今日の一言「ただ生きる」
「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。
まえがき
ロシアのウクライナ侵攻にも驚いたけれども、元首相の殺害というのも驚いた。「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
曖昧さの許容
はっきりしたことが好きだ。1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
自分のできることは何だろうか
結婚も、子どもも、仕事でも自己実現できてない中年はどう生きたらいいのか、といったブログ記事を知った。某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
自分も他者も信じ尽くす
表現は違うけれども、昔、思考の師匠ともいえる人……もう今は交流することもかなわないし、それを望むこともないけれども、彼が言っていたのは、「神の真似をする」ということだったと思う。僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
こだわりを捨てる
中年で子供も結婚も仕事もダメで……という人に、僕がかけられる言葉はない。ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
理想を下げる
「幸せ」とは何か?これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
いつかは死ぬということ
まぁ、最高の状態で、永遠に生きられる、という、よく想像すらできないことが可能だとすれば、「死」は、悪いものだろう。ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。
あとがき
(かっこ書きである。書くまでが長いのだけれども、書き始めると、あっという間に時間が過ぎるなぁ。それにしても、自分が苦しいからと言って、周りの人たちも全員滅ぼしてしまおうという思想はやっぱり許されないと思う。かといって、「復讐」という概念は、わりかし多くの人に認められている気がする。この「全員死ね」という過激思想というのも、結局のところ、「バランス」問題な気がしてならない、と思うのは、やっぱり僕が少し変だからかもしれない。要するに、「無関係」な人まで巻き添えにするということに「抵抗」はある一方で、その「無関係」を厳密に定義しようとすると難しい、ということである。自分が不幸なのは親のせいだ……とするのと、自分が不幸なのはこの社会(全体)のせいだ、と考えたら、世界よ滅べ、と思うだろう。世界よ滅べ、というのは過激であるが、その親が、児童虐待とかする親だったら、同情が集まるかもしれない。世界よ滅べ、というのも、ピッコマというサイトで漫画読んだけれども、名前忘れたのだけれども、魔女(たくさんいる)と人類が共存する世界で、人類が魔女を虐げるようになって、とある魔女に育てられた弟子(人間)が、育ての親の魔女が、辱められ、殺されたことで、人類に復讐を誓う。そして、人類に反撃し始めて、たくさん殺す。直接、育ての親を犯し殺した相手じゃない、一般市民も、その標的だ。魔女を滅ぼそうとした人類自体が憎いのだ。敵なのだ。……というストーリーだと、人類よ、世界よ滅べ思想も分からなんでもない、と思うのかもしれない。ボクはその漫画は、残念ながらあまり面白いと思えず辞めてしまったけれども。エンタメと現実を一緒にするな、というのもあるけれども。思想、思考というのは、そもそもありもしないことでも考えるものなのだから仕方がない。そして、「物理世界」というのは確かに存在するものの、「価値世界」「創造世界」で成り立っている部分もある。お金とかそうである。紙幣。仮想通貨。銀行に預けているお金をそのまま紙幣にするだけ、物理的に存在していない、という話ではなくて。そもそも、「お金」が物を交換するに値する「価値」があるということを、みんなが共同に信じているからこそ、貨幣世界が成り立っているのである。法律は絶対正しい、とみんな信じているから、死刑が許されるのである。ただ、ルールは、そもそもは、「多くの人」を幸せにするためにあるはず、という前提を忘れてはいけない。多くの人を不幸にするだけのルールは、排除されるべきである。問題は、まさにそこだ。「多く」というものに、自分は含まれるのかどうか。そこが非常にあいまいなところである。ただ、銃規制はしてもよいと思う。銃を販売する会社に勤めていたら、銃規制なんてとんでもない、と思うことだろうけれども、やはり武器が出回ってる方が危険なのは間違いない。いや、深い思考も何もないけれど。でも、当たり前に危険だ。ナイフよりマシンガンの方が人を殺すのは簡単そうだから。ナイフだって危険だ、使う人が問題だ、という意見もあるだろうし、一理あるのは事実だ。銃が危険なのではなく、銃を使う人が危険なのだ。とはいえ。やっぱり銃が簡単に手に入ったら、人を殺しやすいだろう。ドリフターズ? だっけ。また漫画の話だけど、銃の良さは、「手軽」であるということだ。槍で突き刺すより、引き金を引くだけで、というのは手軽だ。大丈夫だと思う、銃規制して、50年ぐらいしたら、それがきっと当たり前になるだろう。みんな慣れる。コロナでオンライン会議とか普通になったけれども、みんな慣れた。そういうもの。年を取ると新しいことになじみづらくなるのは間違いなかろうけれど、それでも、慣れるものは慣れる。英語しかみんな話さなくなったら、と考えるとやっぱり抵抗はすごいけれども、でも、スーパーで買い物するくらいはすぐにできるようになる気がする。すぐにといっても、1年ぐらいかかるだろうが。そもそも、複雑なやり取りというのは、果たして、現実でどれほどあるだろうか。そんなに必要だろうか。長いね、もう終わるね)PR
