今日の一言「寒い」
とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
まえがき
手が、冷たいと、キータッチも鈍くなる。あと、爪のケアも大事だね。深爪でもなく、長すぎでもなく、ちょうどよくしていないと、爪と皮膚の間が痛くなることがある。とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
5年前の記事
たとえば、PC版でこのブログを見ると、右上に「○年前の記事」というリンクを作っている。どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
ブログの効能
日記とはそもそもそういうものだと思うが、「自己」を意識するというのがブログなり日記なりの意義だと思う。SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
イチゴ美味しかったこととユニクロのヒートテックの袖
いやあの。上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
同じもの
若いころは色んなものに触れたい、と思うのかもしれない。でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
あとがき
(かっこ書きである。魂という、非物質的なものがあるのかどうか。魂だったり、エーテルの海だったり、あって欲しいと思う。ただ、突き詰めて考えたとき、死というのは、全くの無に帰すというのは、おぞましく恐怖で落ち込むことばかりでもない。逆にそう信じたい、という気持ちもある。死とは、自分の意図に関わらずやってきて、すべてを奪っていくから嫌なものなのである。死を望む状況、そんなものあって欲しくないが、そういう状況であったならば、死は救済となりえる。死ぬというのは怖いことだが、死なないということもまた怖いという想像はつきやすい。永遠にすべて得たうえで生きる、というのは素晴らしいことかもしれない。お金も、周りの友人や恋人や家族、大好きな人たち、健康な身体、ほか、ありとあらゆるすべてがあったうえでの永遠に生きるということは素晴らしいことだろう。しかし、例えば「人」として考えたとき、いくら仲の良い人でも、それが逆に嫌悪となって心も離れていくこと、ボクはそういう経験も数度とあったので、うん、その、「永遠」って逆に怖いなと思ってしまう。上に書いた「固定的」ということは確かに望むべくことだが、しかし、完全に同一な原子の状態というのはありえないし、そこにあまり意味もない。人間の身体……というか生物というのはすべてホメオスタシス(恒常性)で成り立っているということだ。ミクロに分解していっても生物の本質はないということだ。魂は、見つからない。まぁこんな感じのがゼロ秒思考、瞬間アウトプット、みたいなやつだ。意味不明だろう。しかし、逆に、ボクはこっちが、(イチゴの話よりも笑)あとから読んで面白いと思ったりする傾向がある。いやまぁ、イチゴの話も大事は大事だ。また買おうかと思うから。でも、今度またかったとき、同じ感動を得られるかと言うのは分からないのだ。そこが「永遠」の難しさ。同じ刺激だけだと、人間は満足できないのだ。これは、自然というのが非常に残酷で理不尽だから、いろんな手段を取るようにと生物的進化をしたからだろう。自然に対しての生存戦略として、この人間の「同じことしてたら飽きる」という特徴があるのだと思う。これはまぁなので、仕方ないのだ。逆手にとって楽しんでやるしかあるまい。しかし思うに、これは、「自然」さんが、あまりにも強大だから、そういう特徴が必要だったということだ。ああ、もちろん、今すぐ、ここ数百年で変わるということではないと思うが、その前置きをしたうえで、「同じことをして満足する」という特徴に変わる可能性もあるのではないか。自然が完全にコントロールできるのであれば、いや、できなくても、従順に生きる方が適しているのであれば、そういう性格の人間が増えてもおかしくない。同じことをして、同じもの食べて「ああ、白子の寿司めちゃおぃしぃぃぃ最高」と、久々にしたことによって得た感動と同じだけの脳刺激が得られる人の方が幸せかもしれない。これは本当に皮肉ではない、と添えておこう。極端かもしれないが、究極に思考はすべきである。思考は、「前提」があってのもので、その前提が何かを考えておく必要がある。自然に対抗するための生存戦略という前提で考えたら、もしその前提がなかったら……という思考、そういうのって楽しいと思う。そういうことができるのもの、安全安心の環境があってのことだ。災害にあわれた方々への……なんとも、なんといっていいか分からないな。「残念でした」というのは何か大変に失礼だし、どちらかというと、自分も気を付けなきゃという自己中心的な感覚の方がつよいのが、まぁ人間として自分の未熟さを思うところだ。とはいえ、「かわいそう」という気持ちは、ある。しかしその気持ちもまたなんか失礼な気もする。かといって、何とかしてあげよう、とまでは思えない。1000円ぐらい寄付してもよいか、ぐらいな感覚だ。いや別にその金額がどうというわけじゃない。2000円でも別に良いと思う。しかし、1万円……となると、ちょっと、うーん、ごめん、、って感じになる。そして、その寄付というのがなんか、その、面倒というか、面倒……いや違うな、「意味があるか分からない」という感覚がある。人任せ、ではあるが、ちゃんと国税も納税しているわけだから、政府が支援するというのであれば、して欲しいと思う。それでいいのではと思う。仮に、自分の気持ちを踏みにじって、1万円寄付したとしても、それが、その「意味があるか分からない」という気持ちを完全に上回ることはない気がする。前回の記事と同じような結末を迎えるが、やはり、自分は人間としてはダメな人間なのだろうと思う、少なくても、リア充というたぐいの人間ではないのだろう)PR
