今日の一言「日記を書く頻度が増えてる」
1か月とか、2か月とか、簡単に過ぎていたころに比べると、ブログ書こうという気になる頻度が高まっている。
はっきり言ってしまえば、1年前ぐらいから始めたFF14の熱狂が冷めて、「ふつう」になったのだと思う。
ちょっと気がかりな……とか曖昧な言葉を敢えて使わずにいうと、人間関係とかで、気を遣わないといけなかったり、ムッとするというか嫌な気持ちになることが何度か起きてしまっているため、ちょっとログインするのとか躊躇われる。
躊躇いつつも、週間でやらないと手に入らない報酬などや、そもそもログインするのが習慣だったりしてログインしていたけれども、昨日から意識的にログインするのをやめてみた。
すると、すごく時間が「余った」感じがした。
音楽とか写真とかのファイルとかフォルダとか整理したり、アマゾンで欲しいもの物色したり、ユーチューブで動画みたり、久しぶりにarkやってみようかと起動しようとしたら、30GBぐらいアップデートがあった。ほんと重いゲームである。
最近回線が改善したので(結局ケーブルテレビ・有線となった)わりとダウンロードもすぐ終わった。けど、起動してみて、最初のグラフィック設定がやっぱり大変だった。
GTX3080というかなり良い部類のグラフィックボード使っていても、ファンが超高回転して悲鳴をあげるぐらいの重さ。
設定をみなおしたらまともになったけれども……。
そこに、ストーリーを一緒に楽しんでくれるフレンドや、エオルゼアでの世界のよいところをたくさん教えてくれる先輩ヒカセン(光の戦士)がいたから、のめり込めていたのだと思う。
ただ、「上手な戦い方」とか、週制限のアイテムを取らなきゃ、とか、最新のクエストを追わなきゃ……とかなってくると、やっぱり何か「ゲーム」感がすごく大きくなる。
「ゲーム」感とは、「作業感」とも言い換えられる。
序盤のストーリーは、あんまり意味がなくて作業感(お使い感)がすごくて不評だという意見が多い。
ただ、ボクはそもそもMMORPGというもの自体がほぼ初めてだったし、その「お使い」そのものも、世界観や地理を知るという目的の元、「操作を知る」ということにも繋がっていたから、むしろ楽しかった。
いまサブキャラでやってみたりすると、「ああ、新生のストーリーがつまらない、という人の言うことも分からないでもないな」という気にもなる。
いろんな意見の人がいる、いろんな感じ方の人がいる……。
これは実際そうなのだろうけど、ボクがさらに思ったのは、その「いろんな」というのは、「経験」や「環境」によるものが大きいのではないかということである。
「人間」
いろいろいるとはいえ、生物的にそんなに違いはない。同じ顔の人はいないけれども。
脳の構造も同じだ。
逆に、同じだから医学が成り立つ。みんな別々だったら、体系的な治療なんてできないだろう。
だから、どう過ごすか、何を経験するか、どういった習慣をもつか、ということが重要に思う。
30代前半までは全然変わってなかったのに……。
見た目的にもそれほど変化があるように思えない。
でも、数値上はやはり劣化している。
筋トレなどしなくなってから、2年経ったかな。ということで、5日前ぐらいから、夜寝る前の筋トレを徐々に再開した。
筋トレすることで健康が維持できるわけでもないかもしれないが、やらないよりはよいはずだ。
胃カメラを挿入されている時間、5分~10分らしいけれども、苦しい。
いま、あの想像以上の苦しみから解放されて、こうして文字を打てていること、それ自体が幸せと感じられるほどに。
いやほんと、物理的な、切り傷とかそういう痛みとは違うのである。「苦しい」のだ。
幼いころの喘息も苦しかった。ただ、それとも比較できない。
嘔吐感がずっと続く感じ。嘔吐……と聞くと、まぁ、そんなに苦しくなさそうに思える。
だが、嘔吐する一番苦しい瞬間がずっと続き、さらに体の中に異物が挿入されているゴツゴツ感というか、圧迫感もずっと続く……と書けば少しニュアンスが伝わるだろうか。
正直、何回かやってみたが、「この苦しみが続くなら早く死んだ方がましだ」と思う、何回も。
さすがに2回目からは、もすうぐ、もうすぐ、終わるから頑張ろう……と思えるようになったが、初回は、「ころしてくれえええ」と叫びたくなる。口から胃カメラ挿入されてるから叫ぶこともできないわけだが。
まぁ、おおげさと言われるかもしれない。実はそんなに苦しくないんじゃないかと思って、今回もやってみたが、いや、やっぱり苦しかったよ……(かっこ笑い)。
