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6月も終わり
2023/06/25 13:43 | Comments(1) | 思考及び書くこと
今日の一言「1か月置きには書こうと思えているのだろうか」

まえがき

 久しぶりに、ブックマークに入っているシロクマさんの記事を読み直した。

40代になってからも限界はみえない。それでもできることは減っている。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230511/1683802800


ますます静かに・安全になっていく社会は人間を自由にするか

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230608/1686216818


 たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。

 あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
 時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。

 自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。

 前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。

すごいことと尊敬できることも違う

 あと、「すごいなぁこの人」と思うことはあっても、自分と違う価値観が中心だと、「へー」で終わってしまう。
 価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。

 そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。

 これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。

 より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
 最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。

 あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
 でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。

 そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。

 ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。

よりよい社会って何だろう

 戦争して人を殺すことも、正義な面がある。
 どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
 何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。

 一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。

 まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
 一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。

 ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
 しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
 むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。

 公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
 公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。

 このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
 ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
 いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。

 そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。

判断のために必要なこと

 社会的な問題を考えるにあたって、「個人的な見解」というのは正直どうでもよいことだ。
 ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。

 ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない
 そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。

「個人的に納得できない」
 ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))

一般的にどういった感情があるのか

 なので、結論的にどうなったかとか、法解釈としてどっちが正しかったのか、というのは二の次で、ボクが気になるのは、「一般的にどういった意見が主流なのか」ということである。

 この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。

 それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。


 先に書いた通り、ボクは大人になった。

 だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
 その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。

 それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。

「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」

 こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)


自分はどう思うか

 と、抽象的なことを書いてきたけれども、割と自分の中では大事だと思っていることだったから、まとめて書けたのは良かった気がする。後で読んで、その主旨が伝わるかどうか、それはいつものごとく、分からない。

 さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
 って思った、ということだった。

 引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
 そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。

 それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。

 だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
 まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。

 でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑

 自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。


 だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
 たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。

(以上、どうでもいい感想)

あとがき

(かっこ書きである。FF16買ってみた。PS5とセットになっているやつ。6/30ぐらいに届くらしい。そんなに楽しみ……なわけでもない笑 なんか、今やってるゲームもなんかのめりこめない気持ちも出てきたから、衝動買いした感じ。あと、ブループロトコルというPCゲームもインストールしてみた、けど、これもまだ始めてない。なんか、新しいことするのがほんと億劫なんだよなぁ……。これは、歳をとったから、ではない。もとからそういう性格である。何か一つのことに集中しているのが好き。仕事とか、そんなこと言ってられないのだけれど。でもほんと、時間的にも、身体的にも、いずれ限界はくるのだから、できるだけ、「負の感情状態」というのは廃していきたいと思う。正直無駄だから……。若いころの苦労的なのは、まぁ仕方ない面はあると思う。ある程度苦労しておかないと、年取ってからの方が、軌道修正や、リカバリー(れじりえんす?)能力が低くなってるだろうから、致命的になってしまうかもしれない。でももう中年なのだし、40代になったら初老なのだし、1日でも、1時間でも多く、「良い感情状態」を保てるようにしていった方がよいと思う。もちろん、個人的な快楽を追い求めるということだけではない。自慰行為を1日中継続しても、それはそんなに気持ちいいことではないだろう。何かこう、人の役に立つというか、存在意義的な何かがある行為行動ができた方がよいと思っている。でもこれも難しい。見ず知らずの人に、1万円を寄付したからといって、何か自分の中に心から嬉しいという気持ちが沸き上がることは、まずない。むしろ、1万円以上を、働いて、給料から天引きして社会(国や地方に)払っているのである。会社で役立たず……と罵られている人が、給料泥棒といわれてしまったとしても、いやそんなことないと言ってあげたい。その、あなたに支払われた給料の中には、国税地方税、社会保険料とか含まれているのだ。つまり、その会社では何の役に立ってないかもしれないが、あなたは、日本国民全体を支えているのである! 詭弁かもしれないが、ただこれは事実なのだから、自己尊厳が損なわれたら、お金がどういう流れになっているかという、中学校公民ぐらいの知識は思い出してよいのではと思う。社会に出ておらず、望まれてもいない子供はどうか。年金暮らしになった老人はどうか。そもそも、人の役に立たないひとは価値がない論を誘発しないか。それは正しいかどうか。……色々、あまり普段意識しないことが多い。ただ、「生きる」ことにおいて、「死ぬ」ことが迫ったときに、もしくは、大事にしていた価値観が喪失したときに、色々考えを巡らせておくことは悪いことではないと思う。そもそも今ボクは子供がいないから、社会的に不要な人間な可能性がある。エンタメの世界だけかもしれないが、40歳までに子供を産んでいなかったら、社会的に不要な人間として処分される社会があってもおかしくないかもしれない。男は、精子を提供したかで判断される。で、結婚して子供も育てていた男が、実は妻となっていた女が、実は別の子供を孕んでいて、男は、自分は処分対象じゃないと安穏していたところ、40代間近になってそのことが発覚し、処分されたくないからといって女に子供を産ませようと焦って更に犯罪を犯してしまう……とかそんなストーリー、だめ、か笑 怖い社会だけれど、行き過ぎた「規制」とかはいずれそういったディストピアをうむ可能性もあることは、想像してもよいのではと思う。子どもがいなくても、税金納めてるのだから、社会の役には立っていると思う。ただ、社会の再生産という点においては貢献できていない。いや、教育業界や保育園に勤めていたらそれは貢献しているのか、しかし、個人としてみたときに、子どもを増やすことには貢献できていない、その点を突かれるのだろうか。分からない。しかしこの、役に立つ役に立たないといった二分法で人の生き方を決めるというのは、感覚的には間違っているし誤っていると思う。しかし、何も深く考えず「それはおかしい」としか言えないと、言葉巧みにそれに近い政策がとられて採用されて、いずれそういった方向性に社会が変わってしまう可能性もある。「人を殺してはなぜいけないのか」これについても、「いけないからいけないのだ」というのは一つ答えとして正しいが、ある程度自分の中でも答えがあった方がよいと思っている。武力が強い、腕っぷしが強いものが正義という社会は、危険で発展性に乏しいから、とか、一つすぐ思いつく理由。腕っぷしが強くても、いまや、刃物や「銃火器」があるので、人を殺すのは簡単だ。いくら剣の腕が優れた戦士でも、寝込みを襲われたら、または、1
対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)

