今日の一言「予約投稿にしてみよう」
とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
まえがき
暇な時間が多くなった。とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
大勢に囲まれている中の寂しさ
幸せと言うのは相対的なものである。そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
孤独な方が幸せという矛盾
いっぽうで、FF14で色々人付き合いしていくことで……いや、「たかがゲーム」「しょせんげーむ」なのだけれども、相手が「人」として考えればそれはまごうことなき人である。身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
それでも一人がよい
しかし、人付き合いを「維持」するのはやはり非常に難しいことなのだと思った。まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
人と居るのに寂しい
承認欲求、かまってちゃん……。自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
何を書きたいか分からなくなってきた
なんだっけ……なんか本筋からずれてきた気がする。とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
遊びのコミュニティでもそう
例えば、FF14において、タンクとか、ヒーラーとか、DPSといった役割(ロール)がある。4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
必要とされたいし役に立ちたい
要は、承認欲求と言うのは、誰かに必要とされたい、役に立ちたいという気持ちの現れなのでもあると思う。だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
あとがき
(かっこ書きである。毎日通勤していると、「人多いな」って思う。こんなに色んな人がいるのにボクは孤独なんだ……とか思ったり思わなかったり。正直思わないことの方が多い。ただ、60歳とか80歳になったとき、どう思うんだろう。周りの人たちは孫に囲まれているのに、ボクは誰もいない。親は当然死んだし、親戚づきあいもない。パートナーもいない。友人もいない。誰もいない……寂しい……っとなるのだろうか。しかしながら正直、「寂しいからパートナーを探す」というモチベーションは、ない。60歳の自分からみたときに、今の自分に憤るのかもしれないが、ただ、思い出してほしい、その動機付けが起こりえたのかどうか、を。でも、真面目な話、60歳とか、80歳になったボクが、過去のボクをみて、後悔して欲しくないと思う。例えば、ボクの10代のころを……思い出してみて……うーん……。後悔は、まったくない。つまんねー人生だったなぁ、つらかったねぇ……と慰めたくはなるけれども、じゃあ、他にどうできたのか、といわれたら、正直思いつかない。もう一度やり直していいよ、と、仮に今の知識や思考をもったまま過去をやり直せるとしても、やり直そうとは思わない……。これはほんとに。やり直したくねぇ……(かっこわらい)。という思考実験からも分かるように、今の僕は幸せである。大人は、もっと、「人生幸せだ―!!」って言った方がいいと思う。大人になるということに、一切魅力がなかったもんな。つまらなそうだった。かといって、若い時は、今ナウ、もつまらなかったんだが。ニュースとか、世間話とかでも、暗い話ばっかりである。もっと生きてるのって楽しいんだよとか、楽しい場所って他にたくさんあるんだよとか、そういうの必要じゃないだろうか。ボクが見えてなかっただけなのだろうか、そうかもしれない、が、例えば、某匿名掲示板とか、ヤフーコメント欄とかみても、批判的な奴とか、つまらない意見コメントばっかりである。えっと、思考実験の話だ。どうにも、あとがきになると、もう文脈無視していいという気になるから色々書いてしまう。あの、その、とにかく60歳になったとき、自分に「おまえ……あのとき、ああしておけば……」みたいなことを思われないようにしたいとは思う。他人の責任を取ることは難しいが、自分の責任は、せめて取りたいとは思う)PR
今日の一言「タイトルと関係ない話が多くなるかも」
ボクは、137億歳と覚えていたが、最新の研究では、138億±0.6億歳というのが正しいようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=gfQyO9XbTiM
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gfQyO9XbTiM" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
上の動画が分かりやすかった。
しかし、それだけの知識だと、やっぱり「で?」ってなってしまう。どうして、138億歳ってのが分かるのか、というのまで知ってると、少し楽しいと思う。
それによって138億というのがわかった……といわれてもちんぷんかんぷん。
天文学者のハッブルは、宇宙が膨張していることを突き止めた。それはどうやったかというと、遠くの星ほど速く遠ざかっているということから。
なんで遠ざかっているのか。ダークエネルギーのおかげだ。ダークエネルギーの構成比を突き止めるために、宇宙マイクロ波が使われたということだ。
宇宙が膨張していて、遠くの星が速いスピードで遠ざかっているということで、遠くの星の距離と、速さが分かれば、距離÷速さで、出発時間が分かるということ。出発時間というのが、生まれたタイミングというわけだ。いこーる、年齢。
何かいてるかさっぱり分からないと思うから動画を見てもらうしかない。そういう意味でも、短い時間で分かりやすくまとまっているのはすごい。そして、動画見てからの自分の感想というか記憶力が上のレベルというので、知力が測られる……かっこ笑い。
上の書いてみたことを踏まえて、もう一度動画をみると、色々漏れてる説明なども分かる。
学習は、繰り返し定着させないと意味がないというのが分かる。
なんとなくの知識だけど、それがへーというレベルで少し理解が深まった気がした。
宇宙を膨張させているエネルギーのことを、ダークエネルギーというんだなーとか。
そして、そのエネルギーが、宇宙全体の7割ぐらいもしめているということだ。4%ぐらいが知られている物質で、その他はダークマター(暗黒物質)ということだそうな。
知らないことの方が多い、ということ、天才のアインシュタインでも、宇宙項の取り扱いで二転三転したみたいに、間違えることもある(結果的に合ってたというのが天才)。
サンデージという科学者が、70億年から130億ぐらいと予測し、パールムッターという科学者が、1998年に、超新星爆発の研究から、宇宙は膨張していることを突き詰める。
知識がないと、幸せになれない可能性が高いというのは確かだと思う。しかし、美味しいビールを1杯2杯……まではいいとして、大量に飲めば飲むほど幸せかということは絶対にない。美味しいと感じるのも最初のうちだけだし、そのうち、二日酔いになったりするだろう。
