今日の一言「安定性が大事」
数年前、某ケーブルテレビ会社とトラブルがあり、特に不都合はなかったが解約し、Wi-Fiという無線規格になった。
その後、数年は特に問題なかったが、無線端末の不具合により回線の種類が変わり……さらに。
そして、速度計測のサイトの数値とかはあまり意味がないことも分かった。
https://speedtest.gate02.ne.jp/
↑こういうサイト。
某社のWiMAX(以下「A社1」と呼ぶ)を使っていた当時は、正直特に不満はなかった。
3日間で10GB使うと速度制限にかかってしまうということは、大容量のゲームをダウンロードするときなどは困ったけれども、それは「そういうもの」という納得があった。
しかし、Wi-Fiのポータブル端末の弱点は、「電池」だと思う。
3年目にかかろうとしたとき、「A社1」の端末の電池の入りが悪くなった。
家で使うだけなので、充電器につなぎっぱなしで使えればそれでもよかったが、電源をつないだままでも端末が落ちてしまうことが頻発しだした。
そのことを「A社1」に伝えると、ほどなく、(少々トラブルがあったが、別に我慢できる程度)代わりの端末と回線変更をしてくれることになった。これを「A社2」(クラウドWiFiという種類のようだ)と呼ぼう。
A社2については、料金体系など何も変わらなかったが、速度が半分になった。
最初、3日で10GBというしばりもなくなるということだったので、まぁいいかと思っていた。
しかし、STEAMでゲームをダウンロードしたりすると、すぐさま速度制限にひっかかった。
最初何が原因か分からなかったほどだ。速度制限は「原則なし」、とされていたからだ。
どの程度使えば速度制限になるかが公表されてないため、非常にストレスになった。
いつどのように使えば速度制限になるかが分からず、いつ解除されるかも分からない。
ちょうど、3年目の更新月が近づいていたので、「A社2」については絶対解約しようと考えていた。
電話とかしなくてもよかったから、楽ではあった。端末を送る送料1000円ぐらいは自費だったが、それぐらいは大した問題じゃない。
問題は、安定したインターネット環境を維持することである。
いろいろ調べて、A社1で、端末の電池が切れる問題を鑑みて、「ホームルーター」サービスにした。
新しいルーターが届くまで、とてもワクワクしていた。
申し込みをして、翌日には発送された。
受け取りは土日となったが、すぐに受け取ることができた。設置も簡単。新しいネットにはすぐつながった。
A社2の、2倍、3倍程度のスピードが出ていた。
これで、ネットやオンラインゲームも快適にできる、僕は喜ばしい気持ちでいっぱいだった。
まず、「画像」の読み込みが遅い気がした。
もしかしたら、混雑したタイミングでたまたまだったのかもしれない。そう信じたい気持ちだった。
しかし、朝も夜も、いつも、「なんとなく遅い」。
極めつけは、ヤフーメールが中々開かないことだ。これはとてもストレスになった。
他のサイトなどはともかく、ヤフーとか、ある程度知名度が高いサイトなども遅いということは、サーバー側の問題じゃないと思う。
ホームルーターは、有線でPCとつなげるのである。
結果は、もっと悪化した。これは不思議だった。
次に、2Ghzから5Ghzに接続設定を変えてみた。これは劇的に改善した。
速度が2倍ぐらいになった。
(この設定変更がやや難しかったので、変更が無事できて、速度が速くなったことに僕は歓喜した)
これで解決……とはならなかった。
多少読み込みが早くなったものの、やっぱり画像読み込みが遅かったり、オンラインゲームをしていると寸断される現象がたまにおきるのである。
これは、速度が遅くて、速度制限がいきなりかかってびくびくしていたA社2の方がましだった。
少なくても、突然接続が切れたりすることはなかったし、遅いなりに安定していた。
もっというと、スマホのテザリングの方が安定していた。
夏ごろには、「5G」に対応するらしいから、そうしたらもっとよくなるのかもしれないが、早々に対応を検討している。
代替案も、ひょんなことから出てきたので、試してみる予定。
解約違約金がいくらかかるのかは心配だけれども、月額5000円だとして、1年間は6万円になるわけだ。
そしたら、仮に2万円ぐらい解約違約金がかかったとしても、ストレスを抱え使い続けるるよりかはましな気がする。
まえがき
インターネットはインフラの一つである。数年前、某ケーブルテレビ会社とトラブルがあり、特に不都合はなかったが解約し、Wi-Fiという無線規格になった。
その後、数年は特に問題なかったが、無線端末の不具合により回線の種類が変わり……さらに。
GMOのWi-Fiは不安定過ぎる
Wi-Fiは当たり外れがある、ということが分かった。そして、速度計測のサイトの数値とかはあまり意味がないことも分かった。
https://speedtest.gate02.ne.jp/
↑こういうサイト。
某社のWiMAX(以下「A社1」と呼ぶ)を使っていた当時は、正直特に不満はなかった。
3日間で10GB使うと速度制限にかかってしまうということは、大容量のゲームをダウンロードするときなどは困ったけれども、それは「そういうもの」という納得があった。
しかし、Wi-Fiのポータブル端末の弱点は、「電池」だと思う。
3年目にかかろうとしたとき、「A社1」の端末の電池の入りが悪くなった。
家で使うだけなので、充電器につなぎっぱなしで使えればそれでもよかったが、電源をつないだままでも端末が落ちてしまうことが頻発しだした。
そのことを「A社1」に伝えると、ほどなく、(少々トラブルがあったが、別に我慢できる程度)代わりの端末と回線変更をしてくれることになった。これを「A社2」(クラウドWiFiという種類のようだ)と呼ぼう。
