり……なんらかの「意味」があれば、きっと乗り越えられるものなのだ。
それが、俺に、今の俺には何なのか分からない、そこに問題がある。
俺に、昇給なり、「褒め」なり、何かを提示しても、特にモチベーションにならないのだ。
こんなに扱いにくい人間はいないだろう。捨てた方がいい気がする……周囲のせっかく仲間で一丸となって頑張ろうといった雰囲気作りにも悪影響だ。
――ということも分かっている、だから、みんなのやる気をそがないように気を付ける必要もあるのである。
精神医学・心理学的には否となるかな
そんなこと気にせずに、自分を開示していきましょう――的な方針が、医学的・治療学的には提示されるのか。それは、正しいかもしれないが、不適切な対応だ。
そのあたりに、「誰かに頼る」という手段が、僕が選べない理由もある。
治療?
治療とは、異常な状態を、正常な状態へ戻すことだ。
つまり、正常な状態は、「みんな助け合って一丸となって困難へ対処していくこと」――要は仕事頑張って成果を上げましょうという状態である、畢竟するに。
その、いわゆる「正常」に対して、俺は疑念が尽きないのであって、であれば、いったいどこに着地点があるのか。わからない、わからない、わからない……となるのである。
何せ、先日、俺は、「変人である」と定義した。
これは危険な思考であることも重々承知の上でだ。
何せ、変であることを前提としたら、いわゆる一般的に「正しい道」とされているところは、俺にとって正しくもなんともない、ということになるのだから。
早く死ねや
以上……のようやことを思って、誰かに相談すれば、「変人や異常者は正常な社会において不要だから排除されるべき」ということになる。だから相談はできない。孤独な戦いにならざる得ないのである。――ましてや、こういう物言いがそもそも、独善的だとか、特権意識だとか、勘違い野郎だとか、中二病だとか言われるだけである。こじらせちゃんだ。
俺は……幸せになりたいのか。
不幸せになりたいのか。
否、そういった二項対立的な問いは、そもそも生きるベースの思考に一切役に立たないことは、これまでの経験上分かっている。それが問題なのではない。
生きるか死ぬかの問いは、まず、現状追認するしかないのである。
ぐだぐだと、思考が止まらない段階で、まずもって、「生きている」のであるから、「死ぬべきだ」という答えがあったとしても、それは既に選択されていないのである。
だから、「苦痛でありながらも生きるためにはどうするか」という問いになるのである。
早く死ぬべきである、という答えは、役に立たない。
仮面(ペルソナ)
楽しく生きる必要がある。しかし、多くの人間とかかわるほどにストレスは貯まる。
これが新たに分かったことかもしれない。
人間嫌い……という表現を、俺は「エラー」と考えているが、しかし、やっぱり、数年を経て巻き戻った感想になるのだろうが、やはり「人間嫌い」なのであろう。
金があまるほどあっても、デスゲームを主催したり、それに参加しようとは思わないだろう。それは、人命尊重という意思ではなくて、そもそも人との関りを可能な限り避けたいと思う心性がゆえにだろう。
一方で、ブログなどで自己の心情を書くのは何故か。これは、イライラ対処に他ならない。イライラ対処だが、そのうえで、やはり「仲間」は欲しているのだろう。それは、同思考の人を得たいというよりも、「こうした変人であっても居場所はあってもいいのではないか」ということだと思う。
決して剥がれない仮面をかぶった「天海春香」氏のことを、読者的には、「裏がある怖い奴」とみなすだろう。
それを人は「打算」と呼ぶだろう。
だが、仮面をはずすことで、「社会」ないし集団に求められないということが分かっていて、もっといえば、それがゆえにひどい目に合うとして、それでも仮面をはずすという選択肢が正解なのか。
仮面とか、打算とか、裏の顔とか、そういう表現をすれば気持ち悪いことだろう。
だが、社会でいうところの、「マナー」はそうじゃないのか?
営業スマイルは?
建前は?
組織としての方針は?