バランス感覚が大事だ。
中庸だ。やっぱり仏陀は正しかった……。
とはいえそれが一番難しい。VUCA、ぶーか? というのが言われたりする。もともとは軍事用語だったらしいが、ビジネスでも言われるらしい。
あんまり聞いたことなかったが。
Volatility
Uncertainry
Complexity
Ambiguity
綴り、間違ってると思う……。これが正直なボクの知識レベルである。ただ、訳語は覚えている。ボラティリティは、変動性のこと。アンサータンリィは、不確かなこと。こんぷれきしてぃは、複雑性、アンビギュイティは曖昧性。
追記:惜しかった。正解は↓のようだ。
「Volatility(ボラティリティ:変動性)」「Uncertainty(アンサートゥンティ:不確実性)」「Complexity(コムプレクシティ:複雑性)」「Ambiguity(アムビギュイティ:曖昧性)」
何が正しいか分からない、と一言でいえばそういうこと。
自分の将来すら良く分からなかった。自分がどうしたいのかさえ。
だから、生きづらい、とか言ってたり感じてたけれども、その段階が過ぎて、「意外と何とか皆している」ということに気づき始めた。
世界は、危うい拮抗の中にあるのかもしれない。一瞬で、大地震が起こってすべてがなくなってしまう、その数秒前なのかもしれない。
キャメロット。アーサー王物語の理想都市。
しかし、1か月後は、取り敢えず大丈夫そうだ。1年先も、もしかしたら大丈夫かもしれない。
大きくて、どうしようもない不安。
先行き不透明。
若い内は、それを感じる度合いも頻度も高いと思う。それは大人になっても続く。
でも、それでも、何とかなる。
すごいなと思う。自分が、もうすぐ死ぬ……ということは、中々意識できることでもないし、逆に意識しても正気を保てるというのがすごい。
もちろん、文章に書き表せないほどの激情があったことは想像に難しくない。
美談として残ったことばかりではないし、絶望して命を絶つ人だっている。それでも、最後まで自分の命を燃やし続けることができる人もいる。
その中で、自分はどうなのか。
それは僕は得意な方だったはずなのに、最近、頭に浮かぶ事柄自体が少なくなった気がしてならない。
気づけば同じことを考えていたり、何も考えていなかったり。
退化だ。
思考は経験から生じ、経験は行動から生じる。だっけか。
違った。経験は思考から生じ、思考は行動から生じる、だった。
そこら辺を間違えるというのは、ちゃんと理解してないからだな。ディズレーリだったっけ……。
行動しないことには、思考は生じないということだ。
頭でっかちだと、思考することから、行動をはじめようとするが、その逆なのだと。思考の体系化されたのが、経験なのだと、そういうことなのだろう。
まえがき
宇宙の年齢は、138億歳ということだ。ボクは、137億歳と覚えていたが、最新の研究では、138億±0.6億歳というのが正しいようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=gfQyO9XbTiM
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/gfQyO9XbTiM" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
上の動画が分かりやすかった。
しかし、それだけの知識だと、やっぱり「で?」ってなってしまう。どうして、138億歳ってのが分かるのか、というのまで知ってると、少し楽しいと思う。
宇宙マイクロ波のゆらぎ
宇宙マイクロ波という、ビッグバンのときからあった光は、今も身近にたくさん存在しているという。それを観測すると、光の強さと弱さのむらがあることが分かった。それによって138億というのがわかった……といわれてもちんぷんかんぷん。
天文学者のハッブルは、宇宙が膨張していることを突き止めた。それはどうやったかというと、遠くの星ほど速く遠ざかっているということから。
なんで遠ざかっているのか。ダークエネルギーのおかげだ。ダークエネルギーの構成比を突き止めるために、宇宙マイクロ波が使われたということだ。
宇宙が膨張していて、遠くの星が速いスピードで遠ざかっているということで、遠くの星の距離と、速さが分かれば、距離÷速さで、出発時間が分かるということ。出発時間というのが、生まれたタイミングというわけだ。いこーる、年齢。
何かいてるかさっぱり分からないと思うから動画を見てもらうしかない。そういう意味でも、短い時間で分かりやすくまとまっているのはすごい。そして、動画見てからの自分の感想というか記憶力が上のレベルというので、知力が測られる……かっこ笑い。
上の書いてみたことを踏まえて、もう一度動画をみると、色々漏れてる説明なども分かる。
学習は、繰り返し定着させないと意味がないというのが分かる。
宇宙の膨張
宇宙は膨張している。そして、その速度は加速している。なんとなくの知識だけど、それがへーというレベルで少し理解が深まった気がした。
宇宙を膨張させているエネルギーのことを、ダークエネルギーというんだなーとか。
そして、そのエネルギーが、宇宙全体の7割ぐらいもしめているということだ。4%ぐらいが知られている物質で、その他はダークマター(暗黒物質)ということだそうな。
知らないことの方が多い、ということ、天才のアインシュタインでも、宇宙項の取り扱いで二転三転したみたいに、間違えることもある(結果的に合ってたというのが天才)。
サンデージという科学者が、70億年から130億ぐらいと予測し、パールムッターという科学者が、1998年に、超新星爆発の研究から、宇宙は膨張していることを突き詰める。
知識
知識は大事だ。どんどん増やしていくべきだ。しかし、知識があっても、幸せになれるとは限らない。知識がないと、幸せになれない可能性が高いというのは確かだと思う。しかし、美味しいビールを1杯2杯……まではいいとして、大量に飲めば飲むほど幸せかということは絶対にない。美味しいと感じるのも最初のうちだけだし、そのうち、二日酔いになったりするだろう。
バランス感覚が大事だ。
中庸だ。やっぱり仏陀は正しかった……。
とはいえそれが一番難しい。VUCA、ぶーか? というのが言われたりする。もともとは軍事用語だったらしいが、ビジネスでも言われるらしい。
あんまり聞いたことなかったが。
Volatility
Uncertainry
Complexity
Ambiguity
綴り、間違ってると思う……。これが正直なボクの知識レベルである。ただ、訳語は覚えている。ボラティリティは、変動性のこと。アンサータンリィは、不確かなこと。こんぷれきしてぃは、複雑性、アンビギュイティは曖昧性。
追記:惜しかった。正解は↓のようだ。
「Volatility(ボラティリティ:変動性)」「Uncertainty(アンサートゥンティ:不確実性)」「Complexity(コムプレクシティ:複雑性)」「Ambiguity(アムビギュイティ:曖昧性)」
何が正しいか分からない、と一言でいえばそういうこと。
曖昧性
まぁ、そんなことは、もう10年も20年も? 前から感じていた。自分の将来すら良く分からなかった。自分がどうしたいのかさえ。
だから、生きづらい、とか言ってたり感じてたけれども、その段階が過ぎて、「意外と何とか皆している」ということに気づき始めた。