A社2については、料金体系など何も変わらなかったが、速度が半分になった。
最初、3日で10GBというしばりもなくなるということだったので、まぁいいかと思っていた。
しかし、STEAMでゲームをダウンロードしたりすると、すぐさま速度制限にひっかかった。
最初何が原因か分からなかったほどだ。速度制限は「原則なし」、とされていたからだ。
どの程度使えば速度制限になるかが公表されてないため、非常にストレスになった。
いつどのように使えば速度制限になるかが分からず、いつ解除されるかも分からない。
ちょうど、3年目の更新月が近づいていたので、「A社2」については絶対解約しようと考えていた。
無事解約できてGMOと契約
A社2については、端末を送り返すだけで解約ができた。電話とかしなくてもよかったから、楽ではあった。端末を送る送料1000円ぐらいは自費だったが、それぐらいは大した問題じゃない。
問題は、安定したインターネット環境を維持することである。
いろいろ調べて、A社1で、端末の電池が切れる問題を鑑みて、「ホームルーター」サービスにした。
新しいルーターが届くまで、とてもワクワクしていた。
申し込みをして、翌日には発送された。
受け取りは土日となったが、すぐに受け取ることができた。設置も簡単。新しいネットにはすぐつながった。
速度は良好
速度は良好。A社2の、2倍、3倍程度のスピードが出ていた。
これで、ネットやオンラインゲームも快適にできる、僕は喜ばしい気持ちでいっぱいだった。
不安定過ぎる
使用して、2、3日して、異常に気付き始める。まず、「画像」の読み込みが遅い気がした。
もしかしたら、混雑したタイミングでたまたまだったのかもしれない。そう信じたい気持ちだった。
しかし、朝も夜も、いつも、「なんとなく遅い」。
極めつけは、ヤフーメールが中々開かないことだ。これはとてもストレスになった。
他のサイトなどはともかく、ヤフーとか、ある程度知名度が高いサイトなども遅いということは、サーバー側の問題じゃないと思う。
設定をいろいろ試した
まず、有線にしてみた。ホームルーターは、有線でPCとつなげるのである。
結果は、もっと悪化した。これは不思議だった。
次に、2Ghzから5Ghzに接続設定を変えてみた。これは劇的に改善した。
速度が2倍ぐらいになった。
(この設定変更がやや難しかったので、変更が無事できて、速度が速くなったことに僕は歓喜した)
これで解決……とはならなかった。
多少読み込みが早くなったものの、やっぱり画像読み込みが遅かったり、オンラインゲームをしていると寸断される現象がたまにおきるのである。
結論GMOのWi-Fiサービスはダメ
動画とかオンラインゲームの用途とかそういう問題じゃなくて、あまりに不安定過ぎて使い物にならない、というのが僕の結論。これは、速度が遅くて、速度制限がいきなりかかってびくびくしていたA社2の方がましだった。
少なくても、突然接続が切れたりすることはなかったし、遅いなりに安定していた。
もっというと、スマホのテザリングの方が安定していた。
夏ごろには、「5G」に対応するらしいから、そうしたらもっとよくなるのかもしれないが、早々に対応を検討している。
代替案も、ひょんなことから出てきたので、試してみる予定。
解約違約金がいくらかかるのかは心配だけれども、月額5000円だとして、1年間は6万円になるわけだ。
そしたら、仮に2万円ぐらい解約違約金がかかったとしても、ストレスを抱え使い続けるるよりかはましな気がする。
あとがき
(かっこ書きである。GMOさんすみません。別にみんながみんな困っているとか、僕のように不安定な回線状況なわけではないと思います。ただ、僕の環境(地域?)はあまりに相性が悪かったということです。口コミとか見てみても、そんな不満があるものは見当たらなかったから、たまたま僕が運が悪かったのでしょう。なので、自分の運の悪さを悲しんで記事にしちゃいました。ネットはインフラ。生きがいなのです。だから、「安定している」ということがとても大事だなと思いました。電車とか輸送、電気水道ガスとか、そういうインフラストラクチャー(基盤となるものこと)がほんと大事だなと思います。ウクライナの戦争とかね。自暴自棄になってた頃(死にたい死にたいとか思ってた頃)は、世界なんて壊れてしまえぐらいに思ってた気がしますが、どんな建前や理想を語ろれようが、「ウクライナがかわいそう」としか思えない。こんな簡単に戦争が起こってしまうんだと、現代人はとてもショックを受けたろうと思う。3.11もそうだし、新型コロナもそうだし、安定しているころは「当たり前」としか思えないけれども、いざ当たり前を奪われたときに、それがどれだけ大切だったか。まぁ、そんなことはみんな分かっていても、逆に「当たり前」だから意識できないのである。奪われてから気づいて後悔するというのは、愚かな人間としか思えないけれども、でも、そういう風に人間はできているともいえる。当たり前が奪われてしまうということを逆に意識し続けてしまうと、それはそれで生活できなかろう。とはいえ、だからといって完全に忘れていていいものでもない。ということで、安定した「ネット環境」のために僕はまだ奮闘しなければならない)PR
今日の一言「2022年2回目の記事」
けれども、そうではないとは、自分の心の中に問うても答えられる。
しかし、それを示すには根拠があまりにも少ない。
あと、最近思ったのは、「やりとりの多さ」的な繋がりの強度というものである。
住んでいたアパートもとても近くだったので、朝寝坊しないように一緒に大学に行ったりもしていた。
仲が良かった、そう思っていた。
しかし、大人になってしばらくして、その友人が、別に私のことはそんなに仲良いと思ってなかったと聞いた。とってもびっくり!!
