今日の一言「日記を書く頻度が増えてる」
1か月とか、2か月とか、簡単に過ぎていたころに比べると、ブログ書こうという気になる頻度が高まっている。
はっきり言ってしまえば、1年前ぐらいから始めたFF14の熱狂が冷めて、「ふつう」になったのだと思う。
ちょっと気がかりな……とか曖昧な言葉を敢えて使わずにいうと、人間関係とかで、気を遣わないといけなかったり、ムッとするというか嫌な気持ちになることが何度か起きてしまっているため、ちょっとログインするのとか躊躇われる。
躊躇いつつも、週間でやらないと手に入らない報酬などや、そもそもログインするのが習慣だったりしてログインしていたけれども、昨日から意識的にログインするのをやめてみた。
すると、すごく時間が「余った」感じがした。
音楽とか写真とかのファイルとかフォルダとか整理したり、アマゾンで欲しいもの物色したり、ユーチューブで動画みたり、久しぶりにarkやってみようかと起動しようとしたら、30GBぐらいアップデートがあった。ほんと重いゲームである。
最近回線が改善したので(結局ケーブルテレビ・有線となった)わりとダウンロードもすぐ終わった。けど、起動してみて、最初のグラフィック設定がやっぱり大変だった。
GTX3080というかなり良い部類のグラフィックボード使っていても、ファンが超高回転して悲鳴をあげるぐらいの重さ。
設定をみなおしたらまともになったけれども……。
そこに、ストーリーを一緒に楽しんでくれるフレンドや、エオルゼアでの世界のよいところをたくさん教えてくれる先輩ヒカセン(光の戦士)がいたから、のめり込めていたのだと思う。
ただ、「上手な戦い方」とか、週制限のアイテムを取らなきゃ、とか、最新のクエストを追わなきゃ……とかなってくると、やっぱり何か「ゲーム」感がすごく大きくなる。
「ゲーム」感とは、「作業感」とも言い換えられる。
序盤のストーリーは、あんまり意味がなくて作業感(お使い感)がすごくて不評だという意見が多い。
ただ、ボクはそもそもMMORPGというもの自体がほぼ初めてだったし、その「お使い」そのものも、世界観や地理を知るという目的の元、「操作を知る」ということにも繋がっていたから、むしろ楽しかった。
いまサブキャラでやってみたりすると、「ああ、新生のストーリーがつまらない、という人の言うことも分からないでもないな」という気にもなる。
いろんな意見の人がいる、いろんな感じ方の人がいる……。
これは実際そうなのだろうけど、ボクがさらに思ったのは、その「いろんな」というのは、「経験」や「環境」によるものが大きいのではないかということである。
「人間」
いろいろいるとはいえ、生物的にそんなに違いはない。同じ顔の人はいないけれども。
脳の構造も同じだ。
逆に、同じだから医学が成り立つ。みんな別々だったら、体系的な治療なんてできないだろう。
だから、どう過ごすか、何を経験するか、どういった習慣をもつか、ということが重要に思う。
30代前半までは全然変わってなかったのに……。
見た目的にもそれほど変化があるように思えない。
でも、数値上はやはり劣化している。
筋トレなどしなくなってから、2年経ったかな。ということで、5日前ぐらいから、夜寝る前の筋トレを徐々に再開した。
筋トレすることで健康が維持できるわけでもないかもしれないが、やらないよりはよいはずだ。
胃カメラを挿入されている時間、5分~10分らしいけれども、苦しい。
いま、あの想像以上の苦しみから解放されて、こうして文字を打てていること、それ自体が幸せと感じられるほどに。
いやほんと、物理的な、切り傷とかそういう痛みとは違うのである。「苦しい」のだ。
幼いころの喘息も苦しかった。ただ、それとも比較できない。
嘔吐感がずっと続く感じ。嘔吐……と聞くと、まぁ、そんなに苦しくなさそうに思える。
だが、嘔吐する一番苦しい瞬間がずっと続き、さらに体の中に異物が挿入されているゴツゴツ感というか、圧迫感もずっと続く……と書けば少しニュアンスが伝わるだろうか。
正直、何回かやってみたが、「この苦しみが続くなら早く死んだ方がましだ」と思う、何回も。
さすがに2回目からは、もすうぐ、もうすぐ、終わるから頑張ろう……と思えるようになったが、初回は、「ころしてくれえええ」と叫びたくなる。口から胃カメラ挿入されてるから叫ぶこともできないわけだが。
まぁ、おおげさと言われるかもしれない。実はそんなに苦しくないんじゃないかと思って、今回もやってみたが、いや、やっぱり苦しかったよ……(かっこ笑い)。
ふつうに大の大人が泣くもんね。涙が出るのは反射なのかもしれないけれど。
それで、さっき、何故「喘息」のことが浮かんだかと言うと、看護士さんが、挿入の最中背中をさすってくれたのであるが、それが、何だかすごく、少し苦しみが和らいだのである。
背中をさする……ということは、治療にも何も関係ないことな気がするわけであるけれども、間違いなく、苦痛の緩和という意味はあるのだなと知った。
そういえば幼いころ喘息になった時、母親が背中をさすってくれたりしていた。そのとき、苦痛が和らいだのかどうかはもう記憶がないのだけれども、きっと、少し楽になったことだろうと思った。
自分も覚えてないし、母親も覚えてないかもしれないが、それは次に会った時などでも伝えてみようと思った。
その時だした答えとして、ゲームとかたくさんして楽しむ、って、まさに子供っぽいものだった。
ただ実際今、30代になっても、結局その目的が間違いじゃなかった気がしてならない。
仕事してゲーム(「ゲーム」を娯楽全般に置き換えても成立するだろう)して美味しいもの食べてゆっくり寝て……を繰り返す。
ルーティン。平和。……言い換えれば堕落かもしれない。
人生は勝ち続けなければいけないのかもしれない。成長し続けなきゃいけないのかもしれない。
人間としての魅力というのは、そういうものだろう。
ただそうじゃない、普通の暮らしと言うのも案外悪くないのではないか。
何か、神からはいどうぞと与えられただけのものではないと思う。
これまでの色んな選択や、経験や、もちろん「運」もあったりして、今があると思える。
そして、今が、ボクが望んだ最高の完璧な望み……というわけでもなかったと思う。初恋の人と相思相愛になれて一戸建てとかっこいい車をガレージにおいて、息子と娘に恵まれて会社では頼りにされて……というそんな生活がもしかしてあったのかもしれない。
それと比べたら、今の生活は「普通の暮らし」なんかではなく、「どん底劣悪」な生活だ。
みじめで暗い、孤独で寂しい生活だ。
キルケゴール氏が推奨する生き方の一つに「倫理的な生き方」というのがある。
倫理的な生き方とは、「自分に関連する全ての事柄の責任を全て引き受けて、自分に起こるあらゆる可能性の中から、意識的な決断によって自分が正しいと思う自分を選択すること」であるという。
上の記述は、抜粋ではなく、ボクの理解によって分かりやすく書き換えている。
キルケゴール氏は、上の倫理的な生き方の上位概念として、神の前での生き方を提唱しているけれども、実際現代に生きるボクらには、せいぜい第二段階の倫理的な生き方が精いっぱいなんじゃないだろうか。
体重が増えた……というのも、自分の責任だ。
それはまぁ当たり前だけれども、人生が「楽しくない」と思うのもまた、自分の責任だと思えるかどうか。
貧乏だったり、異性に恵まれなかったり、仕事ができなかったり、そういったことも全部含めて「自分の責任だ」と思えるかどうか。
全部自分の責任だ……とするのは、何だか、「仕事の責任」という言葉が重くのしかかるように気分のよいものじゃあないけれど、でも、悪いことじゃないと思う。
だって、本当に誰か自分と関係ない誰かのせいなのであったら、コントロールできないし、改善もできないのだから。