世界は、危うい拮抗の中にあるのかもしれない。一瞬で、大地震が起こってすべてがなくなってしまう、その数秒前なのかもしれない。
キャメロット。アーサー王物語の理想都市。
しかし、1か月後は、取り敢えず大丈夫そうだ。1年先も、もしかしたら大丈夫かもしれない。
大きくて、どうしようもない不安。
先行き不透明。
若い内は、それを感じる度合いも頻度も高いと思う。それは大人になっても続く。
でも、それでも、何とかなる。
余命僅か
10代でがんになって、最後までブログを続けた人の話とかも最近読んだ。すごいなと思う。自分が、もうすぐ死ぬ……ということは、中々意識できることでもないし、逆に意識しても正気を保てるというのがすごい。
もちろん、文章に書き表せないほどの激情があったことは想像に難しくない。
美談として残ったことばかりではないし、絶望して命を絶つ人だっている。それでも、最後まで自分の命を燃やし続けることができる人もいる。
その中で、自分はどうなのか。
言葉での表現
頭の中で考えていることを、アウトプットすること……。それは僕は得意な方だったはずなのに、最近、頭に浮かぶ事柄自体が少なくなった気がしてならない。
気づけば同じことを考えていたり、何も考えていなかったり。
退化だ。
物語の喪失
インプットがないと、アウトプットはない。思考は経験から生じ、経験は行動から生じる。だっけか。
違った。経験は思考から生じ、思考は行動から生じる、だった。
そこら辺を間違えるというのは、ちゃんと理解してないからだな。ディズレーリだったっけ……。
行動しないことには、思考は生じないということだ。
頭でっかちだと、思考することから、行動をはじめようとするが、その逆なのだと。思考の体系化されたのが、経験なのだと、そういうことなのだろう。
あとがき
(かっこ書きである。宇宙って、すごいだなと思う。FF14やっている時間がものすごく少なくなったから、睡眠時間と、ぼーっとする時間と、ユーチューブみる時間になった。めでたしめでた……めでたくない! しかし、休日というのは、休む日なのであって、何かインプットとかアウトプットを必ずしもしなくてもよいものだと思う。「だらだら過ごす」ことも、それが目的であり、目標であればよいのだ。例えば、1年にある休日は、土日だけだと、104日なのだという。祝祭日含めると、118日らしい。ふーん。割と多いような気もする。まぁ、具体的な日数はともかくとして、そのうち、半分ぐらいの50日を「だらだら過ごす」=生産的なことを何もしない、と決めよう。来年、2023年の目標だ! とかにしたとする。そしたら、だらだら過ごせたら、むしろ目標に近づけたということで拍手喝采というわけだ。そういう風に考えれば、「ああ、せっかくのゴールデン休みを無駄にしてしまった……」と哀しむ必要はなくなる。むろん、それを、こて先に、当日にそう思おうとしたって無理だ。ちゃんと、自分の心に落とし込んだ目標にしていないとダメだ。そういうものだ。だが、上で書いた「知識」ということでもそうだし、「幸せ」ということでもそうだが、宇宙138億年の規模でかんがえたら、どれもこれも小さなものだ。落ち込んだり、嫌な気持ちになったり、哀しい気持ちになったり、これからさきも沢山あるだろう。そういったときにそういったことを乗り越えられる知識や考え方や感情を、涵養する必要がある)
今日の一言「眠れない夜に書く……というのは初めてではない」
もう11月も終わるというのか。
早いな。年々加速している気がする。
やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。
仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。
しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。
なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
それでも全然眠れなかった。
そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。
おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。
そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。
でも大丈夫だった。
仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。
そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。
なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。
これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。
それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。
これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。
ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。
もう、自分が信じられない。
1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。
自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。
再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。
財布を忘れて会社に行くときがある。
それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
それによって、忘れる可能性が減った。
それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。
認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。
もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。
まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。
もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。
やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。
というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。
自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。
でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。
そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。
