今日の一言「体調が悪い」「眠れない」
「完全に満ち足りてネガティブな感情が一切生じない状態」ということが想定し得ない以上、漸近的に「良くしていく」ことに努めなければいけない。
ポイントは、漸近的、であることだ。徐々に。緩やかに。
そうした意味で、「頑張る」ことは、否定されなければいけない。
同時に、非常時と、平常時を分けて考えなければいけない。
敵の軍靴が迫る中で、悠長にコーヒーを飲んでいる時間はない。
世界を、文章で叙述できるとするのは、非常に傲慢な考えだ。
(点線は、事象の量を長さで示す)
自然(森羅万象)(を以下の点線で示したとき100%としたとき)
-------------------------------
社会(慣習、思考、感情、また非言語コミュニケーション)
---------------------
文章(科学・文学)
-------------
といった関係になるだろう。
文字が示せているのは、自然の、ほんの一部に過ぎない。
その、「ほんの一部」の部分が、テクノロジーの進展によって、広がっては来ているだろう。だが、100%にはならない。
そもそも、体調の悪さで眠れずに、いつも、この本を手に取ると、わけが分からなくて、段々眠くなっていくから、ちょうどいいかと思ったのだったが(かっこ笑い)。
上のことを思ったのは、メモしておけば、
第二章 刑苦
Ⅰ~Ⅱ(ローマ数字1~2)
までの十数ページを読んでのことだった。
しかし、それだけでは、きっと想起されなかったことだろう。
直近の、コメント頂いた内容や、体調の悪さや、その他経験によるものも、無視できるものではないだろう。
漠然とした不安、というものがある。
これについて、対処法的には、紙に不安を書き出せ、となるだろう。
これは非常に難しい。
紙に書きだせるような不安になった段階で、その不安は、形式を与えられているのだ。
書き出しただけで不安が解消するものではない。ただし、形式化されることによって、不安の輪郭があらわになり、不安と向き合えるようになるのである。
漠然とした不安。
これが恐怖であるのは、その漠然さ故である。
無理やり書き出した不安が、偶然にもその輪郭に適するものであればよいが、的外れなものであれば、不安の解消どころか苦痛は増すことになる。不安が、ますます得体のしれないものに思えるからだ。
蛇足。そういえば、キルケゴール氏は、『不安の概念』という著作も出していた。これは、不安は、キリスト教の原罪と結びついている――といった流れであり、あまりピンとこなかった。
虚無、に囚われてしまっているのは、読書が足りないからだ――インプットがたりないからだ、と思った。
虚無、と書くと大げさだが、要はモチベーションの低さである。
何に対してのモチベーションか。言うまでもなく生活についてだ。「生」と書くと、これまた大げさになるだろう。
そもそも、こうして悠長に思考ができたり、体調の悪さを言い訳できるのも、バタイユ氏が看破したように、ありとあらゆる人間の芸術は死からの逃避なのだ、と。
(もしかしてハイデガー氏だったか、忘れた)
人は死へと向かうのだから、ダス・マン(ただの人)ではなく、ダーザインたれ、というのはハイデガー氏である。
しかし、しんざき氏もおっしゃるように、人間の決意なんてのは、たいていあてにならない。
大事なのは、環境だ、空間(動線)だ。
きやつらは、「分かりやすい」ように作られている。
分かりやすい文章など、大したことはないのである。
法律が難しいのは何故か。「厳密に」書こうとするからである。本来、ルール、規則なのだから、分かりやすいはずなのだ。月の残業時間を45時間とする。それだけでいいはずなのだが、条文にすると以下のようになる。
---抄-----------------------------
五 労働時間の延長及び休日の労働を適正なものとするために必要な事項として厚生労働省令で定める事項
前項第四号の労働時間を延長して労働させることができる時間は、当該事業場の業務量、時間外労働の動向その他の事情を考慮して通常予見される時間外労働の範囲内において、限度時間を超えない時間に限る。
前項の限度時間は、一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間とする。
第一項の協定においては、第二項各号に掲げるもののほか、当該事業場における通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に第三項の限度時間を超えて労働させる必要がある場合に おいて、一箇月について労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させることができる時間並びに一年について労働時間を延長して労働させることができる時間を定めることができる。
この場合において、第一項の協定に、併せて第二項第二号の対象期間において労働時間を延長して労働させる時間が一箇月について四十五時間を超えることができる月数(一年について六箇月以内に限る。)を定めなければならない。
--------------------------------
そもそも、労働基準法の改正のため、労働基準法の立て付けについてよく理解しておかないと、よく分からない。
あと、様々な業種によって、特別な事項を定めているから長くなる。
何の話だっけ。そうそう、ネットの記事と読書の違いだ。
ネットは、高レスポンスが求められる。
独自性があり、様式を守って、分かりやすいものが評価される。
長々と要旨が捉えられない文章なりサイトなりは評価されない。
