もしこの記事を目にした方がいらっしゃったら、思った以上に長くなったため、最後の「総括」だけでも読んでいただければ嬉しいです。
創作活動においてやる気がなくなる原因、それは、オンラインゲーム症候群とでも呼ぼうか。
オンラインゲームには、「廃人」と呼ばれる人々がいる。
もちろん、オンラインゲームには、様々な種類がある。ブラウザゲームと呼ばれる、ターン制や「スタミナ」といった呼称で一日に操作できる回数が決まっているものがある。それを増やすアイテムが課金だったりする。ジャンルは、畑を耕したり、モンスターを連れて冒険に行ったり様々だ。
スマホゲームは、ほとんどがオンラインゲームだろう。パズルでモンスターを倒したり、ディズニーのキャラクターを三つ以上つなげてスコアを競ったりする。
もちろん、ハードなゲームも存在する。MMORPGと呼ばれる、大規模な仮想空間で、様々なクエストを、マルチプレイヤーと協力してこなしていく。もしくは、プレイヤーキル(キラー)と呼ばれる、マルチプレイヤー同士で殺し合いをすることもあったりする。
殺し合いと言えば、FPSやTPSと呼ばれる、ガンシューティングゲームもある。ちなみに、FPSとTPSは、一人称(ファーストパーソン)視点か、三人称(サードパーソン)視点かの違いである。これらも、たいていはプレイヤー同士で遊ぶ。
で、オンラインゲーム総論をやりたいわけではなくて、創作活動においてやる気がなくなる原因を、オンラインゲームをやっていて発生しがちな現象との関連性を述べてみたいというわけだ。
その理由が、冒頭にもふれたが、「廃人」と呼ばれる人々である。
廃人とは何か。詩を詠む人々のことではない。簡単に言えば、極めた人々だ。トッププレイヤーのことだ。
だから、廃人とはすごい人々なのだ。何で「廃」と呼ばれるかといえば、そのゲームを究めるために、その他の生活を犠牲にしている場合が多いからだ。
むしろ、ゲームの構造自体が、時間をかけないと強くなれなかったり、重要なアイテムを手に入れるためには運要素があったり、廃人を生み出す要素をはらんでいたりするのだが、これも脱線してしまう。
とにかく、この記事の中で重要なのは、オンラインゲームには、廃人がつきものだ、ということである。
ではこの廃人が、創作活動と何の関係があるというのか。
これは誤解を生む可能性が高いけれども、簡単にいえば、創作活動においても、廃人はいるのだ。
さすがに、廃人といってしまうと語弊の方が強いため、上手い人、優れた人ぐらいの意味で考えて頂きたい。
例えば、頑張ってイラストを描いてみた。自分の中では上出来だと思った。近しい友人にみてもらった。いいじゃないか! と褒められた。気分がよくなった。
しかしながら、イラスト投稿サイトで自分が描いたのと同じジャンルの作品を偶然見つけてしまった。その作品は、自分のものより、段違いで上手だった。嫉妬も少し感じたものの、そんな次元をはるかにこえている。
ははぁ、さては、プロのイラストレーターが遊びで描いたものなんだろう、と、作品のプロフィールをみてみる。
なんと、自分より10歳も下の素人の方の作品だった。しかも、イラストを描き始めたのは、ここ1カ月ぐらいらしい。その上手な作品も、1時間ぐらいでかきあげたというのだ。自分は、会心のできだと思った作品を作るのに、1か月以上費やしたというのに……。
オンラインゲーム、関係なかったかもしれない。(すみません、説明崩壊かも……)
ただし、ポイントは、つまり、「自分より優れた人を見てやる気をなくしてしまう症候群」ということだ。
最初からこのネーミングの方がよかったかもしれない。
ともかく、これは、創作活動においてやる気をなくす原因の一つである。
もちろん、逆に奮起するパターンだってあるだろう。人生の師、メンターのような存在になってもらうのは、とても有意義だ。そんな機会がえられたなら、むしろ感謝すべきだろう。
しかしながら、それが「仕事」であれば、有無を言わさず、優れた人を見習うことをしなければいけない、が、創作活動は必ずしも「仕事」ではない。
仕事の場合もあるが、趣味だったり、自己啓発だったり、交流が目的だったりもする。