今日の一言「承認欲求は難しい」
仕事中もゲームのことや、そこで出会った人たちのことを考えてしまうぐらいのめり込んでいた時期もあった。
約1年が経って、心境や、置かれた環境なども変わったことが原因に思われる。
はじめたことろは、何が正しいのか、誤っているのかも分からず、そして、その世界で何ができるのかも分からなかった。
出会った人や、眼前に広がる景色などに、単純に感動していたのだ。
今は、それらがなくなったと……なくなった、というと語弊があるのだろうけれども、当初ほどの感動は得られることがなくなった。
先日、新しいコンテンツをクリアした、ものの、同じダンジョンを何度も繰り返しやっていたころの方が感動があった気がする。
ここで問題視というか不思議と考えるべきは、「繰り返し」自体が問題ではない、ということだ。
同じことを何度もやってると、誰でも飽きる。
ただ、今回は、新しいコンテンツだったのに、「同じこと」という感覚があったのだ。
敵の攻撃パターンや、ストーリー、マップ、一緒に行った仲間……そのすべてが「別」であったのに、「同じこと」と感じてしまうこの感覚は何なのか。
自己啓発本の種類はたくさんある。一時期たくさん読んでいた。それが、そのうち、何を読んでも段々同じように感じるようになった。ジャンルは異なっても、「成長」という概念でひとくくりにできるように思ってしまったのだ。
良質な睡眠のとり方。
効率的な記憶術。
コミュニケーション能力の向上。
感情をコントロールする方法。
図解思考になる方法。
感動させる文章の書き方。
ジャンルは色々あって、それらは全く傾向が異なるし、書いてる内容も当たり前に違う。
それでも、「今の自分を変えて、成長させる」という目的では一致しているように思われる。
そんな風に感じてしまうと、何を読んでも「同じようなこと」と感じるようになってしまう。
今回取り上げているオンラインゲームも同じようなことが起きているのかもしれない。
ただ、根本的に、新しいことに対してのドキドキ感が、あんまり得られていない。
思い切って、離れてみるのも手なのかもしれない。
月額課金のゲームのため、やってもやらなくてもお金はかかるけれども。
ただ、その程度のお金は、ちょっと高いお寿司を食べに行くのを我慢すれば余裕である。
最近、回線の変更をしたけれども、失敗だった。この話もいつかしようと思うが、結局、解約した。解約金は2万円ぐらいかかったけれども、とても耐えられる品質じゃなかったので、後悔は特にない。解約したことについての後悔はない。契約したことについては……しかし、いろいろ吟味して決定したことだから、それも後悔はない。運が悪かった……といえばそれまでだが、見込み違いだったのは仕方がない。
まぁそんなわけで、お金的な心配はともかくとして、休止するのはありかもなとは思った。
「惰性」でログインはしてしまうのであるけれども、何か「したい」ということが見当たらない。「したい」とか、誰かと話したいとかもあんまり、ない。
いや……話したいという気持ちはあって、アプローチしても、その反応が期待どおりではない、といった方が正しいか。そんな、自分の望む反応をされなかったから機嫌が悪くなるほど子どもではないから、別に変な態度をとるつもりはないけれども、なんか「つまらないな」とは思ってしまう。
もともと、想定していた。そうなるんじゃないかと思っていた。だから、それ(現在公開されている最新のストーリーまで進めたこと)が原因だとしたら、別に不思議はない。
ただ、現状起こった事態を、「ああ、そうそう。やっぱりね」みたいに、どこか他人事のように、批評家気取りでいるのは、まったく愚行と思われる。
1年前の……その、めちゃくちゃのめり込んで楽しんで感動していた、その気持ちを、得るための方法を考えたいと思うわけである。
楽しいことばかりではなかったものの、ひとくくりに、「楽しかった」といえた日々。
今にして思えば、めちゃくちゃつまらなかった学生時代などなど。
「めっちゃ楽しい」と思えた日々と比べたら、衝撃的である。
まさかこんな日々が自分に訪れるなんて思ってもみなかった、といっても過言ではないだろう。
そして、それを過去のこととして、もう、同じような感動は得られないと諦めてしまうのは、単純にもったいない気がする。
まえがき
眠れない夜は、書くことがよいというのは、このブログを続けてきて学んだことの一つだ。人間関係が面倒なのか
