今日の一言「諦めではなく可能性」「連載は水曜日、だが形骸化している」
といったコメントを頂いた。
傷ついて、哀しくなった。しかし同時に、大切な感想だなぁと思った。
僕は、昔から理解可能性というものを信じていない。
このことは、「1」か「0」と割り切れるものではない。
信じていないといったところで、結局、日本語という言語を使えばコミュニケーションは可能だ。
一方で、コミュニケーションを信じている人たちだって、その「気持ちの伝わり具合」に微細な変化が存在することは百も承知なはずである。
僕はその、理解可能性について、「0」というのではなく、一般の人たちよりも低いと自覚している、ということだ。
1000字連載は、個人的にはそれほど分かりにくくはない――というよりも、いつもの記事と同じレベル感である。中学生でも分かる表現を使っている。
問題は、その表現の先に、「何を言いたいか」ということなのであるが、その最終結論なるものが伝わらないと、結局その文章というのは、「さっぱり分からん」という結論に繋がる。
・しかしその努力は自らの欲望を果たすことに基づいている必要がある
・何故そう思うかといえば、僕は(自分の身体・精神・環境の限りで)努力をしてきたが、これまでの人生はつまらなかったからである
・もっといえば、今もつまらない
・しかし物質的・欲求的には充足している(強いて言えば時間がない)
・だから自分の欲求・欲望に基づく未来をイメージすることが重要だ
といったことである。これらを、誰かと議論しようというつもりはない。単なる思考の整理である。――もっといえば、整理する必要すらあまり感じていない。要するに、最後の点、「未来」の具体化が目的であるということである。
ある方が、「自分の本当に重要視する分野については人と話すことが困難で(出会える可能性も低いし、レア故の馴れ合いが生じる可能性もあるため)メリットも薄い」と仰っていたがこれはその通りと思う。
哀しいことであるけれども、これは大切な感覚だと思う。
僕は、昔から(10代前半から)ずっとそれ(理解が中々しあえないこと)を感じて、「生きづらいなぁ」と思ってきたけれども、これはこれで、大事な考え方であるし、だからこそ人間は面白いのかもしれない。
そういった感覚を分からない人が、自分の価値観を押し付けたり、横暴にふるまったりするのだろう。要するに子供である。
問題は、「そうはいっても、それでも、価値観を共有して尊重して高めあっていくのが本来あるべき人間社会の在り方ではないか」という問いである。
これは、問いは問いとして正しいと思う。あっていいと思う。存在価値はあるだろう。
ただ、それを、「実存問題」(要は自分の問題)とすべきか、という点は、選択である。岐路である。
僕は、30代になって、そろそろ「保留」もできなくなってきたこれらの問題に対して、非常に焦燥している。
焦っているけれども、答えがでないし、行動は環境に命ぜられるまま、思考を介在させられないままに動き、過ぎていく。
この焦り、というものが、「鬱屈」としたエネルギーとして、文章を書かせているのだろうと思う。
僕が動いているのは、行動できているのは、この「鬱屈」したエネルギーなのだろう。
そういえば、10代前半のころ、僕は「負のエネルギー」という言葉を使っていた。
エネルギーとはプラスのものなので、本来表現としておかしいけれども、「いらいら」とか「むかついた」とか「くやしい」とか「うらやましい」とかそういった負の感情をもとに行動することをそう名付けていた。
ああ、それを、何か、社会の役に立つことに使えたらよかったのであるが、まぁ、うまくはいかなかった。
問題は、どういった人間が必要か、ということだ。国が学習指導要領というものを作っていて、それに基づいて公立の学校は授業を行う。
しかし、その、国が定めた指導要領なるものは、果たして、本当に、あるべき人間像を体現した素晴らしいものなのだろうか?