多感な時期に聞いたら、(そもそも人間不信気味だったのに)さらに人間不信になっていたことだろう。
いやむしろ、「ほらみたことかっ」って持論が証明されたと悦に浸っていたかもしれない。
というわけで、「よく会う人」が大事な人でも、仲良い人でもない、とそんな風に僕は思う。
そもそも、よく会う人というたら、同じ会社の人と会う頻度の方が絶対多いだろう。でも絶対大事かというとそうではないだろう。すぐさま言っておかなければいけないのは、「それでいい」のであるということだけれど。
たぶん、1か月、2か月は会ってなかったと思う。
でも、やっぱり波長が合うというか、話していて楽しいなという人は、しばらく会ってなくても構わないのだと、改めて思った。
家族もそうだ。家族、が、必ずしも仲が良くないという人もいることは分かっているが、僕は割と家族関係は悪くない方なので、久々に会うと普通に話せる。会う前は、半年も、1年も会ってなくて会話が成り立つのか……ぐらいに思ったりもするけれども、1分~2分話してると、そんなことは全く感じなくなる。
それはまぁ、それだけ濃密な時間を過ごしていたバックグラウンドがあって、その1分程度の時間に、そのバックグラウンドがすぐに想起されるからなのかもしれないけれども、分からない。
にもかかわらず、驚きの1月からほぼ1~2か月更新がなかったのはどういった了見なのか。
「時間がない」
という言い訳は、もう僕は使わない。
時間は、ある。
24時間、睡眠時間を6時間確保したとしても(一時期それすらもできなかった時期もあることだし)、18時間はあるわけで、ご飯を1食ぐらい食べなくても死なないから、15分そこらの時間は絶対に、どんなに忙しくても作れるのだ。
忙しいとは、心を亡くす、と書く、と何かで読んだことあるけれど、そのとおりで、「他のことに意識できなくなる」というのが忙しいということだ。
正直に言えば、仕事と、FF14やってるせいである。
頭の中のリソースを避けなかったのだ。
そういう意味では、他の趣味の繋がりなども、ほとんど「無視」状態であった。さすがに「参加不参加」ぐらいの事務連絡も無視するわけにはいかないから、何とかしていたけれども、「大変」な気持ちだった。趣味だから楽しいはずなのに、ね。
LINEも、最近、開くのが億劫である。億劫とは何か。面倒ということだ。気持ちが乗らないということだ。「やだなぁ……」ってことだ。
それらのことに比べたら、このブログを書くことは、むしろ「したい」「やりたい」ことであった。
それでも、他のこと(仕事・FF14)を考えている中で、こちらについても「考えて」「行動する」という気持ちまではなれなかった……いや、「したい」とは思ったけれども、「行動」までは結び付かなかったということか。
資格の勉強しているときは、合格率1%みたいな難関な資格でもないし、誰でも勉強すればとれるんだよなぐらいな気持であった。
ただ、まぁ、その、「勉強する」ということ自体がすごいことであると今は思う。
学生の頃は、それが当たり前であったのだけれども。ああでも、学生の頃は、それようの時間が用意されているわけだから、当たり前は当たり前か。
でも、学校にいる時間の外まで勉強する、というのは、中々骨の折れることだったのではないだろうか。
というか、授業があんまり役に立った記憶はないんだよな。
学校の授業って、「訓練」でいいんじゃないかと思う。予備校とかカリスマ講師の授業を聞いて、「分かった!!」気になっても、「できる」ことは違うのだ……というのに気づくのは、だいぶ後の話だった。
そういう意味で、「やる気」って大事なんだよな、と思うのだけれども、果たして。
まえがき
endoは、この場所がどうでもよくなったのだ……と、思われてしまっても仕方がないとは思う。けれども、そうではないとは、自分の心の中に問うても答えられる。
しかし、それを示すには根拠があまりにも少ない。
あと、最近思ったのは、「やりとりの多さ」的な繋がりの強度というものである。
よく会う人が大事な人なのか
全然あさってな方向から書くと、大学時代、とても仲の良い友人がいて、授業などほとんど一緒にとっていた。住んでいたアパートもとても近くだったので、朝寝坊しないように一緒に大学に行ったりもしていた。
仲が良かった、そう思っていた。
しかし、大人になってしばらくして、その友人が、別に私のことはそんなに仲良いと思ってなかったと聞いた。とってもびっくり!!
