細田守監督のバケモノの子を視聴した。
☆5つ評価中、☆3つといった感じ。面白くなかったわけでもないけれども、さほど感動するわけでもないといったところ。
闇に取り込まれたライバルを倒すために旅立ちを決めた際に、お世話になった二人に「ありがとう」といって、泣いて抱き合うシーンは少し感動した。
ストーリーとしては、
離婚した母親が亡くなり、親戚に引き取られそうになった主人公レンは、反抗して街に家出すると、不思議なバケモノの世界に迷い込み、そこで弟子を探していたクマテツの下で修業することになる。
数年をバケモノの世界で暮らしたレンは、ある日人間の世界に戻り、そこで闇を抱えた高校生の文学少女をDQNから救い、一緒に人間の人間の世界の勉強をして仲良くなっていく。
そのうち、クマテツのライバルの子が闇に取り込まれ、人間世界を巻き込んで戦い、勝つ。その際、渋谷で大立ち回りをするが、奇跡的に、人的被害はゼロだった。
映像がきれいで、東京の街並みや、車とか建物のリアリティ、大勢の人、雑踏の滑らかな動きとか、よかった。
けれども、ストーリーとして、面白かったかというと、まぁ、普通である。
やっぱり、なんというか、不良に囲まれた少女を救って仲良くなって勉強して「大きな敵」の中「心」を正しく保って戦いのサポートをしてくれる、という。
なんか、男の子が好きな女の子をよく表現しているなと思う。
いやまぁ、みんな誰しもそんなのが好きなので、良いと思うが、リアリティという面で今一つだなぁと思ったりする。まぁ、女の子としても、自分の危機に現れて、なんか複雑な事情を抱えてそうで、まっすぐ自分の生きる道を探して頑張っているような男の子に出会ったら、きっとときめいてしまうだろう。いや、俺が女の子でもきっとそうだろう。そういう意味で、決して、リアリティがないわけじゃあないのだけれども、そもそも、そういった事態があるかってことだ。
いや、あってもいいし、むしろ、物語なのだから、その平々凡々とした僕ら多くの生活の一部を切り取ったところで面白くないのは明らかだし、少しくらい特異なことが起こってもいいだろう。
けれども、なんというか、そういう「主人公」に思いを託す的な見方しかできない作品って、いい年の大人がみるとなんだかやるせなくむなしくなるものだなぁと思った(じゃあみるな!)。
いや、むしろ、子供たちにとって、そういった空から少女が……! 的な作品をみせてもいいものだろうかとすら思う。いやいや、それは決して、ぐちょぐちょでドロドロな群像劇が適切というわけではないが、何だか、夢や希望や理想ばっかり広がっても必ずしもうまくいくとは限らないことであり、その壁にぶつかったとき、「こんなはずじゃなかった」という失望感にさいなまれないだろうか、という余計なお世話な話である。
何というか、同じ前向きとかポジティブとかそういう表現においても、どこか「失敗した」記憶や実感が残っていて、逆にその思考を元にして困難を乗り越え、ときに失敗しながら成長し冒険していく物語であって、ストーリー展開に目が離せなかった。
それって単にお前が卑屈でダメな奴だから単純な前向きな熱い作品が苦手なだけじゃないか、というのは、きっとそうだろうね~と同意する。と、いうか、逆に、そういう作品は、むしろ「現実」がその体現なのだから、物語として、創作物として、必要ではないのだ。
だって、自己啓発本とか読んでいれば、そもそも前向きで明るくて人生頑張っていこうじゃないか、って思えるじゃあないか。わざわざ物語で、小説で、映画で、ドラマで、敢えて触れる必要性が分からない。
だから、恋愛そのものを取り扱う作品も、昔から好まなかった。いやそもそも、そんなリア充的な経験がないからなのかもしれないが、むしろその「ありえなさ」を楽しむために喪女的な人がはまる(たとえば、韓流ドラマが流行ったってのはそういうことじゃないのだろうか)というのも一面であるのだろうけれど、俺はそれよりだったら、現実で色々試行錯誤して試してもいいんじゃないかと思う。
ここで、「リア充」の定義や、喪男とか喪女とか、とくに「イメージ」だけで話をしていくとただのチラシの裏でしかないが、自分の中ではある程度イメージができているから、まぁ書き進めていくとしよう。
うーむ、しかし、恋愛要素ってのは別に悪いことではない。ロマンティック・ラブという概念は、現代人にとって一つ夢理想であり続けるものである。
それが、結婚制度によってゆがめられ……いや、これ、今書きたいことでも、メモしておくことでもないな。