「要するに」
が大事だ。
仕事も割とそうだ。
結論、どうなのか、が上司への報告で大事だとされる。
自然って、そもそも描写できるのか、ってことである。
できますまい。
そして自己も、自分自身も、「要するに」などと換言できるものではありますまい。
単行本1冊が、10万字ときくので、30冊分ぐらいである。
まぁまぁ書いてきたものだ。
それだけ書いてきても、まだまだ書ききれないのは、それだけ高度な生活をしてきたというわけでは全くなくて、そもそも、表現できることなど、ほんの僅かなのだということだ。
ちなみに、少し関係ないが、世界(自然)の認識を、やはり僕は「言語」で行っている気がする。
高速に、言語化を試みている気がする。
つまり、「考えて」行動している気がする。
これは、「俺思慮深くてすげーだろ」という意味では全くなくて、むしろ、感覚的に動けたほうが断然幸せで有能である。
どんだけ高速で思考しても、感覚よりも遅い。
こういう場合はこうする、ということを、体で覚えたほうが楽なのだ。
それが、できない。
こうしたらこうなる、こうなったらああなるから、こうしてああしよう、ということを思うのである。
――だから、ひとづきあいがつかれる、というのはあるかもしれない。
つまり、考えることが好きなのではなくて、そうなってしまうがゆえに、疲れるのである。
考えたくない。何も考えずに生きていきたい。――しかしそれは、生きているといえるのか。
(かっこ書きである。眠くなってきた。もう7時を過ぎている。ここで寝ると、また夕方に目が覚めるパターンで、夜眠れなくなって、月曜日も変な時間から起きて……と悪循環が目に見えているので、寝ないぞ。今日は寝ない。お昼寝は13時から14時までの一時間にするっ! あーそれにしても具合悪いな。だが、のどの痛みはひいてきて、鼻水がメインになってきている。いつものパターンだ。喉→咳→鼻水→治る、と。もしくは、咳と痰がしばらく続くパターンもあるな。とにかく、言えることは、体調はプライオリティ高い。間違いなく。次点で、書くことだろう。次点で、読むことだろう。しっかし、満員電車で、読書はおろかスマホ開くのすら大変だし、そもそも、睡眠が十分でないと、頭痛にとにかく耐えるしかないという悪循環。会社近くに引っ越すというのは手だが、しかし、初期費用、手間、運用費用を考えても、やる気が全く起きないな。しかし冷静に、他に何か手はないものか……)
前書き
焦燥や不安といったネガティブな感情も、生きていくのに必要なものである。「完全に満ち足りてネガティブな感情が一切生じない状態」ということが想定し得ない以上、漸近的に「良くしていく」ことに努めなければいけない。
ポイントは、漸近的、であることだ。徐々に。緩やかに。
そうした意味で、「頑張る」ことは、否定されなければいけない。
同時に、非常時と、平常時を分けて考えなければいけない。
敵の軍靴が迫る中で、悠長にコーヒーを飲んでいる時間はない。
世界を、文章で叙述できるとするのは、非常に傲慢な考えだ。
(点線は、事象の量を長さで示す)
自然(森羅万象)(を以下の点線で示したとき100%としたとき)
-------------------------------
社会(慣習、思考、感情、また非言語コミュニケーション)
---------------------
文章(科学・文学)
-------------
といった関係になるだろう。
文字が示せているのは、自然の、ほんの一部に過ぎない。
その、「ほんの一部」の部分が、テクノロジーの進展によって、広がっては来ているだろう。だが、100%にはならない。
内的体験
てなことを、本ブログでも度々登場する、ジョルジュ・バタイユの『内的体験』を読んでいたら思った。そもそも、体調の悪さで眠れずに、いつも、この本を手に取ると、わけが分からなくて、段々眠くなっていくから、ちょうどいいかと思ったのだったが(かっこ笑い)。
上のことを思ったのは、メモしておけば、
第二章 刑苦
Ⅰ~Ⅱ(ローマ数字1~2)
までの十数ページを読んでのことだった。
しかし、それだけでは、きっと想起されなかったことだろう。
直近の、コメント頂いた内容や、体調の悪さや、その他経験によるものも、無視できるものではないだろう。
漠然とした不安、というものがある。
これについて、対処法的には、紙に不安を書き出せ、となるだろう。
これは非常に難しい。
紙に書きだせるような不安になった段階で、その不安は、形式を与えられているのだ。
書き出しただけで不安が解消するものではない。ただし、形式化されることによって、不安の輪郭があらわになり、不安と向き合えるようになるのである。
漠然とした不安。
これが恐怖であるのは、その漠然さ故である。
無理やり書き出した不安が、偶然にもその輪郭に適するものであればよいが、的外れなものであれば、不安の解消どころか苦痛は増すことになる。不安が、ますます得体のしれないものに思えるからだ。
蛇足。そういえば、キルケゴール氏は、『不安の概念』という著作も出していた。これは、不安は、キリスト教の原罪と結びついている――といった流れであり、あまりピンとこなかった。
読書の必要性
そうだった、この記事は、読書の必要性について書くものだった。虚無、に囚われてしまっているのは、読書が足りないからだ――インプットがたりないからだ、と思った。
虚無、と書くと大げさだが、要はモチベーションの低さである。
何に対してのモチベーションか。言うまでもなく生活についてだ。「生」と書くと、これまた大げさになるだろう。