大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。
で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。
光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。
やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。
でもボクはそれは、明確に嫌である。
少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。
最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。
ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。
とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。
前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)
アバターとは違うわけだ。
アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。
ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
小説的に言えば、超・感情移入みたいな。
そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。
とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。
というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。
ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。
んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。
ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。
それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。
そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。
なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。
んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。
それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)
そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。
やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。
そういう新鮮さがなくなってしまった。
そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。
その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
まぁそれでも全然いいのであるが。
よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。
これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。
まえがき
前回の記事は、10月23日。今日は、11月27日。1か月は経ったのか。あまり、そういう感覚がない。もう11月も終わるというのか。
早いな。年々加速している気がする。
やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。
仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。
しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。
眠れない夜
ということで、昨日から、3時間ぐらいしか眠れていない。27時(3時)~29時(5時)ぐらいは寝てたかな、という感じ。なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
それでも全然眠れなかった。
そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。
おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。
そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。
でも大丈夫だった。
仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。
そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。
なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。
チェックリスト
ミスしたんじゃないか……という不安が、結構大きくなっているこの頃。これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。
それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。
これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。
ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。
もう、自分が信じられない。
1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。
自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。
再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。
財布を忘れて会社に行くときがある。
それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
それによって、忘れる可能性が減った。
それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。
認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。
もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。
まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。