僕は、否とも、正しいともいえない。
というか、現代の日本人――否、世界の人類に、そうした「あるべき人間像」を表現できる能力があるとは思えない。
単に、「その時代に」「その国にとって」「その条件において」は、正しいものだろう。
最初の話に戻るけれども、「人はみんな違ってそれでいい」ということであるのだから、それと「教育」という手段は初めから相いれないのである。要するに、「コミュニケーションの土台」を作るに過ぎないのである。
土台に過ぎないのである。最初の話のように、本当にその個人が話したい事、重要視したいことなんてのは、往々にして、理解可能性レベルを超えているのだ。
あー。
音圧とか、調教とか、粗削りだけれども、しかし、歌詞はいいなぁ。
(かっこ書きである。あー月曜からまた忙しそうだ。先日、友人たちと会話する機会があって、みんなまぁまぁ仕事に対しての不満はもっているようだった。みんな大変。お前は恵まれているなぁって言われたりもした。――が、ぶっちゃけもう、そういった比較は本当に無意味だと思っている。仕事の内容も全く違うわけだし、時間的拘束が長ければ大変かってのも俺は違うと思う。同じ業種だって、取り巻く環境・取引先とかそういう意味で、異なるだろうし。「じゃあテメーがやってみろ!」という苛立ちや怒りがよく生じる(友人たちに対してではない。そんなことを思っても仕方がない)。まぁ……ただ、できることをするだけだ。とにかく、自分のパフォーマンスを落とさないようにすることが大事だ。ひいては、勤め先の会社にもそれは良いことなのだ。社員が役に立ったほうが会社としては良いはずだから。しかし、6分でわかる金持ち父さん、貧乏父さんを見る。うーん、なんか、図書館で借りられるから読んでみてもいいかと思ったけど、興味はほとんどわかなかった。というか、なんとなくそういった本だろうと思っていて、その確認ができたのはよかったかもしれない。正直、僕は大人になってから(働き始めてから)お金に困ったことが今までない。もちろんこれは、無尽蔵にお金を手にしているということではない。そもそも「欲求」がわかないのである。久兵衛の寿司を食べてみたい気はするけれども、まぁ、一度ぐらいならそれに費やすことは可能である。それを毎日食べるとしたらすぐに破産するだろうが、そうしたい欲求は特にない。上の動画で、「勉強をたくさんしなさい」というのは、金持ち父さんも貧乏父さんも共通していたが、その目的が、「良い会社を買うこと」と「良い会社に入ること」という違いなどは面白いと思った。一方、どちらも価値観レベルの問題に思う。たしかに、金持ち父さんの方が、「あー楽して生活したいなぁ」って友人がいっていたけれども、みんな憧れなんだろうと思う。が、しかし、「コンテンツ」を作る人がいなくなって、「買う」人だけの世界なんてありえんだろう。投資家だけの世界ってのはありえないのである。ま、もっとも、そんな極端な事態になど早々ならないのであって、賢く勉強して、賢くお金を運用できる人のほうが、コツコツ真面目に働くよりもお金持ちになれるってのはその通りだと思う。――が、まちたまえ。「コツコツ真面目」ってのが、本当にいいことだと思っているのだとしたら大間違いである。「コツコツ真面目」という事象を、一体どのように考えているのか? 人から言われたことをしっかり丁寧にこなすだけでは到底、「コツコツ真面目」などではないが、まぁ、一般にそういった表現のうちに含まれることになるのである。僕は、投資家を、決して楽して生活できる人だと思ってはいない。彼らは彼らで、とっても勉強して、リスクある判断をし、苦労をして生きているのである(当然、全員ではない。宝くじに当たった人が、努力をして当たったなどとは思わないだろう。そういうことだ)。あー、なげーなぁ。要するに、努力は否定しない、ってことだ。1000字記事と同じ。大したことなど、常に言っていない。というか、「大した事」なんて、どれほどこの世界にあるというのだ。僕は、「表現」ぐらいしか、差異を表現できないと思っている。あー、この辺の価値観も、きっとあまり伝わらんのだろう。ま、構わない――構わないわけではないが、仕方がない)
分かりづらさ
「何言ってるかさっぱり分からん」といったコメントを頂いた。
傷ついて、哀しくなった。しかし同時に、大切な感想だなぁと思った。
僕は、昔から理解可能性というものを信じていない。
このことは、「1」か「0」と割り切れるものではない。
信じていないといったところで、結局、日本語という言語を使えばコミュニケーションは可能だ。
一方で、コミュニケーションを信じている人たちだって、その「気持ちの伝わり具合」に微細な変化が存在することは百も承知なはずである。
僕はその、理解可能性について、「0」というのではなく、一般の人たちよりも低いと自覚している、ということだ。