そんなとき、「ああ、自分はいくら頑張っても、せいぜいこれぐらいにしかなれないだろうな」なんて悪魔のささやきに耳をかしてしまったら、もう、創作活動自体をやめてしまうかもしれないだろう。
だから、この病気、というか症候群というかの対処方法は、「目的を見失わない」ということだ。
「この分野でてっぺんをとってやる!」という目標であれば、かなり辛いことになるかもしれない。けれども、それは「目標」であって、目的ではないはずだ。何故あなたは、その分野で一番になりたいと思ったのだろうか? 単純に、他の人たちを見下したいと思ったからだろうか? きっと他の理由があるはずだ。
目的と目標は違う。目標は、目的を達成するための通過点を、数値で表現したものだ。必ずしも数値で表現されなくても、目的のために行う手段をまとめたものである。
では目的とは何か。理念のことである。企業でいったら、経営理念とか、企業理念とか、企業精神とかそういうものだ。
では個人の場合、目的とは何だろうか? 生きる目的のことだ。何故自分がその行動をしたいのかをまとめたものだ。
――、目的について、言いたいことをまとめきれたか微妙だけれども、このことも、本筋と外れるため、ここまでにしておく。いずれ、このテーマは自分にとって重要だし、これまでも何度か書いてきたから、もう少し掘り下げて書く必要があるだろう。
自分より優れた人(作品)をみて、やる気がなくなってしまったときは、何故自分が創作活動をしたいと思ったのか、もう一度冷静に考えてみることだ。
そして、もう一ついえることは、継続は力なりということだ。
継続は力なりとは、繰り返し練習しないと、物事は上達しないものだ、ということを示した教訓でもあるが、実は、ずっと続けていると、ライバルもだんだん減ってくるという事だ。減るというのは、その業界自体が縮小する場合もあるだろうし、本当に単純に、人間の寿命的に減るという意味もある。
優れた作品が、例えば100点だったとしよう。自分は、どう頑張っても、80点しかとれなかった。しかし、100点を取った人は、80歳で亡くなった。すると、次点で自分の80点の作品が、この世界でもっとも優れた作品になるのである。
いやはや、くだらない考え方と思われるだろう。その間に、もっと優れた、例えば120点の作品が生み出されるかもしれないじゃないか、と。そうかもしれない、けれども、それまでずっと継続して作品を作り続けていったのならば、その頃の自分は、きっと、80点以上の作品を作れるようになっているのではないだろうか。
と、時に自分を慰めながらでもいいのだから、続けていこうじゃないですか、ということだ。
ゼロは、何を乗算してもゼロだ。けれども、1ならば、2倍、3倍と増えていく可能性を秘めている。
(小数点をかけたらどうするんだ、とか考えてる暇はないのだ。こういうのを屁理屈という。けれども、私は、いつもこういうことを同時並行で考えてしまう。私だけではないだろう、中学生ぐらいから、大人のいうことを素直に受け取れずに、あれこれと抗弁を試みるのである。これは決して悪いことではない、成長するのに必要なことだと思う。問題は、いい大人の自分がそんなんなことだ)
以下まとめ。
【総括】
最近、以前制作したWEBサイトを構築(復旧)しようと頑張っていた。
しかし、何年も経ってしまい、いまや自分のサイト(作品)よりも、もっともっと優れたサイト(作品)が星の数ほどある。
このままでは、そこら辺に転がっている石にすらなれないのではないか……と、やる気をなくしかけてしまったのだ。
けれども、上のように、目的と目標を考えることで、やる気をもちなおし、結果なんとか復旧することができた。
そうすると、嬉しいことがあった。昔交流していた方々から、励ましのメッセージを頂いたのだ。突然行方をくらましたというのに、温かい言葉を頂いて本当に嬉しかった。
目的は、「優れたサイトを作る」ということではないのだ。それは、目標に過ぎなかったのだ。
――という、一般論を語っているような書き方でいて、結局自分に対して語りかけているだけの記事でした。
ただ、もし誰か、創作活動でスランプなどに陥って、やる気をなくしたり、悩んだりした人がいて、この記事を読んで少し元気になってくれたら、この記事の本当の目的が達成されると、思います。