タイムマシン、は魅力的かもしれない。でも、タイムマシンに乗れても、「自分」はそのままだ。老人になって、過去に行けたとしても、それは嬉しくない気がする。
タイムリープは魅力的かもしれない。
今の自分の記憶思考価値観をもったまま、過去の自分に入り込む。
しかし、二つ分からないことがある。まず、未来のそのままの自分はどうなるか。つまり、タイムリープした際に残された自分。その自分にとっては、別に何も変わらない人生がそのまま進むことになるのだろう。そんな自分は何も救われないのではないか。それとも、その自分はもう、「他人」だからどうでもいいと考えて切り捨ててしまってよいものか。
そうつまり、ボクはもうタイムリープしているのかもしれない。タイムリープしたけれども、「今」のボクはそのままなので、タイムリープも何も知らない。ふつーに時間が過ぎていくだけ……。
確かに未来の自分ではある一方で、違う記憶が入り込んでくるわけだ。その変容によって、元の自分はどうなるのか。記憶だけではなく、未来の自分の価値観はまた変わっているかもしれない。そうしたとき、元の自分との価値観の相反性があったら、それはどうなるのか。
テーゼとアンチテーゼが瞬時にまじわりジンテーゼになるのか。良く分からない。
なので、タイムリープができるからといって、手放しで飛びつくこともよいかどうか。
ここから導けるのは、やっぱり、時間は不可逆、として考えておいた方が健全だろう、ということだ。
しかし、時間が不可逆となると、やっぱり身体も、思考も衰えていくことは避けられない。
そうすると、さっき書いた通り、「倫理的な生き方」として、あらゆることを引き受けて、意識的に決断していく必要があると思う。
得られないことについて嘆き悲しみ続けることは不毛なことなのだ。
まえがき
前に記事を書いたのが、7月13日。まだ、2週間ぐらいしか経っていない。1か月とか、2か月とか、簡単に過ぎていたころに比べると、ブログ書こうという気になる頻度が高まっている。
はっきり言ってしまえば、1年前ぐらいから始めたFF14の熱狂が冷めて、「ふつう」になったのだと思う。
ちょっと気がかりな……とか曖昧な言葉を敢えて使わずにいうと、人間関係とかで、気を遣わないといけなかったり、ムッとするというか嫌な気持ちになることが何度か起きてしまっているため、ちょっとログインするのとか躊躇われる。
躊躇いつつも、週間でやらないと手に入らない報酬などや、そもそもログインするのが習慣だったりしてログインしていたけれども、昨日から意識的にログインするのをやめてみた。
すると、すごく時間が「余った」感じがした。
音楽とか写真とかのファイルとかフォルダとか整理したり、アマゾンで欲しいもの物色したり、ユーチューブで動画みたり、久しぶりにarkやってみようかと起動しようとしたら、30GBぐらいアップデートがあった。ほんと重いゲームである。
最近回線が改善したので(結局ケーブルテレビ・有線となった)わりとダウンロードもすぐ終わった。けど、起動してみて、最初のグラフィック設定がやっぱり大変だった。
GTX3080というかなり良い部類のグラフィックボード使っていても、ファンが超高回転して悲鳴をあげるぐらいの重さ。
設定をみなおしたらまともになったけれども……。
FF14について
やっぱり、基軸として、「ストーリーがソロでも普通に楽しい」というのが、ボクが続けられてきた理由だった気がする。そこに、ストーリーを一緒に楽しんでくれるフレンドや、エオルゼアでの世界のよいところをたくさん教えてくれる先輩ヒカセン(光の戦士)がいたから、のめり込めていたのだと思う。
ただ、「上手な戦い方」とか、週制限のアイテムを取らなきゃ、とか、最新のクエストを追わなきゃ……とかなってくると、やっぱり何か「ゲーム」感がすごく大きくなる。
「ゲーム」感とは、「作業感」とも言い換えられる。
序盤のストーリーは、あんまり意味がなくて作業感(お使い感)がすごくて不評だという意見が多い。
ただ、ボクはそもそもMMORPGというもの自体がほぼ初めてだったし、その「お使い」そのものも、世界観や地理を知るという目的の元、「操作を知る」ということにも繋がっていたから、むしろ楽しかった。
いまサブキャラでやってみたりすると、「ああ、新生のストーリーがつまらない、という人の言うことも分からないでもないな」という気にもなる。
いろんな意見の人がいる、いろんな感じ方の人がいる……。
これは実際そうなのだろうけど、ボクがさらに思ったのは、その「いろんな」というのは、「経験」や「環境」によるものが大きいのではないかということである。
「人間」
いろいろいるとはいえ、生物的にそんなに違いはない。同じ顔の人はいないけれども。
脳の構造も同じだ。
逆に、同じだから医学が成り立つ。みんな別々だったら、体系的な治療なんてできないだろう。
だから、どう過ごすか、何を経験するか、どういった習慣をもつか、ということが重要に思う。
筋トレを再開
先日健康診断に行って、腹囲が+5cm、体重が5kg増えている、気がした。一瞬でちゃんと教えてもらったわけじゃなかったからはっきりしていないけれども。30代前半までは全然変わってなかったのに……。
見た目的にもそれほど変化があるように思えない。
でも、数値上はやはり劣化している。
筋トレなどしなくなってから、2年経ったかな。ということで、5日前ぐらいから、夜寝る前の筋トレを徐々に再開した。
筋トレすることで健康が維持できるわけでもないかもしれないが、やらないよりはよいはずだ。
胃カメラ
健康と言えば、胃カメラをやったけれども、最初にやったのは5年前ぐらいで、3回目? 4回目ぐらいだけれども、やっぱり苦しい。つらい。(全身麻酔の場合は、眠って起きると終わってるらしいから余裕らしい)胃カメラを挿入されている時間、5分~10分らしいけれども、苦しい。
いま、あの想像以上の苦しみから解放されて、こうして文字を打てていること、それ自体が幸せと感じられるほどに。
いやほんと、物理的な、切り傷とかそういう痛みとは違うのである。「苦しい」のだ。
幼いころの喘息も苦しかった。ただ、それとも比較できない。
嘔吐感がずっと続く感じ。嘔吐……と聞くと、まぁ、そんなに苦しくなさそうに思える。
だが、嘔吐する一番苦しい瞬間がずっと続き、さらに体の中に異物が挿入されているゴツゴツ感というか、圧迫感もずっと続く……と書けば少しニュアンスが伝わるだろうか。
正直、何回かやってみたが、「この苦しみが続くなら早く死んだ方がましだ」と思う、何回も。
さすがに2回目からは、もすうぐ、もうすぐ、終わるから頑張ろう……と思えるようになったが、初回は、「ころしてくれえええ」と叫びたくなる。口から胃カメラ挿入されてるから叫ぶこともできないわけだが。
まぁ、おおげさと言われるかもしれない。実はそんなに苦しくないんじゃないかと思って、今回もやってみたが、いや、やっぱり苦しかったよ……(かっこ笑い)。
ふつうに大の大人が泣くもんね。涙が出るのは反射なのかもしれないけれど。
それで、さっき、何故「喘息」のことが浮かんだかと言うと、看護士さんが、挿入の最中背中をさすってくれたのであるが、それが、何だかすごく、少し苦しみが和らいだのである。
背中をさする……ということは、治療にも何も関係ないことな気がするわけであるけれども、間違いなく、苦痛の緩和という意味はあるのだなと知った。
そういえば幼いころ喘息になった時、母親が背中をさすってくれたりしていた。そのとき、苦痛が和らいだのかどうかはもう記憶がないのだけれども、きっと、少し楽になったことだろうと思った。
自分も覚えてないし、母親も覚えてないかもしれないが、それは次に会った時などでも伝えてみようと思った。