汚い大人たち、と表現されるそのすべての要因は、いわゆる「仮面」であろう。
気にしすぎ
とはいえ、俺が、少しばかり、敏感になりすぎているというのはあるだろう。ぶっちゃけ、誰もお前のことなんてそれほど気にしてはいない。
土曜日・日曜日に、俺の存在を考えていた人なんて、果たして世界に何人いるだろう。
10人はいないと思う。
いて数人だ。
某国大統領は、数十万人は思い浮かべるケースはあるかもしれない。それと比べて、お前の言動など、たいしたことではないのだ。気にしすぎだ。気にしなくていい。適当にやればいい。無理をするな。
問題はそれで終わらない
原因論として、俺が、敏感、HSP(ハイリーセンシティブパーソン、だったか)だろうが、それもあまり重要ではないのである。仮に、気にしないで、適当に、自分の思うがまま仕事なりプライベートなりを過ごしたとしよう。
――気にしないということは、それは、欲求の否定でもある。
気になっているのだから気になるのである。
何故気になるとかというのは、上に書いてきたが、「いつか裏切られるのではないか」「役立たずと思われるのではないか」「失敗するのではないか」といった不安が原因だろう。
裏を返せば、そうなって欲しくない、という思いがあるのだ。
その思いが欲求なのだ。
その思いを否定する方法を進められたとき、「俺」という存在はどこに行くのか。
そもそも、この記事の冒頭に、「どうしたらモチベーションを回復できるのか」というのがあったのだ。
そのモチベーションを回避するような方法が、どうして採用できようか。矛盾。アンチノミー。
解決策は書くことである
故に、最後の居場所であるここに、俺はひたすら書くしかないのである。書いて、書いて、書いて、出がらしになるまで、いや出がらしで滓しかでなくなっても、それでも書き続けるしかないのである。
ところで、さらっと、まぁいずれ書いてもいいかなぁとも思っていたが、離婚の原因は、こういった俺の思考なんだろうとは思っていた。
まぁ、こんな変人をパートナーにしたいと思う稀有な人は、70億人の中にいないだろう(かっこ笑い)。
もっとまともな人はたくさんいるのだから、うん、是非そうした方がいいと思う。
思う――が、そういったことも理解できる人だと俺は、相手のことを少し見誤っていたのだろう。
だがそれは、健常な人も、日々の生活で時折訪れる「闇」というか、疲労程度のものだったのだ。俺の抱えるわだかまりレベルの人は、ほとんど存在しないのだ。ゼロ、とは言わない。それはさすがに傲慢だ。だが、たかだか数十年の人生で見つかる程度の確率ではないのだろうと。
そういうことを、先日の友人との一件で思ったのである。
だから、変人であることをまず認め、より今後も注意しようと、そう思ったのである。
いや、保身だ、保身なのだが、しかし、俺のわだかまりを話したところで、いったい誰にメリットがあるというのだ。無い。ふつーに過ごしていた方がいいだろう。当たり前のロジックなのだ。そして、当たり前を自分自身も分かってしまうがゆえに、逆にそれがつらい。
友人との一件
もう少し、具体的に書いておこうか。今は割とセンセーショナルだったので覚えているが、それもしばらくしたら消えていきそうだ。大学時代、たぶん、一番過ごした時間が長かった友人だと思う。
同じ学部で、家も近かったので、通学も一緒にしていた。
生活のことも、勉強のことも、将来のことも、いろいろ話していた。
そういう人に、変なことばっか言ってたよなぁ、と昔の感想を言っていただいた、というそういった件である。
別に、それに対して、その友人を恨んだりとか、そういう気持ちではない。いやむしろ、そういう風に、率直に感想を言ったりしてくれるところは、そういえば昔からありがたかったかもしれない。
だが、あぁ……そうだよなぁ、やっぱり、「日本語との意味としては通じても、感覚としてはちっとも伝わってないんだなぁ」と、そう思った一件ということだ。
話は通じるが、交渉にはならない、とか、言葉は通じるが、話にならない、とかそんな感じ。
俺は、いったい、どうやってこれから生きていけばいいのか。(早く死ね、というのは、上にも書いたが、選択肢として、今回の思考としては除外だ。正解かもしれないが、次元が違うのだ)
嫌な方法だが一つある
あとは、その、イライラ解消の方法としては、俺が嫌いな方法だが、「比較」というのがある。パワハラいじめ虐待虐殺事故孤児裏切り貶め……もっと大変な人たちは、いる。
そういう苦しんだ、苦しんできた、そういった人たちの話を聞いたり見たりすることで留飲を下げる――そういう方法もある。
大っ嫌いだ。
他者を羨んだり蔑んだり、他者を基準として生きることを、俺は良しとしない。
そこに正解はない。
たとえ、80歳の寿命で死ぬまでに、その生き方で不自由をしなくても、満足して死んでいった人たちが多いとしても、俺は絶対にそれはしたくない。
これは単に感覚の問題だ。
周りの人間よりも恵まれていたから、幸せな人生だった……なんて、くそくらえだ。
そんな欺瞞の中で死ぬぐらいなら、怨嗟と怨念のままに朽ち果てたほうがましだ。
(まぁ、物理的に痛いのは嫌だ。そのあたりの次元は脳内変換してほしい)
ガン×ソードとか、フルメタルパニックとかの、過去をリセットしてユートピアを創造する、という方法は、俺は認めない。「ばーか、ばーか」だ。
フランクル氏のいうとおり、人生は、唯一性と一回性があるからこそ、人生なのだ。意味があるのだ。
唯一性と一回性をなくして、人生に意味はない。
タイムワープ・タイムリープものの、シュタインズ・ゲートは、唯一性と一回性の否定ではないか? それを何故お前は好きだといったのか?