FF14のコミュニケーション
と……面白いものである。そもそも、悩んでいたこととは全く別の話を書いているのだから面白い。もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。
やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。
というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。
自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。
でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。
そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。
大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。
で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。
光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。
キャラクターとしての感覚
なるほど……確かに便利だと思った。やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。
でもボクはそれは、明確に嫌である。
少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。
最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。
ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。
とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。
前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)
アバターとは違うわけだ。
アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。
ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
小説的に言えば、超・感情移入みたいな。
ボイスチャット
それで、ボイスチャットの話に戻るわけだけれども、ボイスチャットは、どうしても「前世」(リアル・現実)を意識させるものであって。そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。
とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。
というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。
ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。
んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。
ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。
それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。
そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。
なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。
んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。
それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)
これからのFF14
そのVC問題と同時に、そもそも、ストーリーもクリアしてしまってやることがあまりなくなったというのもある。「零式」という、難しい戦闘コンテンツに挑戦するというのが一つのステータスでもあるけど、「零式」は、やっぱりVC使う場面が多いということだし、また別のダメージを計測するツールの問題もあってとにかくややこしい面倒さがある。そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。
やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。
そういう新鮮さがなくなってしまった。
そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。
その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
まぁそれでも全然いいのであるが。
よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。
これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。
あとがき
(かっこ書きである。落ち着いたのか、ボクは。言いたいことを言えないとやっぱり、人は苦しくなるものだ。しかし、言ったとしても理解されないことだったらどうだろう。幸いにして、ボクは、人を殺したくて殺したくてたまらないといった快楽殺人鬼的なことを思うことはないので、言っても理解されないということはそこまで多くないのではないかとは希望をもてそうだ。とはいえ……。今回書いてきたような、自己の存在の外側にあるような問題の場合は、「話してすっきり」みたいな方法は取れない。「死に至る病」というキルケゴールの著書と同名の漫画があるけれど、ネタバレになるけど、二重人格的になって、その二重人格の方が後天的に発生したものであり、それを認めてしまうとその人格自体のアイデンティティが否定されてしまう……という話しがあった。本当の自分が分からなくて苦しむ一方で、実は「本当の自分(二重人格の前の元の人格)」を認めてしまうで、その後天的な人格(二重人格)は死ななければいけないという、そんな話しだった気がする。問題は、解決されるためにある、と言われることもあるが、同時に解決できない問題もあるのだ。さらに、問題を解決することでそれが原因として起こる問題と言うのもある。直線的な問題だけでなく、サーキュラな(円環的な)問題というのが、実のところ多いのだろう。つまり、この記事は、結局のところ、問題を問題として認識するためのきっかけにすらなったか分からない。とはいえ、眠れない夜が明けて、朝になったというのは、この記事のおかげであるといえるので、その点は感謝しないといけないだろう。(と、最初に良そうしたとおり、ここまでで大体1時間だ))まえがき
ふと思いついたことを書くだけの記事。生存報告という意味もあるかもしれない。私は元気です。