ふつうに大の大人が泣くもんね。涙が出るのは反射なのかもしれないけれど。
それで、さっき、何故「喘息」のことが浮かんだかと言うと、看護士さんが、挿入の最中背中をさすってくれたのであるが、それが、何だかすごく、少し苦しみが和らいだのである。
背中をさする……ということは、治療にも何も関係ないことな気がするわけであるけれども、間違いなく、苦痛の緩和という意味はあるのだなと知った。
そういえば幼いころ喘息になった時、母親が背中をさすってくれたりしていた。そのとき、苦痛が和らいだのかどうかはもう記憶がないのだけれども、きっと、少し楽になったことだろうと思った。
自分も覚えてないし、母親も覚えてないかもしれないが、それは次に会った時などでも伝えてみようと思った。
その時だした答えとして、ゲームとかたくさんして楽しむ、って、まさに子供っぽいものだった。
ただ実際今、30代になっても、結局その目的が間違いじゃなかった気がしてならない。
仕事してゲーム(「ゲーム」を娯楽全般に置き換えても成立するだろう)して美味しいもの食べてゆっくり寝て……を繰り返す。
ルーティン。平和。……言い換えれば堕落かもしれない。
人生は勝ち続けなければいけないのかもしれない。成長し続けなきゃいけないのかもしれない。
人間としての魅力というのは、そういうものだろう。
ただそうじゃない、普通の暮らしと言うのも案外悪くないのではないか。
何か、神からはいどうぞと与えられただけのものではないと思う。
これまでの色んな選択や、経験や、もちろん「運」もあったりして、今があると思える。
そして、今が、ボクが望んだ最高の完璧な望み……というわけでもなかったと思う。初恋の人と相思相愛になれて一戸建てとかっこいい車をガレージにおいて、息子と娘に恵まれて会社では頼りにされて……というそんな生活がもしかしてあったのかもしれない。
それと比べたら、今の生活は「普通の暮らし」なんかではなく、「どん底劣悪」な生活だ。
みじめで暗い、孤独で寂しい生活だ。
キルケゴール氏が推奨する生き方の一つに「倫理的な生き方」というのがある。
倫理的な生き方とは、「自分に関連する全ての事柄の責任を全て引き受けて、自分に起こるあらゆる可能性の中から、意識的な決断によって自分が正しいと思う自分を選択すること」であるという。
上の記述は、抜粋ではなく、ボクの理解によって分かりやすく書き換えている。
キルケゴール氏は、上の倫理的な生き方の上位概念として、神の前での生き方を提唱しているけれども、実際現代に生きるボクらには、せいぜい第二段階の倫理的な生き方が精いっぱいなんじゃないだろうか。
体重が増えた……というのも、自分の責任だ。
それはまぁ当たり前だけれども、人生が「楽しくない」と思うのもまた、自分の責任だと思えるかどうか。
貧乏だったり、異性に恵まれなかったり、仕事ができなかったり、そういったことも全部含めて「自分の責任だ」と思えるかどうか。
全部自分の責任だ……とするのは、何だか、「仕事の責任」という言葉が重くのしかかるように気分のよいものじゃあないけれど、でも、悪いことじゃないと思う。
だって、本当に誰か自分と関係ない誰かのせいなのであったら、コントロールできないし、改善もできないのだから。
タイムマシン、は魅力的かもしれない。でも、タイムマシンに乗れても、「自分」はそのままだ。老人になって、過去に行けたとしても、それは嬉しくない気がする。
タイムリープは魅力的かもしれない。
今の自分の記憶思考価値観をもったまま、過去の自分に入り込む。
しかし、二つ分からないことがある。まず、未来のそのままの自分はどうなるか。つまり、タイムリープした際に残された自分。その自分にとっては、別に何も変わらない人生がそのまま進むことになるのだろう。そんな自分は何も救われないのではないか。それとも、その自分はもう、「他人」だからどうでもいいと考えて切り捨ててしまってよいものか。
そうつまり、ボクはもうタイムリープしているのかもしれない。タイムリープしたけれども、「今」のボクはそのままなので、タイムリープも何も知らない。ふつーに時間が過ぎていくだけ……。
確かに未来の自分ではある一方で、違う記憶が入り込んでくるわけだ。その変容によって、元の自分はどうなるのか。記憶だけではなく、未来の自分の価値観はまた変わっているかもしれない。そうしたとき、元の自分との価値観の相反性があったら、それはどうなるのか。