今日の一言「魂の連れがいない」「出離生死(しゅつりしょうじ)」
35歳までに、何か、決めたり、大事なことを考えたりしなきゃと、そんな風に思っていた。
ところが、何も変わらなかった。
35歳の誕生日を迎えた瞬間、天啓がおりてきて、またはチート能力に覚醒して、とか何もなかった。普通に1日が過ぎた。
いやもちろん、この前に合った、仕事の評定の関係の面接でやや辛辣なことを言われたことは、1日~2日ぐらい心にとげが刺さったような感覚が続いた。
ところが、まぁ、それぐらいで済んだ。
そして、どちらかというと、ボクの生きづらさというのは、仕事というより、個人的なことというか、総合的な「生き方」に対してのものだった。
そういった意味で、いわゆる世間一般的な幸せ……「良い会社に入って」「美人な奥さんと結婚し」「優秀な子供を育てる」と言うことに対して、諦めの境地には至った気はする。
つまり、ボクは、不幸なのである。
世間一般的には、不幸で、犯罪者予備群で唾棄すべき存在なのだ。哀しい。
といったことを……書くこと自体が羞恥でしかないのだけれども、ところが、「心が軽くなった」ということの表現としては事実なのである。
この「事実」は、しっかり書いておいた方が良い。もちろんこの「事実」という表現は、決して、何か数学的に証明できるようなものではないし、あくまでも、今時点でのボクの感覚、レベルでしかないわけだ。ただ、大事なことはむしろそれで、今時点でボクがどう感じていたのか、考えいてたのか、その「資料」が大事というわけだ。
「人生の晩年にやってくる「むなしさ」の正体【仏教の教え】」
まえがき
35歳で仏陀は悟りを開いたわけだ。ボクは何歳だっけ? 分からないけれども、35歳は過ぎたと思う。35歳までに、何か、決めたり、大事なことを考えたりしなきゃと、そんな風に思っていた。
ところが、何も変わらなかった。
35歳の誕生日を迎えた瞬間、天啓がおりてきて、またはチート能力に覚醒して、とか何もなかった。普通に1日が過ぎた。
漸近的な変化
ただ、そうはいっても、その瞬間で何か変わったとかではないけれども、「人の目を気にしなくなった」というのはあったと思う。いやもちろん、この前に合った、仕事の評定の関係の面接でやや辛辣なことを言われたことは、1日~2日ぐらい心にとげが刺さったような感覚が続いた。
ところが、まぁ、それぐらいで済んだ。
そして、どちらかというと、ボクの生きづらさというのは、仕事というより、個人的なことというか、総合的な「生き方」に対してのものだった。
そういった意味で、いわゆる世間一般的な幸せ……「良い会社に入って」「美人な奥さんと結婚し」「優秀な子供を育てる」と言うことに対して、諦めの境地には至った気はする。
つまり、ボクは、不幸なのである。
世間一般的には、不幸で、犯罪者予備群で唾棄すべき存在なのだ。哀しい。
人の目が気にならなくなった
それは事実としてスティグマであろうが、しかし、個人的には、長年抱いていた苦しみというのがなくなったような気がした。といったことを……書くこと自体が羞恥でしかないのだけれども、ところが、「心が軽くなった」ということの表現としては事実なのである。
この「事実」は、しっかり書いておいた方が良い。もちろんこの「事実」という表現は、決して、何か数学的に証明できるようなものではないし、あくまでも、今時点でのボクの感覚、レベルでしかないわけだ。ただ、大事なことはむしろそれで、今時点でボクがどう感じていたのか、考えいてたのか、その「資料」が大事というわけだ。
人生とは寂しいものである。
菊谷隆太さんという親鸞を教えている方のユーチューブを見た。「人生の晩年にやってくる「むなしさ」の正体【仏教の教え】」
面白かった。
テレビのバラエティを見ているだけだと出会えなかったと思う。よきかな。
ユーチューブってほんとに、変わったなぁと思う。ニコニコ動画みたいな、エンターテイメントの一部だった気がしたけれども、最近、ふつうに学習にも役立つと思う。この前の、宇宙の年齢の話のゆっくり解説動画とか、勉強になったもんなぁ。
大事なことは、こうやってしばらく経ってからも思い出して書いておくことだ。そうすると記憶の定着率が良い。
簡単に説明すれば、宇宙の星々は、全方位に遠ざかっていることをハッブル氏が発見して、そこから、宇宙は膨張していることが推察された。なんやかんやあり、超新星爆発の光を観測することで、地球からの距離と速さが分かった。時間は、距離÷速さなので、そこから、宇宙の誕生時間を割り出すという計算で、宇宙の年齢が求められるということだ。
ただし、宇宙は加速しているので、今時点の速さを知っただけでは正確な年齢は出せない。そこで、その加速度を求めるために、宇宙マイクロ背景放射という光を分析して、宇宙全体のダークマターとダークエネルギーの割合を計算することで、より正確に138億年という宇宙の年齢を割り出したということだ。
今、何も見ずに思い出してみたけれども、上の説明だと、今度は、「なんで、超新星爆発の光を観測すると、距離と速さが分かるの?」という疑問が生じた。
動画をぼーっと見ている時は、「ふむふむ」みたいに思うのだけれども、よく考えると良く分からないということって多い。それがつらい……笑