多感な時期に聞いたら、(そもそも人間不信気味だったのに)さらに人間不信になっていたことだろう。
いやむしろ、「ほらみたことかっ」って持論が証明されたと悦に浸っていたかもしれない。
というわけで、「よく会う人」が大事な人でも、仲良い人でもない、とそんな風に僕は思う。
そもそも、よく会う人というたら、同じ会社の人と会う頻度の方が絶対多いだろう。でも絶対大事かというとそうではないだろう。すぐさま言っておかなければいけないのは、「それでいい」のであるということだけれど。
大事と思うから大事、でも
過日、久しぶりに会った方(ネット上だけどっ)と、お話ししたら、とても楽しかった。たぶん、1か月、2か月は会ってなかったと思う。
でも、やっぱり波長が合うというか、話していて楽しいなという人は、しばらく会ってなくても構わないのだと、改めて思った。
家族もそうだ。家族、が、必ずしも仲が良くないという人もいることは分かっているが、僕は割と家族関係は悪くない方なので、久々に会うと普通に話せる。会う前は、半年も、1年も会ってなくて会話が成り立つのか……ぐらいに思ったりもするけれども、1分~2分話してると、そんなことは全く感じなくなる。
それはまぁ、それだけ濃密な時間を過ごしていたバックグラウンドがあって、その1分程度の時間に、そのバックグラウンドがすぐに想起されるからなのかもしれないけれども、分からない。
仕事は一つ乗り越えた、が
このブログがあったから、そこにコメントくださった方々がいたから、僕は、一時期のつらいときを乗り越えられたと思っているので、「どうでもよくなった」なんてことはない。にもかかわらず、驚きの1月からほぼ1~2か月更新がなかったのはどういった了見なのか。
「時間がない」
という言い訳は、もう僕は使わない。
時間は、ある。
24時間、睡眠時間を6時間確保したとしても(一時期それすらもできなかった時期もあることだし)、18時間はあるわけで、ご飯を1食ぐらい食べなくても死なないから、15分そこらの時間は絶対に、どんなに忙しくても作れるのだ。
忙しいとは、心を亡くす、と書く、と何かで読んだことあるけれど、そのとおりで、「他のことに意識できなくなる」というのが忙しいということだ。
正直に言えば、仕事と、FF14やってるせいである。
頭の中のリソースを避けなかったのだ。
そういう意味では、他の趣味の繋がりなども、ほとんど「無視」状態であった。さすがに「参加不参加」ぐらいの事務連絡も無視するわけにはいかないから、何とかしていたけれども、「大変」な気持ちだった。趣味だから楽しいはずなのに、ね。
LINEも、最近、開くのが億劫である。億劫とは何か。面倒ということだ。気持ちが乗らないということだ。「やだなぁ……」ってことだ。
それらのことに比べたら、このブログを書くことは、むしろ「したい」「やりたい」ことであった。
それでも、他のこと(仕事・FF14)を考えている中で、こちらについても「考えて」「行動する」という気持ちまではなれなかった……いや、「したい」とは思ったけれども、「行動」までは結び付かなかったということか。
勉強するということ
社会人になってから、資格をいくつかとったこともあるが、今考えると、自分よく頑張ったと褒めてあげたい(かっこ笑)。資格の勉強しているときは、合格率1%みたいな難関な資格でもないし、誰でも勉強すればとれるんだよなぐらいな気持であった。
ただ、まぁ、その、「勉強する」ということ自体がすごいことであると今は思う。
学生の頃は、それが当たり前であったのだけれども。ああでも、学生の頃は、それようの時間が用意されているわけだから、当たり前は当たり前か。
でも、学校にいる時間の外まで勉強する、というのは、中々骨の折れることだったのではないだろうか。
というか、授業があんまり役に立った記憶はないんだよな。
学校の授業って、「訓練」でいいんじゃないかと思う。予備校とかカリスマ講師の授業を聞いて、「分かった!!」気になっても、「できる」ことは違うのだ……というのに気づくのは、だいぶ後の話だった。
そういう意味で、「やる気」って大事なんだよな、と思うのだけれども、果たして。
あとがき
(かっこ書きである。モチベーションを維持するということはとても難しい。毎日コツコツ……というのが難しいことなのだ。そういう意味で、僕はある程度それが「昔は」できていた。できていたのに、それが「当たり前」で「簡単」なことなのだと思っていたから、つらかった。自分の怠惰を、日記でいつも叱っていた気がする。映画やアニメなど物語では、「修行」はすぐに終わる。「そして1年後……」みたく。でも、それって一番難しいことなのである。ワンパンマンのサイタマ氏が、強くなる秘訣を聞かれて、ランニング10km腕立て500回腹筋……みたいに答えて、聞いた相手が、「そんなのふつーすぎる! 特別なことではない!」みたいに反応するシーンが僕は印象的であるが、まさにそこである。その「ふつー」がとても難しいのだ。それをふつーにやってしまったから、サイタマ氏は無敵の強さを得たのだ。何の話だっけ)
今日の一言「明けていました」
しかし、それで、何かいままでみたいに、「何か人生で重大な何かを成し遂げないでただ無駄な時間を過ごしてしまっているのではないか」といった、得体の知らない不安とかはなかった。
ただ、仕事ではへとへとになって疲れて、FF14では楽しかった。
やっぱり、どこに行っても、人間関係の面倒さ、というのはあると思う。
ただ、FF14での人間関係は、「面倒」という以上に、楽しいの方が多かったので、メリットデメリット(そもそも2者択一するものではない)でいけばメリットが優に上回る。
ただ、「人間関係の楽しさ」だけを重視してしまうと、そのコミュニティやらフレンドさんたちとの関係が上手く行かなくなった時、「やめる」とか「居場所を失う」ということになるだろう。
