今日の一言「何か不満足というわけではないけども不安はある」
別にダメとかは思わなくなったけれども、不安はある。
大学生の時、3Dの対戦型シューティングゲームをやってて、たぶん、ロビーがあるオンラインゲーム(※)としてはそれが最初だったのかな。フレンドになった方とのおしゃべりや、帰省の途中に住んでる方とオフ会したりとかもしたことがあった。
※特定の人とダイレクトに繋がるゲームはやったことあった
その頃は、大学の課題とかもあったけれど、遊びたいという気持ちが常にあったと思う。どういうタイミングでやらなくなっていったのかなぁ。過去の日記なども残ってるのかな。
実は、人間の意識とか言語というのはそう簡単なものではなくて、前意識とか、言語も、シーニュ(意味するもの)とかシニフィエ(意味されるもの)とか分かれている。
ソシュールの話は、いつも面白いって思って聞くのだけど、しばらくすると忘れるんだよな。身につかない、ということは、それだけ専門的なのだろう。
でも納得しているところもあって、頭の中に生じている「ことば」というものが、そのままダイレクトに「文字」として表現することはできないのだ、という点。
思考というのは、文字とは完全に一致はしない。
感情もそう。
そんな中でも、小説とか文学というものは、文字で人間を表現しようとしてみゃくみゃくと続いてきた文化だ。それは素晴らしいものだと思う。
という言葉があまり好きではない。仕事とプライベート、という分け方も好きではない。いや、現実はそうはいかないし、公共の利益は大事だ。でも、いったん、そういう「たてまえ」とか「ぜんてい」といったものを取っ払って考えることが、昨今大事なのかもしれないとも思う。
本来どうあるべきか。
と、僕は今までも考えるようにしていたし、そうありたいと思っていたけれど、実はそんな僕も「ぜんてい」なるものにとらわれているのである。
本当にしたいこと、なりたいもの、えたいものということを、忘れちゃいけないと思う。
とはいえ、「幸せ」とは何か、という定義は、「理想と現実との乖離が少ないこと」だと思っているので、その匙加減が難しいところである。
理想だけ高くすると現実がおいつかなくて大変だし、理想を下げ過ぎても、自分の本当の気持ちというものを無視することになる。
ことば、で表現するのは簡単だが、実現するのが難しいということで世界は溢れている。
平和、というのもそうだね。平和という概念はみんな共感し、成したいと思っていても、実現は非常に難しい。戦争を起こした国だって、「建前」上は「平和」のために戦争をしているのである。誰にとっての平和なのか、何を目指す平和なのか。それが違うだけだ。
FF14は、世界観もすばらしいし、グラフィックもすばらしいので、その世界を楽しんでいた。
ただ、自分のような感覚で楽しんでいる人は、いないことはないが、あまり多くもなさそうだ。
多くの人は、「ゲーム」として楽しんでいる。
自分はどちらかというと、「物語」として楽しんでいる。たぶん廃れそうな言葉を使えば、「メタバース」で生活しているイメージである。メタバース。攻殻機動隊とか好きだけど、どうにもあまり流行るように思えないのはなぜだろう……。
「私」
という存在を、仮想空間に置きたいというわけではないのだと思う。自分の感覚として。
私の魂をもった別の身体をもった存在で、別の世界を生きていたい、という感覚だろうか。
そういう意味で、FF14のストーリーは、エーテルとか「魂」の在り方とかが深くかかわってるので、ストーリーとして楽しいというのがあった。
ところが、最近、ストーリーが最新のパッチまでおいついてしまった。
そして、「暁月のフィナーレ」ということで、10年ちかく続いていたストーリーが完結したのである。
それはそれは、感動した。楽しかった。すごかった。陳腐な言葉がならぶほどに、言葉にならないほど面白かった。MMORPGという、「MMO」の部分を除いて、ソロで良いから物語としてお薦めできる。
まだ色々やることがある。サブストーリーとかメインストーリーに関係ないこととか、まだ触ったことないジョブとかもたくさんある。
高難度というコンテンツも、少しだけやってみた。これはこれで面白い。冒頭少し書いた、3Dシューティングゲームやってたころみたいなハマり方をしそうだなと思った。
しかし、これは非常に「楽しむ」上で危険だと思った。
かなりメタ的なことを書くと、「答え合わせ」なのだと思っている。
いや、ゲームってそもそもそういうものなのだ。
だからこそ、「ゲームとして感じさせない工夫」があるFF14が面白いと思ったわけである。
敵との戦闘というのは、ランダム要素があるとはいえ、「適切な行動(スキル回し)」というのがある。「正解」があるのだ。完ぺきな正解はできないにしても、正解に近い行動がとれると、攻略できる、クリアできる、ということになる。
