今日の一言「つみたてNISA口座が開かない」「体調が悪い」
つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
前書き
(1)つみたてNISAを検討していると前回書いた。
口座申し込みのボタンをNET上で押して、翌日ぐらいには書類が届いていたが、いざ書類を書いて投函してから3日営業日ぐらい立つが、まだ開設準備中のままだ。
その間、どの商品を購入するか検討するべきということなのか。
eMAXIS Slim全世界株式
と
ニッセイ・インデックスバランスファンド(4資産均等型)
の組み合わせにしようか。知らなかったが、複数の商品を組み合わせることもできるようだ(証券会社によって本数が異なる)。
(2)
体調が悪い。
これが一番の問題だ。免疫力の低下を感じる。
仕事からもう少し早く帰れるといいんだが。
しかし、思ったのは、通勤中のストレスがこれまで以上に大きい。経路が変わって、所要時間は若干減ったぐらいである。しかし、乗り換えが増えたのと、電車の混雑具合がきつい。
駅構内を歩いているときも、大量の人が埋め尽くして流れていく様を見るだけでも具合が悪くなるってもんである。
そういった、仕事と、それの周辺に属することが、じわじわとストレスになっている気がする。
多様性
――「皆それぞれ意見があるよね」は確かに正しいのだが、そんな中で「その意見は認められない!」という人がいたとして、その人に「いやいや、間違った意見など存在しないでしょう」とかなんとか言うことが正しいのか――
某友人のブログの一文を引用させて頂いた(何があったかは皆目つかない)。
とても興味があるテーマである。
『進撃の巨人』
という作品が、それについて言及していると思っている(勝手に)。
進撃の巨人は面白いが、やはり、「つまらない」と感じる人も多いようである(NETのレビューなど)。
すかっと巨人化して悪い奴を一掃。
という作品だったら、僕は早々に購入を止めていたと思う。
全然すかっとしないところが気に入っている。
壁の中の巨人を、血なまぐさい犠牲と努力ですべて倒しつくすことができた。しかし、それは新たな悲劇の始まりでしかなかった、というのが単行本での最新刊(25~28巻)あたりか。
これに対して、僕は、以下のように思う。
ルールと価値観(共通の価値)は別物だということだ。
――内部リンク
言いたいことが違う
と、ここまで書いて、引用元での論点と、僕が書こうと思ったことが全然違っていることに気づいた。これが僕の悪い癖な気もする。
人の話に飽きてしまうというのは、逆に書けば、違うことに興味をもってしまう、ということでもある。
まぁいい、全然まとまらないが、とにかく、エレンとアルミンの決別である。
どういうことかというと、アルミンは、「話し合うべきだ」と主張する。しかし、もう時間がないと判断したエレンは戦う意志と行動を示す。
まぁまぁ、人はみな違うんだから、いろんな意見をもっていいじゃないか。
というのは正しい。
一方で、「その意見は間違っている」ということも正しい。
その矛盾が成り立つのは、ルールという次元と、価値観という次元が混在するからである。(混在とかいたが、別々に切り分けられる、という感じもする)
ルールと価値観
ルールは、脅かしてはいけない。ルールは、守らなければいけない。
しかし、ルールは変えることも可能である。
価値観は、人それぞれの来歴によって醸成される。
価値観は、不変ではないが、すぐさま変わるようなものでもない。
価値観に善悪はない。
善悪が生じるのは、ルールとの「ズレ」が発生した時である。
「人の本能は闘争であり、争いでのみ本当の自己を解き放てる」
という価値観を抱くことは間違っていない。
しかし、ルールに基づかない闘争は犯罪だ。それは悪だ。
ボクシングや野球は、人間の闘争心を鎮火、浄化? 昇華? してくれるものかもしれない。だから、人の本能は闘争であり、適度な争いや競争がなければ堕落する、というのは、納得できる部分もなかろうか。