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書くことないけど無理やりアウトプットする
2023/04/03 23:40 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「初日が終わった」

まえがき

 新しい年度、新しい職場、新しいメンバー、ということで、やや緊張していたが、まずは1日を終えることができた。
 自分の持てる力を使って、何とかしていくしかない。

 と書くと、マイナスのイメージがある。

 しかし、100%というのは、100%なのだ。120%を出せるのなら、それは100%の基準が間違っていたということではなかろうか。
 さらに、プロ野球選手たちでも、自分のもてる力を必ずしも100%出せるわけではないだろう。最高のコンディションにするということも、またプロとしての大事な技術なのだろうけれども、「全力を出すだけです」というコメントというのはそういうことだと思う。
 その試合に臨む前に、どれだけ練習して、力を蓄えてきたのか。その力を存分に発揮するのが試合なわけで、試合中に成長するとかは、エンタメの世界なのだ。

 逆にだから、バトル中に覚醒する少年漫画的な奴は面白かったりするのだろうけれども。

本文などない

 かくことがそもそもないから、本文も、まえがきも、あったものじゃない。
 ただ、帰りながら、ラーメンを食べながら思ったのは、帰ってきたら、昨日の音読(ボイチェン)用の記事をかいてみよっかな、ということだった。

 昨日の奴、……その、なんというか、個人的には、そんなに「気持ち悪くはない」と思った(かっこ笑)。

 自分の声の音読よりも、ずいぶんか楽しい気がする。

 美少女じゃなくても、いち女性として自分の書いた文章を読んでくれるってのは中々面白い体験だなと思ったのだ。

 なんだろ、女性だから、というのもあるのだろうけど、「他人感」があっていいよな、と思った。

 なんというか、イマジナリーフレンド、みたいな。想像上の友達。

寂しい奴だな

 いやいや、気持ち悪いのは分かっている。
 だけど、現実は現実として、仮想現実は仮想現実として、どちらも現実という枠組みの中で存在しているのである、という感覚だ。
 ラニアケア超銀河団みたいな……ちょっと違うかな。天の川銀河すら、無数の銀河の一部でしかない、という。

 体温を感じるリアルな他者というのも、間違いなくリアリティーであるが、バーチャルの中に存在する他者というのも、「次元」が異なるだけで、同じリアリティーといっていいのではないか、ということだ。