何か特別な問題が起きているわけではないけれども、オンラインゲームしていて、以前より楽しめてないな、と感じることが大きくなった。仕事中もゲームのことや、そこで出会った人たちのことを考えてしまうぐらいのめり込んでいた時期もあった。
約1年が経って、心境や、置かれた環境なども変わったことが原因に思われる。
違うことなのに同じように思ってしまう
まず、「初心者」ではなくなったことだろう。はじめたことろは、何が正しいのか、誤っているのかも分からず、そして、その世界で何ができるのかも分からなかった。
出会った人や、眼前に広がる景色などに、単純に感動していたのだ。
今は、それらがなくなったと……なくなった、というと語弊があるのだろうけれども、当初ほどの感動は得られることがなくなった。
先日、新しいコンテンツをクリアした、ものの、同じダンジョンを何度も繰り返しやっていたころの方が感動があった気がする。
ここで問題視というか不思議と考えるべきは、「繰り返し」自体が問題ではない、ということだ。
同じことを何度もやってると、誰でも飽きる。
ただ、今回は、新しいコンテンツだったのに、「同じこと」という感覚があったのだ。
敵の攻撃パターンや、ストーリー、マップ、一緒に行った仲間……そのすべてが「別」であったのに、「同じこと」と感じてしまうこの感覚は何なのか。
自己啓発本的な原因だろうか
例えば。自己啓発本の種類はたくさんある。一時期たくさん読んでいた。それが、そのうち、何を読んでも段々同じように感じるようになった。ジャンルは異なっても、「成長」という概念でひとくくりにできるように思ってしまったのだ。
良質な睡眠のとり方。
効率的な記憶術。
コミュニケーション能力の向上。
感情をコントロールする方法。
図解思考になる方法。
感動させる文章の書き方。
ジャンルは色々あって、それらは全く傾向が異なるし、書いてる内容も当たり前に違う。
それでも、「今の自分を変えて、成長させる」という目的では一致しているように思われる。
そんな風に感じてしまうと、何を読んでも「同じようなこと」と感じるようになってしまう。
今回取り上げているオンラインゲームも同じようなことが起きているのかもしれない。
熱量を取り戻す方法はあるのか
欲しかったおうちが抽選ではずれたとか、人間関係でこじれてしまったとか、欲しい装備を間違って捨ててしまった(ロット間違えた)とか、直近で起きたいろいろ、大小できごとも無関係ではない気はする。ただ、根本的に、新しいことに対してのドキドキ感が、あんまり得られていない。
思い切って、離れてみるのも手なのかもしれない。
月額課金のゲームのため、やってもやらなくてもお金はかかるけれども。
ただ、その程度のお金は、ちょっと高いお寿司を食べに行くのを我慢すれば余裕である。
最近、回線の変更をしたけれども、失敗だった。この話もいつかしようと思うが、結局、解約した。解約金は2万円ぐらいかかったけれども、とても耐えられる品質じゃなかったので、後悔は特にない。解約したことについての後悔はない。契約したことについては……しかし、いろいろ吟味して決定したことだから、それも後悔はない。運が悪かった……といえばそれまでだが、見込み違いだったのは仕方がない。
まぁそんなわけで、お金的な心配はともかくとして、休止するのはありかもなとは思った。
「惰性」でログインはしてしまうのであるけれども、何か「したい」ということが見当たらない。「したい」とか、誰かと話したいとかもあんまり、ない。
いや……話したいという気持ちはあって、アプローチしても、その反応が期待どおりではない、といった方が正しいか。そんな、自分の望む反応をされなかったから機嫌が悪くなるほど子どもではないから、別に変な態度をとるつもりはないけれども、なんか「つまらないな」とは思ってしまう。
漸近的な努力
話をタイトルに無理やりもっていくと、最新のコンテンツまで追い付いたことで、当初想定していた「燃え尽き症候群」的なのが発生しているのだろうと思う。もともと、想定していた。そうなるんじゃないかと思っていた。だから、それ(現在公開されている最新のストーリーまで進めたこと)が原因だとしたら、別に不思議はない。
ただ、現状起こった事態を、「ああ、そうそう。やっぱりね」みたいに、どこか他人事のように、批評家気取りでいるのは、まったく愚行と思われる。
1年前の……その、めちゃくちゃのめり込んで楽しんで感動していた、その気持ちを、得るための方法を考えたいと思うわけである。
楽しいことばかりではなかったものの、ひとくくりに、「楽しかった」といえた日々。
今にして思えば、めちゃくちゃつまらなかった学生時代などなど。
「めっちゃ楽しい」と思えた日々と比べたら、衝撃的である。
まさかこんな日々が自分に訪れるなんて思ってもみなかった、といっても過言ではないだろう。
そして、それを過去のこととして、もう、同じような感動は得られないと諦めてしまうのは、単純にもったいない気がする。
あとがき