物事って突き詰めれば突き詰めるほど、よく分からなくなるよね。
でも仕事は、「結果」が大事だから、どこかで、「妥協」して、前に進めないといけないことも多い。
テレビのバラエティを見ているだけだと出会えなかったと思う。よきかな。
ユーチューブってほんとに、変わったなぁと思う。ニコニコ動画みたいな、エンターテイメントの一部だった気がしたけれども、最近、ふつうに学習にも役立つと思う。この前の、宇宙の年齢の話のゆっくり解説動画とか、勉強になったもんなぁ。
大事なことは、こうやってしばらく経ってからも思い出して書いておくことだ。そうすると記憶の定着率が良い。
簡単に説明すれば、宇宙の星々は、全方位に遠ざかっていることをハッブル氏が発見して、そこから、宇宙は膨張していることが推察された。なんやかんやあり、超新星爆発の光を観測することで、地球からの距離と速さが分かった。時間は、距離÷速さなので、そこから、宇宙の誕生時間を割り出すという計算で、宇宙の年齢が求められるということだ。
ただし、宇宙は加速しているので、今時点の速さを知っただけでは正確な年齢は出せない。そこで、その加速度を求めるために、宇宙マイクロ背景放射という光を分析して、宇宙全体のダークマターとダークエネルギーの割合を計算することで、より正確に138億年という宇宙の年齢を割り出したということだ。
今、何も見ずに思い出してみたけれども、上の説明だと、今度は、「なんで、超新星爆発の光を観測すると、距離と速さが分かるの?」という疑問が生じた。
動画をぼーっと見ている時は、「ふむふむ」みたいに思うのだけれども、よく考えると良く分からないということって多い。それがつらい……笑
物事って突き詰めれば突き詰めるほど、よく分からなくなるよね。
でも仕事は、「結果」が大事だから、どこかで、「妥協」して、前に進めないといけないことも多い。
あとがき
(かっこ書きである。10年後の自分は、間違いなく40代である。いまでもおっさん、だけど、よりおっさんだなぁ。でも、どんな自分になってるかは想像できない。どうだろう。いま、30代のボクは、20代や10代のボクを、叱る気にも、羨む気にもなれない。ただ、「あるだけ」という感じだ。40代のボクは、いまの30代のボクを、どう思うのだろう。分からないが、今のボクと同じように「後悔」はして欲しくない。「あのとき、ああしておけばよかった」みたいなことが、ボクは昔から大嫌いであった。それを「反省はしてもいいけど、後悔はしないようにしよう」という言葉で表現して目標にして頑張っていた時期もあった。その目標は達成できたと思う。世間一般的な「幸せ」というのとは程遠いけれども、私個人としての「幸せ」な状態は得ることができた。そうさな、そういう意味で、ボクは、20代のころの自分を褒めてあげたいと思う。よくやってくれた。余は満足じゃ。さて、とはいえ、この記事のタイトルの通り、いつかは人生をむなしく思うのだろうか。そういう意味では、ボクは、ずいぶん若いころから、人生のむなしさを考えていた。そういう意味では、上のユーチューブに出てきた、70代の社長よりも先輩かもしれない。「アバター」を通した生身の肉体がないバーチャルな世界があったとして。すべて精神世界だけでのやりとりとなったとしたら、年齢というのは特に重要性をもたない世界になるかもしれない。前々から思ってたことだが、先輩や、年長者であっても、その道の仕事や遊びを長くやってる人の方が上手にできるというのは当たり前のことだと思う。若い人にも敬意をはらわなければいけないし、年長者でもダメな奴はだめだ。どうして本当に、歩きたばこをする奴らはいなくならないのだろう。じじぃに多いというボクの感覚だったが、この前若い奴で歩きたばこしている奴にも出くわした。むかつく奴らは、老若男女、平等にむかつくのである(反転して、老若男女、尊敬できる場合もある))
今日の一言「2023年よろしくお願いしますとか、ゼロポイントフィールドといったタイトルを避けることにした」
↑には、明けましておめでとうという意味があるので、「謹賀新年! 明けましておめでとうございます!」というと二重になってしまう、ということを聞いたことがある。あってたかどうか不安になる。
謹賀新年、今年(2023年)もよろしくお願いします、だと正しいのだろうか。
とか、そんなどうでもよいことに行数を使うのはもったいないのかもしれない。ただ、せめて、タイトルに、「2023年はじまりはじまりー!」みたいなものは避けようと思った。
そして今回、年末年始に読んでいた「死は存在しない」という新書についての感想でも書こうと思ったわけだが、そのキーワードの「ゼロ・ポイント・フィールド」みたいなタイトルも避けた。
ぜろぽいんとふぃーるど? みたいな言葉を使ったとて、全くインパクトがない。は? みたいになるから。
タイトルの付け方って大事。
いまいち、メールのタイトルを意識しない人が多い気がするけど、そもそもタイトルで読むか読まないか決めたりするからね……。
それ以上過ぎると、途端に書く気力がなくなる。1時間でできるだけ書くためには、ポイントを絞っていく必要がある。
まず、今回は、その「死は存在しない」という
>死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 新書 – 2022/10/19
という本の感想だ。
この本では、基本的に「ゼロ・ポイント・フィールド」という仮説について書かれていくわけだが、長いから以下「ゼロ説」って書く。
で、「アカシックレコード」みたいな話だなと思った。でもアカシックレコードという単語は出てこなかった。なんでだろ?