多分、今の自分として、男女の関係というレベルの思考が必要になっていないことが原因だろう。
むしろ、もう一つ大きい次元として、人としての生き方ってなんだ、って話だ。
先ほどの、バケモノの子の最後のナレーション的解説では、「主人公は、きっとこれから大きな困難が訪れようとも突破して強く生きていくだろう、何せ胸の中に強い剣を宿しているのだから」的なものだったが、いやむしろ、その先の人生ってなんだよ、ということが僕の疑問である。
まぁ、これから見る人は、第一章から見たとすれば何のことか分からないだろうし、既にみた人はネタバレなんて関係ないだろうから、印象に残ったシーンを書けば、
・ある国の王が、戦争の勝利のため、自らの娘を火あぶりにかけて生贄にするシーン。その前に、娘は、父からも母からも自らの病気により疎んじられていたと思い込んでいた。それが、あるきっかけで瓦解する。「お前は、私の娘だ」と抱きしめるシーンは、非常に感動的だった。その後、何やかんやがあり、火あぶりである。
「父上! 母上! どこですか! こんなことやめさせてください! ――いやぁあああ! 助けて! 父上、ちちうえ!! ああああああ」
という悲鳴、ちょっと頭から離れない。
一歩引いて、ドラマとして考えたとき、子役の人、ほんとまだ十代前半ぐらいだろうに、すげぇ演技だ(いや、吹き替えで見たから、声優の人がすごいのかもしれないが)。
いや、まじですか、そこで、その選択しますか。という、驚き。様々な人の決断ってのがあるなって思う。そして、そんな大仰な儀式をしたんだから、きっと戦争では華々しい戦果があるのだろうと思うだろう、俺は思った、ところが、蹴散らされ味方はちりじり。しかも敵の領主が、いやなやつで、サドスティックな奴で、突き抜けた異常さが逆に癖になってしまうぐらいなのだが、そいつが勝利するのだ。
・他の部族との争いで頭角を現した若い男が、選挙によりある領地の総帥となった。そこに、ホワイトウォーカーという、怪物、いわばゾンビみたいな軍団が攻めてくる。そこで、今まで敵対していた部族との和平を行い、ともに戦うことを約束しあう。
おお、これで、ついにバケモノの軍団と一致団結して戦うって展開になるんだな、とワクワクした。その次の場面では、敵対した部族に家族を殺されたり、憎しみをもった人たちの反逆にあい、裏切られ、殺されてしまう。
何だか虚しさだけが残るという感想を抱く人もいると思う。
でも、何だか、大した経験も大した考えもあるわけではないが、そうした物語の方が、僕は何だか「現実的」だと思うのだ。
逆に、その努力したり頑張っていたら、必ずうまくいくような作品ばかりで育ってきた人は、「そうならなかったとき」どう思うのだろうか。
「人生うまくいかないこともあるさ♪」的な表現はよく聞くことだが、本当に本当に頑張って、真面目に、正しく、強く生きてきて、それが完全にひっくり返ってしまったり、裏切られたりしたことまで想像できているだろうか。
スピリチュアル的には、「そういうことを考える時点でダメですよ♪」となるわけだし、潜在意識とか無意識とか、自己意識とか、それらに働きかけられる意味や現象を、僕も全て否定する気はない。
だけど、どこかしら、「世界は残酷だ」ということを、僕らは分かっているようで、分かっていないのではないだろうか。
とか、知った風な言葉なんて、誰も必要としていない。
「え、そんなこと、みんな誰でもわかっているよ。そのうえでみんな大変なこともある中でがんばってるんだよ? 君だけじゃないよ? 30代にもなって幼稚だね~」
と言われることも分かっている。が、本当に皆わかっているのだろうか。否、分かる「必要がない」だけだろう。むしろ、有害であり、きっと遠ざけるべきなのだ。
それよりむしろ、「僕」が、きっとわかっていないのだ。そんな、「世界は残酷だ」とか言いながら、ずっと、これまでも、そのことをどこか認められない自分がいるのではないだろうか。
と、随分話が混線したので、とりあえずここまでにしよう。どれが創作の言葉で、どれが実感の言葉なのか、自分でもてんで分からなくなった。
☆5つ評価中、☆3つといった感じ。面白くなかったわけでもないけれども、さほど感動するわけでもないといったところ。
闇に取り込まれたライバルを倒すために旅立ちを決めた際に、お世話になった二人に「ありがとう」といって、泣いて抱き合うシーンは少し感動した。
ストーリーとしては、
離婚した母親が亡くなり、親戚に引き取られそうになった主人公レンは、反抗して街に家出すると、不思議なバケモノの世界に迷い込み、そこで弟子を探していたクマテツの下で修業することになる。