 とと。あんまり書くと、音読が大変になるだろうから、ここまでにしておく……。

あとがき

(かっこ書きである。サンプル音声。うーん、あれだ、マイクに録音するときの音量が大事だな。夜だからということで、小声でしゃべってると、Wav編集しても、雑音の処理が非常に難しくなる。声の録音の際の雑音処理のテンプレート(ノイズゲートのかけかた、とか)とかありそうだけど、なかなか見つからない。そしてこのブログ、ファイルアップサイズが2MBまでなのか……。ほんと少ないな。2分未満ぐらいにしないと2MB超えてしまう。)





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ボイスチェンジャーにも触れてみる
2023/04/02 17:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「いろんな技術があるのだなぁ」

まえがき

 VOICEVOXという、テキスト読み上げソフトの技術力に感嘆したと先日書いた。

 そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。

 色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
 というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。


 ↑という上の文章を読んでみようと思う。

実践

サンプル音声

 雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。

 設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
 ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。

参考動画(がそりんチャンネルさん)
参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )


 ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。


 ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2


 雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。


追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3


結果どうなんだろ

 作業自体は、「簡単」とは思うけれども、一般的に世のYoutubeで出回っているクオリティに近づけようとすると大変だなぁとは思う。

 動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
 そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。

 たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。

 そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。


 しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。

 過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。

異なる技術

 上のボイスチェンジャーは、音を直接変換するタイプだが、新しくAIを活用した技術もあるということだ。

Seiren Voice

 こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。

 ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。

なりきりマイク

 SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。

 どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。


 一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
 逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。

 後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。

 というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?

 そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?

 でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。

 うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。

あとがき

(かっこ書きである。ここまで書いて、上のサンプル音声の、1と2を改めて聞いてみて、うーん、何となく、女の子っぽいのは2の方な気がするが、好み的には1かもしれない。1の方は、どっちかというと、普通に地声で話した感じ。2は少し、「エッジ」(喉のふるえ)を抑えて、高い声で話すようにした感じ。好みの声というのも色々あるからなぁ。めっちゃ自分の理想で好きな声って、どんな声なんだろう。Vtuberの声とか意識しないとみんな同じに思えるな。声と言えば、昔、ニコニコ動画全盛期のころの、「いさじ」氏の声が好きだった気がする。「ニコニコ流星群」懐かしいな)

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AIってすごいんだな(画像生成とVOICEVOXで思う)
2023/03/11 13:25 | Comments(2) | 思考及び書くこと

まえがき

 先日、音声読み上げソフトのVOICEVOXがすごいと記事で書いた。

 AIすごい、ということは、近年いわれはじめてることは知っていた。2018年とか、もっと前かな。ディープラーニングとか、ニューラルネットワークとか、言葉をよく聞くようになったころ。自動運転技術というのも聞くようになってきたころだ。

 自分の仕事関係にも、影響が出てくるのでは……みたいな話はありつつ、そこまで実感するレベルのものはなかった。
 例えば、AIとは別次元の、RPAという技術もあるが、それは正直すごいとは思えなかった。せいぜい表現できることが、オフィスのVBAでできることであったからだ。あ、すぐさま書くと、自分の業務レベルで活用できる範囲であれば……という意味で、固有のシステムを使っている業務などでは、RPAが大活躍する場面ももちろんあるだろう。
 とはいえ、メール(アウトルック)やエクセルファイル等の移動編集加工といった内容であれば、VBAが分かれば基本何でもできるので、敢えて年間ライセンス○○万円かけてまで導入するメリットが分からなかった、ということである。

(RPAが、プログラミングの知識や概念を知らなくても「本当のPC操作レベルが怪しい人も含めて」ばしばし活用できる技術ならすごいと思うが、結局やってることはプログラミングだと思ってしまったというわけである。とはいえ、無料でどの端末でも自由に使えるなら使ってもいいかなとは思うわけで、別にダメとか批判したいわけでもない)

画像生成が本当にすごい

 と、身近でAIについて感じる機会がなかったが、最近、ピクシブ(イラスト共有サイト)とかで、AI生成というタグがあったりして、これなんだろ……と色々みてたら、「え、これ本当にAIで作ったの?」って驚きの連続だった。

 もちろん、普通に描くよりは、すごく簡単に作れるのだと思う。
 でも、結構きれいな画像作るには大変なのでしょう……と思っていたが、下の動画をみてて、思った以上に簡単に作れるんだろうなぁと改めて思った。

