今日の一言「1か月置きには書こうと思えているのだろうか」
たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)
まえがき
久しぶりに、ブックマークに入っているシロクマさんの記事を読み直した。40代になってからも限界はみえない。それでもできることは減っている。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230511/1683802800ますます静かに・安全になっていく社会は人間を自由にするか
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230608/1686216818たぶん、昨今の若者というか、多くの人がそうだと思うが、年上だからといって無条件に尊敬したり、話したりされることを鵜呑みにできる人は少ないと思う。
あんまり、年齢という差が重要じゃなくなっているとは思う。
時間をどう濃密に使って、それをどうインプットしてきたか……その点が違いだと思う。
自分より若くても、自分なんて比べ物にならないくらいすごいな、って人もいるし、経験も知識も全然違う。
前に、ツーリングとかでうざがられる、バイクの排気量を聞く「何ccおじさん」(ナンシーおじさん)という言葉も聞いたことがあるが、同じように「何歳?」という問い自体がナンセンスなのだろうと思う。
すごいことと尊敬できることも違う
あと、「すごいなぁこの人」と思うことはあっても、自分と違う価値観が中心だと、「へー」で終わってしまう。価値観が共有できたり共感出来たりする上で、「すごい」という人がやっぱり尊敬に値する人だと思うわけだ。
そういう意味で、上で取り上げたシロクマさんは、尊敬できるなって思う。シロクマさんなら、こういう問題や問いに対して、どう考えてどう答えを出すのか、そんな風に思考をトレースしてもいいかな、って思う。
これは、素直な人は別に普通のことなのかもしれないけれど、ボクの場合は、基本的に、自己中心的なので、「人は人、他人は他人」という意識が、ずーーーっと、それこそ自我が芽生えた時からあったような気がする。
より若いときは、「人と合わせることが逆にイヤ」というあまのじゃくてきな面倒くさい人間だったような気がする。
最近は、「人と合わせた方が色んな面でとても良い」というケースがあるので、悪いことじゃないんだなーって思っている。これが「大人になった」ということなのだろう。形容詞的に、「みにくい大人」なのか、「ずるがしこい大人」なのか分からないけれども。
あと、「年上」って、逆にバイアスがある気がする。要するに「年上なんだから、もっとできるでしょ」ということ。見る目が厳しいってことだね。
でもこれも当たり前で、同じ能力があったとして、30歳でできる人と、40歳でできる人がいたら、30歳でできる人の方がすごい、って思うじゃないか。時間は平等なのだから、仕方がない。まぁ、光速に近づくと時間も相対的に変わるものなのだということだけれども、人間の人生という面においては不変と言っていいだろう。
そういう意味でも、シロクマさんならどう考えたり思うのかな……っていうのは、自分の中でも珍しい面白い感覚な気がしている。
ということ自体は、もっと前から思っていたけれども、数年たってもその気持ちが変わらなかったから、今回書いておくことにした。
よりよい社会って何だろう
戦争して人を殺すことも、正義な面がある。どう考えても、某国は間違ってると思うし、滅びてしまった方が「より良い社会」になる気がするけれども、しかし一方で、某国においてはそこに「正義」があるわけだ。
何も正義がなければ、さすがに現代社会で成り立つとは思えない。
一定の安定した人がいて、「この正義は正しい(守るに値する)」と思うから、社会が維持されているのだと、思う。思いたい。
まぁ、複雑な国際社会のことは分からないから置いておいて。
一般の、例えば、公園で子供の声がうるさいといったクレームに関する話とか。
ぶっちゃけ、戦争レベルの話と比べたら、ものすごくどうでもいい話である。