創作活動においてやる気がなくなる原因、それは、オンラインゲーム症候群とでも呼ぼうか。
オンラインゲームには、「廃人」と呼ばれる人々がいる。
もちろん、オンラインゲームには、様々な種類がある。ブラウザゲームと呼ばれる、ターン制や「スタミナ」といった呼称で一日に操作できる回数が決まっているものがある。それを増やすアイテムが課金だったりする。ジャンルは、畑を耕したり、モンスターを連れて冒険に行ったり様々だ。
スマホゲームは、ほとんどがオンラインゲームだろう。パズルでモンスターを倒したり、ディズニーのキャラクターを三つ以上つなげてスコアを競ったりする。
もちろん、ハードなゲームも存在する。MMORPGと呼ばれる、大規模な仮想空間で、様々なクエストを、マルチプレイヤーと協力してこなしていく。もしくは、プレイヤーキル(キラー)と呼ばれる、マルチプレイヤー同士で殺し合いをすることもあったりする。
殺し合いと言えば、FPSやTPSと呼ばれる、ガンシューティングゲームもある。ちなみに、FPSとTPSは、一人称(ファーストパーソン)視点か、三人称(サードパーソン)視点かの違いである。これらも、たいていはプレイヤー同士で遊ぶ。
で、オンラインゲーム総論をやりたいわけではなくて、創作活動においてやる気がなくなる原因を、オンラインゲームをやっていて発生しがちな現象との関連性を述べてみたいというわけだ。
その理由が、冒頭にもふれたが、「廃人」と呼ばれる人々である。
廃人とは何か。詩を詠む人々のことではない。簡単に言えば、極めた人々だ。トッププレイヤーのことだ。
だから、廃人とはすごい人々なのだ。何で「廃」と呼ばれるかといえば、そのゲームを究めるために、その他の生活を犠牲にしている場合が多いからだ。
むしろ、ゲームの構造自体が、時間をかけないと強くなれなかったり、重要なアイテムを手に入れるためには運要素があったり、廃人を生み出す要素をはらんでいたりするのだが、これも脱線してしまう。
とにかく、この記事の中で重要なのは、オンラインゲームには、廃人がつきものだ、ということである。
ではこの廃人が、創作活動と何の関係があるというのか。
これは誤解を生む可能性が高いけれども、簡単にいえば、創作活動においても、廃人はいるのだ。
さすがに、廃人といってしまうと語弊の方が強いため、上手い人、優れた人ぐらいの意味で考えて頂きたい。
例えば、頑張ってイラストを描いてみた。自分の中では上出来だと思った。近しい友人にみてもらった。いいじゃないか! と褒められた。気分がよくなった。
しかしながら、イラスト投稿サイトで自分が描いたのと同じジャンルの作品を偶然見つけてしまった。その作品は、自分のものより、段違いで上手だった。嫉妬も少し感じたものの、そんな次元をはるかにこえている。
ははぁ、さては、プロのイラストレーターが遊びで描いたものなんだろう、と、作品のプロフィールをみてみる。
なんと、自分より10歳も下の素人の方の作品だった。しかも、イラストを描き始めたのは、ここ1カ月ぐらいらしい。その上手な作品も、1時間ぐらいでかきあげたというのだ。自分は、会心のできだと思った作品を作るのに、1か月以上費やしたというのに……。
オンラインゲーム、関係なかったかもしれない。(すみません、説明崩壊かも……)
ただし、ポイントは、つまり、「自分より優れた人を見てやる気をなくしてしまう症候群」ということだ。
最初からこのネーミングの方がよかったかもしれない。
ともかく、これは、創作活動においてやる気をなくす原因の一つである。
もちろん、逆に奮起するパターンだってあるだろう。人生の師、メンターのような存在になってもらうのは、とても有意義だ。そんな機会がえられたなら、むしろ感謝すべきだろう。
しかしながら、それが「仕事」であれば、有無を言わさず、優れた人を見習うことをしなければいけない、が、創作活動は必ずしも「仕事」ではない。
仕事の場合もあるが、趣味だったり、自己啓発だったり、交流が目的だったりもする。
そんなとき、「ああ、自分はいくら頑張っても、せいぜいこれぐらいにしかなれないだろうな」なんて悪魔のささやきに耳をかしてしまったら、もう、創作活動自体をやめてしまうかもしれないだろう。
だから、この病気、というか症候群というかの対処方法は、「目的を見失わない」ということだ。