(かっこ書きである。うーん。まとめられない……。まぁいつものことか。文章を書くというのは非常に難しいことであるなぁ。そもそも、どんなに完璧! と思って文章を書いたとしても、そこから零れ落ちる感情や信念や価値観などなど、たくさん落ちている。表現しきれることはないのだ。さらに、「伝える相手」のことも考えたら無謀だ。無茶。絶対伝わらない。人間対人間、なんて無理。でも、昔に比べて、「理解してほしい」という気持ちは減ったなぁ。それだけ、「理解してもらえた!」という経験を、たくさん、このブログなどで、させてもらったからだと思う。そういう意味で、承認欲求的なのは満たされているのだと思う。ただ一方で、何だろう、この、充足していないような感じは。良く分からない、という動機で今回の記事となった。そもそも、オンラインゲーム休止しようかな、と言いつつ、かといって、ここ1年ほぼ、余暇がオンラインゲームだったので、他に「しようっ!」ということがない。こういうのが危険だというのも良く分かっていた。こういうの、とは、「一つのことにのめりこんでいると、それがダメになった時に代替がきかなくなる」ということ。分かっているから、まだ、本格的に「ダメ」になる前にこうやって考え始めている。そういう点を評価しよう。うん自分すごい。……と、自分で自分を褒めるというのは、大事なことである一方で、あんまり効果はない。承認欲求の回復アイテムとしては、やはり他者の存在が大きいのである。そんなこと書いていると、承認欲求クレクレおじさん、みたいなおぞましい表現が浮かぶので勘弁して頂きたい。まぁその、今回のような内容の記事は、そもそももっと前から……そうさな、2~3週間前ぐらいからは思っていた。でも書く時間というか、気持ちが起こらなかった。今回、こうして書けたのは一つ、一歩にはなった気がする)
今日の一言「書くことは大事だ」
(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)
マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
これは、一気読みを防げる。
繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。
何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。
とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。
住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。
そこに連続性はある。
「私」
というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。
デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。
でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。
物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
なんの夢もロマンもない考えである。
魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。
でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。
ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。
それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。
今は、そこまで強く求める気持ちはない。
……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。
一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。
ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。
ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。
主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。
例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。
外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。
果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。
一般的に、「ある」といえるだろう。
僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。
とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。
んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。
私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。