しかし、それは「比べたら」の話であって、当人たちにとっては由々しき重大な問題だ。
むしろ、(遠い)戦争なんかよりもよっぽど重大だ。
公園問題の詳細は、まぁニュースでも色々やってたし、興味があれば上のシロクマさんの記事から辿っても良いと思う。
公園が、子どもの声がうるさいというクレームから閉鎖された、という話だ。
このタイトルだけ見ると、「クレーマー」な話な気がする。
ネット的にも、行政の判断が間違ってるのでは、みたいな論調が多かったような気もしないでもなかった。
いっぽうで、児童虐待的な場合は、行政の判断が遅い……みたいな論調が多い気がする。
そのどっちが正しいとか、良いとか、ボクは正直どっちでもよい……どっちでもよいというとちょっと違うが、気になるのは、「どちらが主流の意見なのか」ということである。
判断のために必要なこと
社会的な問題を考えるにあたって、「個人的な見解」というのは正直どうでもよいことだ。ルールがあって、法律があって、それによって社会は成り立っているのだから、それは曲げるべきではない。法律も「解釈」があるから、その解釈が誤っていることもあるだろうし、それを正すことは大事だろう、そして、そもそも法律だって人がつくったものだから、誤ってたり時代にそぐわなかったら変えるべきだろう。
ただ、既に発生してしまった問題については、既にあるルールを「適用」することでしか解決すべきではない。
そこを崩すと、力が強いものが支配する、ような世界になると思うからだ。
「個人的に納得できない」
ことがあっても、決められたルールにもとづいて「社会的に判断する」ということが、現代社会という、人類が長い血なまぐさい馬鹿らしい歴史を経て開発した発明品なのだ。
(と思う。関西では、この後に「しらんけど」と加えるのがよいらしい(かっこ笑い))
一般的にどういった感情があるのか
なので、結論的にどうなったかとか、法解釈としてどっちが正しかったのか、というのは二の次で、ボクが気になるのは、「一般的にどういった意見が主流なのか」ということである。この「一般的に」というのは、所詮はネット上でのことだし、ニュースや、新聞ほかの情報源にはあたりたいと思いつつも、「普通の人は、こういうことがあったらどう思うのか」ということが気になる。
それは何故かというと、「自分の個人的な意見(感情)」と、「普通の人のそれ」が、どの程度「ズレ」ているのかを知りたい、と思うからだ。
先に書いた通り、ボクは大人になった。
だから、「人に合わせる」こともできるようになったし、しなきゃいけないとも思うようになった。
その際に、「一般的な」感覚というのが大事だと思うのだ。
それは、「合わせる」ことにも大事だし、逆に、主張するときにも大事だと思う。
「こういう意見が大半ですが、こういう点で、自分はこう思うのです」
こんな論調だと、人は耳を傾ける、かもしれない。(結局内容によるだろうが)
自分はどう思うか
と、抽象的なことを書いてきたけれども、割と自分の中では大事だと思っていることだったから、まとめて書けたのは良かった気がする。後で読んで、その主旨が伝わるかどうか、それはいつものごとく、分からない。さて、せっかくだから、その公園クレーム問題について、「ボクの考えや思ったこと」を試しに書いておけば、シロクマさんは結局どっちの未方なんだろ?笑 わかんないや。
って思った、ということだった。
引用されている記事の、実体験をもとにしたクレーマー側の意見の方が面白かった。
そのおかげで、「あー。確かに「子供たち」という言葉には、いろんな意味が含まれているな」という視点が得られた。良いもの読んだな、と思った。
それに基づいた記事がシロクマさんの記事で、更に、「当時……カミナリおじさんみたいな叱ることができる大人も多かった。行政に言って相談するみたいなこと自体が現代風だ」という意見も、「おーー! 確かに」って思った。面白かった。
だから、それだけで、どちらの記事も読んでよかったなーという感想なのだけれど、「だから、そして、どうなるんだ?」というのが分からなかった。
