今日の一言「ただ生きる」
「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。
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まえがき
ロシアのウクライナ侵攻にも驚いたけれども、元首相の殺害というのも驚いた。「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
曖昧さの許容
はっきりしたことが好きだ。1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
自分のできることは何だろうか
結婚も、子どもも、仕事でも自己実現できてない中年はどう生きたらいいのか、といったブログ記事を知った。某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
自分も他者も信じ尽くす
表現は違うけれども、昔、思考の師匠ともいえる人……もう今は交流することもかなわないし、それを望むこともないけれども、彼が言っていたのは、「神の真似をする」ということだったと思う。僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
こだわりを捨てる
中年で子供も結婚も仕事もダメで……という人に、僕がかけられる言葉はない。ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
理想を下げる
「幸せ」とは何か?これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
いつかは死ぬということ
まぁ、最高の状態で、永遠に生きられる、という、よく想像すらできないことが可能だとすれば、「死」は、悪いものだろう。ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。