意外と書くことあるな
中学生ぐらいのときから、生きる目的とか何だろうって思っていた。その時だした答えとして、ゲームとかたくさんして楽しむ、って、まさに子供っぽいものだった。
ただ実際今、30代になっても、結局その目的が間違いじゃなかった気がしてならない。
仕事してゲーム(「ゲーム」を娯楽全般に置き換えても成立するだろう)して美味しいもの食べてゆっくり寝て……を繰り返す。
ルーティン。平和。……言い換えれば堕落かもしれない。
人生は勝ち続けなければいけないのかもしれない。成長し続けなきゃいけないのかもしれない。
人間としての魅力というのは、そういうものだろう。
ただそうじゃない、普通の暮らしと言うのも案外悪くないのではないか。
普通の暮らし
ただ、思うに、そのボクが今できている「普通の暮らし」というものを得るためには、「色々あった」と思わざるを得ない。何か、神からはいどうぞと与えられただけのものではないと思う。
これまでの色んな選択や、経験や、もちろん「運」もあったりして、今があると思える。
そして、今が、ボクが望んだ最高の完璧な望み……というわけでもなかったと思う。初恋の人と相思相愛になれて一戸建てとかっこいい車をガレージにおいて、息子と娘に恵まれて会社では頼りにされて……というそんな生活がもしかしてあったのかもしれない。
それと比べたら、今の生活は「普通の暮らし」なんかではなく、「どん底劣悪」な生活だ。
みじめで暗い、孤独で寂しい生活だ。
選択するということ
FF14をやめたことで、時間ができたので、キルケゴール氏に関連する本を読んでいた。キルケゴール氏が推奨する生き方の一つに「倫理的な生き方」というのがある。
倫理的な生き方とは、「自分に関連する全ての事柄の責任を全て引き受けて、自分に起こるあらゆる可能性の中から、意識的な決断によって自分が正しいと思う自分を選択すること」であるという。
上の記述は、抜粋ではなく、ボクの理解によって分かりやすく書き換えている。
キルケゴール氏は、上の倫理的な生き方の上位概念として、神の前での生き方を提唱しているけれども、実際現代に生きるボクらには、せいぜい第二段階の倫理的な生き方が精いっぱいなんじゃないだろうか。
体重が増えた……というのも、自分の責任だ。
それはまぁ当たり前だけれども、人生が「楽しくない」と思うのもまた、自分の責任だと思えるかどうか。
貧乏だったり、異性に恵まれなかったり、仕事ができなかったり、そういったことも全部含めて「自分の責任だ」と思えるかどうか。
全部自分の責任だ……とするのは、何だか、「仕事の責任」という言葉が重くのしかかるように気分のよいものじゃあないけれど、でも、悪いことじゃないと思う。
だって、本当に誰か自分と関係ない誰かのせいなのであったら、コントロールできないし、改善もできないのだから。
時間という概念
ハイデガーでも読まないといけないのかもしれないけれど、難しいことは分からないし理解できないので、要するに、時間は不可逆ということ。タイムマシン、は魅力的かもしれない。でも、タイムマシンに乗れても、「自分」はそのままだ。老人になって、過去に行けたとしても、それは嬉しくない気がする。
タイムリープは魅力的かもしれない。
今の自分の記憶思考価値観をもったまま、過去の自分に入り込む。
しかし、二つ分からないことがある。まず、未来のそのままの自分はどうなるか。つまり、タイムリープした際に残された自分。その自分にとっては、別に何も変わらない人生がそのまま進むことになるのだろう。そんな自分は何も救われないのではないか。それとも、その自分はもう、「他人」だからどうでもいいと考えて切り捨ててしまってよいものか。
そうつまり、ボクはもうタイムリープしているのかもしれない。タイムリープしたけれども、「今」のボクはそのままなので、タイムリープも何も知らない。ふつーに時間が過ぎていくだけ……。
二つ目のタイムリープ
もう一つの疑問として、タイムリープ「された」側のことだ。確かに未来の自分ではある一方で、違う記憶が入り込んでくるわけだ。その変容によって、元の自分はどうなるのか。記憶だけではなく、未来の自分の価値観はまた変わっているかもしれない。そうしたとき、元の自分との価値観の相反性があったら、それはどうなるのか。
テーゼとアンチテーゼが瞬時にまじわりジンテーゼになるのか。良く分からない。
なので、タイムリープができるからといって、手放しで飛びつくこともよいかどうか。
ここから導けるのは、やっぱり、時間は不可逆、として考えておいた方が健全だろう、ということだ。
しかし、時間が不可逆となると、やっぱり身体も、思考も衰えていくことは避けられない。
そうすると、さっき書いた通り、「倫理的な生き方」として、あらゆることを引き受けて、意識的に決断していく必要があると思う。
得られないことについて嘆き悲しみ続けることは不毛なことなのだ。
あとがき
(かっこ書きである。うーん、なんか、他に書くことすらあった気がする。意外に書くことあったな、と思う。面白いかどうかは、別として。ああ、一つ思い出した。自分の過去記事の音読をふと耳に入って、面白かったのだ。書いていた当時の自分としては、「くそつまんねぇ」って思いながら書いていたのだから、そのギャップも面白かった。なんて記事だっけかなぁ……。メモしないともう最近すぐ忘れる。生きる意味を考えることの意味……だっけ。違う、思い出した、「思考することの意味について」だ。これ、ほんと「ふむふむ!」って思いながら聞いていた。自分の記事なのだが、ただ、2017年の記事だ。5年前ぐらい。もう5年も前になると、別の自分といっていいぐらいである。だからさっきのタイムリープの話題的に、今のボクが5年前のボクに上書きしちゃったら、5年前の自分が、この記事を書くマインドも消えてしまったということであろう。それは何か、もったいないというか、何というかよくないことに思えた。だから、時間は不可逆でいいんじゃないかと、そう今は思った。さらに5年後はどう思うか、分からない。生きてないかもしれないし。だから、ボクは、何か他人に語り聞かせられるようことは何もないけれども、自分について「書くこと」自体は、無意味じゃないんだよと、そう教えてあげたい。今も、毎日日記書いてる方も、週一で更新している方も知っている、読ませて頂いている。すごい。ボクよりすごい取り組みをしている方に対しては上から目線みたいになってしまい恥ずかしいが、それはすごいことだし、意味のあることだからこれからも続けた方がいい、と伝えたい。そして、前に日記書かれていて、やめてしまったり消してしまった(のか、ボクがそれを追うすべを見失っただけなのか)方も知っている。また再開したのだったら教えて欲しい)PR
今日の一言「24時過ぎてしまう」
その傾向は変わっておらず、むしろ今回、「まとめ買い」というのをした……。
1万5千円ぐらいを一気に使った気がする。
ファブルという、22巻かな? 完結、している作品。
1冊漫画って、600円ぐらいかな。すると、1万5千円だと、ちょっと高いかな。
まぁでも、紙で保管する必要もないし、いつでも手軽に読めるしで、多少価格が高いのは良い気もする。
感想は、面白かった。ピッコマというサイトは、ちょくちょくと、まてば0円という仕組みがあって、1日まつとチャージされて無料で読める、のだけれども、途中までだ。
途中までは無料なのだけれども、ある一定の話からは有料になる。
有料になったところで、読むのをやめていたのだけれども、1か月、2か月して、やっぱり続きが気になって読み始めたら、もうとまらずに、「まとめ買い」したということである。
主人公は殺し屋なのだけれども、ボスの命令で、人を殺すな、とされて、一般人の生活に溶け込むようにするのだが……という話の流れ。