テーゼとアンチテーゼが瞬時にまじわりジンテーゼになるのか。良く分からない。
なので、タイムリープができるからといって、手放しで飛びつくこともよいかどうか。
ここから導けるのは、やっぱり、時間は不可逆、として考えておいた方が健全だろう、ということだ。
しかし、時間が不可逆となると、やっぱり身体も、思考も衰えていくことは避けられない。
そうすると、さっき書いた通り、「倫理的な生き方」として、あらゆることを引き受けて、意識的に決断していく必要があると思う。
得られないことについて嘆き悲しみ続けることは不毛なことなのだ。
まえがき
前に記事を書いたのが、7月13日。まだ、2週間ぐらいしか経っていない。1か月とか、2か月とか、簡単に過ぎていたころに比べると、ブログ書こうという気になる頻度が高まっている。
はっきり言ってしまえば、1年前ぐらいから始めたFF14の熱狂が冷めて、「ふつう」になったのだと思う。
ちょっと気がかりな……とか曖昧な言葉を敢えて使わずにいうと、人間関係とかで、気を遣わないといけなかったり、ムッとするというか嫌な気持ちになることが何度か起きてしまっているため、ちょっとログインするのとか躊躇われる。
躊躇いつつも、週間でやらないと手に入らない報酬などや、そもそもログインするのが習慣だったりしてログインしていたけれども、昨日から意識的にログインするのをやめてみた。
すると、すごく時間が「余った」感じがした。
音楽とか写真とかのファイルとかフォルダとか整理したり、アマゾンで欲しいもの物色したり、ユーチューブで動画みたり、久しぶりにarkやってみようかと起動しようとしたら、30GBぐらいアップデートがあった。ほんと重いゲームである。
最近回線が改善したので(結局ケーブルテレビ・有線となった)わりとダウンロードもすぐ終わった。けど、起動してみて、最初のグラフィック設定がやっぱり大変だった。
GTX3080というかなり良い部類のグラフィックボード使っていても、ファンが超高回転して悲鳴をあげるぐらいの重さ。
設定をみなおしたらまともになったけれども……。
FF14について
やっぱり、基軸として、「ストーリーがソロでも普通に楽しい」というのが、ボクが続けられてきた理由だった気がする。そこに、ストーリーを一緒に楽しんでくれるフレンドや、エオルゼアでの世界のよいところをたくさん教えてくれる先輩ヒカセン(光の戦士)がいたから、のめり込めていたのだと思う。
ただ、「上手な戦い方」とか、週制限のアイテムを取らなきゃ、とか、最新のクエストを追わなきゃ……とかなってくると、やっぱり何か「ゲーム」感がすごく大きくなる。
「ゲーム」感とは、「作業感」とも言い換えられる。
序盤のストーリーは、あんまり意味がなくて作業感(お使い感)がすごくて不評だという意見が多い。
ただ、ボクはそもそもMMORPGというもの自体がほぼ初めてだったし、その「お使い」そのものも、世界観や地理を知るという目的の元、「操作を知る」ということにも繋がっていたから、むしろ楽しかった。
いまサブキャラでやってみたりすると、「ああ、新生のストーリーがつまらない、という人の言うことも分からないでもないな」という気にもなる。
いろんな意見の人がいる、いろんな感じ方の人がいる……。
これは実際そうなのだろうけど、ボクがさらに思ったのは、その「いろんな」というのは、「経験」や「環境」によるものが大きいのではないかということである。
「人間」
いろいろいるとはいえ、生物的にそんなに違いはない。同じ顔の人はいないけれども。
脳の構造も同じだ。
逆に、同じだから医学が成り立つ。みんな別々だったら、体系的な治療なんてできないだろう。
だから、どう過ごすか、何を経験するか、どういった習慣をもつか、ということが重要に思う。
筋トレを再開
先日健康診断に行って、腹囲が+5cm、体重が5kg増えている、気がした。一瞬でちゃんと教えてもらったわけじゃなかったからはっきりしていないけれども。30代前半までは全然変わってなかったのに……。
見た目的にもそれほど変化があるように思えない。
でも、数値上はやはり劣化している。
筋トレなどしなくなってから、2年経ったかな。ということで、5日前ぐらいから、夜寝る前の筋トレを徐々に再開した。
筋トレすることで健康が維持できるわけでもないかもしれないが、やらないよりはよいはずだ。
胃カメラ
