今日の一言「仕事のモチベーションをあげたい」「イライラ対処」
長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
前書き
よし。一週間が終わった。長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
ルーチン更新として扱う
多分、24時近くになると思うから、この記事を土曜日のルーチン更新として扱うよ。土曜日に書けるか、ちょっと分からないからな。仕事のモチベーションを高めたい
いやー、やる気が起きない。いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
問題の本質はそこではない
まぁ、怒られることも、別に構わないのだ、それが大事なことだったりしたら、逆に「ありがとうございます!」って感じかもしれない。いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
価値
人間存在に価値があるのか。いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
変人としての生き方
変だから、正常になるのか、変を貫くのか、まぁ、それは課題である。ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
仕事の話じゃなかったか
ああ、そうそう。仕事のモチベーションの話である。なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
だから人付き合いは面倒
そうなんだなぁ……。やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
恋人の必要性
恋人はいたほうがいい……ということを、帰りながら考えていたのだが、だんだん、違う方向であることが分かってきた。まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
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