執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。
執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。
いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。
僕は、普通の人になりたかったのだろう。
将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。
何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。
まえがき
マンガは結構読んでいる気がするが、アニメも、映画も、本も、全然読んでいない最近。(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)
マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
これは、一気読みを防げる。
繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。
あずみ
あずみ、という漫画は古い漫画なのだけれども、これは面白くて、課金(購入)もして読み進めた。何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。
とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。
私が私であるということ
中学や、高校のころの私と、今の私は、同じ私なのだろうか。住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。
そこに連続性はある。
「私」
というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。
デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。
でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。
物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
なんの夢もロマンもない考えである。
魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。
でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。
ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。
過去の自分と未来の自分
10代の自分は、就職して結婚して子供を育てておじいちゃんになって死ぬ、ということを思い描いていた気がする。周りにそういうモデル(親とか)が多かったからだ。それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。
今は、そこまで強く求める気持ちはない。
……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。
一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。
ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。
ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。
自分の変化
それで、そういったライフステージのことをどうこう考えること自体がどうでもよくなっており、そのことについて書きたい、ということですらない。主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。
例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。
外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。
果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。
一般的に、「ある」といえるだろう。
僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。
とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。
何をもって幸せとなすか
昔のメールというか、文章というかを見る機会があった。たまたま。んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。
私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。