アカシックレコードとは、過去から現在までのすべての情報が記録されているという説で、非常に似ていると思った。
ゼロポイントフィールドは、それを「量子真空」に保存されている、という説であった。
(追記)アカシックレコード、にふれてないと書いたけど、そもそもインドの「アーカーシャ」については触れられていた。アカシックの語源はアーカーシャだということなので(wiki)同じような意味で既に筆者も触れているということなのだろう。そういえば、アーカーシャって、FF14でも出てきたような。デュナミスという言葉で言い直してたりしてたね。
オカルトだ……!
という印象が先行してしまうけれど、最先端の物理学をもってして立てられた仮説、ということだったので読んでみたわけだ。
たぶん、科学的な話を期待する方は、がっかりする気がする。
そのゼロポイントフィールドという存在についても、「量子真空に、ホログラム原理で、波動情報として記録されている」という説明ぐらいしかなかった、気がする。何がどうなって何故そうなるのか……という理系的な思考で読み解いていくには、あまりにも情報が少ない気がした(科学的な知識が殆どないボクでさえ)。
でもそのあたりは敢えてそういう読者層を狙っているのではないのだろうとは思った。
例えばボクは初めて、「コンステレーション」という言葉をしった。星座という元々の英単語だが、転じて、何やら全体的に何か一つの示唆、意味をもっているように感じられる現象のことをそう言うらしい。
例が浮かばない。
色々、筆者は、「不思議な体験」をしたことがある方のようだが、残念ながら、自分はそういう経験があまりないので……とはいえ、「何か考えてたら、同じようなことが起こった」みたいな引き寄せの法則的なことは、ゼロではないから、完全に拒絶するほどではないけれども、「偶然」ということで片付けることが多い。
ただ、そういった「偶然」と思われがちなことも、ゼロ説によると、意味を持っているし、原理的なものがあるということだ。
超時空的無意識というのが、その「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がった状態、というわけである。
超個的意識……というのは何だっけ? 仏教の唯識派の提唱した阿頼耶識みたいなもんだっけかな……。阿頼耶識≒超時空的無意識だっけ。そのあたり曖昧。
一読して、全部理解したり、記憶したりするのは難しい。
色々、勉強しようと思って読めば、どんな本でもいくつかためになることがある気がする。
「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で本を読むのはあまりよくない。
とはいえ、何も考えず(何か学ぼうとか意識せず)に引き込まれて熱中できる本の方がよいのは間違いないけども。
読み終わって、でも、「そうだゼロ説はある! 唯物論は間違ってる!」という素直な気持ちになれたわけではなかった。
でも、「生きる意味を徹底して考える」ということについて、「唯物論」というのが前提になっていたから、その点では違う視点もありえるのだなと思えたことは、1000円いくら、の価値がある本だったと思う。
といいつつ、「死とは何か」という本の方が、ボクは面白いと思った。こっちは3000円越えなんだけどね。
>「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12
唯物論とは何なのかというのが良く分かるし、意識というのが、ものすごい機能と結果を生み出す身体(脳)による物理現象なのだ、という説明がすごくしっくりくる。
死んだら無になる……というのも分かる。そして、無になる……ということについても掘り下げて書いてると思う。結論的に、死はそんなに悪いものではない……死よりももっと恐ろしい状況というのがあるというのも良く分かると思う。
それでもやっぱり、死ぬのは怖くて怖くて恐ろしいことだけれども、冷静になるために、冷静に考えるために大事な考え方や視点を教えてくれていると思う。
まぁそれでも、余命1か月とかいわれたら、取り乱すのだろうけれどもね。
まえがき
謹賀新年!↑には、明けましておめでとうという意味があるので、「謹賀新年! 明けましておめでとうございます!」というと二重になってしまう、ということを聞いたことがある。あってたかどうか不安になる。
謹賀新年、今年(2023年)もよろしくお願いします、だと正しいのだろうか。
とか、そんなどうでもよいことに行数を使うのはもったいないのかもしれない。ただ、せめて、タイトルに、「2023年はじまりはじまりー!」みたいなものは避けようと思った。
そして今回、年末年始に読んでいた「死は存在しない」という新書についての感想でも書こうと思ったわけだが、そのキーワードの「ゼロ・ポイント・フィールド」みたいなタイトルも避けた。
ぜろぽいんとふぃーるど? みたいな言葉を使ったとて、全くインパクトがない。は? みたいになるから。
タイトルの付け方って大事。
いまいち、メールのタイトルを意識しない人が多い気がするけど、そもそもタイトルで読むか読まないか決めたりするからね……。
アカシックレコードみたいな話しだった
1時間だ。ボクの書くことができるのは、1時間だ。それ以上過ぎると、途端に書く気力がなくなる。1時間でできるだけ書くためには、ポイントを絞っていく必要がある。
まず、今回は、その「死は存在しない」という
>死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 新書 – 2022/10/19
という本の感想だ。
この本では、基本的に「ゼロ・ポイント・フィールド」という仮説について書かれていくわけだが、長いから以下「ゼロ説」って書く。
で、「アカシックレコード」みたいな話だなと思った。でもアカシックレコードという単語は出てこなかった。なんでだろ?