FF14がよいなと思うところは、コミュニケーションのしやすさという環境が整っているというのはある一方で、「一人でも楽しめる」環境というのも、多々あることだろう。
物語として面白いと思う。なんやかんやで、僕が飽きずにずーっと続けてこられたのは、「ゲーム性」という面もありながら、メインのストーリーが面白かったというのはあるだろう。
(だから、逆に、とても進みは遅かったと思う。周辺的な知識や状況や、時間軸や雰囲気など、色々気にして進めていたというのはある。このクエストをやってからじゃないと、何かちぐはぐなイベントになるんじゃないか、とか)
文化とか風土とか、バックラウンドもしっかりしていて、想像力を掻き立てられると思う。
良いゲームというのが、きれいなグラフィックの追求だけじゃないんだと思う。
グラフィック的にもっときれいなゲームというのはあると思う。
(PCのグラボ性能(RTX3080)をもっと使えるだけのグラフィックをください!――なんて)
本と同じだと思う。漫画や、アニメという媒体も創作の手法としてはあるわけだ。
本より、漫画の方が、漫画より、アニメの方が、視覚的な情報量は多い。しかし、開発コストという面を除いたとしても、本には本の、漫画には漫画にしかできない表現というものがある。
FF14では、その世界で暮らす人たちの生活などに思いを馳せながら、自分も暮らしているような経験ができるのがよいなと思う。
中間的な……「管理職」ではないが、いろいろ板ばさみ的な状況もある。
偉くなる気はないのだけれども、そうも言ってられない気がする。
そもそも、会社自体が大丈夫か、という問題もあるわけだ。
仕事がなかったら、遊んでもられないので、頑張らなきゃいけないのは仕方がない。
ただ、頑張ってもきりがないし、余暇の時間が全くないとなれば、いったい何のための仕事だ、という本末転倒。
ほどよい「きり」というのを見つけていきたい。
ようは、「やらなくていいこと」ということを徹底的にやらないということが大事だ。
しかし、「根本的」に考えると、それもまた難しい。いちいち判断してる時間があれば、とりあえずやってしまったほうが早く終わることすらあるからな。
なんという名前か忘れてしまったが、「時間単位に管理するスケジュール方法」というのがあって、それを実践したのが昨年(2021年)からだったはず。
9:00~ 9:05 スケジュール確認
9:05~10:30 打ち合わせ
10:30~10:45 電話対応
などなど、そんな風に、分単位でその日にやることを書きだしておく。
それで、そのタスクが終わったら、終わった時間を書き込む。
そうして、エクセルとかで「予実」(予定時間と実績時間)がそのタスクごとに出力されるようにしておく。
そうすると、予定がどんだけ甘かったのか、突発的な作業に追われているのかというのが分かる。
んで、一番よく分かったのは、「次に何をするか」という、準備作業というのが馬鹿にならない時間だということだ。
「次はあれをやろう」というのをその都度考えてたらものすごい時間のロスである。(もちろん、大まかな「今日はあれとこれとあれをやる」というのは誰でも決めていることだろう。
ただ、それでは「甘い」のである。もっと細かい作業単位でやることを書きだしてないと、作業がスムーズにこなしていけないのだ。
もちろん、そんなに細かい作業がたくさんない仕事の場合は別の話。
まえがき
昨年を振り返ると、仕事と、FF14しかしてなかった気がする。しかし、それで、何かいままでみたいに、「何か人生で重大な何かを成し遂げないでただ無駄な時間を過ごしてしまっているのではないか」といった、得体の知らない不安とかはなかった。
ただ、仕事ではへとへとになって疲れて、FF14では楽しかった。
2021年を振り返って
仕事でも、つらいことばかりではなかったわけだし、FF14でも楽しいことばかりではなかった。やっぱり、どこに行っても、人間関係の面倒さ、というのはあると思う。
ただ、FF14での人間関係は、「面倒」という以上に、楽しいの方が多かったので、メリットデメリット(そもそも2者択一するものではない)でいけばメリットが優に上回る。
ただ、「人間関係の楽しさ」だけを重視してしまうと、そのコミュニティやらフレンドさんたちとの関係が上手く行かなくなった時、「やめる」とか「居場所を失う」ということになるだろう。
FF14がよいなと思うところは、コミュニケーションのしやすさという環境が整っているというのはある一方で、「一人でも楽しめる」環境というのも、多々あることだろう。
一人の楽しさ
その一つはストーリーの面白さである。物語として面白いと思う。なんやかんやで、僕が飽きずにずーっと続けてこられたのは、「ゲーム性」という面もありながら、メインのストーリーが面白かったというのはあるだろう。
(だから、逆に、とても進みは遅かったと思う。周辺的な知識や状況や、時間軸や雰囲気など、色々気にして進めていたというのはある。このクエストをやってからじゃないと、何かちぐはぐなイベントになるんじゃないか、とか)
文化とか風土とか、バックラウンドもしっかりしていて、想像力を掻き立てられると思う。
良いゲームというのが、きれいなグラフィックの追求だけじゃないんだと思う。
グラフィック的にもっときれいなゲームというのはあると思う。
(PCのグラボ性能(RTX3080)をもっと使えるだけのグラフィックをください!――なんて)
本と同じだと思う。漫画や、アニメという媒体も創作の手法としてはあるわけだ。
本より、漫画の方が、漫画より、アニメの方が、視覚的な情報量は多い。しかし、開発コストという面を除いたとしても、本には本の、漫画には漫画にしかできない表現というものがある。