シュタインズ・ゲートは、時空ものでありながら、その唯一性・一回性を否定していない、むしろそれを特徴づけている。詳しくは、過去の俺のどっかで書いた記事参照だ。リンクを探す気分じゃない! ッ投稿後に思い出したらはるかもしれないっ!
ここまで60分ぐらいだ。ああ、まぁまぁ書いてきたなぁ。目が痛くなってきた。
要はどうしようか
さて、この記事は、イライラ対処であるので、1時間ぐらいかけて、少しは気が収まったのだろうか。うむ……、まぁ、その、少し収まったかな。だが完全ではない。むしろ、金曜日深夜に、めちゃくちゃイライラしながら書き綴って、いったん気持ちも落ち着いたと思うが、何もしない土日を過ごして、結局、完全解消はしなかったのである。だから、書き足りなかった……というよりも、問題解決に近づいていない、遊び、とか、逃避は、やはり何の意味もないのである。
風呂に入るか、散歩するか、それとも書くか。
それしかないのだ。
(かっこ書きである。難儀、な性格である。性格……なのか? 分からん。まぁ、思うに、「人に気に入られなくてはならない」というそういう強迫観念が、元凶の一つであるようには思う。それは承認欲求の枯渇なのかもしれない。ほんとは、仕事を辞めてもしばらくは失業手当(1年)で何とか生活できるだろう。それでも困窮したら生活保護が受給できるだろう。いろいろ批判にさらされる社会保障制度だが、使えない奴は今すぐ死ね的には、とりあえず、建前上はなっていない。だから、本当は、みながのびのび、自分の力を遺憾なく発揮していったら、もっと生産性もあがって、残業も少なくなって、幸せな社会になるんじゃないかなぁ……というのは日和見である。人間は、汚い。そう上手くいかないようにできているのだ。さもなければ、原人からの500万年間だか、文明の4000年+2000年からのだか、近代の400年前からだか、いつから数えるかは分からないが、ユートピアが成立していないのは不自然である。いい人もいる。悪い人もいる。変な人もいる。だが、その多くは、揺らぎがある中間人なのである。人は、「信念をもて」とか言いつつも、その信念に殉じれるほど強い人たちだけではないのだ。その信念を抱き、行動し続ける人だけが成功する(運だけでのし上がる人もいるだろうが、そういうのは、物語構造上は失敗したり、かませ犬になる)。そういう意味で、上の記事で書いた、「人間嫌い」という表現が、実はやっぱり、エラーなのだと思っている。エラー(=悪い人ばかりではない)なのだろうが、逆に俺が怖いのは、その揺らぎ、中間さ、なのである。安定などない。不安定の中に、そのリスク事態を楽しむかのように、人は生きているのである。一方で、文明は、そのリスクを軽減しようとシステムを構築している。だが、その安全性への希求と、人間本来の揺らぎとのギャップが、不自然さを醸し出している。――と、僕は思う。思い、そして、それが不安なのだ。なーってことを言っても、分かってくれる人は中々いないのだ、ということを、再認識すべきだ。だが、きっと、今回の記事においても、部分、部分においては、納得してくれる人がいるかもしれない。だが、一通りこうやって、ひとまとまりで「言う」「話す」「しゃべる」ことは、実際は不可能なのであって、そうすると、センセーショナルな表現にどうしても引きずられて、「こいつやべえ」となって、危険視されて……あああ、だから、もう、おとなしくするしかないのだが、それがストレスであって、俺は一体どうすれば……そう、だから書かなきゃなんねーんだ、ということで、ループの中でイライラが増幅されて、はて、どうしたらいいのだろう、風呂でも入ろう、勉強でもしよう、解決できなければ、対処するしかないのだ。感冒(風邪)は治せないが、症状を緩和することはできるのだ)