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生産的な行動を
2022/07/09 19:48 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ただ生きる」

まえがき

 ロシアのウクライナ侵攻にも驚いたけれども、元首相の殺害というのも驚いた。

「日常」

 というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。

「かもしれない」
 ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。

 要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
 中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
 適度に。
 ちょうどよく。

 言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。

曖昧さの許容

 はっきりしたことが好きだ。
 1か、0の世界がよい。
 好きか嫌いか。
 正しいか正しくないか。
 心地よいか悪いか。

 でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。

 先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。

 でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。

 ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
 これは、よいことだ。

 大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
 中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
 そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
 そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
 そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。

自分のできることは何だろうか

 結婚も、子どもも、仕事でも自己実現できてない中年はどう生きたらいいのか、といったブログ記事を知った。
 某シロクマ氏の記事の引用から。

 趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。

 素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。

 一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。

 それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。

 きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。

 学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
 恋人がいたことだってあった。

 そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
 でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。

 痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
 同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。

 だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。

自分も他者も信じ尽くす

 表現は違うけれども、昔、思考の師匠ともいえる人……もう今は交流することもかなわないし、それを望むこともないけれども、彼が言っていたのは、「神の真似をする」ということだったと思う。

 僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
 どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。

こだわりを捨てる

 中年で子供も結婚も仕事もダメで……という人に、僕がかけられる言葉はない。
 ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。

 リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。

 というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。

 空の思想を学ぶとよいかもしれない。

 こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。

 かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
 だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。

 僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。

 ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。

「やりたいこと」

 を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。

理想を下げる

「幸せ」とは何か?

 これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。

 では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
 現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。

 一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。

 どちらの方法も重要だ。

 先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。

 中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。

 結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。


 一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
 神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。

 いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。

「幸せ」
 な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。

 でも、老化もすれば、具合も悪くなる。

 仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
 何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
 それは、「自分」といえるのか。

 逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。

 美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
 1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
 でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。

 思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。

いつかは死ぬということ

 まぁ、最高の状態で、永遠に生きられる、という、よく想像すらできないことが可能だとすれば、「死」は、悪いものだろう。

 ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。

 であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
 さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。

 そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。

 望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。

あとがき

(かっこ書きである。書くまでが長いのだけれども、書き始めると、あっという間に時間が過ぎるなぁ。それにしても、自分が苦しいからと言って、周りの人たちも全員滅ぼしてしまおうという思想はやっぱり許されないと思う。かといって、「復讐」という概念は、わりかし多くの人に認められている気がする。この「全員死ね」という過激思想というのも、結局のところ、「バランス」問題な気がしてならない、と思うのは、やっぱり僕が少し変だからかもしれない。要するに、「無関係」な人まで巻き添えにするということに「抵抗」はある一方で、その「無関係」を厳密に定義しようとすると難しい、ということである。自分が不幸なのは親のせいだ……とするのと、自分が不幸なのはこの社会(全体)のせいだ、と考えたら、世界よ滅べ、と思うだろう。世界よ滅べ、というのは過激であるが、その親が、児童虐待とかする親だったら、同情が集まるかもしれない。世界よ滅べ、というのも、ピッコマというサイトで漫画読んだけれども、名前忘れたのだけれども、魔女(たくさんいる)と人類が共存する世界で、人類が魔女を虐げるようになって、とある魔女に育てられた弟子(人間)が、育ての親の魔女が、辱められ、殺されたことで、人類に復讐を誓う。そして、人類に反撃し始めて、たくさん殺す。直接、育ての親を犯し殺した相手じゃない、一般市民も、その標的だ。魔女を滅ぼそうとした人類自体が憎いのだ。敵なのだ。……というストーリーだと、人類よ、世界よ滅べ思想も分からなんでもない、と思うのかもしれない。ボクはその漫画は、残念ながらあまり面白いと思えず辞めてしまったけれども。エンタメと現実を一緒にするな、というのもあるけれども。思想、思考というのは、そもそもありもしないことでも考えるものなのだから仕方がない。そして、「物理世界」というのは確かに存在するものの、「価値世界」「創造世界」で成り立っている部分もある。お金とかそうである。紙幣。仮想通貨。銀行に預けているお金をそのまま紙幣にするだけ、物理的に存在していない、という話ではなくて。そもそも、「お金」が物を交換するに値する「価値」があるということを、みんなが共同に信じているからこそ、貨幣世界が成り立っているのである。法律は絶対正しい、とみんな信じているから、死刑が許されるのである。ただ、ルールは、そもそもは、「多くの人」を幸せにするためにあるはず、という前提を忘れてはいけない。多くの人を不幸にするだけのルールは、排除されるべきである。問題は、まさにそこだ。「多く」というものに、自分は含まれるのかどうか。そこが非常にあいまいなところである。ただ、銃規制はしてもよいと思う。銃を販売する会社に勤めていたら、銃規制なんてとんでもない、と思うことだろうけれども、やはり武器が出回ってる方が危険なのは間違いない。いや、深い思考も何もないけれど。でも、当たり前に危険だ。ナイフよりマシンガンの方が人を殺すのは簡単そうだから。ナイフだって危険だ、使う人が問題だ、という意見もあるだろうし、一理あるのは事実だ。銃が危険なのではなく、銃を使う人が危険なのだ。とはいえ。やっぱり銃が簡単に手に入ったら、人を殺しやすいだろう。ドリフターズ? だっけ。また漫画の話だけど、銃の良さは、「手軽」であるということだ。槍で突き刺すより、引き金を引くだけで、というのは手軽だ。大丈夫だと思う、銃規制して、50年ぐらいしたら、それがきっと当たり前になるだろう。みんな慣れる。コロナでオンライン会議とか普通になったけれども、みんな慣れた。そういうもの。年を取ると新しいことになじみづらくなるのは間違いなかろうけれど、それでも、慣れるものは慣れる。英語しかみんな話さなくなったら、と考えるとやっぱり抵抗はすごいけれども、でも、スーパーで買い物するくらいはすぐにできるようになる気がする。すぐにといっても、1年ぐらいかかるだろうが。そもそも、複雑なやり取りというのは、果たして、現実でどれほどあるだろうか。そんなに必要だろうか。長いね、もう終わるね)

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