いかに、その正解を自分で再現できるか、というのが本質なのである。
……って書くと、非常に冷める(かっこ笑)。
書くと冷めるから、ずーっと前(ストーリーが終わりそうというぐらい)から思っていたけれども敢えて書かなかった。
思ってることを文字にすると、こんな風に、いくらでもブログもかけるのだけど、「いうべきでないこと」というのが発生すると、そもそも「書きたい」という気持ちがそがれるので、ブログから離れてしまう。最近はその繰り返しだったりする。
最初、ぜんぜん上手くスキル回しができずに、敵の攻撃(ギミック)を回避できずに死んじゃってたのが、段々倒せるようになったり、意識せずスキル回しできるようになったりすると、成長した感じもして楽しい。
本質的に楽しいから、流行ってるのである。
それはそうなのだけれど、それだと、いつか「所詮ゲームだし」という冷めた気持ちが生じる可能性が否定できないと思う。トッププレイヤーはいいだろう。それによって賞賛されたり、昨今はプロゲーマーという職業すらある。
ただ、現実問題、いくら頑張ったところで、そんな風にはなれない。自分が平々凡々なのは分かっている。
どんだけ頑張ったって、トップに上り詰めることはできない。
今の自分の実力から、少しずつ頑張って、できることを増やしたり楽しんだりするぐらいがちょうどよい。
……それはよい。そんな風に、身の丈に合って遊ぶのが良い。
ただ、書きたいことはそこじゃなくて、結局それは「ゲーム」としての楽しみ方になっている、ということだ。
気持ち悪いと感じる方も多いことを承知で、自分は、「もう一つの世界」としてFF14を楽しんでいた。
だから、「中の人」とかいう表現も嫌いだし、「自機」という言い方も好きじゃない。ツイッターとかで、リアルの話とかたくさんする人ともあまり関わりたくない。
できるだけそういう人たちとは関わらないように、とは思っていたけれど、交流が広がるにつれて、色んな人とかかわるようになった。
そしていつしか、自分もそこまで気にしないようになってしまっていることに気づいた。
もともと、ご飯写真とかエオルゼアのイベントとかエオルゼアカフェとかの話とかは全然よいと思ってたので、自分の中での基準もあいまいだったのだろう。特に今ではその基準がほとんどなくなったということかもしれない。
やじゃん。かわいいキャラクターから、野太い声が聞こえてきたら、「何……??」って思う……。
でも、「ぜんてい」とっぱらって考えたら、将来、ボイスチェンジャーのすごい奴があったらいいなーて思う。
チャットやりとり、というのも好きなのだけどね。光のお父さんのマイディーさんのブログとかみて、興味持ったのは、意外に「チャット文化」だと思ったからだ。それがないと、たぶんそもそも始めてすらいなかった気がする。
チャットは面倒、という意見の方が最近よく聞く。そりゃそうだ。口でしゃべった方はやいもの。
いま、ここまで3000字? 5000字? 書いてきたけど、すでに1時間ぐらいかかりはじめてる。自分はわりとタイピング速いからここまで書けるけど、普通そうはいかないと思う。そうすると、話せることが限られる。
あと、冒頭で書いた、「文字」と気持ちはまた乖離がある。だから「面倒」というのは当たり前で、正しい。
だから、VCとかやりたい人が多いのも分かるし、これから広がっていくのかもしれない。
ただ、周りがみんなそうなったら、いつか自分は交流をしなくなるか、そもそもやめるだろうと思う。
とはいえ、「すごいボイスチェンジャー」があったら、自分もVCしてもよいかなとは思う。
すごいボイスチェンジャーというのは、自分のキャラクターにあった声にしてくれるというもの。エモートのときに、笑ったりすると声がでるけれども、それとあった声にしてくれるなら、すごくよいと思う。
まえがき
前書きなし。最近
タイトルのとおり、仕事に行くか、帰ってきたらFF14しかしてない気がする。ニュースは見てるかな、ぐらい。別にダメとかは思わなくなったけれども、不安はある。
大学生の時、3Dの対戦型シューティングゲームをやってて、たぶん、ロビーがあるオンラインゲーム(※)としてはそれが最初だったのかな。フレンドになった方とのおしゃべりや、帰省の途中に住んでる方とオフ会したりとかもしたことがあった。
※特定の人とダイレクトに繋がるゲームはやったことあった
その頃は、大学の課題とかもあったけれど、遊びたいという気持ちが常にあったと思う。どういうタイミングでやらなくなっていったのかなぁ。過去の日記なども残ってるのかな。
日記