アカシックレコードとは、過去から現在までのすべての情報が記録されているという説で、非常に似ていると思った。
ゼロポイントフィールドは、それを「量子真空」に保存されている、という説であった。
(追記)アカシックレコード、にふれてないと書いたけど、そもそもインドの「アーカーシャ」については触れられていた。アカシックの語源はアーカーシャだということなので(wiki)同じような意味で既に筆者も触れているということなのだろう。そういえば、アーカーシャって、FF14でも出てきたような。デュナミスという言葉で言い直してたりしてたね。
ゼロ説とアカシックレコードの違い
ゼロ説との違いとしては、アカシックレコードはすべての情報といいつつ、未来までは保存されてないことかなと思う。ゼロ説は、文字通り「すべて」記録されているので、未来予知もできるということだ。オカルトだ……!
という印象が先行してしまうけれど、最先端の物理学をもってして立てられた仮説、ということだったので読んでみたわけだ。
たぶん、科学的な話を期待する方は、がっかりする気がする。
そのゼロポイントフィールドという存在についても、「量子真空に、ホログラム原理で、波動情報として記録されている」という説明ぐらいしかなかった、気がする。何がどうなって何故そうなるのか……という理系的な思考で読み解いていくには、あまりにも情報が少ない気がした(科学的な知識が殆どないボクでさえ)。
でもそのあたりは敢えてそういう読者層を狙っているのではないのだろうとは思った。
例えばボクは初めて、「コンステレーション」という言葉をしった。星座という元々の英単語だが、転じて、何やら全体的に何か一つの示唆、意味をもっているように感じられる現象のことをそう言うらしい。
例が浮かばない。
色々、筆者は、「不思議な体験」をしたことがある方のようだが、残念ながら、自分はそういう経験があまりないので……とはいえ、「何か考えてたら、同じようなことが起こった」みたいな引き寄せの法則的なことは、ゼロではないから、完全に拒絶するほどではないけれども、「偶然」ということで片付けることが多い。
ただ、そういった「偶然」と思われがちなことも、ゼロ説によると、意味を持っているし、原理的なものがあるということだ。
意識の5段階
あと、表層意識、静寂意識、無意識、超個的無意識、超時空的無意識、みたいに無意識の中でさらに分類していくというのも面白いと思った。超時空的無意識というのが、その「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がった状態、というわけである。
超個的意識……というのは何だっけ? 仏教の唯識派の提唱した阿頼耶識みたいなもんだっけかな……。阿頼耶識≒超時空的無意識だっけ。そのあたり曖昧。
一読して、全部理解したり、記憶したりするのは難しい。
色々、勉強しようと思って読めば、どんな本でもいくつかためになることがある気がする。
「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で本を読むのはあまりよくない。
とはいえ、何も考えず(何か学ぼうとか意識せず)に引き込まれて熱中できる本の方がよいのは間違いないけども。
死とは何かの方が面白かった気はした
唯物論をボクは信じてる、と思う。筆者もそうだったそうな。でも、考え方が変わったという冒頭で、それで「ほほー」と思って手に取ってみた(買った)わけだ。読み終わって、でも、「そうだゼロ説はある! 唯物論は間違ってる!」という素直な気持ちになれたわけではなかった。
でも、「生きる意味を徹底して考える」ということについて、「唯物論」というのが前提になっていたから、その点では違う視点もありえるのだなと思えたことは、1000円いくら、の価値がある本だったと思う。
といいつつ、「死とは何か」という本の方が、ボクは面白いと思った。こっちは3000円越えなんだけどね。
>「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12
唯物論とは何なのかというのが良く分かるし、意識というのが、ものすごい機能と結果を生み出す身体(脳)による物理現象なのだ、という説明がすごくしっくりくる。
死んだら無になる……というのも分かる。そして、無になる……ということについても掘り下げて書いてると思う。結論的に、死はそんなに悪いものではない……死よりももっと恐ろしい状況というのがあるというのも良く分かると思う。
それでもやっぱり、死ぬのは怖くて怖くて恐ろしいことだけれども、冷静になるために、冷静に考えるために大事な考え方や視点を教えてくれていると思う。
まぁそれでも、余命1か月とかいわれたら、取り乱すのだろうけれどもね。
あとがき
(かっこ書きである。えっと。1時間たったかしら。分からない。まだ30分ぐらいな気がする。でも書きたいこと書き終わった気もする。さて、「ゼロ・ポイント・フィールド」。興味を持たれた方はいるだろうか。取り敢えず読んでみてくださいなー、1000円ぐらいだし! みたいな感じだ。死は存在しない、というタイトルだけれども、それは宇宙意識(ゼロ・ポイント・フィールド)に還るということであって、肉体的な死は必ず発生するわけだから、タイトル詐欺な気もする。とはいえ、商業的にもキャッチーなタイトルは必要だろうから仕方がなかろう。結論的にも間違ってるわけじゃないし、詐欺というのは、ボクの方がそれこそキャッチ―に書き過ぎだ。なんか、感覚的には「EDEN」という漫画の「コロイド」のイメージにも近かった。とある主人公と関係のある女の子が死んじゃうシーンで、首が爆発して、ぽろりと、首が昏い海に沈んで行って……。そこで、意識がなくなる前にコロイドが女の子に見せるシーン。お話し。説明。女の子(名前)という個はなくなるけれども、集合的意識の一つになるということ。肉体的な死は迎えたけれども、新しい世界に行くという意味だよと、コロイドの使徒は言う……。漫画の世界……ということではあるが、現実世界でも、そういったことが起こりえるという理論(仮説)があるというのは悪いことじゃないと思う。