「この分野でてっぺんをとってやる!」という目標であれば、かなり辛いことになるかもしれない。けれども、それは「目標」であって、目的ではないはずだ。何故あなたは、その分野で一番になりたいと思ったのだろうか? 単純に、他の人たちを見下したいと思ったからだろうか? きっと他の理由があるはずだ。
目的と目標は違う。目標は、目的を達成するための通過点を、数値で表現したものだ。必ずしも数値で表現されなくても、目的のために行う手段をまとめたものである。
では目的とは何か。理念のことである。企業でいったら、経営理念とか、企業理念とか、企業精神とかそういうものだ。
では個人の場合、目的とは何だろうか? 生きる目的のことだ。何故自分がその行動をしたいのかをまとめたものだ。
――、目的について、言いたいことをまとめきれたか微妙だけれども、このことも、本筋と外れるため、ここまでにしておく。いずれ、このテーマは自分にとって重要だし、これまでも何度か書いてきたから、もう少し掘り下げて書く必要があるだろう。
自分より優れた人(作品)をみて、やる気がなくなってしまったときは、何故自分が創作活動をしたいと思ったのか、もう一度冷静に考えてみることだ。
そして、もう一ついえることは、継続は力なりということだ。
継続は力なりとは、繰り返し練習しないと、物事は上達しないものだ、ということを示した教訓でもあるが、実は、ずっと続けていると、ライバルもだんだん減ってくるという事だ。減るというのは、その業界自体が縮小する場合もあるだろうし、本当に単純に、人間の寿命的に減るという意味もある。
優れた作品が、例えば100点だったとしよう。自分は、どう頑張っても、80点しかとれなかった。しかし、100点を取った人は、80歳で亡くなった。すると、次点で自分の80点の作品が、この世界でもっとも優れた作品になるのである。
いやはや、くだらない考え方と思われるだろう。その間に、もっと優れた、例えば120点の作品が生み出されるかもしれないじゃないか、と。そうかもしれない、けれども、それまでずっと継続して作品を作り続けていったのならば、その頃の自分は、きっと、80点以上の作品を作れるようになっているのではないだろうか。
と、時に自分を慰めながらでもいいのだから、続けていこうじゃないですか、ということだ。
ゼロは、何を乗算してもゼロだ。けれども、1ならば、2倍、3倍と増えていく可能性を秘めている。
(小数点をかけたらどうするんだ、とか考えてる暇はないのだ。こういうのを屁理屈という。けれども、私は、いつもこういうことを同時並行で考えてしまう。私だけではないだろう、中学生ぐらいから、大人のいうことを素直に受け取れずに、あれこれと抗弁を試みるのである。これは決して悪いことではない、成長するのに必要なことだと思う。問題は、いい大人の自分がそんなんなことだ)
以下まとめ。
【総括】
最近、以前制作したWEBサイトを構築(復旧)しようと頑張っていた。
しかし、何年も経ってしまい、いまや自分のサイト(作品)よりも、もっともっと優れたサイト(作品)が星の数ほどある。
このままでは、そこら辺に転がっている石にすらなれないのではないか……と、やる気をなくしかけてしまったのだ。
けれども、上のように、目的と目標を考えることで、やる気をもちなおし、結果なんとか復旧することができた。
そうすると、嬉しいことがあった。昔交流していた方々から、励ましのメッセージを頂いたのだ。突然行方をくらましたというのに、温かい言葉を頂いて本当に嬉しかった。
目的は、「優れたサイトを作る」ということではないのだ。それは、目標に過ぎなかったのだ。
――という、一般論を語っているような書き方でいて、結局自分に対して語りかけているだけの記事でした。
ただ、もし誰か、創作活動でスランプなどに陥って、やる気をなくしたり、悩んだりした人がいて、この記事を読んで少し元気になってくれたら、この記事の本当の目的が達成されると、思います。
PR
感想と批評の違い
感想と批評について、ホームページ上の「主義主張」 になるもの。本来、一番最初に構築してから開設すべきですが――以前の私ならそうしたでしょうが――、最近は、行動重視主義ですので、こういう流れになっています。