だからといって、ところかまわず力をふるってはダメだし、権力を笠にして弱いものを虐げてもダメだろう。
だが、それが「ダメ」なのは、そういうルールを、人間たちが「共通価値観」によって作り出したからだ。
共通価値観
ルールは可変だ。しかし、そのルールの可変を担保するのは何か。
僕らが一般的に抱き得るだろうという「共通価値観」によってだ。
それを、システムとして組み込んでいるのが、選挙であるのは言うまでもない。
だから、選挙の投票率が下がれば、そのシステム自体の信頼性が揺らぐので、多くの政治家は投票を呼び掛けるのである。自身に票を入れてくれ、というだけではない。まぁ、投票年齢を下げるのは、若者のほうが御しやすいと考えているからなのかもしれないが、それは分からない。
感情も無視できない要素だが
――ほら、ぜんぜん関係ない話しになってしまった。しかし、まぁ、週間更新っていいな。体調が悪いとか、忙しいとか、様々な理由をつけて「やらないこと」はできるけれども、その言い訳をすべて断じるのがルーチン、週間、習慣である。
(かっこ書きである。とりあえず、体調を治さないとなぁ。体の治りが遅くなっているような。30代である。そして、きっとすぐに、40代になるだろう。その前に終わるかもしれないが。若いうちに、何をやっておけばよかったのか。不思議と、後悔はない。そりゃあ、小さな後悔はたくさんあるが――あの場面で、ああ言っておいたほうが印象がよかったはずだ、とか、あの人の感情をもっと良くさせられたのに、とか――じゃあ、大きな、何かしておいたほうがよかったことがあるかというと、特にないと思う。って、上の「たとえば」で書いたことを読んで思ったが、やっぱり、「他者に興味がない」といいつつ、過剰に人の反応等を気にしているのだな。そういう、過剰な気遣いをしなくなれば、人付き合いも嫌じゃなくなるのか。違う、と思う。「過剰」と僕が思うことは、ふつーの人は、ふつーにできるようなものなのだ。僕は、「意識」しないとできないのだ。そこがハンデで、ひでーなぁっていつも思う。僕のふつーをしているだけじゃあ、ふつーの人のふつーにはならないんだなってのが、いつも苛々させられる。頑張って、ようやくゼロになるってのは、気力がなくなる。とかって愚痴だ、愚痴を、どこかには言えないと、つらいのだ。ふつーの人は、友人と居酒屋で愚痴を言い合うのかもしれない。しかし、その手は僕は使えない。それすらも気を遣う可能性が高いからだ。……でも、本当にそうだろうか。そこまで気を遣う必要などあるのだろうか。……いや、いやいや、そうじゃない。別に人と会うこととか話すことはそこまで嫌なわけではない。ただ、「誰かと一緒に何かする」ということがないと、飽きるのである。何か一緒になって遊んだり、――だから、ゲームしたりとかは、めっちゃ楽しい。一人で遊ぶのもいいが、みんなでスマブラするのもいいよね。そこが問題だ。そこに別に「会話」(いやもちろん、ゲームしてても会話はあるが、ちょっと違う)は必要ないのだ。みんなと何か一緒に作るのも悪くない。だが、その「作る」工程自体は、やはり一人の作業なのではなかろうか。ってな、中学生レベルの思考でも、ちゃんと書いて、理解しておかねばなるまい。遠回りのように見えて、そもそも近道などない。本来的に、「無駄なこと」などない。無駄と判断するのは自分の意思である。他者にとっては無駄でも、自分が得た経験という意味では、無駄なことなどないのだ。例えば、最愛の人に気に入られようと努力しても結局みのらなかったとしても、その努力は無駄ではないのだ。からくりサーカスは、そんな些細なズレから、大きなズレに繋がってしまう人の業というのを、少年誌なはずなのに描いているのがすごいよなぁ。アニメは取り敢えずみている。いい場面など多い。しかし、やはり、漫画版のディテールは捨てがたいよなぁ)
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