数年をバケモノの世界で暮らしたレンは、ある日人間の世界に戻り、そこで闇を抱えた高校生の文学少女をDQNから救い、一緒に人間の人間の世界の勉強をして仲良くなっていく。
そのうち、クマテツのライバルの子が闇に取り込まれ、人間世界を巻き込んで戦い、勝つ。その際、渋谷で大立ち回りをするが、奇跡的に、人的被害はゼロだった。
映像がきれいで、東京の街並みや、車とか建物のリアリティ、大勢の人、雑踏の滑らかな動きとか、よかった。
けれども、ストーリーとして、面白かったかというと、まぁ、普通である。
やっぱり、なんというか、不良に囲まれた少女を救って仲良くなって勉強して「大きな敵」の中「心」を正しく保って戦いのサポートをしてくれる、という。
なんか、男の子が好きな女の子をよく表現しているなと思う。
いやまぁ、みんな誰しもそんなのが好きなので、良いと思うが、リアリティという面で今一つだなぁと思ったりする。まぁ、女の子としても、自分の危機に現れて、なんか複雑な事情を抱えてそうで、まっすぐ自分の生きる道を探して頑張っているような男の子に出会ったら、きっとときめいてしまうだろう。いや、俺が女の子でもきっとそうだろう。そういう意味で、決して、リアリティがないわけじゃあないのだけれども、そもそも、そういった事態があるかってことだ。
いや、あってもいいし、むしろ、物語なのだから、その平々凡々とした僕ら多くの生活の一部を切り取ったところで面白くないのは明らかだし、少しくらい特異なことが起こってもいいだろう。
けれども、なんというか、そういう「主人公」に思いを託す的な見方しかできない作品って、いい年の大人がみるとなんだかやるせなくむなしくなるものだなぁと思った(じゃあみるな!)。
いや、むしろ、子供たちにとって、そういった空から少女が……! 的な作品をみせてもいいものだろうかとすら思う。いやいや、それは決して、ぐちょぐちょでドロドロな群像劇が適切というわけではないが、何だか、夢や希望や理想ばっかり広がっても必ずしもうまくいくとは限らないことであり、その壁にぶつかったとき、「こんなはずじゃなかった」という失望感にさいなまれないだろうか、という余計なお世話な話である。
無職転生
無職転生という小説は、無職素人童貞のクズニートが異世界に転生してハーレムを築く話である、と書くと悪意のある粗筋になるが、そんなことなく僕はこの作品が好きだ。何というか、同じ前向きとかポジティブとかそういう表現においても、どこか「失敗した」記憶や実感が残っていて、逆にその思考を元にして困難を乗り越え、ときに失敗しながら成長し冒険していく物語であって、ストーリー展開に目が離せなかった。
それって単にお前が卑屈でダメな奴だから単純な前向きな熱い作品が苦手なだけじゃないか、というのは、きっとそうだろうね~と同意する。と、いうか、逆に、そういう作品は、むしろ「現実」がその体現なのだから、物語として、創作物として、必要ではないのだ。
だって、自己啓発本とか読んでいれば、そもそも前向きで明るくて人生頑張っていこうじゃないか、って思えるじゃあないか。わざわざ物語で、小説で、映画で、ドラマで、敢えて触れる必要性が分からない。
だから、恋愛そのものを取り扱う作品も、昔から好まなかった。いやそもそも、そんなリア充的な経験がないからなのかもしれないが、むしろその「ありえなさ」を楽しむために喪女的な人がはまる(たとえば、韓流ドラマが流行ったってのはそういうことじゃないのだろうか)というのも一面であるのだろうけれど、俺はそれよりだったら、現実で色々試行錯誤して試してもいいんじゃないかと思う。
恋愛系の創作とはリア充のものか
何だか適当に考えていると、話しがどんどん脱線していくが、そもそも恋愛ものって、リア充のものではないだろうか。ここで、「リア充」の定義や、喪男とか喪女とか、とくに「イメージ」だけで話をしていくとただのチラシの裏でしかないが、自分の中ではある程度イメージができているから、まぁ書き進めていくとしよう。
うーむ、しかし、恋愛要素ってのは別に悪いことではない。ロマンティック・ラブという概念は、現代人にとって一つ夢理想であり続けるものである。
それが、結婚制度によってゆがめられ……いや、これ、今書きたいことでも、メモしておくことでもないな。
多分、今の自分として、男女の関係というレベルの思考が必要になっていないことが原因だろう。
むしろ、もう一つ大きい次元として、人としての生き方ってなんだ、って話だ。