まぁでも、そんなことを要求するのは、こんないつも、わけのわからないことを量産しているボクが言えたことではないのだ。
でもどうなんだろ。公園クレーム問題としては、確かに、シロクマさんが仰るとおり、現代社会は、より「潔癖に」なっている(ルールやマナーが増えている)のだろうけれども、近所の公園で、夜な夜なヤンキーがたむろして煩くしてたら、それは公園閉鎖してもらいたくなると思う笑
自分の住んでいるところに面している道路、住宅街なのに車通り多いのだけれども、閉鎖して欲しいって思う笑 たまにうるさい爆音の車やバイク走ってくから。
だから、「静かな」社会とか、喫煙所とかゾーニングされた社会とか、それは悪い社会じゃないって今は思うなぁ。
たぶん、シロクマさん的には、行き過ぎるとそれも危険だよ、という警鐘をしたいのじゃあないかと思うけれども。確かに行き過ぎは危険だろうなぁ。でも、今のところ、そこまで問題意識は、自分の中ではないなぁ。
(以上、どうでもいい感想)
あとがき
(かっこ書きである。FF16買ってみた。PS5とセットになっているやつ。6/30ぐらいに届くらしい。そんなに楽しみ……なわけでもない笑 なんか、今やってるゲームもなんかのめりこめない気持ちも出てきたから、衝動買いした感じ。あと、ブループロトコルというPCゲームもインストールしてみた、けど、これもまだ始めてない。なんか、新しいことするのがほんと億劫なんだよなぁ……。これは、歳をとったから、ではない。もとからそういう性格である。何か一つのことに集中しているのが好き。仕事とか、そんなこと言ってられないのだけれど。でもほんと、時間的にも、身体的にも、いずれ限界はくるのだから、できるだけ、「負の感情状態」というのは廃していきたいと思う。正直無駄だから……。若いころの苦労的なのは、まぁ仕方ない面はあると思う。ある程度苦労しておかないと、年取ってからの方が、軌道修正や、リカバリー(れじりえんす?)能力が低くなってるだろうから、致命的になってしまうかもしれない。でももう中年なのだし、40代になったら初老なのだし、1日でも、1時間でも多く、「良い感情状態」を保てるようにしていった方がよいと思う。もちろん、個人的な快楽を追い求めるということだけではない。自慰行為を1日中継続しても、それはそんなに気持ちいいことではないだろう。何かこう、人の役に立つというか、存在意義的な何かがある行為行動ができた方がよいと思っている。でもこれも難しい。見ず知らずの人に、1万円を寄付したからといって、何か自分の中に心から嬉しいという気持ちが沸き上がることは、まずない。むしろ、1万円以上を、働いて、給料から天引きして社会(国や地方に)払っているのである。会社で役立たず……と罵られている人が、給料泥棒といわれてしまったとしても、いやそんなことないと言ってあげたい。その、あなたに支払われた給料の中には、国税地方税、社会保険料とか含まれているのだ。つまり、その会社では何の役に立ってないかもしれないが、あなたは、日本国民全体を支えているのである! 詭弁かもしれないが、ただこれは事実なのだから、自己尊厳が損なわれたら、お金がどういう流れになっているかという、中学校公民ぐらいの知識は思い出してよいのではと思う。社会に出ておらず、望まれてもいない子供はどうか。年金暮らしになった老人はどうか。そもそも、人の役に立たないひとは価値がない論を誘発しないか。それは正しいかどうか。……色々、あまり普段意識しないことが多い。ただ、「生きる」ことにおいて、「死ぬ」ことが迫ったときに、もしくは、大事にしていた価値観が喪失したときに、色々考えを巡らせておくことは悪いことではないと思う。そもそも今ボクは子供がいないから、社会的に不要な人間な可能性がある。エンタメの世界だけかもしれないが、40歳までに子供を産んでいなかったら、社会的に不要な人間として処分される社会があってもおかしくないかもしれない。男は、精子を提供したかで判断される。