健康と言えば、胃カメラをやったけれども、最初にやったのは5年前ぐらいで、3回目? 4回目ぐらいだけれども、やっぱり苦しい。つらい。(全身麻酔の場合は、眠って起きると終わってるらしいから余裕らしい)胃カメラを挿入されている時間、5分~10分らしいけれども、苦しい。
いま、あの想像以上の苦しみから解放されて、こうして文字を打てていること、それ自体が幸せと感じられるほどに。
いやほんと、物理的な、切り傷とかそういう痛みとは違うのである。「苦しい」のだ。
幼いころの喘息も苦しかった。ただ、それとも比較できない。
嘔吐感がずっと続く感じ。嘔吐……と聞くと、まぁ、そんなに苦しくなさそうに思える。
だが、嘔吐する一番苦しい瞬間がずっと続き、さらに体の中に異物が挿入されているゴツゴツ感というか、圧迫感もずっと続く……と書けば少しニュアンスが伝わるだろうか。
正直、何回かやってみたが、「この苦しみが続くなら早く死んだ方がましだ」と思う、何回も。
さすがに2回目からは、もすうぐ、もうすぐ、終わるから頑張ろう……と思えるようになったが、初回は、「ころしてくれえええ」と叫びたくなる。口から胃カメラ挿入されてるから叫ぶこともできないわけだが。
まぁ、おおげさと言われるかもしれない。実はそんなに苦しくないんじゃないかと思って、今回もやってみたが、いや、やっぱり苦しかったよ……(かっこ笑い)。
ふつうに大の大人が泣くもんね。涙が出るのは反射なのかもしれないけれど。
それで、さっき、何故「喘息」のことが浮かんだかと言うと、看護士さんが、挿入の最中背中をさすってくれたのであるが、それが、何だかすごく、少し苦しみが和らいだのである。
背中をさする……ということは、治療にも何も関係ないことな気がするわけであるけれども、間違いなく、苦痛の緩和という意味はあるのだなと知った。
そういえば幼いころ喘息になった時、母親が背中をさすってくれたりしていた。そのとき、苦痛が和らいだのかどうかはもう記憶がないのだけれども、きっと、少し楽になったことだろうと思った。
自分も覚えてないし、母親も覚えてないかもしれないが、それは次に会った時などでも伝えてみようと思った。
意外と書くことあるな
中学生ぐらいのときから、生きる目的とか何だろうって思っていた。その時だした答えとして、ゲームとかたくさんして楽しむ、って、まさに子供っぽいものだった。
ただ実際今、30代になっても、結局その目的が間違いじゃなかった気がしてならない。
仕事してゲーム(「ゲーム」を娯楽全般に置き換えても成立するだろう)して美味しいもの食べてゆっくり寝て……を繰り返す。
ルーティン。平和。……言い換えれば堕落かもしれない。
人生は勝ち続けなければいけないのかもしれない。成長し続けなきゃいけないのかもしれない。
人間としての魅力というのは、そういうものだろう。
ただそうじゃない、普通の暮らしと言うのも案外悪くないのではないか。
普通の暮らし
ただ、思うに、そのボクが今できている「普通の暮らし」というものを得るためには、「色々あった」と思わざるを得ない。何か、神からはいどうぞと与えられただけのものではないと思う。
これまでの色んな選択や、経験や、もちろん「運」もあったりして、今があると思える。
そして、今が、ボクが望んだ最高の完璧な望み……というわけでもなかったと思う。初恋の人と相思相愛になれて一戸建てとかっこいい車をガレージにおいて、息子と娘に恵まれて会社では頼りにされて……というそんな生活がもしかしてあったのかもしれない。
それと比べたら、今の生活は「普通の暮らし」なんかではなく、「どん底劣悪」な生活だ。
みじめで暗い、孤独で寂しい生活だ。
選択するということ
FF14をやめたことで、時間ができたので、キルケゴール氏に関連する本を読んでいた。キルケゴール氏が推奨する生き方の一つに「倫理的な生き方」というのがある。
倫理的な生き方とは、「自分に関連する全ての事柄の責任を全て引き受けて、自分に起こるあらゆる可能性の中から、意識的な決断によって自分が正しいと思う自分を選択すること」であるという。
上の記述は、抜粋ではなく、ボクの理解によって分かりやすく書き換えている。
キルケゴール氏は、上の倫理的な生き方の上位概念として、神の前での生き方を提唱しているけれども、実際現代に生きるボクらには、せいぜい第二段階の倫理的な生き方が精いっぱいなんじゃないだろうか。
体重が増えた……というのも、自分の責任だ。
それはまぁ当たり前だけれども、人生が「楽しくない」と思うのもまた、自分の責任だと思えるかどうか。