FF14では、その世界で暮らす人たちの生活などに思いを馳せながら、自分も暮らしているような経験ができるのがよいなと思う。
仕事
だいぶ、中堅、と言われる存在なのである。中間的な……「管理職」ではないが、いろいろ板ばさみ的な状況もある。
偉くなる気はないのだけれども、そうも言ってられない気がする。
そもそも、会社自体が大丈夫か、という問題もあるわけだ。
仕事がなかったら、遊んでもられないので、頑張らなきゃいけないのは仕方がない。
ただ、頑張ってもきりがないし、余暇の時間が全くないとなれば、いったい何のための仕事だ、という本末転倒。
ほどよい「きり」というのを見つけていきたい。
ようは、「やらなくていいこと」ということを徹底的にやらないということが大事だ。
しかし、「根本的」に考えると、それもまた難しい。いちいち判断してる時間があれば、とりあえずやってしまったほうが早く終わることすらあるからな。
なんという名前か忘れてしまったが、「時間単位に管理するスケジュール方法」というのがあって、それを実践したのが昨年(2021年)からだったはず。
9:00~ 9:05 スケジュール確認
9:05~10:30 打ち合わせ
10:30~10:45 電話対応
などなど、そんな風に、分単位でその日にやることを書きだしておく。
それで、そのタスクが終わったら、終わった時間を書き込む。
そうして、エクセルとかで「予実」(予定時間と実績時間)がそのタスクごとに出力されるようにしておく。
そうすると、予定がどんだけ甘かったのか、突発的な作業に追われているのかというのが分かる。
んで、一番よく分かったのは、「次に何をするか」という、準備作業というのが馬鹿にならない時間だということだ。
「次はあれをやろう」というのをその都度考えてたらものすごい時間のロスである。(もちろん、大まかな「今日はあれとこれとあれをやる」というのは誰でも決めていることだろう。
ただ、それでは「甘い」のである。もっと細かい作業単位でやることを書きだしてないと、作業がスムーズにこなしていけないのだ。
もちろん、そんなに細かい作業がたくさんない仕事の場合は別の話。
あとがき
(かっこ書きである。休みが終わる……。あっという間過ぎる。6日間は休みだった気がするけれども、買い物とか家事とか、遊んだり、ゆっくりしたり、寝てたら、もう終わりだよほんと。早すぎる。真面目な話、1か月ぐらい休みでも、絶対暇に思わない。暇だって思う人もいるらしい。「暇」って思ったことないんだよな。いや、あることはある。「拘束」されているときだ。電車の待ち時間で、スマホも本も何もなかったときとか。とりあえず、このブログも2022年も続けて行きたい。更新頻度アップしたい……けど、平日の状況が変わらないと、中々厳しい気がする。明日からもうやることが多い。整理しなきゃなぁ。だが、今日はまだ休みだ。仕事はしない、嫌なことは考えない!! まぁでもほんと、「リアル」の人付き合いが昨年は減って、それはほんと「よかった」。結婚とかそんなことも昨今状況ではいないだろう。ほとほと、リアルでのプライベートな付き合い、的なのが好きじゃなかったんだなって良く分かった。家でゆっくりしてた方がよほど楽しいぞ……。そして、そんな付き合いしてなくても、別に何とかなることもわかった。飲み会とか別になくていいんだよほんと。だから、2021年はなんやかんや、今までで一番よかった年かもしれない。仏陀は35歳になって悟りを開いたみたいだからちょうどいいごろの年だった気がする。そう考えると、今まで、学生時代とかから考えても、つまらない人生だったんだなと思う。いや……違う、楽しかった、楽しい時もあった、けれども、「家でゆっくり過ごす」ということや「遊ぶこと」ということに、常に「罪悪感」的なのがあったのだ。別にそんなこと気にせず楽しめばよかったのである。いやまぁしかし、大学受験とか、就職の面接とか、社会人になってからの人付き合いや仕事を覚えたりとか、そりゃあ「真面目に」しなきゃいけないことはたくさんあったわけで、その「罪悪感」は正しかったのだ。もっといえば、今もそういったことを感じなければいけないかもしれない。ただ、最近もう、世界に対して「きりがない」ということしか思わない。だからといって、「努力をやめる」というのはいけないことだと思う。ただ、「頑張って努力する」というのは違う。「楽しんで努力する」ことしか正義ではない。だが、正義の裏では、悪も必要だ。嫌なことも、面倒なことも、逃げてはいけない。だが、最終的に目指すべきは、「楽しいこと」なのだ。それ以外に正義はない。って、何の話だ。新年早々の記事がこんなのでよいのか。よいのである。今年も宜しくお願いします)
今日の一言「5分はあっという間」
これは、難しい。
まず、始めることさえできれば、5分、10分は余裕である。
ところが、1分でさえ、「本を読む」という行為を行うことが意外に難しい。
嫌なことから逃げ続けてはいけない。やるべきことは早めにやった方がよいというのは、とっかかりが大事ということを示している。
あと、後回しにすればするほどに、問題が大きくなることが多い。
言葉で説明するのが難しいが、図をみれば、誰しも「ああ、あれのことか」と思い出すはずである。錯視みたいなやつ。ルビンの壺みたいなやつ。老婆と少女の絵に見えるやつ。
意識というものが虚構であるという。そのことを示す事例で用いられる。
グレーに見えるというのは、人間の目の機能であって、実際に「グレー」が、その絵図に存在しているわけではない。たぶん、色を読み取る機械にかけたら、数値上は「白」があるだけなのだ。
しかし、人間の目には、「グレー」に映る。
だから、意識は虚像虚構なのだと。
だが、そうはいっても、グレーはあるのだ。