いま書いていて思ったけれども、「フルメタルパニック」の相良宗介みたいだなと思ったりした。
少し、一般人の常識からズレているところも似ている。そしてめちゃくちゃ強い。でも、憎めないところがある、そんな感じ。
フルメタ懐かしいなぁ。2、3回は見返した気がする。全然タッチは違うのだけれども、10年も前の完成と、やはり「面白い」と感じる感覚、価値観は変わらないのだろうか。
ゆうてみたら、「面白かった」以上。であるのだ。
こねくりまわした言葉で表現などできるはずはない。まずは読め、ということになる。
でも、私が「面白い」と思うストーリーは、やっぱり、伏線が見事に回収されていったり、スケールが徐々に大きくなっていく、という感じはある。
伏線の回収というのも、ミステリーの謎、というだけじゃなくて、登場人物の行動のきっかけとなるエピソードや、理屈、考え方、などがストーリー進行の妨げにならない程度で語られていくとよい。
あと、ベタ、かもしれないけれども、強い「敵」や、最初反目していた相手が味方になったり、すると熱い、って感じがする。
これ、絵がカワイイ、ぐらいで読み始めた感じだったが、意外とギャグだけじゃなくて、ストーリーもしっかりしていた。続きが気になる。まとめ買いしちゃうとしたら、次はこの作品な気がする。でも、この作品は単価がやや高くて、ちょっと考えてしまっている。
まえがき
最近、ピッコマというサイトで漫画を読む機会が多くなったと先日書いたところである。その傾向は変わっておらず、むしろ今回、「まとめ買い」というのをした……。
1万5千円ぐらいを一気に使った気がする。
ファブルという、22巻かな? 完結、している作品。
1冊漫画って、600円ぐらいかな。すると、1万5千円だと、ちょっと高いかな。
まぁでも、紙で保管する必要もないし、いつでも手軽に読めるしで、多少価格が高いのは良い気もする。
ファブル感想
殺し屋の話である。感想は、面白かった。ピッコマというサイトは、ちょくちょくと、まてば0円という仕組みがあって、1日まつとチャージされて無料で読める、のだけれども、途中までだ。
途中までは無料なのだけれども、ある一定の話からは有料になる。
有料になったところで、読むのをやめていたのだけれども、1か月、2か月して、やっぱり続きが気になって読み始めたら、もうとまらずに、「まとめ買い」したということである。
主人公は殺し屋なのだけれども、ボスの命令で、人を殺すな、とされて、一般人の生活に溶け込むようにするのだが……という話の流れ。
いま書いていて思ったけれども、「フルメタルパニック」の相良宗介みたいだなと思ったりした。
少し、一般人の常識からズレているところも似ている。そしてめちゃくちゃ強い。でも、憎めないところがある、そんな感じ。
フルメタ懐かしいなぁ。2、3回は見返した気がする。全然タッチは違うのだけれども、10年も前の完成と、やはり「面白い」と感じる感覚、価値観は変わらないのだろうか。
どう面白かったか
感想を書くというのは難しいことである。ゆうてみたら、「面白かった」以上。であるのだ。
こねくりまわした言葉で表現などできるはずはない。まずは読め、ということになる。
でも、私が「面白い」と思うストーリーは、やっぱり、伏線が見事に回収されていったり、スケールが徐々に大きくなっていく、という感じはある。
伏線の回収というのも、ミステリーの謎、というだけじゃなくて、登場人物の行動のきっかけとなるエピソードや、理屈、考え方、などがストーリー進行の妨げにならない程度で語られていくとよい。
あと、ベタ、かもしれないけれども、強い「敵」や、最初反目していた相手が味方になったり、すると熱い、って感じがする。
見える子ちゃんも面白い
あと、前書いたか覚えていないけれども、見える子ちゃんという作品も面白い。これ、絵がカワイイ、ぐらいで読み始めた感じだったが、意外とギャグだけじゃなくて、ストーリーもしっかりしていた。続きが気になる。まとめ買いしちゃうとしたら、次はこの作品な気がする。でも、この作品は単価がやや高くて、ちょっと考えてしまっている。
あとがき
(かっこ書きである。10分ぐらいで、このぐらいは書けるけれども、すごーっく物足りない気持ちになる。自分の感情の1%も表現できていないのではないか。まぁその、そういうアウトプットをする方法として、0秒思考的な記述方式、があるわけであるけれども、読んでいて、読み返して、面白いかどうかは別の話だ。ただ、「メモ」的な意味はあると思う。今日この日(といってももう日付は変わってしまったが)ファブルという漫画を一気読みした(たぶん5時間以上費やしただろう)ことは、記録の意味はあると思う。本当は、先日内視鏡検査をやって、たぶん、3回目? ぐらいになるけれども、やっぱりものすごく苦しかったから、そのことを書こうかとも思ってはいた。いやほんと、苦しいっす。この苦しさがずっと続くなら死んだほうが良いって思いますね。ってほどである。外的な痛み、というよりも、体の中での痛みというか、嘔吐感がきつい。胃を空気で膨らませるときもきつい。これは慣れないな……。しかし、この苦しみを味わうと、何故か、身体をいたわろう、という気持ちにはなる。「身体」というものを強く認識する。「思考」が、考えることがとても大事と思われがちな世の中だけれども、やっぱり起点となるのは身体なんだな、と思う。空の思想だー、執着を捨てよー、我を滅せよ―と言っても、やっぱり痛いし、苦しいし、自分を捨てるのは難しいことだ。ゴウタマ氏が尊敬されるのは、何年も苦行で生死を彷徨うほどの修行も積んだうえでのお言葉であるからだ。単に、よいところの豪族のぼっちゃんが、思想を説いたとて、多くの人の心はうたなかったろう。いっぽうで、ゴウタマ氏のやっぱりすごいところは、出自的な意味でも恵まれているのは、酒池肉林(美味しい食べ物や美しい女性)も味わったうえで、「いややっぱり人って死ぬじゃん?」って思って出家したことである。貧乏童貞が、色欲は滑稽である……とか言っても、やっぱり説得力ない気がする。偏見だが。「誰が言ったか」というのは、何だか、真理から遠くて、あいまいで、不確かで気持ち悪い仕組みに思うけれども、同じことを目指すのでも言うのでも、「誰が」という点は無関係ではないと思う)
今日の一言「ただ生きる」
「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。
まえがき
ロシアのウクライナ侵攻にも驚いたけれども、元首相の殺害というのも驚いた。「日常」
というのは、簡単に崩れるというのは、「分かっていた」けれども、やっぱり、いざ起こってみないと分からないものだと思う。
「かもしれない」
ということを、過度に恐れすぎると、過敏神経症だし、楽観的過ぎると、危機管理能力のなさを責められる。
要するに、「バランスの取れた」ことが大事だ。
中庸……? バランスの取れた、って、日本語でなんていうんだろうか。
適度に。
ちょうどよく。
言うのは簡単で、実際どうしていいか分からない曖昧な言葉。
曖昧さの許容
はっきりしたことが好きだ。1か、0の世界がよい。
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
心地よいか悪いか。
でも、自然は、社会は、世界は、そういうものじゃない。混沌こそが世界の本質に思われる。
先行きの不透明感は怖い。避けたい。自分が死ぬなんてこと考えたくもない。そう思ってしまう気持ちは分かるし、自分もそんな凡人の一人だろう。
でも、カオスを、カオスなものだと受け入れられなければ、「生きづらさ」というのは永遠に続くものだろう。