貧乏だったり、異性に恵まれなかったり、仕事ができなかったり、そういったことも全部含めて「自分の責任だ」と思えるかどうか。
全部自分の責任だ……とするのは、何だか、「仕事の責任」という言葉が重くのしかかるように気分のよいものじゃあないけれど、でも、悪いことじゃないと思う。
だって、本当に誰か自分と関係ない誰かのせいなのであったら、コントロールできないし、改善もできないのだから。
時間という概念
ハイデガーでも読まないといけないのかもしれないけれど、難しいことは分からないし理解できないので、要するに、時間は不可逆ということ。タイムマシン、は魅力的かもしれない。でも、タイムマシンに乗れても、「自分」はそのままだ。老人になって、過去に行けたとしても、それは嬉しくない気がする。
タイムリープは魅力的かもしれない。
今の自分の記憶思考価値観をもったまま、過去の自分に入り込む。
しかし、二つ分からないことがある。まず、未来のそのままの自分はどうなるか。つまり、タイムリープした際に残された自分。その自分にとっては、別に何も変わらない人生がそのまま進むことになるのだろう。そんな自分は何も救われないのではないか。それとも、その自分はもう、「他人」だからどうでもいいと考えて切り捨ててしまってよいものか。
そうつまり、ボクはもうタイムリープしているのかもしれない。タイムリープしたけれども、「今」のボクはそのままなので、タイムリープも何も知らない。ふつーに時間が過ぎていくだけ……。
二つ目のタイムリープ
もう一つの疑問として、タイムリープ「された」側のことだ。確かに未来の自分ではある一方で、違う記憶が入り込んでくるわけだ。その変容によって、元の自分はどうなるのか。記憶だけではなく、未来の自分の価値観はまた変わっているかもしれない。そうしたとき、元の自分との価値観の相反性があったら、それはどうなるのか。
テーゼとアンチテーゼが瞬時にまじわりジンテーゼになるのか。良く分からない。
なので、タイムリープができるからといって、手放しで飛びつくこともよいかどうか。
ここから導けるのは、やっぱり、時間は不可逆、として考えておいた方が健全だろう、ということだ。
しかし、時間が不可逆となると、やっぱり身体も、思考も衰えていくことは避けられない。
そうすると、さっき書いた通り、「倫理的な生き方」として、あらゆることを引き受けて、意識的に決断していく必要があると思う。
得られないことについて嘆き悲しみ続けることは不毛なことなのだ。
あとがき
(かっこ書きである。うーん、なんか、他に書くことすらあった気がする。意外に書くことあったな、と思う。面白いかどうかは、別として。ああ、一つ思い出した。自分の過去記事の音読をふと耳に入って、面白かったのだ。書いていた当時の自分としては、「くそつまんねぇ」って思いながら書いていたのだから、そのギャップも面白かった。なんて記事だっけかなぁ……。メモしないともう最近すぐ忘れる。生きる意味を考えることの意味……だっけ。違う、思い出した、「思考することの意味について」だ。これ、ほんと「ふむふむ!」って思いながら聞いていた。自分の記事なのだが、ただ、2017年の記事だ。5年前ぐらい。もう5年も前になると、別の自分といっていいぐらいである。だからさっきのタイムリープの話題的に、今のボクが5年前のボクに上書きしちゃったら、5年前の自分が、この記事を書くマインドも消えてしまったということであろう。それは何か、もったいないというか、何というかよくないことに思えた。だから、時間は不可逆でいいんじゃないかと、そう今は思った。さらに5年後はどう思うか、分からない。生きてないかもしれないし。だから、ボクは、何か他人に語り聞かせられるようことは何もないけれども、自分について「書くこと」自体は、無意味じゃないんだよと、そう教えてあげたい。今も、毎日日記書いてる方も、週一で更新している方も知っている、読ませて頂いている。すごい。ボクよりすごい取り組みをしている方に対しては上から目線みたいになってしまい恥ずかしいが、それはすごいことだし、意味のあることだからこれからも続けた方がいい、と伝えたい。そして、前に日記書かれていて、やめてしまったり消してしまった(のか、ボクがそれを追うすべを見失っただけなのか)方も知っている。また再開したのだったら教えて欲しい)PR
やはり、人生の意味を真剣に必死に考えていくと色々考えさせられますよね。。