でも、先週後半に、仕事でミスしたかもと気がかりになってしまったことがあって、ずっと気持ち的に引きずっている。大丈夫だろう……と思いつつ、しばらくしないと結果が分からない。
なんか、思い切って楽しめない自分がいる。悔しい。時間がもったいない。
頭の切り替え方、みたいな記事を調べても、役に立つものは出てこない。
仕方がない、自分で書くしかない、しかし書くだけのことを思いつかない。まぁ諦めるしかない。
セキュリティ
ぜんぜん話は変わるのだけど、セキュリティと聞くと、どんなイメージだろか。ハッカーとかの攻撃などを思い浮かべるだろうか。情報漏洩という言葉も浮かぶかもしれない。ただ、セキュリティというのは、3つの概念の総称である。機密性・完全性・可用性。
情報漏洩というのは、その機密性の部分の話。ただ、セキュリティを守る、といったときは、残りの完全性、可用性も大事だ。
情報漏洩だけを心配するなら、重厚な耐火金庫に入れて、鍵かけて出さなきゃいい、ということになる。
必要なときに利用できて、それでいて完全な状態(改ざんされてない状態)であることが大事なのだ。
安全性
観光……。スカイダイビングとかスキューバダイビングは危険だ。でも、それが趣味で楽しい人もいる。旅行も、危険だ。
車の運転も危険だ。
じゃあ公共交通機関は大丈夫? いやバスも危険だ。飛行機だって。
電車は安全? 確かに安全だ。人が死ぬ確率が利用者数に比べてものすごく少ない。でも100%ではない。
安全だとすれば、家の中でずーっと布団にくるまっているのが安全だ。
何がいいたいかというか、ふと思ったかと言うと、どこまでいっても、危険(リスク)は0にはならないということ。
危険をなくすことは大事だが、0にはできない。どこかしらで基準と言うか、諦めというか、妥協というものが必要になる。
ノンアルコール飲料や、カフェインレスコーヒー。バーチャルセックス。危険を亡くして行った先は、なんかディストピアな気がしてならない。
命のリスクと娯楽
アニメやゲームって、その点、素晴らしいと思う。安全性が確保されたうえで、脳内の「楽しい」が刺激できるのだから。リアルのスリリング……命の駆け引きが必要な娯楽……というのは、人間に絶対必要なのか。たぶん、いらない、という人が多いだろう。
コロセウムの死闘なんて野蛮だと思うだろう。
ただ、お酒はどうか、となったときにどうだろう。急アルで死ぬかもしれない。脳細胞が破壊されて、寿命が縮むかもしれない。
それでも、「娯楽」のために飲むのか。ちょっと嗜む程度ならいいじゃない、というオチでおわるだけの話だけど、極論的に考えると、何でも間でも「ダメ」という社会になる可能性はゼロじゃない気がする。
そしてそもそもリスクは、ゼロにはならない。
あとがき
(かっこ書きである。そんなことを思っただけ。思った時間は1秒。それを書いてみると、そうだな、ここまでで、10分? 15分? ぐらいかかる。書いたことの意味があるのか。分からない。後で読み返した自分が、ちょっと面白いなとか、あーそうそう、そう思ったことあったな、とか思えるぐらいか。しかし、書いて「できあがった記事(とか作品)」という意味だけでなく、書いたことによって生じる自分の脳内変化、というのがより大事な気もする。頭の中に浮かんでも、それをアウトプットしないと、鬱屈して思考ループになることもある。思考ループを防ぐ、ないしは解消するというのが、この書くという効果であると言ってよい。言ってよい、キリッとか、何を根拠に、と言うことになる。根拠がないと何も言えないこんな世の中なのかポイズン。親しい友人という存在は、こういう、根拠がないけどちょっと思ったことをいうときに大事なのである。しかし、リアル世界における物理友人が仮にいなくても、ブログやSNSなどで発信することで解消することもできる、といってよい(きりっ)。物理友人の方が、安心かもしれない。ネットだと、よからぬ輩によからぬことをされるかもしれない。しかし、そのリスクは両方にあるともいえる。リスクはなくならない……と、記事のテーマにちょっと関わらせつつあとがきも終える)
今日の一言「何か不満足というわけではないけども不安はある」
別にダメとかは思わなくなったけれども、不安はある。
大学生の時、3Dの対戦型シューティングゲームをやってて、たぶん、ロビーがあるオンラインゲーム(※)としてはそれが最初だったのかな。フレンドになった方とのおしゃべりや、帰省の途中に住んでる方とオフ会したりとかもしたことがあった。
※特定の人とダイレクトに繋がるゲームはやったことあった
その頃は、大学の課題とかもあったけれど、遊びたいという気持ちが常にあったと思う。どういうタイミングでやらなくなっていったのかなぁ。過去の日記なども残ってるのかな。
実は、人間の意識とか言語というのはそう簡単なものではなくて、前意識とか、言語も、シーニュ(意味するもの)とかシニフィエ(意味されるもの)とか分かれている。
ソシュールの話は、いつも面白いって思って聞くのだけど、しばらくすると忘れるんだよな。身につかない、ということは、それだけ専門的なのだろう。
でも納得しているところもあって、頭の中に生じている「ことば」というものが、そのままダイレクトに「文字」として表現することはできないのだ、という点。
思考というのは、文字とは完全に一致はしない。
感情もそう。
そんな中でも、小説とか文学というものは、文字で人間を表現しようとしてみゃくみゃくと続いてきた文化だ。それは素晴らしいものだと思う。
という言葉があまり好きではない。仕事とプライベート、という分け方も好きではない。いや、現実はそうはいかないし、公共の利益は大事だ。でも、いったん、そういう「たてまえ」とか「ぜんてい」といったものを取っ払って考えることが、昨今大事なのかもしれないとも思う。
本来どうあるべきか。
と、僕は今までも考えるようにしていたし、そうありたいと思っていたけれど、実はそんな僕も「ぜんてい」なるものにとらわれているのである。
本当にしたいこと、なりたいもの、えたいものということを、忘れちゃいけないと思う。
とはいえ、「幸せ」とは何か、という定義は、「理想と現実との乖離が少ないこと」だと思っているので、その匙加減が難しいところである。
理想だけ高くすると現実がおいつかなくて大変だし、理想を下げ過ぎても、自分の本当の気持ちというものを無視することになる。
ことば、で表現するのは簡単だが、実現するのが難しいということで世界は溢れている。
平和、というのもそうだね。平和という概念はみんな共感し、成したいと思っていても、実現は非常に難しい。戦争を起こした国だって、「建前」上は「平和」のために戦争をしているのである。誰にとっての平和なのか、何を目指す平和なのか。それが違うだけだ。
FF14は、世界観もすばらしいし、グラフィックもすばらしいので、その世界を楽しんでいた。
ただ、自分のような感覚で楽しんでいる人は、いないことはないが、あまり多くもなさそうだ。
多くの人は、「ゲーム」として楽しんでいる。
自分はどちらかというと、「物語」として楽しんでいる。たぶん廃れそうな言葉を使えば、「メタバース」で生活しているイメージである。メタバース。攻殻機動隊とか好きだけど、どうにもあまり流行るように思えないのはなぜだろう……。
「私」
という存在を、仮想空間に置きたいというわけではないのだと思う。自分の感覚として。
私の魂をもった別の身体をもった存在で、別の世界を生きていたい、という感覚だろうか。