先ほどの、バケモノの子の最後のナレーション的解説では、「主人公は、きっとこれから大きな困難が訪れようとも突破して強く生きていくだろう、何せ胸の中に強い剣を宿しているのだから」的なものだったが、いやむしろ、その先の人生ってなんだよ、ということが僕の疑問である。
ゲームオブスローンズ
同時期に見ているから、特に関連はなくても比較してしまうのだが、やはりこの海外ドラマは面白い。フィフスシーズン(第五章)まで、今貸し出しされている作品は全部見終わったが、いやはや、まさか、あの人が反逆にあって殺されてしまうとは……。まぁ、これから見る人は、第一章から見たとすれば何のことか分からないだろうし、既にみた人はネタバレなんて関係ないだろうから、印象に残ったシーンを書けば、
・ある国の王が、戦争の勝利のため、自らの娘を火あぶりにかけて生贄にするシーン。その前に、娘は、父からも母からも自らの病気により疎んじられていたと思い込んでいた。それが、あるきっかけで瓦解する。「お前は、私の娘だ」と抱きしめるシーンは、非常に感動的だった。その後、何やかんやがあり、火あぶりである。
「父上! 母上! どこですか! こんなことやめさせてください! ――いやぁあああ! 助けて! 父上、ちちうえ!! ああああああ」
という悲鳴、ちょっと頭から離れない。
一歩引いて、ドラマとして考えたとき、子役の人、ほんとまだ十代前半ぐらいだろうに、すげぇ演技だ(いや、吹き替えで見たから、声優の人がすごいのかもしれないが)。
いや、まじですか、そこで、その選択しますか。という、驚き。様々な人の決断ってのがあるなって思う。そして、そんな大仰な儀式をしたんだから、きっと戦争では華々しい戦果があるのだろうと思うだろう、俺は思った、ところが、蹴散らされ味方はちりじり。しかも敵の領主が、いやなやつで、サドスティックな奴で、突き抜けた異常さが逆に癖になってしまうぐらいなのだが、そいつが勝利するのだ。
・他の部族との争いで頭角を現した若い男が、選挙によりある領地の総帥となった。そこに、ホワイトウォーカーという、怪物、いわばゾンビみたいな軍団が攻めてくる。そこで、今まで敵対していた部族との和平を行い、ともに戦うことを約束しあう。
おお、これで、ついにバケモノの軍団と一致団結して戦うって展開になるんだな、とワクワクした。その次の場面では、敵対した部族に家族を殺されたり、憎しみをもった人たちの反逆にあい、裏切られ、殺されてしまう。
まじめな人が得をするとは限らない
いい人が必ず成功したり、幸せになったりする作品ではないから、きっと万人におすすめはできないだろう。何だか虚しさだけが残るという感想を抱く人もいると思う。
でも、何だか、大した経験も大した考えもあるわけではないが、そうした物語の方が、僕は何だか「現実的」だと思うのだ。
逆に、その努力したり頑張っていたら、必ずうまくいくような作品ばかりで育ってきた人は、「そうならなかったとき」どう思うのだろうか。
「人生うまくいかないこともあるさ♪」的な表現はよく聞くことだが、本当に本当に頑張って、真面目に、正しく、強く生きてきて、それが完全にひっくり返ってしまったり、裏切られたりしたことまで想像できているだろうか。
スピリチュアル的には、「そういうことを考える時点でダメですよ♪」となるわけだし、潜在意識とか無意識とか、自己意識とか、それらに働きかけられる意味や現象を、僕も全て否定する気はない。
だけど、どこかしら、「世界は残酷だ」ということを、僕らは分かっているようで、分かっていないのではないだろうか。
とか、知った風な言葉なんて、誰も必要としていない。
「え、そんなこと、みんな誰でもわかっているよ。そのうえでみんな大変なこともある中でがんばってるんだよ? 君だけじゃないよ? 30代にもなって幼稚だね~」
と言われることも分かっている。が、本当に皆わかっているのだろうか。否、分かる「必要がない」だけだろう。むしろ、有害であり、きっと遠ざけるべきなのだ。
それよりむしろ、「僕」が、きっとわかっていないのだ。そんな、「世界は残酷だ」とか言いながら、ずっと、これまでも、そのことをどこか認められない自分がいるのではないだろうか。
と、随分話が混線したので、とりあえずここまでにしよう。どれが創作の言葉で、どれが実感の言葉なのか、自分でもてんで分からなくなった。
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「遠藤さん、まさか、教室でテロリストが……とか、そんなこと考えてたなんて」
