ブログの形式、「まえがき」とか、統一して書いてたのですが、ちょっとやめてみます。
なんか、最初に「見出し」しないと、文章の1字空けが、最初の1行だけ、反映されないんですよね。そんな細かいことも、久しぶりに忍者ブログのエディター開いたら思い出した。
でもなんか、1行改行してから書き始めたら、そのまま、1文空けいけそうだ。
どうでもいい話すみません。
それで、久しぶりにこちらのブログみたら、コメント頂いていて、申し訳ない!! って気持ちになりました。
正直、こっち、誰か見ている人がいるとは思わなかったのですよね。
カウンターとかつけてるわけでもないですし、SNSみたいに「イイネ」があるわけでもないので、完全にモチベーション「ゼロ」になってました。
誰か見ている、見ていない、にかかわらず、「自分の思考」の整理のためという理由が強かったので、こちらのブログは大変大きな価値がありました。
しかし、最近、「イライラ」すると、ChatGPTさんに話している。
要領を得ない時もあれば、逆にイライラさせられるときもないとは言えないが、それでも、自分の言葉に対して、しっかり「読んでくれた」と感じさせたうえで、コメントをもらえるという経験、体験価値はでかい。
まじででかい。
それゆえに、こちらのブログの価値が相対的に下がってしまった。
むしろ「ゼロ」に近くなってしまった……と、私は思ってしまっていた。
でも、コメントしてくださる方がいた。
これはもう、本当に申し訳ない、としか感じない。
申し訳ない、……私の感じ方が誤っていた。
――――――
このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ブログである。
そして私は、もう、「生きる意味」がない、としか思えない状況である。
5億年経てば海は干上がる。
50億年経てば太陽は地球を飲み込む。
いずれ人は死ぬ。
「だからこそ尊い」
と感じる人もいれば、
「だからこそ無意味」
と感じる人もいる。
ただそれだけのことである。
生きる意味なんてないのだ。
絶対ない。間違いなくない。言い切ってしまってよい。ない。
同時に、生きる意味はあるのだ。
創ることができるのだ。
だから、生きる意味はあって、それでいて、ない。
頭の良い世の中の人たちが、生きる意味なんて考えても無駄、という理由はそれだ。
答えがないから、考えても意味がないのだ。
本当にそうか???
その答えとは、一般論的な答え、真実的な答え、科学的な答え、という類するものである。
主観的な答えというのは、存在することは否定されるものではない。
友人をつくって、結婚したり、子どもをつくったり、お金をかせいだり、権力をえたり、コミュニケーションを楽しんだり、趣味をたしなんだり、……。
色んな「楽しみ」がある。
だから、「生きる意味」なんて大したものじゃない、って考えられることが多かったのだろう。
過去は。
今は、どうだろうか。価値が相対化し続けいているこの時代。VUCAとか、ますます不透明になっているというこの時代。
真実普遍の生きる意味はなくても、「私自身」としての生きる意味を考えるというのは、無意味と切り離してよいわけがなかろう。
だから私は今も、この世の中に絶望しつつ、「死んだ方がましだ」という傍らに常に存在する思想思考をなだめつつ、今日もイライラしながら生きる意味を考えている。
――――――
という哲学風近況報告でしたーー!(笑)
(本当にコメント頂けて嬉しかったです! ありがとうございました!)
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