ありがたいことに、人間は、「忘れる」という能力がある。
これは、よいことだ。
大切な人のロストも、いつかは忘れることができるのだ。
中々忘れられずに、そのロストが、永遠に続くかのように思われる……。
そういう気持ちもまた、人間の心というものだから、「文学」として成り立つ。
そういう場合もあるだろう。ただ、そうじゃないことだってある。
そうじゃなきゃ、失恋した人みんな、若きウェルテルの悩みみたいになってしまう。
自分のできることは何だろうか
結婚も、子どもも、仕事でも自己実現できてない中年はどう生きたらいいのか、といったブログ記事を知った。某シロクマ氏の記事の引用から。
趣味に生きても、それもむなしくなっちゃったそうな。ゴールデンウィークも何も楽しくなかったそうな。
素直に、かわいそう、と、残酷な同情を思う。
一方で、私もまた、同じようなことを感じていたこともあるし、今も、「日常」が簡単に崩れて、そんな風に思う日常を送ることになるかもしれない。
それでも、ボクは、こうして書いていられる場所があったし、「読んでるよ」「見てるよ」って反応してくださる方もいた。
きっと繰り返しになるけれども、僕は、「完全に孤独」ではなかった。
学生時代だって友人と呼べる人は1人、2人とかじゃあなかった。
恋人がいたことだってあった。
そんな風に書くと、「おまえは恵まれてる人間だ。俺とは違う」といって、聞く耳をもたなくなってしまう人も多いだろう。
でも、「哀しい気持ち」や「無力な気持ち」「焦り」「不安」「無気力」「怒り」「虚しさ」「孤独感」様々なネガティブな気持ち、それらは「あった」し、「(架空の)お前ら」に分かるはずはない、と思う。
痛みのクオリアの存在を証明するのは難しい。その痛みとは、物理的な痛みもそうだろうし、精神的な痛み、というもの。これもあると思う。
同じ境遇で、同じ出来事であったとして、それでも、その「痛み」の度合いは違うだろう。
だから、所詮は、「人の気持ち」は分かりようがない。
自分も他者も信じ尽くす
表現は違うけれども、昔、思考の師匠ともいえる人……もう今は交流することもかなわないし、それを望むこともないけれども、彼が言っていたのは、「神の真似をする」ということだったと思う。僕の言葉で表現すれば、とにかく人を信じて信じ尽くすということだ。
どこまでも白く白くあり続ける。白過ぎて、何色でも染まり結局黒くなるように。
こだわりを捨てる
中年で子供も結婚も仕事もダメで……という人に、僕がかけられる言葉はない。ないけれども、何とか、幸せに生きて欲しいなとは思った。
リアルな友人との交流がなくても、恋人がいなくても、心から落ち着いて平穏に過ごせるということが分かったから。
というよりも、むしろ、そういうこと自体が、いっさい頭から消えているという方が正しい。
空の思想を学ぶとよいかもしれない。
こだわりを捨てる……というのは、こだわりを捨てようとすることすら捨てるのである。
かといって、「美味しい」ものを食べて知ってしまって、それが食べられなくなったことでそれを希求してしまうという心を、簡単に手放すのは難しいだろう。
だから、どっちにしても、簡単なことなんてない。
僕だって、ここにこうやって書いてきたこと以上に、考えたり書いたりしてきた結果が、よいことも悪いこともあっただろうけれども、寄与していると思われる。
ただ、「無駄な努力」はしない方が良いと思う。
「やりたいこと」
を目指して、それを思いっきりやるのは大事だけれども、キモオタデブが、ガッキーと結婚したいと思って頑張ったところで、それはむなしい努力だ。
理想を下げる
「幸せ」とは何か?これの定義は、僕は、理想と現実との差異が少ないこと、と何度も言っている気がする。
では、この、幸せを目指すにどうしたらよいか。
現実を向上させるのは一つの方法だ。それを努力と呼び変えても良い。
一方で、「理想を下げる」というのも一つの方法だろう。
どちらの方法も重要だ。
先日、1000日間? 休みをした結果どうなったか、みたいなエッセイを読んだ。キンドルで買って。
中々面白かった。だんだん「自分」というものをそぎ落としていくような経過に思われた。
結果的にその人が今どうなって、幸せになったのか、後悔したのか分からないけれども、仕事も何も辞めて、何もしないで過ごすことになると、どうなるのかという実験記録みたいなものに思われた。
一つ、人間に、与えられた特権として、「時間」が有限なことだ。
神は永遠に生きるのかもしれない。それはきっと、人間程度の精神だときっとめっちゃきつい。
いつか消えてなくなることが可能というのは、「怖い」ことでもあって、救いでもある。
「幸せ」
な状態であれば、ずーーっと、永遠に続いてほしいと思うだろう。
でも、老化もすれば、具合も悪くなる。
仮に、不老で病気もなにもならないとしても、今度は「飽き」という問題が生じる。
何億年も生きている内に、当初もっていた「自分」という信念や価値観やその他「心」は変容しているはずである。
それは、「自分」といえるのか。
逆に、「自分」が何も変わらないでいるとする。そうすると、「飽きる」。
美味しいチョコレートも、1口目は美味しくても、100粒食べることには飽きている。
1週間というスパンで繰り返せば飽きない、かもしれない。
でも、何億年、という単位で考えると、果たしてどうか、とはなる。
思考実験なので分かりようもないけれども、ただ、「死」というのが、必ずしも悪いものではない、と思われる、ということだ。
いつかは死ぬということ
まぁ、最高の状態で、永遠に生きられる、という、よく想像すらできないことが可能だとすれば、「死」は、悪いものだろう。ただ、取り敢えず信じられることとして、この先、100年、200年程度で、その「最高の永遠」が実現するとは、到底信じられない。
であれば、とりあえず、80年ぐらいで、「死ぬ」と考えた方がよいだろう。
さらに、「老化」という状態も避けられないと考えた方がよいだろう。
そうしたとき、死なずに、苦しみや痛みや、何もかもが付随しながら続いていくというのはやっぱりつらい気がする。
望むらくは、眠るように死ぬことだ、が、最近暑いせいか目覚めが悪い……というのは話の脱線だ。
あとがき
(かっこ書きである。書くまでが長いのだけれども、書き始めると、あっという間に時間が過ぎるなぁ。それにしても、自分が苦しいからと言って、周りの人たちも全員滅ぼしてしまおうという思想はやっぱり許されないと思う。かといって、「復讐」という概念は、わりかし多くの人に認められている気がする。この「全員死ね」という過激思想というのも、結局のところ、「バランス」問題な気がしてならない、と思うのは、やっぱり僕が少し変だからかもしれない。要するに、「無関係」な人まで巻き添えにするということに「抵抗」はある一方で、その「無関係」を厳密に定義しようとすると難しい、ということである。自分が不幸なのは親のせいだ……とするのと、自分が不幸なのはこの社会(全体)のせいだ、と考えたら、世界よ滅べ、と思うだろう。世界よ滅べ、というのは過激であるが、その親が、児童虐待とかする親だったら、同情が集まるかもしれない。世界よ滅べ、というのも、ピッコマというサイトで漫画読んだけれども、名前忘れたのだけれども、魔女(たくさんいる)と人類が共存する世界で、人類が魔女を虐げるようになって、とある魔女に育てられた弟子(人間)が、育ての親の魔女が、辱められ、殺されたことで、人類に復讐を誓う。そして、人類に反撃し始めて、たくさん殺す。直接、育ての親を犯し殺した相手じゃない、一般市民も、その標的だ。魔女を滅ぼそうとした人類自体が憎いのだ。敵なのだ。……というストーリーだと、人類よ、世界よ滅べ思想も分からなんでもない、と思うのかもしれない。