1000字連載は、個人的にはそれほど分かりにくくはない――というよりも、いつもの記事と同じレベル感である。中学生でも分かる表現を使っている。
問題は、その表現の先に、「何を言いたいか」ということなのであるが、その最終結論なるものが伝わらないと、結局その文章というのは、「さっぱり分からん」という結論に繋がる。
1000字連載(1)~(3)の要点
・努力することは大事だ・しかしその努力は自らの欲望を果たすことに基づいている必要がある
・何故そう思うかといえば、僕は(自分の身体・精神・環境の限りで)努力をしてきたが、これまでの人生はつまらなかったからである
・もっといえば、今もつまらない
・しかし物質的・欲求的には充足している(強いて言えば時間がない)
・だから自分の欲求・欲望に基づく未来をイメージすることが重要だ
といったことである。これらを、誰かと議論しようというつもりはない。単なる思考の整理である。――もっといえば、整理する必要すらあまり感じていない。要するに、最後の点、「未来」の具体化が目的であるということである。
ある方が、「自分の本当に重要視する分野については人と話すことが困難で(出会える可能性も低いし、レア故の馴れ合いが生じる可能性もあるため)メリットも薄い」と仰っていたがこれはその通りと思う。
哀しいことであるけれども、これは大切な感覚だと思う。
僕は、昔から(10代前半から)ずっとそれ(理解が中々しあえないこと)を感じて、「生きづらいなぁ」と思ってきたけれども、これはこれで、大事な考え方であるし、だからこそ人間は面白いのかもしれない。
そういった感覚を分からない人が、自分の価値観を押し付けたり、横暴にふるまったりするのだろう。要するに子供である。
だけど冷めてもいけない
という上のことについては、数年前から書いてきたことである。問題は、「そうはいっても、それでも、価値観を共有して尊重して高めあっていくのが本来あるべき人間社会の在り方ではないか」という問いである。
これは、問いは問いとして正しいと思う。あっていいと思う。存在価値はあるだろう。
ただ、それを、「実存問題」(要は自分の問題)とすべきか、という点は、選択である。岐路である。
僕は、30代になって、そろそろ「保留」もできなくなってきたこれらの問題に対して、非常に焦燥している。
焦っているけれども、答えがでないし、行動は環境に命ぜられるまま、思考を介在させられないままに動き、過ぎていく。
この焦り、というものが、「鬱屈」としたエネルギーとして、文章を書かせているのだろうと思う。
僕が動いているのは、行動できているのは、この「鬱屈」したエネルギーなのだろう。
そういえば、10代前半のころ、僕は「負のエネルギー」という言葉を使っていた。
エネルギーとはプラスのものなので、本来表現としておかしいけれども、「いらいら」とか「むかついた」とか「くやしい」とか「うらやましい」とかそういった負の感情をもとに行動することをそう名付けていた。
ああ、それを、何か、社会の役に立つことに使えたらよかったのであるが、まぁ、うまくはいかなかった。
教育について
手段とかどうでもいい。問題は、どういった人間が必要か、ということだ。国が学習指導要領というものを作っていて、それに基づいて公立の学校は授業を行う。
しかし、その、国が定めた指導要領なるものは、果たして、本当に、あるべき人間像を体現した素晴らしいものなのだろうか?
僕は、否とも、正しいともいえない。
というか、現代の日本人――否、世界の人類に、そうした「あるべき人間像」を表現できる能力があるとは思えない。
単に、「その時代に」「その国にとって」「その条件において」は、正しいものだろう。
最初の話に戻るけれども、「人はみんな違ってそれでいい」ということであるのだから、それと「教育」という手段は初めから相いれないのである。要するに、「コミュニケーションの土台」を作るに過ぎないのである。
土台に過ぎないのである。最初の話のように、本当にその個人が話したい事、重要視したいことなんてのは、往々にして、理解可能性レベルを超えているのだ。
創作について
ふと、むかし、2010年ぐらいに作った曲を聴いた。あー。
音圧とか、調教とか、粗削りだけれども、しかし、歌詞はいいなぁ。
何のために歌うのか ずっと探し続け時間は平等だけど 無常に過ぎ去る時は冷たい痛み与える 心がいたみだす美しく広がる景色 あたたかな人の優しさ充たされる思いも今は 幻のように漫然と過ぎ去るとき 忙しさにおわれるとき 僕は何か大切なものを 僕であるためのものを なくして本当の自分なんてどこに あるというのだろう今は白い世界――何のために生きるのか ずっと意味を求め続け求める時間さえも失われていくのか疲れ弱音はくとき 何かいいわけするとき 僕はあの日に信じていた 確かな思いすら 忘れて孤独が怖いというだけで 誰かを求めていた夢の中の自分がいた――何のために生きるのか ずっと意味を求め続け求める時間さえも失われていくのかだから僕は歌い続け 「無意味」の言葉はねのけ生きる意味は何なのか 今分かる気がした僕は歌う いつまでも――