日記と言えば、「ログ」という形で――まぁこのブログもそうだけれども――自分の思考をダイレクトに文字にするということをずっとやっていた。特定の年では、ほんと毎日書いていた。実は、人間の意識とか言語というのはそう簡単なものではなくて、前意識とか、言語も、シーニュ(意味するもの)とかシニフィエ(意味されるもの)とか分かれている。
ソシュールの話は、いつも面白いって思って聞くのだけど、しばらくすると忘れるんだよな。身につかない、ということは、それだけ専門的なのだろう。
でも納得しているところもあって、頭の中に生じている「ことば」というものが、そのままダイレクトに「文字」として表現することはできないのだ、という点。
思考というのは、文字とは完全に一致はしない。
感情もそう。
そんな中でも、小説とか文学というものは、文字で人間を表現しようとしてみゃくみゃくと続いてきた文化だ。それは素晴らしいものだと思う。
幸せの定義
「余暇」という言葉があまり好きではない。仕事とプライベート、という分け方も好きではない。いや、現実はそうはいかないし、公共の利益は大事だ。でも、いったん、そういう「たてまえ」とか「ぜんてい」といったものを取っ払って考えることが、昨今大事なのかもしれないとも思う。
本来どうあるべきか。
と、僕は今までも考えるようにしていたし、そうありたいと思っていたけれど、実はそんな僕も「ぜんてい」なるものにとらわれているのである。
本当にしたいこと、なりたいもの、えたいものということを、忘れちゃいけないと思う。
とはいえ、「幸せ」とは何か、という定義は、「理想と現実との乖離が少ないこと」だと思っているので、その匙加減が難しいところである。
理想だけ高くすると現実がおいつかなくて大変だし、理想を下げ過ぎても、自分の本当の気持ちというものを無視することになる。
ことば、で表現するのは簡単だが、実現するのが難しいということで世界は溢れている。
平和、というのもそうだね。平和という概念はみんな共感し、成したいと思っていても、実現は非常に難しい。戦争を起こした国だって、「建前」上は「平和」のために戦争をしているのである。誰にとっての平和なのか、何を目指す平和なのか。それが違うだけだ。
FF14とメタバース
今の所大丈夫なのだけど……という前置きの上で、「ゲームをゲームとして楽しむ」ということを意識しないようにしていた、というのがある。FF14は、世界観もすばらしいし、グラフィックもすばらしいので、その世界を楽しんでいた。
ただ、自分のような感覚で楽しんでいる人は、いないことはないが、あまり多くもなさそうだ。
多くの人は、「ゲーム」として楽しんでいる。
自分はどちらかというと、「物語」として楽しんでいる。たぶん廃れそうな言葉を使えば、「メタバース」で生活しているイメージである。メタバース。攻殻機動隊とか好きだけど、どうにもあまり流行るように思えないのはなぜだろう……。
「私」
という存在を、仮想空間に置きたいというわけではないのだと思う。自分の感覚として。
私の魂をもった別の身体をもった存在で、別の世界を生きていたい、という感覚だろうか。
そういう意味で、FF14のストーリーは、エーテルとか「魂」の在り方とかが深くかかわってるので、ストーリーとして楽しいというのがあった。
ところが、最近、ストーリーが最新のパッチまでおいついてしまった。
そして、「暁月のフィナーレ」ということで、10年ちかく続いていたストーリーが完結したのである。
それはそれは、感動した。楽しかった。すごかった。陳腐な言葉がならぶほどに、言葉にならないほど面白かった。MMORPGという、「MMO」の部分を除いて、ソロで良いから物語としてお薦めできる。
物語の先に(高難度のかかわり方)
だから、ストーリーが終わってしまって、さてどうしようか、と悩んでいるところはある。まだ色々やることがある。サブストーリーとかメインストーリーに関係ないこととか、まだ触ったことないジョブとかもたくさんある。
高難度というコンテンツも、少しだけやってみた。これはこれで面白い。冒頭少し書いた、3Dシューティングゲームやってたころみたいなハマり方をしそうだなと思った。
しかし、これは非常に「楽しむ」上で危険だと思った。
かなりメタ的なことを書くと、「答え合わせ」なのだと思っている。
いや、ゲームってそもそもそういうものなのだ。
だからこそ、「ゲームとして感じさせない工夫」があるFF14が面白いと思ったわけである。
敵との戦闘というのは、ランダム要素があるとはいえ、「適切な行動(スキル回し)」というのがある。「正解」があるのだ。完ぺきな正解はできないにしても、正解に近い行動がとれると、攻略できる、クリアできる、ということになる。
いかに、その正解を自分で再現できるか、というのが本質なのである。
……って書くと、非常に冷める(かっこ笑)。
書くと冷めるから、ずーっと前(ストーリーが終わりそうというぐらい)から思っていたけれども敢えて書かなかった。