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
翌日
「お疲れ様です遠藤さん、段々帰りが遅くなりますね」お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
30分、いや、15分程度しかかけられないかもしれない。
超特急で、メモをする必要がある。
最短の時間で、僕のすべての思考を、書き残すこと、その技術がいる。
水に投げ込まれた石のたとえ。
石は、最短距離で、水底に到達する。私が目標を設定し、それを成し遂げようとするとき、それに対しての困難さは、一切にないのだ。
ということが、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」で表現されている。
上の表現は、僕の言葉であるが、小説の表現を、後でもう一度読み返そう、ただし、ここでメモしておかなければいけないのは、それに対しての彼の気持ちが、まさに、僕が表現しようとしていたことであったことだ。
もう一点は、あらゆる愛の技法を覚えた、カマラーとシッダールタが、お互いを、人を愛することができないのだ、と言い合うシーン。
もう一つは、乞食から金持ちになったシッダールタが、やはり、「幼児人間」たちと、一線を画すのだと、感じ始めた、第二章の終わり。
順番が逆転したが、第一章では、そう、これがメモすべきことだったが、「何ら師も欲せず、自我こそが、真我であると」感じ取り、そこから、彼の人生は、新しく、色づき始めるのである。
今書いていて、このシーンは、遠藤ひろき氏の「EDEN」という作品で、性や生に奔放に生きてきたソフィア――彼女は、これまで何ら現実世界に「実感」をもっていなかった――という女性が、幼児型の全身サイボーグに脳を移植し、そこから、すべての、それはコップをつかむだとか、花の色づきだとか、世界を感じ始めるというシーンと、同じだと思った。
こうした、メモを、分かりやすく表現することで、「よいレビュー」になると思う。
きっと、面白い「感想」をつくりあげることができると思う。
ただ、僕は今それをしない。単純に、もう出かける時間が迫っているということもあるが、問題なのは、僕の感じたこと、そのことを、忘れないようにすることだけなのだ。
それを、新たに引き起こすには、「表現」が必要なのだ。
しかしながら、既に起こったこと、僕の心の中で生じたことは、それは、表現のネタになるだろうが、それ以上、僕の心を変化させ、探し求めているものへ近づくものには成りえないのである。
と、ここまで書いてから、タイトル「自我が最良の師であったと気付くこと」と、入力した。
自我、……いや、ここでメモすべきは、結局、「自分自身」の、記憶であれ、身体であれ、思考であれ、できること、そのものこそが、そのすべてであるのだということ。
誰かに教えられるものではないのだということ。
シッダールタの、第一章は、そのことに気付くところで終わる。
そして、ああ、そうだ、ようやく思い出した、メモすべきことは、その、気付きにおいて、シッダールタに戦慄がはしるのである。
愕然とするのである。
身震いするのである。
それは、彼が、とても、この上なく、「孤独」であったということだ。
どのコミュニティ、……という表現は小説にはでてこないが、例えば、職人だとか、バラモンだとか、そうしたとあるコミュニティからはじかれた人たち、コミュニティでうまくやっていけない人たち、その人たちでさえも、シッダールタよりは、孤独ではなかったのだ。
シッダールタは、自分の孤独を知った。
しかし、それが、ようやく、自我に目覚めたという、「覚醒」したという、第一歩だと、彼はとらえ、一歩一歩、新しく芽吹き始めた世界を歩いていくのである。
最後に、メモ。
僕は、小説が好きでありながら、小説が好きではなかった。最短で、「作者のいいたいこと」を読み取ること、それが重視されるのであれば、小説という表現、媒体の必要性を感じなかった。
しかし、小説はやはり、価値があるものだ。それは、漫画でも、映画でも、アニメでも、ビジネス書でも、一般書でも、哲学書でもない。数学でも、物理でも、実験でも、科学でもない。
音楽でもない。ダンスでもない。瞑想でも、坐禅でもない。
小説というそのものの価値というのは、やはりあるのだと。
超特急で、メモをする必要がある。
最短の時間で、僕のすべての思考を、書き残すこと、その技術がいる。
水に投げ込まれた石のたとえ。