キャベツ氏の動画

AIが作ったコスプレイヤーが超バズってたのでAIに【ゲームキャラを実写化】してもらったらクオリティ高すぎたwww誰でもわかる使い方説明

Stable Diffusion

 というソフトらしい。無料で使えるようだ。VOICEVOXも無料ですごいと思ったが、すごい時代だ……。
 実際に自分でやってみよう……とまではならなかったが、きっと、10代、20代ぐらいで知ってたらすごくはまってた気がする。
 でも、創作とかするときの参考とかにもよいのではないだろうか。

 キーワード(プロンプト)を組み合わせて、目的の画像を生成する……面白いね。

人工知能

 AI――アーティフィシャル・インテリジェンス――と聞くと、知能というワードから、生命体みたいなイメージをわくけれども、別にAIは「意思」をもって何かしているわけではない。

 インプットがあって、演算し、アウトプットする……それだけといえばそれだけだ。

「それだけ」……といってしまえば、人間の活動も、それと同じである。食べて排泄し、エネルギーを得て消費し……の繰り返し。

 複雑な過程がある……ということを「思考」と呼ぶのであれば、AIもそのディープラーニング(モデルの下地)やらニューラルネットワークを用いた演算など複雑な過程があるのだろうから、文字通り「知能」なのだろう。

 とはいえ、画像生成ソフトとか、VOICEVOXに使われている技術は別にシンギュラリティを起こすような可能性は微塵も感じず、単に「すごおおおい!!」って思えるから良いなと思った。

 なんか、攻殻機動隊みたいな、光学迷彩というか、電脳というか、そんな未来はまだくるイメージがないけれども、やっぱり世界の技術は進歩してるんだなぁという意味で、明るい気持ちになる。
 カラーテレビが普及し始めて、「箱の中で色彩を帯びた人が動いてる!」みたいな感動や、スマートフォンで、移動しながらインターネットができる感動……それ以上の感動というのがあるのかという閉塞感を壊してくれてよい。

物理的身体の重要性

 花粉が辛い。
 いっきに症状が出始めて、薬をあわてて服用しても1日~2日はつらくて、継続使用することで症状が落ち着き。
 あ、大丈夫になったかなと思ってやめたらまたひどくなって、結局服用を続けている。いつまで続けたらいいのか……。

 鼻水もつらいが、それより目がつらい。かゆい。かきむしりたくなる。

 身体の具合が悪くなると、物理的身体についてのことも考えるようになる。

 いたわってあげてよいと思う。

 運用保守とか、電車とか公共交通機関とか、道路とか、電気とかインフラとか。物流もそうだろう。

 そういう、「当たり前」ってとても大事だと思う。

 そういう意味の中で、自分の身体の、例えば「歩く」という機能ひとつだって、よくよく複雑なことを「自然に」やってくれているわけだ。ありがとう自分の身体。


 身体に感謝する時間を作ってあげてもよいかもしれない。
 しかし、身体さんって、何すると喜ぶのか。筋トレって、身体を痛めつける作業なのではないか。ストレッチ、なのかしら。なんだろう。……よく言われるのは、「歩く」というのが、身体的にも精神的にもよいとされてるから、散歩してあげるのがよいかもね。