そもそも「色」的な世界……要するに、現実、物理世界だけが真実で普遍で不変……という考え方は、やっぱり面白くない。物語世界というのは、現実を直接的に動かせるわけではないにしても、人はやはり、「物語」をもってして生きているとボクは思う。お金がすべて、……お金が何より大事……という人も、そういった物語を信じてるからそういった行動様式をとって、そしていつか死ぬわけだ。そうそう。もう一つ、ふと目にした記事だが、コミケ? よく分からないけども、同人誌を販売する大きなイベントがあって、そのイベントに参加した翌日に、がんで亡くなった人の話を読んだ。そのイベントで出品する作品を、闘病で苦しみながらも、最後まで描き続けたのだそうな。すごく涙があふれた。創作ってそういうものだ。そういうものであっていい。スポーツも、その他のエンターテイメントも、仕事も、何だって同じだけ価値があるとボクは思うし、すごいことだと思うけれども、死ぬ最後までできることって、「物語」や作品を創ることだとも思う。めっちゃ野球が好きでそれが生き甲斐で……という人でも、ピアノがそれである人でも、最後の最後までそれをするのは厳しい気がする。ピアノはできるかも……? そういうことを言いたいんじゃない……。スポーツは、具合が悪いと、もうできないと思う。キャンプとか、そういう趣味も。最後に残るのは、やっぱり脳(意識的な意味で)だから、それに近いことが生き甲斐の方がいい気がする。最後までこれをしてたら幸せだ、というもの……そういうものをボクは作っていきたい。今はまだ分からない。ただ、このブログは一つそうなる可能性もある気も、しないでもない)
今日の一言「予約投稿にしてみよう」
とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
まえがき
暇な時間が多くなった。とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
大勢に囲まれている中の寂しさ
幸せと言うのは相対的なものである。そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
孤独な方が幸せという矛盾
いっぽうで、FF14で色々人付き合いしていくことで……いや、「たかがゲーム」「しょせんげーむ」なのだけれども、相手が「人」として考えればそれはまごうことなき人である。身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
それでも一人がよい
しかし、人付き合いを「維持」するのはやはり非常に難しいことなのだと思った。まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
人と居るのに寂しい
承認欲求、かまってちゃん……。自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
何を書きたいか分からなくなってきた
なんだっけ……なんか本筋からずれてきた気がする。とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
遊びのコミュニティでもそう
例えば、FF14において、タンクとか、ヒーラーとか、DPSといった役割(ロール)がある。4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
必要とされたいし役に立ちたい
要は、承認欲求と言うのは、誰かに必要とされたい、役に立ちたいという気持ちの現れなのでもあると思う。だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
あとがき
(かっこ書きである。毎日通勤していると、「人多いな」って思う。こんなに色んな人がいるのにボクは孤独なんだ……とか思ったり思わなかったり。正直思わないことの方が多い。ただ、60歳とか80歳になったとき、どう思うんだろう。周りの人たちは孫に囲まれているのに、ボクは誰もいない。親は当然死んだし、親戚づきあいもない。パートナーもいない。友人もいない。誰もいない……寂しい……っとなるのだろうか。しかしながら正直、「寂しいからパートナーを探す」というモチベーションは、ない。60歳の自分からみたときに、今の自分に憤るのかもしれないが、ただ、思い出してほしい、その動機付けが起こりえたのかどうか、を。でも、真面目な話、60歳とか、80歳になったボクが、過去のボクをみて、後悔して欲しくないと思う。例えば、ボクの10代のころを……思い出してみて……うーん……。後悔は、まったくない。つまんねー人生だったなぁ、つらかったねぇ……と慰めたくはなるけれども、じゃあ、他にどうできたのか、といわれたら、正直思いつかない。もう一度やり直していいよ、と、仮に今の知識や思考をもったまま過去をやり直せるとしても、やり直そうとは思わない……。これはほんとに。やり直したくねぇ……(かっこわらい)。という思考実験からも分かるように、今の僕は幸せである。大人は、もっと、「人生幸せだ―!!」って言った方がいいと思う。大人になるということに、一切魅力がなかったもんな。つまらなそうだった。かといって、若い時は、今ナウ、もつまらなかったんだが。ニュースとか、世間話とかでも、暗い話ばっかりである。もっと生きてるのって楽しいんだよとか、楽しい場所って他にたくさんあるんだよとか、そういうの必要じゃないだろうか。ボクが見えてなかっただけなのだろうか、そうかもしれない、が、例えば、某匿名掲示板とか、ヤフーコメント欄とかみても、批判的な奴とか、つまらない意見コメントばっかりである。えっと、思考実験の話だ。どうにも、あとがきになると、もう文脈無視していいという気になるから色々書いてしまう。あの、その、とにかく60歳になったとき、自分に「おまえ……あのとき、ああしておけば……」みたいなことを思われないようにしたいとは思う。他人の責任を取ることは難しいが、自分の責任は、せめて取りたいとは思う)