石は、最短距離で、水底に到達する。私が目標を設定し、それを成し遂げようとするとき、それに対しての困難さは、一切にないのだ。
ということが、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」で表現されている。
上の表現は、僕の言葉であるが、小説の表現を、後でもう一度読み返そう、ただし、ここでメモしておかなければいけないのは、それに対しての彼の気持ちが、まさに、僕が表現しようとしていたことであったことだ。
もう一点は、あらゆる愛の技法を覚えた、カマラーとシッダールタが、お互いを、人を愛することができないのだ、と言い合うシーン。
もう一つは、乞食から金持ちになったシッダールタが、やはり、「幼児人間」たちと、一線を画すのだと、感じ始めた、第二章の終わり。
順番が逆転したが、第一章では、そう、これがメモすべきことだったが、「何ら師も欲せず、自我こそが、真我であると」感じ取り、そこから、彼の人生は、新しく、色づき始めるのである。
今書いていて、このシーンは、遠藤ひろき氏の「EDEN」という作品で、性や生に奔放に生きてきたソフィア――彼女は、これまで何ら現実世界に「実感」をもっていなかった――という女性が、幼児型の全身サイボーグに脳を移植し、そこから、すべての、それはコップをつかむだとか、花の色づきだとか、世界を感じ始めるというシーンと、同じだと思った。
こうした、メモを、分かりやすく表現することで、「よいレビュー」になると思う。
きっと、面白い「感想」をつくりあげることができると思う。
ただ、僕は今それをしない。単純に、もう出かける時間が迫っているということもあるが、問題なのは、僕の感じたこと、そのことを、忘れないようにすることだけなのだ。
それを、新たに引き起こすには、「表現」が必要なのだ。
しかしながら、既に起こったこと、僕の心の中で生じたことは、それは、表現のネタになるだろうが、それ以上、僕の心を変化させ、探し求めているものへ近づくものには成りえないのである。
と、ここまで書いてから、タイトル「自我が最良の師であったと気付くこと」と、入力した。
自我、……いや、ここでメモすべきは、結局、「自分自身」の、記憶であれ、身体であれ、思考であれ、できること、そのものこそが、そのすべてであるのだということ。
誰かに教えられるものではないのだということ。
シッダールタの、第一章は、そのことに気付くところで終わる。
そして、ああ、そうだ、ようやく思い出した、メモすべきことは、その、気付きにおいて、シッダールタに戦慄がはしるのである。
愕然とするのである。
身震いするのである。
それは、彼が、とても、この上なく、「孤独」であったということだ。
どのコミュニティ、……という表現は小説にはでてこないが、例えば、職人だとか、バラモンだとか、そうしたとあるコミュニティからはじかれた人たち、コミュニティでうまくやっていけない人たち、その人たちでさえも、シッダールタよりは、孤独ではなかったのだ。
シッダールタは、自分の孤独を知った。
しかし、それが、ようやく、自我に目覚めたという、「覚醒」したという、第一歩だと、彼はとらえ、一歩一歩、新しく芽吹き始めた世界を歩いていくのである。
最後に、メモ。
僕は、小説が好きでありながら、小説が好きではなかった。最短で、「作者のいいたいこと」を読み取ること、それが重視されるのであれば、小説という表現、媒体の必要性を感じなかった。
しかし、小説はやはり、価値があるものだ。それは、漫画でも、映画でも、アニメでも、ビジネス書でも、一般書でも、哲学書でもない。数学でも、物理でも、実験でも、科学でもない。
音楽でもない。ダンスでもない。瞑想でも、坐禅でもない。
小説というそのものの価値というのは、やはりあるのだと。
エンターテイメントとは何か
もはや、思考が、まとまるなど、書き始めた瞬間から思ってはいない。タイトルが、唯一の羅針盤、ジャイロスコープとなってくれる……かも分からない。とにかく、一つ、私の身の上に非常に嫌なことがあったと書き残しておこう。
それを事細かに書くことに意義は見いだせないが、他者の感情を深く感じ取ってしまう呪いのような感覚が原因の一つであること。
実際に言葉というものが、発した本人の意図をはるかにこえて他者に伝わることがあること、を書いておこう。
という、難しい言葉を使おうとすると、よく分からなくなるため、簡単に、簡単に書こうと試みると、嫌なことがあって鬱々としていたが、ある作品を読んで、元気が出た、ということだ。