さて本題。簡単に言えば、感想は主観、批評は客観であります。
よく見られる勘違いは、なんだか偉そうなアドバイスをしていると、それが批評だと思ってしまうことです。
全く関係なくて、例えば、プロ作家がコメントしていたとしても、それが批評だとは必ずしもいえません。
批評は、誰にでも当てはまることの指摘です。
例えば、文章作法についてや、繰り返し表現の使用などは、誰にでも当てはまります。
もちろん、そうではない場面も存在します。しかしそれは、「例外」として処理されることに過ぎません。
感想は、単に、思ったことの発露ですから、主観であっても、また客観的なことを述べたとしても、定義に抵触しません。
つまり、客観性が失われた批評が、感想とも言い換えられるわけです。
というのが、私の言葉の使用上の定義であります。
実は、
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%E3%C9%BE
ある事物・事象についての、何らかの思想・主張を持つ者による個人的見解の発露(意見提示)。
批評は近代には大いに力を振るったが、21世紀の今、批評が果たす役割がいかばかりなのか、疑問ももたれている。ことにインターネットの日常化により、批評家というプロの存在が危うくなっているかもしれない。
とあるように、個人的な思想や主張も批評という言葉で包括してしまう定義も存在するようです。
あくまで、私の言語使用上の定義、とさせて頂きます。
もっとも、主観・客観という言葉自体、私は信用していません。所詮、ある次元内でのルールみたいなものですので、そもそも言葉の定義を厳密にしようという方策自体誤っているといえます。
(というのも、私の主観であるわけです。この懐疑は、どこまでいってもなくなりません)
感想&批評の受け取り方
まず、言語による情報伝達の限界、というものを意識しなくてはなりません。
というのは、上記のような言葉の定義からもいえます。言語学によれば、人類は共通した言語表現を用いる傾向にある、という見識もあるようです。
しかしながら、文章が、あくまで文脈によって解釈可能であるという事実を避けることはできません。
例えば重要なことの一つに、「妬み」という感情を読み取ることです。
誰にでもある感情でして、「たいしたことない」と思っている奴が、周りに持ち上げられていたりすると、自然と不愉快な気持ちになります。例えば、自分で自分は頑張っていると思っているのに、同僚の方が出世が早かったりすると、「妬み」が発生します。
妬みに支配された人の言動は、表面的にとらえれば、非常に不愉快なものです。
しかし、実際、自分の作品によってその人に「妬み」を発生させたとしたら、自信をもつべきことなのです。
人間、「シカト」が一番つらかったりします。
(もちろんこれは言葉の上での話で、実際に「死ね死ね死ね死ね死ね死ね」と書き込まれまくり、掲示板を落とされたり、物理的攻撃を受ければ、笑っていられません)
そして、もっと具体的レベルで考えますと、「所詮はただの人」だということです。
なにか、言葉だけでは、ものすごく偉い人に感じることがあります。逆に、言葉は陳腐でも、素晴らしい人だっている(かもしれない)のです。
とはいえ、これは、頭の上で分かっていても、いざ酷い批評(感想)をされたりすると、穏やかではいられません。
これに対しては、慣れるしかありません。そして慣れるというのは、誰しももっている能力ですので、安心して下さい。――まぁ、その慣れるまでの時間というのは、個々それぞれですが。
酷い言葉にもなれてきました。
次にするのは、その言葉から、自分が納得できる言葉を見つけ出すことです。
その際気をつけて欲しいのは、文脈を無視することです。何故ならそのひどい感想は、「妬み」によって構築されている場合が多くあります。他人の「妬み」は、自分に取り込んでも意味はありませんので、そこから言葉だけを抽出して下さい。
これについては、実際に例を用いて説明したいのですが、なにせ最近自分の作品を書いていないので、というよりも、単に「妬まれる」ような作品が書けないために、例を挙げることができません(´∀`*)
感想&批評の次元