でも、だからといって、「グレー」が「見える」こと自体は嘘ではない。
実際に「意識」されている。
そのことに着目するのが「実存主義」である。
デカルトとはちょっと違うという。
デカルトの「我思う故に我あり」というのは、「私が思うことができる、だから「私」は存在する」といいきっている点が違うという。言いきっているというか、「私」の存在を、「そういう存在」として認めている点が違うという。
「そういう存在」
というのは、二元論的な、心身のうちの、「心」として、存在するのだという主張である。
物的一元論……つまり、身体というものしかなくて、その身体の機能によって心というものが生じている(に過ぎない)というのが、実存主義に近くて、デカルトは、二元論的な考え方をしている点が違うという。
この説明で分かるのだろうか。自分の中では腑に落ちているが、果たして他者が見て意味が通じるのか。そして、未来の私が読んで分かるのか。また、過去の私に聞かせたときに分かるのか、分からない。
まえがき
本を、1分読んで、感想を書く。これは、難しい。
まず、始めることさえできれば、5分、10分は余裕である。
ところが、1分でさえ、「本を読む」という行為を行うことが意外に難しい。
嫌なことから逃げ続けてはいけない。やるべきことは早めにやった方がよいというのは、とっかかりが大事ということを示している。
あと、後回しにすればするほどに、問題が大きくなることが多い。
ヘルマンの格子
ヘルマンのコウシ。等間隔に、縦横に並んだ白黒の四角形の間の白い部分は、グレーに見えるというやつだ。言葉で説明するのが難しいが、図をみれば、誰しも「ああ、あれのことか」と思い出すはずである。錯視みたいなやつ。ルビンの壺みたいなやつ。老婆と少女の絵に見えるやつ。
意識というものが虚構であるという。そのことを示す事例で用いられる。
グレーに見えるというのは、人間の目の機能であって、実際に「グレー」が、その絵図に存在しているわけではない。たぶん、色を読み取る機械にかけたら、数値上は「白」があるだけなのだ。
しかし、人間の目には、「グレー」に映る。
だから、意識は虚像虚構なのだと。
だが、そうはいっても、グレーはあるのだ。
驚くべき人
錯視という状況があるように、人間とは不完全な存在だ。でも、だからといって、「グレー」が「見える」こと自体は嘘ではない。
実際に「意識」されている。
そのことに着目するのが「実存主義」である。
デカルトとはちょっと違うという。
デカルトの「我思う故に我あり」というのは、「私が思うことができる、だから「私」は存在する」といいきっている点が違うという。言いきっているというか、「私」の存在を、「そういう存在」として認めている点が違うという。
「そういう存在」
というのは、二元論的な、心身のうちの、「心」として、存在するのだという主張である。
物的一元論……つまり、身体というものしかなくて、その身体の機能によって心というものが生じている(に過ぎない)というのが、実存主義に近くて、デカルトは、二元論的な考え方をしている点が違うという。
この説明で分かるのだろうか。自分の中では腑に落ちているが、果たして他者が見て意味が通じるのか。そして、未来の私が読んで分かるのか。また、過去の私に聞かせたときに分かるのか、分からない。
あとがき
(かっこ書きである。「分かる」ということについて書いたこともあった。分かるというのは、物事を分類できるということだ。つまり分類できなければ分かったことにはならない。「完全な理解」というときは、付随するすべての事象が、すべてのときに、誤りなく分類できるということである。逆に、分からない、というのは、まず僕は、「存在しない」と思う。だって、「広い」意味で、分からないことなどないだろう。だって今、僕は「日本語」を書いている。そういう意味で、「分かる」。つまり、「分かる」というのは、次元がたくさんあるのである。宇宙玉ねぎのように、剥いても剥いても終わりはない。物質とは何か? 原子である。原子とは何か。陽子と中性子と電子である。陽子とはなにか。クォークである。クォークとは何か。アップクォークとダウンクォークである……。要は素粒子である……。と、まぁ、分類はできる。全く分類できないことはあるだろうか? 異界の言語であれば分からないかもしれない。でも、それが「言語」であることは分かるかもしれない。「知らない人」というのはいる。でも、その人が、人間なのか、男女かどちらかは分かるだろう。アンドロイドという存在が当たり前になれば、「人間」の分類が曖昧になる。そんなときは、新たに、「ヒト型」という概念が必要になるかもしれない。概念というのは、分類における「ラベル」である。目印。名前。言語学者の……誰だっけ、名前が出てこない、あのその……、ああ、もう頭のラベルがすり減っている。その……あれだよ、シグニティ……じゃなかったっけ、シグニフィカント……違う、なんだっけ、シニフィエと、シニフィアンだ。それそれ。えっと……、シニフィエというのが、定義された名前であって、シニフィアンというのは、その物自体であって……とかって。結局思うに、「記憶力」がないと、「思考」ってできないのだと思う。中学生とかのとき、そこらへんを分かってなかった。数学の公式を覚えるのがなんか「負けた」気がして嫌だった。よく考えたら中二病的精神である)
今日の一言「私とは何か」
気を抜くと、また、さぼってしまいそうになる。
本を読む。
そして、感想を書く。
本を読むといっても、1分でよい。本を触る、のでもいい。
本のタイトルだけでもいい。
あまりに大きい目標は、どこから手を付けていいか分からなくて、やる気がそがれることがある。
そういうときは、自分が可能なレベルに分解するのだ。
プログラム開発では、WBSというのだったか。
ウォークブレイクスルー?