それは小説のかたちをとっていたが、すべてのエンターテイメント、娯楽作品というものの意義は、そこにあると思う。
何故人は、娯楽に興じるのか。それは、明日生きるための消費である。これが第一義だ。
娯楽は消費に終わるものではない
「あー、楽しかった。よし、明日も頑張るぞ!」とは普通、ならない。取り急ぎ、嫌なできごとを忘却させる手段にはなる。ただし、それは「逃避」という手段であって、根本的解決にはならないことがほとんどだ。
凡人代表を主張する私としては、逃避という手段を否定する気は殊更ない、むしろ積極的に肯定する。
が、しかし、逃避の手段だけで、解決できるのであれば、それは本当の凡人であり、凡人にすらなれない私のようなクズには、何ら役に立たない場合がある。そうだった、凡人代表ではなく、凡人の落ちこぼれだった。
結局、逃げるなら、もうそれは完ぺきに、問題が見えなくなる場所まで逃げるしかない。そうしてようやっと、問題は解決するのである。
そんなこと、クズにはもちろんだが、凡人たちにとっても難しいのは明白だ。そのため、他の手段が必要になる。
明日への活力になる作品とは何か
感動する作品である。心を動かす必要がある。
人は怠惰に流れる生き物である。もちろん、エリートはそうではない。信仰者はそうではない。しかし、凡人以下は基本的に怠惰に向かう。低きに流れる生き物である。
凡人は、いい。凡人になれるなら、そのまま流され続けて生きることができるから、それはそれで幸せな人生を送れるだろう。家畜の安寧、虚偽の繁栄、だ。
ただし、凡人になりきれない種族は、遠き理想を懐きながら、怠惰な生活を改めようとしない。与えられた幸せに満足しようとせず、文句ばかりを吐きまわる。
それをクズという。だが、クズだって生きているのだ、むしろ、死ぬ勇気すらないのだ、だから、もっとクズに対しての言説があってよいと思う。
そのために必要なのは、感動する作品なのだ。
なんかいいこと言おうとすると何も書けなくなる
無は何も生まない。この記事の目的は、ボクに生じたイライラの溜飲を下げるためにある。ただ、まぁ、分かっているんだ、イライラが発生した事象は、他者の言葉にイラついたことに起因するが、問題はもっと深い部分にある。
結局、自分自身を認められないという、自分を矮小な存在としか考えられないという、まるで中学生みたいな自意識が問題なのだ。
いい大人が、――大人ってなんだろう、なんて、考えている場合じゃない、単純に、歳を重ねれば大人だ。それがどういった存在だろうが、周囲はそう扱う。でもキモチワルイはずだ、この文章を書いている人間が、例えば50代だったとして。僕は間違いなくキモチワルイと思うね――自意識の問題で悩むってのは、本当にキモチワルイと思う。
だがまぁ、そうした人間が、ゼロだなどと思う必要はない。それはそれで、非常に傲慢な態度だ。
もし仮にだ、そうした大人がゼロだとしたら、僕は、世界でたった一人のオンリーワン……、いやナンバーワンということになる。そうしたらもう、尊重されるべきだ、むしろ。でもそんなことあるはずない。こうした問題は、必ず、ある。それが、10人か、1万人かの違いだけだ。
ゼロは何も生まない。羞恥心も何も生まない
いやはや、私にも羞恥心はあるのだから、こうした記事が非常に恥ずかしく、黒歴史であることは、感じている。ただ、そうした羞恥心により、鬱屈した思いを頭の中だけで拗らせていると、余計問題が悪化する。
「何があったか」を細かに書く必要はない。この記事を読むだろう未来の自分に対してヒントを出せば、想像してみるだけでいい、自分が、今一番他人から言われて傷つく言葉を、イライラするだろう言葉を。
そうしたときに、スカッとする具体的な反論などを考えてもいいが、それは僕が望むところではない。
抽象的に、そういった場面でどう対応できるか、どう感じることができるか、それを考えることが、未来の自分に対しての今の自分の責務であると思う。
信念をもて。価値観をもて
万物の真理に準じて、幸福を最大限にすること。今思いついた言葉を並べただけなのでこれに意味はない。ただ、自分が正しいと思うことを、信念をもって続けるべきだということを言いたかった。信念って何だ? 自分が正しいと確信する考え、って意味じゃないの? トートロジーじゃないの? とかいう同時思考が本当に邪魔だが、後から読んで分からなくなるのもいやなので、ちょっとだけ辞書を開く。デジタル大辞泉さんは、正しいと信じる自分の考え、のことだと仰っている。