基本的に、私が「だめだこりゃ」と思う感想(批評)は、次元を間違えているものです。
例えばですが、子ども向けの作品に、「この作品は子どもっぽ過ぎます」と感想つけたら、そりゃあおかしな話でしょう。
この例は極端過ぎますが、同じようなことを、(私も含めて)多くの人がやってしまっています。
というのは、実は難しい作業が必要だからです。
それは、「テーマ」を読み取ること。
基本的に、ライトノベルにテーマはなく、ストーリーを楽しむものです。それに対して、「中身が薄い」とか指摘しても、おいおい、となるわけです。
例えば、男女の恋愛を描く作品であったとしても、そのテーマは様々です。「愛とは何か」を考える作品もあれば、「私もこんな恋愛がしたい!」といったテーマで書かれている作品もあります。
私も完璧にそれができるわけではありませんが、毎回感想を書く際には注意しています。
それをせずに、自分の主観を、――一番たちが悪いのは、それを主観と気付いていないことですが――必死に書き綴っているのは、見ていて悲しくなる――のならいいのですが、腹が立って仕方がありません――のです。
ただし、別にテーマの読み違いは、大したことではありません。
そこは、作者にも反省してもらいたいところであります。もちろん、もちろんですよ、当たり前ですが、読者側にそのテーマを考えるだけの知識・度量・経験がなければ、いくらすぐれた作品であっても正当な評価は受けません。
特に悩んでもいない人が、『死に至る病』なんて読んでも、ピンとこないでしょう。
さて、といったことを、取り敢えず、大前提としてサイトに掲載しておきたいと思いますが、どう分かりやすくまとめようかというのは、さらに考え、推敲が必要に思われます。
是非とも、私の「この作品」に対する感想、批評をお願いしたいと思います。
-----
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 10/16/2009 21:52:58
> 人間『シカト』が一番つらかったり
なので、妬みはおっかない。『無視』ですよ、人の醜い妬み方は、大概。なのでこそ、世俗に無視されているんじゃないスか、遠藤さんは。
無視は妬みのマックスレベルの攻撃本能です。
『慣れ』という対応もありますが、それだけで耐えられない物事は無数にあるので『喰らう』という対応を、自分は『還元』とも捉えます。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 10/16/2009 21:57:55
『無意識の主観』は、自分の唯一、忌み嫌うべき『聞く耳ない人間性』と同義だなって思います。主観に意識すらできない人を、同じ人だなんて、思いたくもありません。何故ならば、この類の人ほど『人は醜い』と、他人というのは『自己と同等レベル』にしか見れない、いいや、生涯、勘違いして騒音を慣らし続ける人と同一な物理。
COMMENT:
AUTHOR: 白銀DATE: 10/17/2009 20:54:35
プラスでもナイナスでもリアクションがあるのは読んで何か感じとってもらえた証拠だと思ってます。
感想と批評の線引きは微妙ですね。
私の場合、感想も批評も私の主観でしか書けません。
私の「客観」が他の方の「客観」と一致しているかどうかは解りませんから、客観的な意見を批評とするのなら私の場合は曖昧になってしまいますね。
何か汲み取れるもの(テーマとか)が感じられたならそれに沿う意見を、とは思いますがネットに溢れる作品は未完結の連載中だったりするものが多く、批評や感想を私としては付け辛いです。途中まで読んで批評や感想って、私には中々できません(苦笑)
蛇足。
ライトノベルにテーマはない、とすると何かしらテーマを込めてライトノベルを書いてる私は異端なのかな(;´・ω・)
COMMENT:
AUTHOR: 遠藤
DATE: 10/17/2009 23:23:43
>なので、妬みはおっかない。『無視』ですよ、 人の醜い妬み方は、大概。なのでこそ、世俗に 無視されているんじゃないスか、遠藤さんは。
しかしそのおっかない攻撃呪文は、相手に毒を植えつけます。「自己嫌悪」という、毒を。それによって、相手は自滅してくれます。いやはや、強力な呪文です。