ボクはその漫画は、残念ながらあまり面白いと思えず辞めてしまったけれども。エンタメと現実を一緒にするな、というのもあるけれども。思想、思考というのは、そもそもありもしないことでも考えるものなのだから仕方がない。そして、「物理世界」というのは確かに存在するものの、「価値世界」「創造世界」で成り立っている部分もある。お金とかそうである。紙幣。仮想通貨。銀行に預けているお金をそのまま紙幣にするだけ、物理的に存在していない、という話ではなくて。そもそも、「お金」が物を交換するに値する「価値」があるということを、みんなが共同に信じているからこそ、貨幣世界が成り立っているのである。法律は絶対正しい、とみんな信じているから、死刑が許されるのである。ただ、ルールは、そもそもは、「多くの人」を幸せにするためにあるはず、という前提を忘れてはいけない。多くの人を不幸にするだけのルールは、排除されるべきである。問題は、まさにそこだ。「多く」というものに、自分は含まれるのかどうか。そこが非常にあいまいなところである。ただ、銃規制はしてもよいと思う。銃を販売する会社に勤めていたら、銃規制なんてとんでもない、と思うことだろうけれども、やはり武器が出回ってる方が危険なのは間違いない。いや、深い思考も何もないけれど。でも、当たり前に危険だ。ナイフよりマシンガンの方が人を殺すのは簡単そうだから。ナイフだって危険だ、使う人が問題だ、という意見もあるだろうし、一理あるのは事実だ。銃が危険なのではなく、銃を使う人が危険なのだ。とはいえ。やっぱり銃が簡単に手に入ったら、人を殺しやすいだろう。ドリフターズ? だっけ。また漫画の話だけど、銃の良さは、「手軽」であるということだ。槍で突き刺すより、引き金を引くだけで、というのは手軽だ。大丈夫だと思う、銃規制して、50年ぐらいしたら、それがきっと当たり前になるだろう。みんな慣れる。コロナでオンライン会議とか普通になったけれども、みんな慣れた。そういうもの。年を取ると新しいことになじみづらくなるのは間違いなかろうけれど、それでも、慣れるものは慣れる。英語しかみんな話さなくなったら、と考えるとやっぱり抵抗はすごいけれども、でも、スーパーで買い物するくらいはすぐにできるようになる気がする。すぐにといっても、1年ぐらいかかるだろうが。そもそも、複雑なやり取りというのは、果たして、現実でどれほどあるだろうか。そんなに必要だろうか。長いね、もう終わるね)
今日の一言「承認欲求は難しい」
仕事中もゲームのことや、そこで出会った人たちのことを考えてしまうぐらいのめり込んでいた時期もあった。
約1年が経って、心境や、置かれた環境なども変わったことが原因に思われる。
はじめたことろは、何が正しいのか、誤っているのかも分からず、そして、その世界で何ができるのかも分からなかった。
出会った人や、眼前に広がる景色などに、単純に感動していたのだ。
今は、それらがなくなったと……なくなった、というと語弊があるのだろうけれども、当初ほどの感動は得られることがなくなった。
先日、新しいコンテンツをクリアした、ものの、同じダンジョンを何度も繰り返しやっていたころの方が感動があった気がする。
ここで問題視というか不思議と考えるべきは、「繰り返し」自体が問題ではない、ということだ。
同じことを何度もやってると、誰でも飽きる。
ただ、今回は、新しいコンテンツだったのに、「同じこと」という感覚があったのだ。
敵の攻撃パターンや、ストーリー、マップ、一緒に行った仲間……そのすべてが「別」であったのに、「同じこと」と感じてしまうこの感覚は何なのか。
自己啓発本の種類はたくさんある。一時期たくさん読んでいた。それが、そのうち、何を読んでも段々同じように感じるようになった。ジャンルは異なっても、「成長」という概念でひとくくりにできるように思ってしまったのだ。
良質な睡眠のとり方。
効率的な記憶術。
コミュニケーション能力の向上。
感情をコントロールする方法。
図解思考になる方法。
感動させる文章の書き方。
ジャンルは色々あって、それらは全く傾向が異なるし、書いてる内容も当たり前に違う。
それでも、「今の自分を変えて、成長させる」という目的では一致しているように思われる。
そんな風に感じてしまうと、何を読んでも「同じようなこと」と感じるようになってしまう。
今回取り上げているオンラインゲームも同じようなことが起きているのかもしれない。
ただ、根本的に、新しいことに対してのドキドキ感が、あんまり得られていない。
思い切って、離れてみるのも手なのかもしれない。
月額課金のゲームのため、やってもやらなくてもお金はかかるけれども。
ただ、その程度のお金は、ちょっと高いお寿司を食べに行くのを我慢すれば余裕である。
最近、回線の変更をしたけれども、失敗だった。この話もいつかしようと思うが、結局、解約した。解約金は2万円ぐらいかかったけれども、とても耐えられる品質じゃなかったので、後悔は特にない。解約したことについての後悔はない。契約したことについては……しかし、いろいろ吟味して決定したことだから、それも後悔はない。運が悪かった……といえばそれまでだが、見込み違いだったのは仕方がない。
まぁそんなわけで、お金的な心配はともかくとして、休止するのはありかもなとは思った。
「惰性」でログインはしてしまうのであるけれども、何か「したい」ということが見当たらない。「したい」とか、誰かと話したいとかもあんまり、ない。
いや……話したいという気持ちはあって、アプローチしても、その反応が期待どおりではない、といった方が正しいか。そんな、自分の望む反応をされなかったから機嫌が悪くなるほど子どもではないから、別に変な態度をとるつもりはないけれども、なんか「つまらないな」とは思ってしまう。
もともと、想定していた。そうなるんじゃないかと思っていた。だから、それ(現在公開されている最新のストーリーまで進めたこと)が原因だとしたら、別に不思議はない。
ただ、現状起こった事態を、「ああ、そうそう。やっぱりね」みたいに、どこか他人事のように、批評家気取りでいるのは、まったく愚行と思われる。
1年前の……その、めちゃくちゃのめり込んで楽しんで感動していた、その気持ちを、得るための方法を考えたいと思うわけである。
楽しいことばかりではなかったものの、ひとくくりに、「楽しかった」といえた日々。
今にして思えば、めちゃくちゃつまらなかった学生時代などなど。
「めっちゃ楽しい」と思えた日々と比べたら、衝撃的である。
まさかこんな日々が自分に訪れるなんて思ってもみなかった、といっても過言ではないだろう。
そして、それを過去のこととして、もう、同じような感動は得られないと諦めてしまうのは、単純にもったいない気がする。
まえがき
眠れない夜は、書くことがよいというのは、このブログを続けてきて学んだことの一つだ。人間関係が面倒なのか
何か特別な問題が起きているわけではないけれども、オンラインゲームしていて、以前より楽しめてないな、と感じることが大きくなった。仕事中もゲームのことや、そこで出会った人たちのことを考えてしまうぐらいのめり込んでいた時期もあった。
約1年が経って、心境や、置かれた環境なども変わったことが原因に思われる。
違うことなのに同じように思ってしまう
まず、「初心者」ではなくなったことだろう。はじめたことろは、何が正しいのか、誤っているのかも分からず、そして、その世界で何ができるのかも分からなかった。
出会った人や、眼前に広がる景色などに、単純に感動していたのだ。
今は、それらがなくなったと……なくなった、というと語弊があるのだろうけれども、当初ほどの感動は得られることがなくなった。
先日、新しいコンテンツをクリアした、ものの、同じダンジョンを何度も繰り返しやっていたころの方が感動があった気がする。