となると、言いたかったこととしては、信念を常に銘記し行動しろ、ということだ。
そしてその信念を作る作業や、信念が場面においてどう具現化するかという思考実験のために、エンターテイメントは存在する。
とはいえ、娯楽は娯楽として価値があるものだ
いやそのとおり。エンターテイメントは楽しいからエンターテイメント足るのであって、高尚な思想が反映される必要は一切ないのだ。楽しくない作品は、娯楽としての価値がない。ただ、その楽しさを超えて語りかけてくるものがあった時、それを、「感動」と呼ぶ。
感動を与えてくれる作品は、何らかのメッセージがある、テーマがある、「思い」がある。
ここに、娯楽には、消費のためのものと、生産のためのものがあるといえる。
人のコミュニケーションも同様に、消費と生産がある。
どちらも、尊いものである。
ただし、どちらも、バランスよく摂取することが大切である。特に、躁と鬱とのふり幅が大きい人にはそうである。
すごい人は大勢いる
世界でトップになるどころか、日本でトップになることだって難しい。どんな分野でもそうだ。特に、創作活動においては、殊更にそうである。
すごい人を見て、知って、よし、俺もがんばるぞ! と思えているうちはいい。しかし、大半はそのレベルに到達できずに、やめてしまう。
だからこそ、続けることが大事だ、とこれまで述べてきたわけだ。
しかし、その続けることが、実に難しいのである。
ナンバーワンにならなくてもいいもともと特別なオンリーワン、なんて嘘っぱちだ
私は槇原敬之さんが好きだし、世界に一つだけの花という曲自体も好きだし、その歌詞だって好きだが、嘘だと思っている。オンリーワンでいいんだよ、というのは、理想ではあるが、どこのだれが、そんなことを言ってくれるのか。マッキーだけである。
しかし、唯一言ってくれるものはいる。
自分で自分を認められなきゃ誰に認めてもらえるというのか
自分だ。もちろん、承認欲求は、自分では満たせない。他者とのかかわり合いで欲求は充足される。しかし、だ。お山の大将、井の中の蛙でいれば、それでもよいだろうが、世界に目を向けたときに、自分はなんて矮小な存在なんだと感じることがある。
例えば、私はタイピングは速い方だ。間違いなく平均よりは上だ。だが、私より速い人は何万人もいるだろう。
といったことは、完全なる自分向けの記事(日記)では、まったく不要な記述だ。けれども、何らかのエピソードがあった方が、初めて読む人とか、あとから読んだときに分かりやすいのだ。
結局、そのエピソードで何をいいたいかというと、そういったことを考え出すと、きりがないということだ。
上をみてもきりがないし、下をみてもきりがない
そもそも、はっきりいって、自分ひとりいなくなったとしても、世界は何も変わらない。無価値である。
そんなことをいったら、有名な会社の社長さんだって、確かに大勢に影響を与えているが、世界的には、いなくなってもそれほど影響はない。
日本を出て、海外、特に発展途上国でがんばっている人が大勢いるという。そこで初めて生きがいを得られたとか、人との関係に温かみを覚えたとか、そういった感想があるという。日本はもはや、飽和しているのである。自分の価値を感じられなくなっているのである。
だからこそ、自分だけは、自分を認めてあげなければいけない。
でも無理だ。論理矛盾だ。その他大勢の凡人には、認められるだけの能力がない。
働いて税金を納めて消費活動をして、立派な社会人だ、日本人だ、人間だ、と思ったところで、そんなことで自分を納得させられるのか。
これは、例えばで書いているだけで、ニートであろうが社会人であろうが、同じ問題を抱える可能性をはらんでいる。
もちろん、この問題を抱えない人間も大勢いる。「生きる意味」を考えずに、自明のものとできる人間も大勢いるのだ。
それが本当の凡人だ。ゆえにこの記事は、凡人にすらなれない「クズ」に向けての記事である。
凡人宣言
こういった問題が存在するため、かなり昔に、「凡人宣言」を書いた。いつの記事かは忘れてしまったが、凡人宣言とは、生きることを自明に感じようという意味をもっている。だが、そういった考え方と、上昇志向とか、「できる社員になるためには!」、「お金持ちになる方法!」とかとは、矛盾が起きる。
大抵自己啓発本で有効とされているのが、「目標」を設定することだ。
私もそれは賛成している。しかし、目標を設定するというのは、凡人から外れたクズにはつらい作業である。何故なら、目標を具体化……、いや、抽象化していくと、いきつくのは、「生きる意味」になるからだ。