今日の一言「タイトルと関係ない話が多くなるかも」
ボクは、137億歳と覚えていたが、最新の研究では、138億±0.6億歳というのが正しいようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=gfQyO9XbTiM
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gfQyO9XbTiM" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
上の動画が分かりやすかった。
しかし、それだけの知識だと、やっぱり「で?」ってなってしまう。どうして、138億歳ってのが分かるのか、というのまで知ってると、少し楽しいと思う。
それによって138億というのがわかった……といわれてもちんぷんかんぷん。
天文学者のハッブルは、宇宙が膨張していることを突き止めた。それはどうやったかというと、遠くの星ほど速く遠ざかっているということから。
なんで遠ざかっているのか。ダークエネルギーのおかげだ。ダークエネルギーの構成比を突き止めるために、宇宙マイクロ波が使われたということだ。
宇宙が膨張していて、遠くの星が速いスピードで遠ざかっているということで、遠くの星の距離と、速さが分かれば、距離÷速さで、出発時間が分かるということ。出発時間というのが、生まれたタイミングというわけだ。いこーる、年齢。
何かいてるかさっぱり分からないと思うから動画を見てもらうしかない。そういう意味でも、短い時間で分かりやすくまとまっているのはすごい。そして、動画見てからの自分の感想というか記憶力が上のレベルというので、知力が測られる……かっこ笑い。
上の書いてみたことを踏まえて、もう一度動画をみると、色々漏れてる説明なども分かる。
学習は、繰り返し定着させないと意味がないというのが分かる。
なんとなくの知識だけど、それがへーというレベルで少し理解が深まった気がした。
宇宙を膨張させているエネルギーのことを、ダークエネルギーというんだなーとか。
そして、そのエネルギーが、宇宙全体の7割ぐらいもしめているということだ。4%ぐらいが知られている物質で、その他はダークマター(暗黒物質)ということだそうな。
知らないことの方が多い、ということ、天才のアインシュタインでも、宇宙項の取り扱いで二転三転したみたいに、間違えることもある(結果的に合ってたというのが天才)。
サンデージという科学者が、70億年から130億ぐらいと予測し、パールムッターという科学者が、1998年に、超新星爆発の研究から、宇宙は膨張していることを突き詰める。
知識がないと、幸せになれない可能性が高いというのは確かだと思う。しかし、美味しいビールを1杯2杯……まではいいとして、大量に飲めば飲むほど幸せかということは絶対にない。美味しいと感じるのも最初のうちだけだし、そのうち、二日酔いになったりするだろう。
バランス感覚が大事だ。
中庸だ。やっぱり仏陀は正しかった……。
とはいえそれが一番難しい。VUCA、ぶーか? というのが言われたりする。もともとは軍事用語だったらしいが、ビジネスでも言われるらしい。
あんまり聞いたことなかったが。
Volatility
Uncertainry
Complexity
Ambiguity
綴り、間違ってると思う……。これが正直なボクの知識レベルである。ただ、訳語は覚えている。ボラティリティは、変動性のこと。アンサータンリィは、不確かなこと。こんぷれきしてぃは、複雑性、アンビギュイティは曖昧性。
追記:惜しかった。正解は↓のようだ。
「Volatility(ボラティリティ:変動性)」「Uncertainty(アンサートゥンティ:不確実性)」「Complexity(コムプレクシティ:複雑性)」「Ambiguity(アムビギュイティ:曖昧性)」
何が正しいか分からない、と一言でいえばそういうこと。
自分の将来すら良く分からなかった。自分がどうしたいのかさえ。
だから、生きづらい、とか言ってたり感じてたけれども、その段階が過ぎて、「意外と何とか皆している」ということに気づき始めた。
世界は、危うい拮抗の中にあるのかもしれない。一瞬で、大地震が起こってすべてがなくなってしまう、その数秒前なのかもしれない。
キャメロット。アーサー王物語の理想都市。
しかし、1か月後は、取り敢えず大丈夫そうだ。1年先も、もしかしたら大丈夫かもしれない。
大きくて、どうしようもない不安。
先行き不透明。
若い内は、それを感じる度合いも頻度も高いと思う。それは大人になっても続く。
でも、それでも、何とかなる。
すごいなと思う。自分が、もうすぐ死ぬ……ということは、中々意識できることでもないし、逆に意識しても正気を保てるというのがすごい。
もちろん、文章に書き表せないほどの激情があったことは想像に難しくない。
美談として残ったことばかりではないし、絶望して命を絶つ人だっている。それでも、最後まで自分の命を燃やし続けることができる人もいる。
その中で、自分はどうなのか。
それは僕は得意な方だったはずなのに、最近、頭に浮かぶ事柄自体が少なくなった気がしてならない。
気づけば同じことを考えていたり、何も考えていなかったり。
退化だ。
思考は経験から生じ、経験は行動から生じる。だっけか。
違った。経験は思考から生じ、思考は行動から生じる、だった。
そこら辺を間違えるというのは、ちゃんと理解してないからだな。ディズレーリだったっけ……。
行動しないことには、思考は生じないということだ。
頭でっかちだと、思考することから、行動をはじめようとするが、その逆なのだと。思考の体系化されたのが、経験なのだと、そういうことなのだろう。
まえがき
宇宙の年齢は、138億歳ということだ。ボクは、137億歳と覚えていたが、最新の研究では、138億±0.6億歳というのが正しいようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=gfQyO9XbTiM