で、結婚して子供も育てていた男が、実は妻となっていた女が、実は別の子供を孕んでいて、男は、自分は処分対象じゃないと安穏していたところ、40代間近になってそのことが発覚し、処分されたくないからといって女に子供を産ませようと焦って更に犯罪を犯してしまう……とかそんなストーリー、だめ、か笑 怖い社会だけれど、行き過ぎた「規制」とかはいずれそういったディストピアをうむ可能性もあることは、想像してもよいのではと思う。子どもがいなくても、税金納めてるのだから、社会の役には立っていると思う。ただ、社会の再生産という点においては貢献できていない。いや、教育業界や保育園に勤めていたらそれは貢献しているのか、しかし、個人としてみたときに、子どもを増やすことには貢献できていない、その点を突かれるのだろうか。分からない。しかしこの、役に立つ役に立たないといった二分法で人の生き方を決めるというのは、感覚的には間違っているし誤っていると思う。しかし、何も深く考えず「それはおかしい」としか言えないと、言葉巧みにそれに近い政策がとられて採用されて、いずれそういった方向性に社会が変わってしまう可能性もある。「人を殺してはなぜいけないのか」これについても、「いけないからいけないのだ」というのは一つ答えとして正しいが、ある程度自分の中でも答えがあった方がよいと思っている。武力が強い、腕っぷしが強いものが正義という社会は、危険で発展性に乏しいから、とか、一つすぐ思いつく理由。腕っぷしが強くても、いまや、刃物や「銃火器」があるので、人を殺すのは簡単だ。いくら剣の腕が優れた戦士でも、寝込みを襲われたら、または、1対100なら、厳しい場面があるだろう。力こそがすべてだ、というその「力」というのが、腕っぷしという基準というのは、あまりに非効率だろうな、と人類は気づいたから、ルールというのを発明したのだと思う、たぶん。だから、ルールとして決められているから、人を殺してはいけないのだ)
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成したことと人間性は違うというのはそうなんですけど、でもやっぱり「凄いと思うことをしている人が、自分が尊敬できると思う人間性を持っていて欲しい」と思うことはありますね。
例えば、自分が読んで面白い、好きだなと思ったマンガや小説の作者の人間性が、自分にとっては嫌な人間であった場合、その作品に対する意識も変わってしまうかもしれないな、と。作者を先に知っていたら作品は読まなくなるかもしれませんし、後から知ったら作品を読む時に「でもこの作者の人間性好きじゃないんだよなぁ」という雑念が混じらないとは言えませんし、それで作品を楽しめなくなることもあると思います。
>よりよい社会
年齢的な話題で言うと、「最近の若者は幼少段階から様々な情報刺激を受けているから、今の大人世代の幼少段階の頃とは感性が違う」というのをどこかで聞いて「なるほど」と思いましたね。
そもそも育ってきている環境の下地が違う、というのは時代ごとにそうだという認識はしていたつもりでしたが、改めて↑の言い方をされているのを聞いて腑に落ちた感じがしました。
私の小中学生時代も、自分の体力のみで自転車などで動ける範囲が「身近な世界」で、車で連れて行ってもらうような範囲は「もっと外の世界」、テレビ等で見るのは「遠い世界」みたいな感覚が確かにあったなぁと。
スマホやネット社会の進化で、今の小中学生は身近なものと認識できる範囲が広がっていて、それが当然の常識として受け止めているから、「最近の若い者は」とか「俺たちが子供の頃は」みたいなのは適用できない別世界の話になってしまっているんですよね。まぁ、「最近の若い者」はなんてのはいつの時代でも出てくるワードみたいですけれど。
>FF16、ブループロトコル
FF16は私はかなり楽しめましたね。
ブループロトコルは何度かテストには参加してみましたが、グラフィック以外はいまいち肌に合わず、というところ。多少の情報は追っていて、様子見はしていますが、しっかり作られたオンラインゲームの掛け持ちも中々大変ですし、どうしようかなぁと思っているところですね……。
>処分される社会
それでディストピアなショート作品1つ書けそうですねw