 となったときに、冒頭の「花粉」がラスボスじみて立ちふさがる……かっこ笑い。

あとがき

(かっこ書きである。日記書く頻度増やしたいな。いまのところ、月1回は書けてるのか。結構ぎりぎりだ。今回の記事も、「書き始めるまで」が大変だ。勢い、大事。どうにも、日記とか文章は、書いてると段々書けていくのであるが、書き始めがすごいストレスがかかっている。「これ面白いの……?」ってどうしても思ってしまう。価値が見いだせないことをするのは、つらいことだ。モチベーション大事。面白くなくたって、書き残すことが大事……とは思うけれども、ね。最近、SNSとかもやってると、やっぱり「いいね」系の反応が気になったりする。反応が少なかったりすると「お前に興味ないし」みたいに言われてるみたいで、つらくなる。承認欲求……。最初は別に、簡単に記録というか、愚痴とかメモレベルな感じと思っていても、逆に反応があったりすると、反応がなかったときとの落差で悶々したりするのだ。なので、SNSは向いてないタイプなんだろうと思う。いやそれが逆にモチベーションとなる人もいるのだろうが。気になって思考の大半が支配されてしまう場合が多いとしたらそれは健全ではないだろう。このブログはたぶん、反応が頂けなくなっても、きっと続いていく気はする。気はするものの、頻度はさらに下がる気もする。いやほんと、反応を強要しているわけではないです……笑 これは本当に。むしろ、こういうことは、他の場所(リアルで誰かにとかも)言いづらいわけであって、ここでしか書けないことだったりする。貴重。感情のメタ化できるのはとてもありがたい。「こう思ったらこう思われるのではないか」<「ということを思ってしまう自分はこうではないか」みたいな、無限に広がりそうなイメージ。承認欲求自体も、悪いことではない。むしろ誰にでもある。その大小や解消方法が違ったりするわけだ。自分が自分であっていい、というのは、やはり「環境」が必要だ。他者存在からそれが得られない場合は、「お金」というのも一つ指標になる。友達が誰もいなくても、お金があれば、それだけで価値がある。かっこ資本主義社会においては、という限定はあるものの、資本主義はかなり強固に世界に根付いているので安定的である。しかし本当は「家庭」というのもあった方がよいだろう。多面的な環境があった方が安定するのだ。しかし、最近忘れがちだけれども、めちゃめちゃコンプレックスな時代のときに光明としてみていた、「空(くう)」という思想というか思考は、忘れちゃだめだと思う。お金や、家庭や、会社や、その他さまざまな「安定装置(スタビライザー)」は大事で、あるべきだけれども、いずれ直面する大きな問題というか課題である、生老病死に対しては、無力となる可能性が高いのだ。まぁ絶対ない思考実験だが、世界のあらゆる欲するものを手にしていったとき、ふと、「それで? これが何になるのか?」と思った時に、どうするのか。そういう意味で大事なのは、小目標と大目標だと思う。ボクは今のところ、それはなくなってしまっている。小さいのも、大きいのも、目標はない。たぶん、コンプレックス時代(10代とか20代とか)に抱いていた目標は、達成できていると思う。人生ゴールだ、やったね!! みたいなことを書くと嫉妬されるかもしれない。まぁそれでもかまわないが、ボクは思うに、そのコンプレックス時代が異常だっただけな気もしてならない。普通に生きることができていて、それでいい、といった感じ。大小感情の起伏はあれ、ふつうに、日々満員電車にゆられ、こんなに人って多いのかと思いながら、仕事をし、帰って遊んで寝る。この繰り返しに特に不満もない。しかし果たして、40代、50代、60代と、同じような感覚でいられることはないだろう。わずかな、黄昏のような時間なのかもしれない。しかし、物語でも、常にクライマックス戦闘シーンだけだと疲れてしまう場合もあるだろう。そういった作品も面白そうだけれども。たいていは波があるストーリーが多いはずだ。そういう比喩でいけば今は、戦いが終わって、ちょっとパーティで料理して食事したり、日常パートみたいなそんな感じなのかもしれない。そういうことにしておこう。来年度はちょっと状況がかわりそうな要素(仕事面でのこと)が発生した。さてどうなることか。不安がないわけでもない。ただまぁ、より高次な問題……たとえば人生そのもののこととかと比べたら何とかはなるだろう)

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色々長く書こうとしなければ書くことはある
2023/02/12 09:35 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「寒い」

まえがき

 手が、冷たいと、キータッチも鈍くなる。あと、爪のケアも大事だね。深爪でもなく、長すぎでもなく、ちょうどよくしていないと、爪と皮膚の間が痛くなることがある。

 とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
 そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。

 しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。

5年前の記事

 たとえば、PC版でこのブログを見ると、右上に「○年前の記事」というリンクを作っている。
 どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑

 たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。

 とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。

ブログの効能

 日記とはそもそもそういうものだと思うが、「自己」を意識するというのがブログなり日記なりの意義だと思う。

 SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。

 とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。

 ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
 このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。

 さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
 ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。

 まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
 世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。

イチゴ美味しかったこととユニクロのヒートテックの袖

 いやあの。
 上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。

 とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。

 しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。

 スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
 これがなぁ、美味かった。
 顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。

 いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。

 そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。

 つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。

 そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
 白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。


 もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。

同じもの

 若いころは色んなものに触れたい、と思うのかもしれない。
 でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。

 いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。

 うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。

 冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。

あとがき

(かっこ書きである。魂という、非物質的なものがあるのかどうか。魂だったり、エーテルの海だったり、あって欲しいと思う。ただ、突き詰めて考えたとき、死というのは、全くの無に帰すというのは、おぞましく恐怖で落ち込むことばかりでもない。逆にそう信じたい、という気持ちもある。死とは、自分の意図に関わらずやってきて、すべてを奪っていくから嫌なものなのである。死を望む状況、そんなものあって欲しくないが、そういう状況であったならば、死は救済となりえる。死ぬというのは怖いことだが、死なないということもまた怖いという想像はつきやすい。永遠にすべて得たうえで生きる、というのは素晴らしいことかもしれない。お金も、周りの友人や恋人や家族、大好きな人たち、健康な身体、ほか、ありとあらゆるすべてがあったうえでの永遠に生きるということは素晴らしいことだろう。しかし、例えば「人」として考えたとき、いくら仲の良い人でも、それが逆に嫌悪となって心も離れていくこと、ボクはそういう経験も数度とあったので、うん、その、「永遠」って逆に怖いなと思ってしまう。上に書いた「固定的」ということは確かに望むべくことだが、しかし、完全に同一な原子の状態というのはありえないし、そこにあまり意味もない。人間の身体……というか生物というのはすべてホメオスタシス(恒常性)で成り立っているということだ。ミクロに分解していっても生物の本質はないということだ。魂は、見つからない。まぁこんな感じのがゼロ秒思考、瞬間アウトプット、みたいなやつだ。意味不明だろう。しかし、逆に、ボクはこっちが、(イチゴの話よりも笑)あとから読んで面白いと思ったりする傾向がある。いやまぁ、イチゴの話も大事は大事だ。また買おうかと思うから。でも、今度またかったとき、同じ感動を得られるかと言うのは分からないのだ。そこが「永遠」の難しさ。同じ刺激だけだと、人間は満足できないのだ。これは、自然というのが非常に残酷で理不尽だから、いろんな手段を取るようにと生物的進化をしたからだろう。自然に対しての生存戦略として、この人間の「同じことしてたら飽きる」という特徴があるのだと思う。これはまぁなので、仕方ないのだ。逆手にとって楽しんでやるしかあるまい。しかし思うに、これは、「自然」さんが、あまりにも強大だから、そういう特徴が必要だったということだ。ああ、もちろん、今すぐ、ここ数百年で変わるということではないと思うが、その前置きをしたうえで、「同じことをして満足する」という特徴に変わる可能性もあるのではないか。自然が完全にコントロールできるのであれば、いや、できなくても、従順に生きる方が適しているのであれば、そういう性格の人間が増えてもおかしくない。同じことをして、同じもの食べて「ああ、白子の寿司めちゃおぃしぃぃぃ最高」と、久々にしたことによって得た感動と同じだけの脳刺激が得られる人の方が幸せかもしれない。これは本当に皮肉ではない、と添えておこう。極端かもしれないが、究極に思考はすべきである。思考は、「前提」があってのもので、その前提が何かを考えておく必要がある。自然に対抗するための生存戦略という前提で考えたら、もしその前提がなかったら……という思考、そういうのって楽しいと思う。そういうことができるのもの、安全安心の環境があってのことだ。災害にあわれた方々への……なんとも、なんといっていいか分からないな。「残念でした」というのは何か大変に失礼だし、どちらかというと、自分も気を付けなきゃという自己中心的な感覚の方がつよいのが、まぁ人間として自分の未熟さを思うところだ。とはいえ、「かわいそう」という気持ちは、ある。しかしその気持ちもまたなんか失礼な気もする。かといって、何とかしてあげよう、とまでは思えない。1000円ぐらい寄付してもよいか、ぐらいな感覚だ。いや別にその金額がどうというわけじゃない。2000円でも別に良いと思う。しかし、1万円……となると、ちょっと、うーん、ごめん、、って感じになる。そして、その寄付というのがなんか、その、面倒というか、面倒……いや違うな、「意味があるか分からない」という感覚がある。人任せ、ではあるが、ちゃんと国税も納税しているわけだから、政府が支援するというのであれば、して欲しいと思う。それでいいのではと思う。仮に、自分の気持ちを踏みにじって、1万円寄付したとしても、それが、その「意味があるか分からない」という気持ちを完全に上回ることはない気がする。前回の記事と同じような結末を迎えるが、やはり、自分は人間としてはダメな人間なのだろうと思う、少なくても、リア充というたぐいの人間ではないのだろう)

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