執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。
執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。
いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。
僕は、普通の人になりたかったのだろう。
将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。
何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。
あとがき
(かっこ書きである。「コロナ」ということが、免罪符のようになったかもしれないが、「リア友」と殆ど連絡をここ数年とっていない。リアルの友達の存在を維持しなければいけない(ちょくちょく連絡を取ったりメンテナンスする)ということが必要だと、ある種強迫観念がずっとあったのだ。しかし、なくても、こう、2、3年? ぐらい経って、むしろ、心が平穏な日々が多くなった気がする。仕事は忙しかったが、それだけでよかったので楽だったともいえる。仕事して、返ったらゲームして遊んで、の繰り返し。それで十分楽しかった。……いや、それどころか、今までで一番楽しかった気すらする。社会的なしがらみというのが、どれだけ僕の心の負担だったかが分かった気がした。そして、いざなくても、別に困らない社会だったのだ。すばらしいことだ。お金があれば、権力者への顔色を窺わなくても、スーパーマーケットやコンビニで、美味しいご飯を買うことができるのだ。お金があっても、楽しいことがなければ、無味乾燥な人生だろう。でも、それこそ、漫画や、ネット、ゲームなどあれば、「普通に」楽しいのである。リアルな友達とスポーツで汗を流さなくても、自己啓発本を読んで更に資産を増やすための努力をしなくても、普通に楽しい一日が送れるのである。これ以上、特に僕は何も望まない。もっとも、何度も書いてきているように「現状維持」をするためには、プラスアルファの努力が必要である。まったく100%同じ繰り返しでは、現状維持はできないのだ。だが、150%を目指すと、疲れる。105%ぐらいを目指すのが、ちょうどよいと、思う。漸近的な成長をしていけるというのが、幸せということだと思うし、「私」という自我同一性の安定にもよいと思う)
しばらく書いていなかったのに、すぐに、いいねというか拍手を頂いた。
まだこの場を覚えてて下さる方がいるのだな。嬉しい。
■
物事の考え方として、二項対立があって、リア充というのは、非リア充という状況があるから、想定できる。
考えることや、感じることができる。
認識できることで、問題として設定し、解決するか決められる。
■
知ることで、急速に気持ちが冷めることもある。
昔とか、ニュースとかの匿名掲示板みたりしてたら、どんどん気持ちがふさいだりした。
いまも、Yahooのニュースとかでコメント読んでると、気持ちが下がることが多いのであまりみたくない。気になってしまうのだけど。
他者の意見は、知りたい。
小説の感想とかも、やっぱり書いたら欲しい。
完全に、自己完結で満足して生きることができたら、それは理想に思う。
ただ、人間の共感能力からいけば、厳しいだろう。
ヤフーのコメントは、コメントにいいねがつくので、それによって、ああ、これが大半の意見なのかな、と判断したりする。
それがよいのかどうかは分からない。正しい使い方があれば知りたい。
■
例えば、ロシアのウクライナ侵攻は悪いことだと、80%の日本人は思ってるはず。
ただ、その理由などは様々だろう。
僕は、ロシア国民も悪いと思ってる。大統領がいかに権力が強くても、それを支持する層があるからいけないのだ。
ただ、プーチン大統領だけが悪いと思ってる人もいる気がする。
そして、戦争が起きて、しかも何ヵ月も経ってもまだ止められない世界の秩序にがっかりもしている。
エデンという漫画の荒廃したプロパテール連邦が支配する世界はSFと思ってたのに、なんら変わらないのね。
■
ここしばらく、FF14もできなかった。
できなかったけど、やりたかったので、関連する記事とか読んでた。
プレイできず、匿名的な、いろんなコメントとか読んでたら、すごく気持ちが下がった。
例えば、新生と呼ばれる、最初のころのストーリーに対する、お使いでつまらない、というもの。
そういう意見の人もいることは分かるし、確かに、グリダニアという森の都のストーリーと、ウルダハという砂の都のストーリーとでは、正直グリダニアの方がわくわくして楽しかった。もしかすると、最初ウルダハスタートだったら、そこまではまらなかったかもしれない。
■
それでも、なんだか、メタ的な意見とかコメント読むと、せっかく物語とか、世界観とか、地理とかに感情移入していたのに、もりさがってしまう。
ネタバレは当たり前で、みないように注意してきたけれども、そもそものシステム的な話を知ってしまったりすると、「所詮ゲーム」感が強まってしまう。
■
まわりのフレンドさんたちにも恵まれて楽しんできたけれども、まわりの人たちとの進捗やPS的なのも離れてしまった。
一部の方々はボイスチャットや、オフ会などもしてたりするらしい。