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gfQyO9XbTiM" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
上の動画が分かりやすかった。
しかし、それだけの知識だと、やっぱり「で?」ってなってしまう。どうして、138億歳ってのが分かるのか、というのまで知ってると、少し楽しいと思う。
宇宙マイクロ波のゆらぎ
宇宙マイクロ波という、ビッグバンのときからあった光は、今も身近にたくさん存在しているという。それを観測すると、光の強さと弱さのむらがあることが分かった。それによって138億というのがわかった……といわれてもちんぷんかんぷん。
天文学者のハッブルは、宇宙が膨張していることを突き止めた。それはどうやったかというと、遠くの星ほど速く遠ざかっているということから。
なんで遠ざかっているのか。ダークエネルギーのおかげだ。ダークエネルギーの構成比を突き止めるために、宇宙マイクロ波が使われたということだ。
宇宙が膨張していて、遠くの星が速いスピードで遠ざかっているということで、遠くの星の距離と、速さが分かれば、距離÷速さで、出発時間が分かるということ。出発時間というのが、生まれたタイミングというわけだ。いこーる、年齢。
何かいてるかさっぱり分からないと思うから動画を見てもらうしかない。そういう意味でも、短い時間で分かりやすくまとまっているのはすごい。そして、動画見てからの自分の感想というか記憶力が上のレベルというので、知力が測られる……かっこ笑い。
上の書いてみたことを踏まえて、もう一度動画をみると、色々漏れてる説明なども分かる。
学習は、繰り返し定着させないと意味がないというのが分かる。
宇宙の膨張
宇宙は膨張している。そして、その速度は加速している。なんとなくの知識だけど、それがへーというレベルで少し理解が深まった気がした。
宇宙を膨張させているエネルギーのことを、ダークエネルギーというんだなーとか。
そして、そのエネルギーが、宇宙全体の7割ぐらいもしめているということだ。4%ぐらいが知られている物質で、その他はダークマター(暗黒物質)ということだそうな。
知らないことの方が多い、ということ、天才のアインシュタインでも、宇宙項の取り扱いで二転三転したみたいに、間違えることもある(結果的に合ってたというのが天才)。
サンデージという科学者が、70億年から130億ぐらいと予測し、パールムッターという科学者が、1998年に、超新星爆発の研究から、宇宙は膨張していることを突き詰める。
知識
知識は大事だ。どんどん増やしていくべきだ。しかし、知識があっても、幸せになれるとは限らない。知識がないと、幸せになれない可能性が高いというのは確かだと思う。しかし、美味しいビールを1杯2杯……まではいいとして、大量に飲めば飲むほど幸せかということは絶対にない。美味しいと感じるのも最初のうちだけだし、そのうち、二日酔いになったりするだろう。
バランス感覚が大事だ。
中庸だ。やっぱり仏陀は正しかった……。
とはいえそれが一番難しい。VUCA、ぶーか? というのが言われたりする。もともとは軍事用語だったらしいが、ビジネスでも言われるらしい。
あんまり聞いたことなかったが。
Volatility
Uncertainry
Complexity
Ambiguity
綴り、間違ってると思う……。これが正直なボクの知識レベルである。ただ、訳語は覚えている。ボラティリティは、変動性のこと。アンサータンリィは、不確かなこと。こんぷれきしてぃは、複雑性、アンビギュイティは曖昧性。
追記:惜しかった。正解は↓のようだ。
「Volatility(ボラティリティ:変動性)」「Uncertainty(アンサートゥンティ:不確実性)」「Complexity(コムプレクシティ:複雑性)」「Ambiguity(アムビギュイティ:曖昧性)」
何が正しいか分からない、と一言でいえばそういうこと。
曖昧性
まぁ、そんなことは、もう10年も20年も? 前から感じていた。自分の将来すら良く分からなかった。自分がどうしたいのかさえ。
だから、生きづらい、とか言ってたり感じてたけれども、その段階が過ぎて、「意外と何とか皆している」ということに気づき始めた。
世界は、危うい拮抗の中にあるのかもしれない。一瞬で、大地震が起こってすべてがなくなってしまう、その数秒前なのかもしれない。
キャメロット。アーサー王物語の理想都市。
しかし、1か月後は、取り敢えず大丈夫そうだ。1年先も、もしかしたら大丈夫かもしれない。
大きくて、どうしようもない不安。
先行き不透明。
若い内は、それを感じる度合いも頻度も高いと思う。それは大人になっても続く。
でも、それでも、何とかなる。
余命僅か
10代でがんになって、最後までブログを続けた人の話とかも最近読んだ。すごいなと思う。自分が、もうすぐ死ぬ……ということは、中々意識できることでもないし、逆に意識しても正気を保てるというのがすごい。
もちろん、文章に書き表せないほどの激情があったことは想像に難しくない。
美談として残ったことばかりではないし、絶望して命を絶つ人だっている。それでも、最後まで自分の命を燃やし続けることができる人もいる。
その中で、自分はどうなのか。
言葉での表現
頭の中で考えていることを、アウトプットすること……。それは僕は得意な方だったはずなのに、最近、頭に浮かぶ事柄自体が少なくなった気がしてならない。
気づけば同じことを考えていたり、何も考えていなかったり。
退化だ。
物語の喪失
インプットがないと、アウトプットはない。思考は経験から生じ、経験は行動から生じる。だっけか。
違った。経験は思考から生じ、思考は行動から生じる、だった。
そこら辺を間違えるというのは、ちゃんと理解してないからだな。ディズレーリだったっけ……。
行動しないことには、思考は生じないということだ。
頭でっかちだと、思考することから、行動をはじめようとするが、その逆なのだと。思考の体系化されたのが、経験なのだと、そういうことなのだろう。