そういう意味で、FF14のストーリーは、エーテルとか「魂」の在り方とかが深くかかわってるので、ストーリーとして楽しいというのがあった。
ところが、最近、ストーリーが最新のパッチまでおいついてしまった。
そして、「暁月のフィナーレ」ということで、10年ちかく続いていたストーリーが完結したのである。
それはそれは、感動した。楽しかった。すごかった。陳腐な言葉がならぶほどに、言葉にならないほど面白かった。MMORPGという、「MMO」の部分を除いて、ソロで良いから物語としてお薦めできる。
まだ色々やることがある。サブストーリーとかメインストーリーに関係ないこととか、まだ触ったことないジョブとかもたくさんある。
高難度というコンテンツも、少しだけやってみた。これはこれで面白い。冒頭少し書いた、3Dシューティングゲームやってたころみたいなハマり方をしそうだなと思った。
しかし、これは非常に「楽しむ」上で危険だと思った。
かなりメタ的なことを書くと、「答え合わせ」なのだと思っている。
いや、ゲームってそもそもそういうものなのだ。
だからこそ、「ゲームとして感じさせない工夫」があるFF14が面白いと思ったわけである。
敵との戦闘というのは、ランダム要素があるとはいえ、「適切な行動(スキル回し)」というのがある。「正解」があるのだ。完ぺきな正解はできないにしても、正解に近い行動がとれると、攻略できる、クリアできる、ということになる。
いかに、その正解を自分で再現できるか、というのが本質なのである。
……って書くと、非常に冷める(かっこ笑)。
書くと冷めるから、ずーっと前(ストーリーが終わりそうというぐらい)から思っていたけれども敢えて書かなかった。
思ってることを文字にすると、こんな風に、いくらでもブログもかけるのだけど、「いうべきでないこと」というのが発生すると、そもそも「書きたい」という気持ちがそがれるので、ブログから離れてしまう。最近はその繰り返しだったりする。
最初、ぜんぜん上手くスキル回しができずに、敵の攻撃(ギミック)を回避できずに死んじゃってたのが、段々倒せるようになったり、意識せずスキル回しできるようになったりすると、成長した感じもして楽しい。
本質的に楽しいから、流行ってるのである。
それはそうなのだけれど、それだと、いつか「所詮ゲームだし」という冷めた気持ちが生じる可能性が否定できないと思う。トッププレイヤーはいいだろう。それによって賞賛されたり、昨今はプロゲーマーという職業すらある。
ただ、現実問題、いくら頑張ったところで、そんな風にはなれない。自分が平々凡々なのは分かっている。
どんだけ頑張ったって、トップに上り詰めることはできない。
今の自分の実力から、少しずつ頑張って、できることを増やしたり楽しんだりするぐらいがちょうどよい。
……それはよい。そんな風に、身の丈に合って遊ぶのが良い。
ただ、書きたいことはそこじゃなくて、結局それは「ゲーム」としての楽しみ方になっている、ということだ。
気持ち悪いと感じる方も多いことを承知で、自分は、「もう一つの世界」としてFF14を楽しんでいた。
だから、「中の人」とかいう表現も嫌いだし、「自機」という言い方も好きじゃない。ツイッターとかで、リアルの話とかたくさんする人ともあまり関わりたくない。
できるだけそういう人たちとは関わらないように、とは思っていたけれど、交流が広がるにつれて、色んな人とかかわるようになった。
そしていつしか、自分もそこまで気にしないようになってしまっていることに気づいた。
もともと、ご飯写真とかエオルゼアのイベントとかエオルゼアカフェとかの話とかは全然よいと思ってたので、自分の中での基準もあいまいだったのだろう。特に今ではその基準がほとんどなくなったということかもしれない。
やじゃん。かわいいキャラクターから、野太い声が聞こえてきたら、「何……??」って思う……。
でも、「ぜんてい」とっぱらって考えたら、将来、ボイスチェンジャーのすごい奴があったらいいなーて思う。
チャットやりとり、というのも好きなのだけどね。光のお父さんのマイディーさんのブログとかみて、興味持ったのは、意外に「チャット文化」だと思ったからだ。それがないと、たぶんそもそも始めてすらいなかった気がする。
チャットは面倒、という意見の方が最近よく聞く。そりゃそうだ。口でしゃべった方はやいもの。
いま、ここまで3000字? 5000字? 書いてきたけど、すでに1時間ぐらいかかりはじめてる。自分はわりとタイピング速いからここまで書けるけど、普通そうはいかないと思う。そうすると、話せることが限られる。
あと、冒頭で書いた、「文字」と気持ちはまた乖離がある。だから「面倒」というのは当たり前で、正しい。
だから、VCとかやりたい人が多いのも分かるし、これから広がっていくのかもしれない。
ただ、周りがみんなそうなったら、いつか自分は交流をしなくなるか、そもそもやめるだろうと思う。
とはいえ、「すごいボイスチェンジャー」があったら、自分もVCしてもよいかなとは思う。
すごいボイスチェンジャーというのは、自分のキャラクターにあった声にしてくれるというもの。エモートのときに、笑ったりすると声がでるけれども、それとあった声にしてくれるなら、すごくよいと思う。
まえがき
前書きなし。最近
タイトルのとおり、仕事に行くか、帰ってきたらFF14しかしてない気がする。ニュースは見てるかな、ぐらい。別にダメとかは思わなくなったけれども、不安はある。
大学生の時、3Dの対戦型シューティングゲームをやってて、たぶん、ロビーがあるオンラインゲーム(※)としてはそれが最初だったのかな。フレンドになった方とのおしゃべりや、帰省の途中に住んでる方とオフ会したりとかもしたことがあった。
※特定の人とダイレクトに繋がるゲームはやったことあった
その頃は、大学の課題とかもあったけれど、遊びたいという気持ちが常にあったと思う。どういうタイミングでやらなくなっていったのかなぁ。過去の日記なども残ってるのかな。
日記
日記と言えば、「ログ」という形で――まぁこのブログもそうだけれども――自分の思考をダイレクトに文字にするということをずっとやっていた。特定の年では、ほんと毎日書いていた。実は、人間の意識とか言語というのはそう簡単なものではなくて、前意識とか、言語も、シーニュ(意味するもの)とかシニフィエ(意味されるもの)とか分かれている。
ソシュールの話は、いつも面白いって思って聞くのだけど、しばらくすると忘れるんだよな。身につかない、ということは、それだけ専門的なのだろう。
でも納得しているところもあって、頭の中に生じている「ことば」というものが、そのままダイレクトに「文字」として表現することはできないのだ、という点。
思考というのは、文字とは完全に一致はしない。
感情もそう。
そんな中でも、小説とか文学というものは、文字で人間を表現しようとしてみゃくみゃくと続いてきた文化だ。それは素晴らしいものだと思う。
幸せの定義
「余暇」という言葉があまり好きではない。仕事とプライベート、という分け方も好きではない。いや、現実はそうはいかないし、公共の利益は大事だ。でも、いったん、そういう「たてまえ」とか「ぜんてい」といったものを取っ払って考えることが、昨今大事なのかもしれないとも思う。
本来どうあるべきか。