そもそも、こうして悠長に思考ができたり、体調の悪さを言い訳できるのも、バタイユ氏が看破したように、ありとあらゆる人間の芸術は死からの逃避なのだ、と。
(もしかしてハイデガー氏だったか、忘れた)
人は死へと向かうのだから、ダス・マン(ただの人)ではなく、ダーザインたれ、というのはハイデガー氏である。
しかし、しんざき氏もおっしゃるように、人間の決意なんてのは、たいていあてにならない。
大事なのは、環境だ、空間(動線)だ。
インターネットとの違い
ニュース記事を読んでいるだけでは、到底思考力はつかない。きやつらは、「分かりやすい」ように作られている。
分かりやすい文章など、大したことはないのである。
法律が難しいのは何故か。「厳密に」書こうとするからである。本来、ルール、規則なのだから、分かりやすいはずなのだ。月の残業時間を45時間とする。それだけでいいはずなのだが、条文にすると以下のようになる。
---抄-----------------------------
五 労働時間の延長及び休日の労働を適正なものとするために必要な事項として厚生労働省令で定める事項
前項第四号の労働時間を延長して労働させることができる時間は、当該事業場の業務量、時間外労働の動向その他の事情を考慮して通常予見される時間外労働の範囲内において、限度時間を超えない時間に限る。
前項の限度時間は、一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間とする。
第一項の協定においては、第二項各号に掲げるもののほか、当該事業場における通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に第三項の限度時間を超えて労働させる必要がある場合に おいて、一箇月について労働時間を延長して労働させ、及び休日において労働させることができる時間並びに一年について労働時間を延長して労働させることができる時間を定めることができる。
この場合において、第一項の協定に、併せて第二項第二号の対象期間において労働時間を延長して労働させる時間が一箇月について四十五時間を超えることができる月数(一年について六箇月以内に限る。)を定めなければならない。
--------------------------------
そもそも、労働基準法の改正のため、労働基準法の立て付けについてよく理解しておかないと、よく分からない。
あと、様々な業種によって、特別な事項を定めているから長くなる。
何の話だっけ。そうそう、ネットの記事と読書の違いだ。
ネットは、高レスポンスが求められる。
独自性があり、様式を守って、分かりやすいものが評価される。
長々と要旨が捉えられない文章なりサイトなりは評価されない。
「要するに」
が大事だ。
仕事も割とそうだ。
結論、どうなのか、が上司への報告で大事だとされる。
自然って、そもそも描写できるのか、ってことである。
できますまい。
そして自己も、自分自身も、「要するに」などと換言できるものではありますまい。
そして眠りへ
1MBが、50万字だという。当該ブログのバックアップをとったら、6MBだった。記事数は1000。メタ文字などあるだろうけれども、単純計算で、300万字である。1記事3000字ぐらいと考えれば、ああ、それぐらいかな、とも思う。単行本1冊が、10万字ときくので、30冊分ぐらいである。
まぁまぁ書いてきたものだ。
それだけ書いてきても、まだまだ書ききれないのは、それだけ高度な生活をしてきたというわけでは全くなくて、そもそも、表現できることなど、ほんの僅かなのだということだ。
ちなみに、少し関係ないが、世界(自然)の認識を、やはり僕は「言語」で行っている気がする。
高速に、言語化を試みている気がする。
つまり、「考えて」行動している気がする。
これは、「俺思慮深くてすげーだろ」という意味では全くなくて、むしろ、感覚的に動けたほうが断然幸せで有能である。
どんだけ高速で思考しても、感覚よりも遅い。
こういう場合はこうする、ということを、体で覚えたほうが楽なのだ。
それが、できない。
こうしたらこうなる、こうなったらああなるから、こうしてああしよう、ということを思うのである。
――だから、ひとづきあいがつかれる、というのはあるかもしれない。
つまり、考えることが好きなのではなくて、そうなってしまうがゆえに、疲れるのである。
考えたくない。何も考えずに生きていきたい。――しかしそれは、生きているといえるのか。
(かっこ書きである。眠くなってきた。もう7時を過ぎている。ここで寝ると、また夕方に目が覚めるパターンで、夜眠れなくなって、月曜日も変な時間から起きて……と悪循環が目に見えているので、寝ないぞ。今日は寝ない。お昼寝は13時から14時までの一時間にするっ! あーそれにしても具合悪いな。だが、のどの痛みはひいてきて、鼻水がメインになってきている。いつものパターンだ。喉→咳→鼻水→治る、と。もしくは、咳と痰がしばらく続くパターンもあるな。とにかく、言えることは、体調はプライオリティ高い。間違いなく。次点で、書くことだろう。次点で、読むことだろう。しっかし、満員電車で、読書はおろかスマホ開くのすら大変だし、そもそも、睡眠が十分でないと、頭痛にとにかく耐えるしかないという悪循環。会社近くに引っ越すというのは手だが、しかし、初期費用、手間、運用費用を考えても、やる気が全く起きないな。しかし冷静に、他に何か手はないものか……)
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