ウォークブレイクダウンストラクチャーだ。
という本を引き続き読んでいる。
前回、心身一元論は不十分だから、心身二元論に立脚せねばならない、という考え方もあることにふれた。チャーマーズ氏の唱える論だ。
心身二元論は、霊魂の存在を認める……ものもあるので、オカルトチックな感じもあるが、チャーマーズ氏の心身二元論は、哲学チックな考え方だ。
脳内の仕組みが、「完全に」人間と同じものが再現できたとして、それでもなお、「心」が生じない場合があるか?
この問いに、「ある」と答えたら、心身二元論に立脚しなければいけないし、「ない」と答えたら、心身一元論に立脚しなければいけない。
しかし、この問いが、「ある」のか、「ない」のか、これは証明のしようのないことなのだという。
だから、結局、一元論も二元論も、まじわることはないのだ。
脳内には、シナプスという器官があって、そこを、神経伝達物質が行きかうことにより、「思考」なり「感情」なりが生じる。
これは、いわゆる、物的な世界で行われていることである。
いかに、高度な情報処理ができる人でも、同じである。
人間は「もの」なのだ。
所詮は。
所詮……という言葉は、ネガティブな側面を持つ言葉だ。
ただ、「驚くべき」ものである。
ただの「もの」ではない。すごいものなのだ。それで十分だ。
何か、宇宙意識や神や、その他の超常的なものに立脚する必要はない。
所詮はものであったとしても、人間がものすごい仕組みをもっていることは、疑う必要はないのだから。
まえがき
やばいやばい。気を抜くと、また、さぼってしまいそうになる。
本を読む。
そして、感想を書く。
本を読むといっても、1分でよい。本を触る、のでもいい。
本のタイトルだけでもいい。
あまりに大きい目標は、どこから手を付けていいか分からなくて、やる気がそがれることがある。
そういうときは、自分が可能なレベルに分解するのだ。
プログラム開発では、WBSというのだったか。
ウォークブレイクスルー?
ウォークブレイクダウンストラクチャーだ。
頭の中の仕組み
脳の中の私は何故見つからないのか?という本を引き続き読んでいる。
前回、心身一元論は不十分だから、心身二元論に立脚せねばならない、という考え方もあることにふれた。チャーマーズ氏の唱える論だ。
心身二元論は、霊魂の存在を認める……ものもあるので、オカルトチックな感じもあるが、チャーマーズ氏の心身二元論は、哲学チックな考え方だ。
脳内の仕組みが、「完全に」人間と同じものが再現できたとして、それでもなお、「心」が生じない場合があるか?
この問いに、「ある」と答えたら、心身二元論に立脚しなければいけないし、「ない」と答えたら、心身一元論に立脚しなければいけない。
しかし、この問いが、「ある」のか、「ない」のか、これは証明のしようのないことなのだという。
だから、結局、一元論も二元論も、まじわることはないのだ。
ニューラルネットワーク
神経伝達物質……。セロトニン(起床に大事!)とか、メラトニン(睡眠に大事!)とか。脳内には、シナプスという器官があって、そこを、神経伝達物質が行きかうことにより、「思考」なり「感情」なりが生じる。
これは、いわゆる、物的な世界で行われていることである。
いかに、高度な情報処理ができる人でも、同じである。
人間は「もの」なのだ。
所詮は。
所詮……という言葉は、ネガティブな側面を持つ言葉だ。
ただ、「驚くべき」ものである。
ただの「もの」ではない。すごいものなのだ。それで十分だ。
何か、宇宙意識や神や、その他の超常的なものに立脚する必要はない。
所詮はものであったとしても、人間がものすごい仕組みをもっていることは、疑う必要はないのだから。