ここで問題視というか不思議と考えるべきは、「繰り返し」自体が問題ではない、ということだ。
同じことを何度もやってると、誰でも飽きる。
ただ、今回は、新しいコンテンツだったのに、「同じこと」という感覚があったのだ。
敵の攻撃パターンや、ストーリー、マップ、一緒に行った仲間……そのすべてが「別」であったのに、「同じこと」と感じてしまうこの感覚は何なのか。
自己啓発本的な原因だろうか
例えば。自己啓発本の種類はたくさんある。一時期たくさん読んでいた。それが、そのうち、何を読んでも段々同じように感じるようになった。ジャンルは異なっても、「成長」という概念でひとくくりにできるように思ってしまったのだ。
良質な睡眠のとり方。
効率的な記憶術。
コミュニケーション能力の向上。
感情をコントロールする方法。
図解思考になる方法。
感動させる文章の書き方。
ジャンルは色々あって、それらは全く傾向が異なるし、書いてる内容も当たり前に違う。
それでも、「今の自分を変えて、成長させる」という目的では一致しているように思われる。
そんな風に感じてしまうと、何を読んでも「同じようなこと」と感じるようになってしまう。
今回取り上げているオンラインゲームも同じようなことが起きているのかもしれない。
熱量を取り戻す方法はあるのか
欲しかったおうちが抽選ではずれたとか、人間関係でこじれてしまったとか、欲しい装備を間違って捨ててしまった(ロット間違えた)とか、直近で起きたいろいろ、大小できごとも無関係ではない気はする。ただ、根本的に、新しいことに対してのドキドキ感が、あんまり得られていない。
思い切って、離れてみるのも手なのかもしれない。
月額課金のゲームのため、やってもやらなくてもお金はかかるけれども。
ただ、その程度のお金は、ちょっと高いお寿司を食べに行くのを我慢すれば余裕である。
最近、回線の変更をしたけれども、失敗だった。この話もいつかしようと思うが、結局、解約した。解約金は2万円ぐらいかかったけれども、とても耐えられる品質じゃなかったので、後悔は特にない。解約したことについての後悔はない。契約したことについては……しかし、いろいろ吟味して決定したことだから、それも後悔はない。運が悪かった……といえばそれまでだが、見込み違いだったのは仕方がない。
まぁそんなわけで、お金的な心配はともかくとして、休止するのはありかもなとは思った。
「惰性」でログインはしてしまうのであるけれども、何か「したい」ということが見当たらない。「したい」とか、誰かと話したいとかもあんまり、ない。
いや……話したいという気持ちはあって、アプローチしても、その反応が期待どおりではない、といった方が正しいか。そんな、自分の望む反応をされなかったから機嫌が悪くなるほど子どもではないから、別に変な態度をとるつもりはないけれども、なんか「つまらないな」とは思ってしまう。
漸近的な努力
話をタイトルに無理やりもっていくと、最新のコンテンツまで追い付いたことで、当初想定していた「燃え尽き症候群」的なのが発生しているのだろうと思う。もともと、想定していた。そうなるんじゃないかと思っていた。だから、それ(現在公開されている最新のストーリーまで進めたこと)が原因だとしたら、別に不思議はない。
ただ、現状起こった事態を、「ああ、そうそう。やっぱりね」みたいに、どこか他人事のように、批評家気取りでいるのは、まったく愚行と思われる。
1年前の……その、めちゃくちゃのめり込んで楽しんで感動していた、その気持ちを、得るための方法を考えたいと思うわけである。
楽しいことばかりではなかったものの、ひとくくりに、「楽しかった」といえた日々。
今にして思えば、めちゃくちゃつまらなかった学生時代などなど。
「めっちゃ楽しい」と思えた日々と比べたら、衝撃的である。
まさかこんな日々が自分に訪れるなんて思ってもみなかった、といっても過言ではないだろう。
そして、それを過去のこととして、もう、同じような感動は得られないと諦めてしまうのは、単純にもったいない気がする。
あとがき
(かっこ書きである。うーん。まとめられない……。まぁいつものことか。文章を書くというのは非常に難しいことであるなぁ。そもそも、どんなに完璧! と思って文章を書いたとしても、そこから零れ落ちる感情や信念や価値観などなど、たくさん落ちている。表現しきれることはないのだ。さらに、「伝える相手」のことも考えたら無謀だ。無茶。絶対伝わらない。人間対人間、なんて無理。でも、昔に比べて、「理解してほしい」という気持ちは減ったなぁ。それだけ、「理解してもらえた!」という経験を、たくさん、このブログなどで、させてもらったからだと思う。そういう意味で、承認欲求的なのは満たされているのだと思う。ただ一方で、何だろう、この、充足していないような感じは。良く分からない、という動機で今回の記事となった。そもそも、オンラインゲーム休止しようかな、と言いつつ、かといって、ここ1年ほぼ、余暇がオンラインゲームだったので、他に「しようっ!」ということがない。こういうのが危険だというのも良く分かっていた。こういうの、とは、「一つのことにのめりこんでいると、それがダメになった時に代替がきかなくなる」ということ。分かっているから、まだ、本格的に「ダメ」になる前にこうやって考え始めている。そういう点を評価しよう。うん自分すごい。……と、自分で自分を褒めるというのは、大事なことである一方で、あんまり効果はない。承認欲求の回復アイテムとしては、やはり他者の存在が大きいのである。そんなこと書いていると、承認欲求クレクレおじさん、みたいなおぞましい表現が浮かぶので勘弁して頂きたい。まぁその、今回のような内容の記事は、そもそももっと前から……そうさな、2~3週間前ぐらいからは思っていた。でも書く時間というか、気持ちが起こらなかった。今回、こうして書けたのは一つ、一歩にはなった気がする)
今日の一言「書くことは大事だ」
(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)
マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
これは、一気読みを防げる。
繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。
何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。
とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。
住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。
そこに連続性はある。
「私」
というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。
デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。
でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。
物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
なんの夢もロマンもない考えである。
魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。
でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。
ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。
それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。
今は、そこまで強く求める気持ちはない。
……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。
一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。
ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。
ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。
主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。
例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。
外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。
果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。
一般的に、「ある」といえるだろう。
僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。
とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。
んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。
私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。
執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。
執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。
いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。
僕は、普通の人になりたかったのだろう。
将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。
何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。
まえがき
マンガは結構読んでいる気がするが、アニメも、映画も、本も、全然読んでいない最近。(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)
マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
これは、一気読みを防げる。
繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。
あずみ
あずみ、という漫画は古い漫画なのだけれども、これは面白くて、課金(購入)もして読み進めた。何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。
とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。
私が私であるということ
中学や、高校のころの私と、今の私は、同じ私なのだろうか。住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。
そこに連続性はある。
「私」
というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。
デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。
でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。
物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
なんの夢もロマンもない考えである。
魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。
でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。
ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。
過去の自分と未来の自分
10代の自分は、就職して結婚して子供を育てておじいちゃんになって死ぬ、ということを思い描いていた気がする。周りにそういうモデル(親とか)が多かったからだ。それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。
今は、そこまで強く求める気持ちはない。
……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。
一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。
ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。
ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。
自分の変化
それで、そういったライフステージのことをどうこう考えること自体がどうでもよくなっており、そのことについて書きたい、ということですらない。主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。
例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。
外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。
果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。
一般的に、「ある」といえるだろう。
僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。
とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。
何をもって幸せとなすか
昔のメールというか、文章というかを見る機会があった。たまたま。んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。
私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。
執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。
執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。
いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。
僕は、普通の人になりたかったのだろう。
将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。
何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。