羨ましい、というのはあんまりない。
昔はたぶん、羨ましかったと思う。
逆に今は、物語感、いわゆる世界観とかを楽しむ要素を遠ざけるように感じて、しまう。
■
はじめたての、夢中になるという気持ちを取り戻すのは難しいだろうから、どうしたらよいかは考えなくては。
まだこの場を覚えてて下さる方がいるのだな。嬉しい。
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物事の考え方として、二項対立があって、リア充というのは、非リア充という状況があるから、想定できる。
考えることや、感じることができる。
認識できることで、問題として設定し、解決するか決められる。
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知ることで、急速に気持ちが冷めることもある。
昔とか、ニュースとかの匿名掲示板みたりしてたら、どんどん気持ちがふさいだりした。
いまも、Yahooのニュースとかでコメント読んでると、気持ちが下がることが多いのであまりみたくない。気になってしまうのだけど。
他者の意見は、知りたい。
小説の感想とかも、やっぱり書いたら欲しい。
完全に、自己完結で満足して生きることができたら、それは理想に思う。
ただ、人間の共感能力からいけば、厳しいだろう。
ヤフーのコメントは、コメントにいいねがつくので、それによって、ああ、これが大半の意見なのかな、と判断したりする。
それがよいのかどうかは分からない。正しい使い方があれば知りたい。
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例えば、ロシアのウクライナ侵攻は悪いことだと、80%の日本人は思ってるはず。
ただ、その理由などは様々だろう。
僕は、ロシア国民も悪いと思ってる。大統領がいかに権力が強くても、それを支持する層があるからいけないのだ。
ただ、プーチン大統領だけが悪いと思ってる人もいる気がする。
そして、戦争が起きて、しかも何ヵ月も経ってもまだ止められない世界の秩序にがっかりもしている。
エデンという漫画の荒廃したプロパテール連邦が支配する世界はSFと思ってたのに、なんら変わらないのね。
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ここしばらく、FF14もできなかった。
できなかったけど、やりたかったので、関連する記事とか読んでた。
プレイできず、匿名的な、いろんなコメントとか読んでたら、すごく気持ちが下がった。
例えば、新生と呼ばれる、最初のころのストーリーに対する、お使いでつまらない、というもの。
そういう意見の人もいることは分かるし、確かに、グリダニアという森の都のストーリーと、ウルダハという砂の都のストーリーとでは、正直グリダニアの方がわくわくして楽しかった。もしかすると、最初ウルダハスタートだったら、そこまではまらなかったかもしれない。
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それでも、なんだか、メタ的な意見とかコメント読むと、せっかく物語とか、世界観とか、地理とかに感情移入していたのに、もりさがってしまう。
ネタバレは当たり前で、みないように注意してきたけれども、そもそものシステム的な話を知ってしまったりすると、「所詮ゲーム」感が強まってしまう。
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まわりのフレンドさんたちにも恵まれて楽しんできたけれども、まわりの人たちとの進捗やPS的なのも離れてしまった。
一部の方々はボイスチャットや、オフ会などもしてたりするらしい。
羨ましい、というのはあんまりない。
昔はたぶん、羨ましかったと思う。
逆に今は、物語感、いわゆる世界観とかを楽しむ要素を遠ざけるように感じて、しまう。
■
はじめたての、夢中になるという気持ちを取り戻すのは難しいだろうから、どうしたらよいかは考えなくては。
1ヶ月に一つ記事を書く、ということも難しい
何故
一日が早いから。
書く、には、
書こうという気持ちになること
書くためのデバイスを用意すること
書くことを考えること
書くこと
投稿すること
という段取りが必要。
目に見えるのは、書いた結果だけ。家事が大変なのは、準備だったり、段取りだったり、片付けだったりして、その中身は一部でしかないといわれたりするが、それと同じ。
面倒だな、と思うのは、その段取りとか準備の部分である
いざ書き始めると筆が進むというのは、面倒な部分を乗り越えられたから。
コロナ禍になって、引きこもりが承認されるようになり、トータルとしては、ストレスが減った
よいことか、悪いことか、二択でひとつこたえるなら、よかった。
住んだり生活しやすくなった
満足。
仕事も、大変なこともあるけども、いままでに比べたら、なんとかなりそう。これまでの苦労が活きる部署みたいでよかった。
FF14も、人間関係で気になることはあるものの、まぁよいか、といった感じ。ソロでも遊べるし楽しいし、何よりストーリーがとても興味深いので、まだまだしばらくは飽きなそう。