思ってることを文字にすると、こんな風に、いくらでもブログもかけるのだけど、「いうべきでないこと」というのが発生すると、そもそも「書きたい」という気持ちがそがれるので、ブログから離れてしまう。最近はその繰り返しだったりする。
答え合わせは楽しいのか
なんか批判的に書いたけれど、答え合わせは楽しいのである。最初、ぜんぜん上手くスキル回しができずに、敵の攻撃(ギミック)を回避できずに死んじゃってたのが、段々倒せるようになったり、意識せずスキル回しできるようになったりすると、成長した感じもして楽しい。
本質的に楽しいから、流行ってるのである。
それはそうなのだけれど、それだと、いつか「所詮ゲームだし」という冷めた気持ちが生じる可能性が否定できないと思う。トッププレイヤーはいいだろう。それによって賞賛されたり、昨今はプロゲーマーという職業すらある。
ただ、現実問題、いくら頑張ったところで、そんな風にはなれない。自分が平々凡々なのは分かっている。
どんだけ頑張ったって、トップに上り詰めることはできない。
今の自分の実力から、少しずつ頑張って、できることを増やしたり楽しんだりするぐらいがちょうどよい。
……それはよい。そんな風に、身の丈に合って遊ぶのが良い。
ただ、書きたいことはそこじゃなくて、結局それは「ゲーム」としての楽しみ方になっている、ということだ。
気持ち悪いと感じる方も多いことを承知で、自分は、「もう一つの世界」としてFF14を楽しんでいた。
だから、「中の人」とかいう表現も嫌いだし、「自機」という言い方も好きじゃない。ツイッターとかで、リアルの話とかたくさんする人ともあまり関わりたくない。
できるだけそういう人たちとは関わらないように、とは思っていたけれど、交流が広がるにつれて、色んな人とかかわるようになった。
そしていつしか、自分もそこまで気にしないようになってしまっていることに気づいた。
もともと、ご飯写真とかエオルゼアのイベントとかエオルゼアカフェとかの話とかは全然よいと思ってたので、自分の中での基準もあいまいだったのだろう。特に今ではその基準がほとんどなくなったということかもしれない。
オフ会とかボイチャとか
オフ会も、ボイスチャットとかも、上の理由からしたくない。したいと思わないとかではなく、したくない。やじゃん。かわいいキャラクターから、野太い声が聞こえてきたら、「何……??」って思う……。
でも、「ぜんてい」とっぱらって考えたら、将来、ボイスチェンジャーのすごい奴があったらいいなーて思う。
チャットやりとり、というのも好きなのだけどね。光のお父さんのマイディーさんのブログとかみて、興味持ったのは、意外に「チャット文化」だと思ったからだ。それがないと、たぶんそもそも始めてすらいなかった気がする。
チャットは面倒、という意見の方が最近よく聞く。そりゃそうだ。口でしゃべった方はやいもの。
いま、ここまで3000字? 5000字? 書いてきたけど、すでに1時間ぐらいかかりはじめてる。自分はわりとタイピング速いからここまで書けるけど、普通そうはいかないと思う。そうすると、話せることが限られる。
あと、冒頭で書いた、「文字」と気持ちはまた乖離がある。だから「面倒」というのは当たり前で、正しい。
だから、VCとかやりたい人が多いのも分かるし、これから広がっていくのかもしれない。
ただ、周りがみんなそうなったら、いつか自分は交流をしなくなるか、そもそもやめるだろうと思う。
とはいえ、「すごいボイスチェンジャー」があったら、自分もVCしてもよいかなとは思う。
すごいボイスチェンジャーというのは、自分のキャラクターにあった声にしてくれるというもの。エモートのときに、笑ったりすると声がでるけれども、それとあった声にしてくれるなら、すごくよいと思う。
あとがき
(かっこ書きである。書きたいこと、書けたのだろうか。良く分からなくなった。ただ、1時間ぐらい書いていると、だんだん飽きてきてしまう。書いてる途中は、いくらでも書ける気がするのだけれども、そんなことはない。不断の努力をしないと、現状維持はできない、というのが座右の銘?? 的に思う。理想と現実のギャップがー、というのの次点ぐらいには。楽しむためにだって努力がいる。でも、人とかかわるのってやっぱり難しい。求めすぎても、いけない。適度な距離。これが難しい。でも一人じゃ生きていけない。ソロベースで遊んで、プラス交流、ぐらいだったころが一番よかったのかもしれない。最近、高難度とかやってると、「交流」がメインといえる。これはやっぱりしんどかったり疲れる。あと、「物語」感がない。なさすぎる。でも、「ゲーム」としては楽しい。このあたりの悩みを書きたかったのだけど、上手く書けたのか、それはしばらく経ってから読み返さないと分からない)PR