まさに、僕の価値観がよく表現されている。まぁ、当時、どういう気持ちで作っていたのかは正直もう覚えていないが、彼女にもふられて、あまり精神状態はよくなかった状態だった気がする。
この当時から、初音ミクの作品は作れていないが、やっぱり、歌にのせるってのはいいなぁと思った。今、これ以上の作品をつくる気力も、時間もないなぁ……。
しかし、言い訳をしていても仕方がない、と、創作中枢が少し刺激されたので2時間ぐらいで一つ作った。
⇒2018/2/11作曲(インスト)DL
(実質30秒ぐらいの曲をリピートして1分ぐらいにしている……)
この当時から、初音ミクの作品は作れていないが、やっぱり、歌にのせるってのはいいなぁと思った。今、これ以上の作品をつくる気力も、時間もないなぁ……。
しかし、言い訳をしていても仕方がない、と、創作中枢が少し刺激されたので2時間ぐらいで一つ作った。
⇒2018/2/11作曲(インスト)DL
(実質30秒ぐらいの曲をリピートして1分ぐらいにしている……)
(かっこ書きである。あー月曜からまた忙しそうだ。先日、友人たちと会話する機会があって、みんなまぁまぁ仕事に対しての不満はもっているようだった。みんな大変。お前は恵まれているなぁって言われたりもした。――が、ぶっちゃけもう、そういった比較は本当に無意味だと思っている。仕事の内容も全く違うわけだし、時間的拘束が長ければ大変かってのも俺は違うと思う。同じ業種だって、取り巻く環境・取引先とかそういう意味で、異なるだろうし。「じゃあテメーがやってみろ!」という苛立ちや怒りがよく生じる(友人たちに対してではない。そんなことを思っても仕方がない)。まぁ……ただ、できることをするだけだ。とにかく、自分のパフォーマンスを落とさないようにすることが大事だ。ひいては、勤め先の会社にもそれは良いことなのだ。社員が役に立ったほうが会社としては良いはずだから。しかし、6分でわかる金持ち父さん、貧乏父さんを見る。うーん、なんか、図書館で借りられるから読んでみてもいいかと思ったけど、興味はほとんどわかなかった。というか、なんとなくそういった本だろうと思っていて、その確認ができたのはよかったかもしれない。正直、僕は大人になってから(働き始めてから)お金に困ったことが今までない。もちろんこれは、無尽蔵にお金を手にしているということではない。そもそも「欲求」がわかないのである。久兵衛の寿司を食べてみたい気はするけれども、まぁ、一度ぐらいならそれに費やすことは可能である。それを毎日食べるとしたらすぐに破産するだろうが、そうしたい欲求は特にない。上の動画で、「勉強をたくさんしなさい」というのは、金持ち父さんも貧乏父さんも共通していたが、その目的が、「良い会社を買うこと」と「良い会社に入ること」という違いなどは面白いと思った。一方、どちらも価値観レベルの問題に思う。たしかに、金持ち父さんの方が、「あー楽して生活したいなぁ」って友人がいっていたけれども、みんな憧れなんだろうと思う。が、しかし、「コンテンツ」を作る人がいなくなって、「買う」人だけの世界なんてありえんだろう。投資家だけの世界ってのはありえないのである。ま、もっとも、そんな極端な事態になど早々ならないのであって、賢く勉強して、賢くお金を運用できる人のほうが、コツコツ真面目に働くよりもお金持ちになれるってのはその通りだと思う。――が、まちたまえ。「コツコツ真面目」ってのが、本当にいいことだと思っているのだとしたら大間違いである。「コツコツ真面目」という事象を、一体どのように考えているのか? 人から言われたことをしっかり丁寧にこなすだけでは到底、「コツコツ真面目」などではないが、まぁ、一般にそういった表現のうちに含まれることになるのである。僕は、投資家を、決して楽して生活できる人だと思ってはいない。彼らは彼らで、とっても勉強して、リスクある判断をし、苦労をして生きているのである(当然、全員ではない。宝くじに当たった人が、努力をして当たったなどとは思わないだろう。そういうことだ)。あー、なげーなぁ。要するに、努力は否定しない、ってことだ。1000字記事と同じ。大したことなど、常に言っていない。というか、「大した事」なんて、どれほどこの世界にあるというのだ。僕は、「表現」ぐらいしか、差異を表現できないと思っている。あー、この辺の価値観も、きっとあまり伝わらんのだろう。ま、構わない――構わないわけではないが、仕方がない)
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