と、僕は今までも考えるようにしていたし、そうありたいと思っていたけれど、実はそんな僕も「ぜんてい」なるものにとらわれているのである。
本当にしたいこと、なりたいもの、えたいものということを、忘れちゃいけないと思う。
とはいえ、「幸せ」とは何か、という定義は、「理想と現実との乖離が少ないこと」だと思っているので、その匙加減が難しいところである。
理想だけ高くすると現実がおいつかなくて大変だし、理想を下げ過ぎても、自分の本当の気持ちというものを無視することになる。
ことば、で表現するのは簡単だが、実現するのが難しいということで世界は溢れている。
平和、というのもそうだね。平和という概念はみんな共感し、成したいと思っていても、実現は非常に難しい。戦争を起こした国だって、「建前」上は「平和」のために戦争をしているのである。誰にとっての平和なのか、何を目指す平和なのか。それが違うだけだ。
FF14とメタバース
今の所大丈夫なのだけど……という前置きの上で、「ゲームをゲームとして楽しむ」ということを意識しないようにしていた、というのがある。FF14は、世界観もすばらしいし、グラフィックもすばらしいので、その世界を楽しんでいた。
ただ、自分のような感覚で楽しんでいる人は、いないことはないが、あまり多くもなさそうだ。
多くの人は、「ゲーム」として楽しんでいる。
自分はどちらかというと、「物語」として楽しんでいる。たぶん廃れそうな言葉を使えば、「メタバース」で生活しているイメージである。メタバース。攻殻機動隊とか好きだけど、どうにもあまり流行るように思えないのはなぜだろう……。
「私」
という存在を、仮想空間に置きたいというわけではないのだと思う。自分の感覚として。
私の魂をもった別の身体をもった存在で、別の世界を生きていたい、という感覚だろうか。
そういう意味で、FF14のストーリーは、エーテルとか「魂」の在り方とかが深くかかわってるので、ストーリーとして楽しいというのがあった。
ところが、最近、ストーリーが最新のパッチまでおいついてしまった。
そして、「暁月のフィナーレ」ということで、10年ちかく続いていたストーリーが完結したのである。
それはそれは、感動した。楽しかった。すごかった。陳腐な言葉がならぶほどに、言葉にならないほど面白かった。MMORPGという、「MMO」の部分を除いて、ソロで良いから物語としてお薦めできる。
物語の先に(高難度のかかわり方)
だから、ストーリーが終わってしまって、さてどうしようか、と悩んでいるところはある。まだ色々やることがある。サブストーリーとかメインストーリーに関係ないこととか、まだ触ったことないジョブとかもたくさんある。
高難度というコンテンツも、少しだけやってみた。これはこれで面白い。冒頭少し書いた、3Dシューティングゲームやってたころみたいなハマり方をしそうだなと思った。
しかし、これは非常に「楽しむ」上で危険だと思った。
かなりメタ的なことを書くと、「答え合わせ」なのだと思っている。
いや、ゲームってそもそもそういうものなのだ。
だからこそ、「ゲームとして感じさせない工夫」があるFF14が面白いと思ったわけである。
敵との戦闘というのは、ランダム要素があるとはいえ、「適切な行動(スキル回し)」というのがある。「正解」があるのだ。完ぺきな正解はできないにしても、正解に近い行動がとれると、攻略できる、クリアできる、ということになる。
いかに、その正解を自分で再現できるか、というのが本質なのである。
……って書くと、非常に冷める(かっこ笑)。
書くと冷めるから、ずーっと前(ストーリーが終わりそうというぐらい)から思っていたけれども敢えて書かなかった。
思ってることを文字にすると、こんな風に、いくらでもブログもかけるのだけど、「いうべきでないこと」というのが発生すると、そもそも「書きたい」という気持ちがそがれるので、ブログから離れてしまう。最近はその繰り返しだったりする。
答え合わせは楽しいのか
なんか批判的に書いたけれど、答え合わせは楽しいのである。最初、ぜんぜん上手くスキル回しができずに、敵の攻撃(ギミック)を回避できずに死んじゃってたのが、段々倒せるようになったり、意識せずスキル回しできるようになったりすると、成長した感じもして楽しい。
本質的に楽しいから、流行ってるのである。
それはそうなのだけれど、それだと、いつか「所詮ゲームだし」という冷めた気持ちが生じる可能性が否定できないと思う。トッププレイヤーはいいだろう。それによって賞賛されたり、昨今はプロゲーマーという職業すらある。
ただ、現実問題、いくら頑張ったところで、そんな風にはなれない。自分が平々凡々なのは分かっている。
どんだけ頑張ったって、トップに上り詰めることはできない。
今の自分の実力から、少しずつ頑張って、できることを増やしたり楽しんだりするぐらいがちょうどよい。
……それはよい。そんな風に、身の丈に合って遊ぶのが良い。
ただ、書きたいことはそこじゃなくて、結局それは「ゲーム」としての楽しみ方になっている、ということだ。
気持ち悪いと感じる方も多いことを承知で、自分は、「もう一つの世界」としてFF14を楽しんでいた。
だから、「中の人」とかいう表現も嫌いだし、「自機」という言い方も好きじゃない。ツイッターとかで、リアルの話とかたくさんする人ともあまり関わりたくない。
できるだけそういう人たちとは関わらないように、とは思っていたけれど、交流が広がるにつれて、色んな人とかかわるようになった。
そしていつしか、自分もそこまで気にしないようになってしまっていることに気づいた。
もともと、ご飯写真とかエオルゼアのイベントとかエオルゼアカフェとかの話とかは全然よいと思ってたので、自分の中での基準もあいまいだったのだろう。特に今ではその基準がほとんどなくなったということかもしれない。
オフ会とかボイチャとか
オフ会も、ボイスチャットとかも、上の理由からしたくない。したいと思わないとかではなく、したくない。やじゃん。かわいいキャラクターから、野太い声が聞こえてきたら、「何……??」って思う……。
でも、「ぜんてい」とっぱらって考えたら、将来、ボイスチェンジャーのすごい奴があったらいいなーて思う。
チャットやりとり、というのも好きなのだけどね。光のお父さんのマイディーさんのブログとかみて、興味持ったのは、意外に「チャット文化」だと思ったからだ。それがないと、たぶんそもそも始めてすらいなかった気がする。
チャットは面倒、という意見の方が最近よく聞く。そりゃそうだ。口でしゃべった方はやいもの。
いま、ここまで3000字? 5000字? 書いてきたけど、すでに1時間ぐらいかかりはじめてる。自分はわりとタイピング速いからここまで書けるけど、普通そうはいかないと思う。そうすると、話せることが限られる。
あと、冒頭で書いた、「文字」と気持ちはまた乖離がある。だから「面倒」というのは当たり前で、正しい。
だから、VCとかやりたい人が多いのも分かるし、これから広がっていくのかもしれない。
ただ、周りがみんなそうなったら、いつか自分は交流をしなくなるか、そもそもやめるだろうと思う。
とはいえ、「すごいボイスチェンジャー」があったら、自分もVCしてもよいかなとは思う。
すごいボイスチェンジャーというのは、自分のキャラクターにあった声にしてくれるというもの。エモートのときに、笑ったりすると声がでるけれども、それとあった声にしてくれるなら、すごくよいと思う。