健康面もいまのところ問題ない。
筋トレさぼってるなぁ…。体組成計計でもかって、またちゃんとやろうかな。
というわけで、さして、問題はない。
リアル友とかと、話したことはもう二年ぐらいないのでは…。
友達いないし、彼女もいない。
これが、「問題」と思ってたころはとても生きにくかった。
でも、負け惜しみとかでなく、心底どうでもよい、と思えるようになると、人生って、わりとよいものではないか、と思う。
まさか、戦争が起こるとか、観光船が沈没するとか悲しいことがあるなかで、平穏に暮らせていることに感謝である。
死にたい消えたいとか思ってたころの自分とは別人なのかも。
アイデンティティーとは、結局は記憶なのだと思う。
自分の名前を思い出せて、それにまつわる記憶があるから、自分なのだ。
経験と、それにまつわる感情によって、個性はある。しかし、それらの蓄積がなければ、自分の同一性には関係しない。
欲しいものが手に入らないから苦しい。
しかし、欲しいものというのが、自分自身が本当に欲してるかはわからない。結婚してる友達ばかりのなかにいたり、就職してる人ばかりのなかで無職だったりしたら、負い目を感じる。
そういう風にできている。、同調共感、するようになっている。そのほうが生存に適してるからだ。
でも、みんなが欲しい、気持ちいい、ということが、必ずしも自分にもそうではない。
とにかく、全然暇ではない。
やりたいことも、やりたくないけどしなきゃなこともたくさんなので、今は何か悩んだりしてる暇もないのかも。
そういってしまうと、悩んでたり、ブログ書いてた時間をばかにするようだが、それはちがう。
今あまり悩まなくてすんでるのはそのおかげかもしれないし、今後また悩むことが必要になるかも。
しかし、三十半ばになると、何者にもなれない苦しみというのは少なくなるのだなと思う。
百億、四十億の宇宙や地球の経過の中で、生まれて消えて、というのはちっぽけだ。
何故生きるのか。それを問うこと自体が、生きてるということなのだと思う。
何故
一日が早いから。
書く、には、
書こうという気持ちになること
書くためのデバイスを用意すること
書くことを考えること
書くこと
投稿すること
という段取りが必要。
目に見えるのは、書いた結果だけ。家事が大変なのは、準備だったり、段取りだったり、片付けだったりして、その中身は一部でしかないといわれたりするが、それと同じ。
面倒だな、と思うのは、その段取りとか準備の部分である
いざ書き始めると筆が進むというのは、面倒な部分を乗り越えられたから。
コロナ禍になって、引きこもりが承認されるようになり、トータルとしては、ストレスが減った
よいことか、悪いことか、二択でひとつこたえるなら、よかった。
住んだり生活しやすくなった
満足。
仕事も、大変なこともあるけども、いままでに比べたら、なんとかなりそう。これまでの苦労が活きる部署みたいでよかった。
FF14も、人間関係で気になることはあるものの、まぁよいか、といった感じ。ソロでも遊べるし楽しいし、何よりストーリーがとても興味深いので、まだまだしばらくは飽きなそう。
健康面もいまのところ問題ない。
筋トレさぼってるなぁ…。体組成計計でもかって、またちゃんとやろうかな。
というわけで、さして、問題はない。
リアル友とかと、話したことはもう二年ぐらいないのでは…。
友達いないし、彼女もいない。
これが、「問題」と思ってたころはとても生きにくかった。
でも、負け惜しみとかでなく、心底どうでもよい、と思えるようになると、人生って、わりとよいものではないか、と思う。
まさか、戦争が起こるとか、観光船が沈没するとか悲しいことがあるなかで、平穏に暮らせていることに感謝である。
死にたい消えたいとか思ってたころの自分とは別人なのかも。
アイデンティティーとは、結局は記憶なのだと思う。
自分の名前を思い出せて、それにまつわる記憶があるから、自分なのだ。
経験と、それにまつわる感情によって、個性はある。しかし、それらの蓄積がなければ、自分の同一性には関係しない。
欲しいものが手に入らないから苦しい。
しかし、欲しいものというのが、自分自身が本当に欲してるかはわからない。結婚してる友達ばかりのなかにいたり、就職してる人ばかりのなかで無職だったりしたら、負い目を感じる。
そういう風にできている。、同調共感、するようになっている。そのほうが生存に適してるからだ。
でも、みんなが欲しい、気持ちいい、ということが、必ずしも自分にもそうではない。
とにかく、全然暇ではない。
やりたいことも、やりたくないけどしなきゃなこともたくさんなので、今は何か悩んだりしてる暇もないのかも。
そういってしまうと、悩んでたり、ブログ書いてた時間をばかにするようだが、それはちがう。
今あまり悩まなくてすんでるのはそのおかげかもしれないし、今後また悩むことが必要になるかも。
しかし、三十半ばになると、何者にもなれない苦しみというのは少なくなるのだなと思う。
百億、四十億の宇宙や地球の経過の中で、生まれて消えて、というのはちっぽけだ。
何故生きるのか。それを問うこと自体が、生きてるということなのだと思う。