>主観に意識 すらできない人を、同じ人だなんて、思いたくもありません。
厳密にはいないでしょう。そんな人。
しかし、「本気さ」バロメーターを設置すれば、基準に満たない人は大勢います。
とかいうと、妬まれますね、ははは。
ただ、この文章、嫌みったらしいですが、きっと、私がこれを見つけたら、「GJ!」とコメントしていくと思います。というか、いないし……。
自意識が強いってだけじゃないんですよね。そこのところを勘違いしている。本当に本気な人は、プライドなんてなくて。
そこら辺が、偽者(とは言いすぎかなぁ)との境目でしょう。顔文字さんは、ホンモノかな、と、ちょっと期待してるんです。
でも、厳密には疑いははれません。
当たり前でして、自分すら信じられていないのですからね(´∀`*)
逆説的に、わたしも、「ふつうの人」に対して、妬みをもっているわけですから、説明が非常に困難なテーマであります。
COMMENT:
AUTHOR: 遠藤DATE: 10/17/2009 23:36:46
>ライトノベルにテーマはない、とすると何かしらテーマを込めてライトノベルを書いてる私は異端
この記事で突っ込まれるとしたら、間違いなくそこかな、と思ってました(´∀`*)
白銀さんはかなり穏便に指摘してくれていますが、ここら辺、かなり攻撃的になる人もいるのかな、って。
あえて(というか、面倒になって)注釈などすっ飛ばして書いてしまった部分であります。
ライトノベルにもテーマはあります。
というか、基本的に、テーマがない小説(いや文章)というのはありません。
ただし、テーマは主題という意味で使っていますので、その題が複数あったり、ぼやけていたら、テーマがないといっても差し支えないと思います。
例えば、ラブコメとかですと、それは、ラブ&コメディーなテーマがあるとはいえますが、そこから何か「伝えたいこと」があるとは、考えられません。
簡単に言いますと、ライトノベルは、「面白さ」の追及だと思っています。自論です。
通常の小説は、「伝えたいこと」ありきで、そのための表現が、描写であるものが小説だと、そういう考えのもとの発言でした。
面白きゃなんでもいいのがライトノベルで、面白くなくても、適切に「伝えたいこと」が伝えられるものが、小説なのだと、私の線引きはそこです。
この考えが間違っているかどうかは大した問題ではなく、単に私はそう考えて分類し、感想やら批評をしている、として下さい。
ただ、この軸があると、瞬時に対象の文章(小説orラノベ)を見分けることができます。そうすると、感想&批評をする「次元」設定が容易になります。
――説明するとこんな長々ですが、白銀さんなんかは、既にやっておられるのではないかと推測されます。
なので、これは蛇足ですが、ラノベだから文章が軽い、というのは、間違いだと思うのです。いや、ラノベの語源に遡るとか、そういうつもりはありませんが。
そういう意味で、白銀さんのライトブリンガーはライトノベルだと判断していますが、どうでしょうか。テーマが無いとはもちろん言いませんが、おそらく白銀さんは、「面白さ」を追及されて執筆されていたのではないかと、わたしは思っていましたが、……はずれですかね?笑
COMMENT:
AUTHOR: 遠藤DATE: 10/17/2009 23:43:49
>私の「客観」が他の方の「客観」と一致しているかどうかは解りませんから、客観的な意見を批評とするのなら私の場合は曖昧になってしまいますね。
永遠に懐疑の対象だと思います。
逆に、ここを懐疑の対象とできない人の意見は、私としては「軽い」と思ってしまいます。いくらいいことが書いてあったとしても。
優柔不断という判断がくだるかもしれません。
しかしそうではなくて、
「どちらが正しいか分からない。しかし、今においてはこちらに決める」
という思考判断。それが重要だと思います。
悩んだ挙句に、決めるのです。
そして、自分の判断について、どこまでもモニタリングし続けるのです。辛い作業です。
いや、つらいのか分かりません。
ただ、私はそれしかできません。といいますか、できないことに気付いてしまいました。そこら辺が、私の「変」なところなのかと。
なので、白銀さんもつらいんじゃないのかなぁと、勝手に思っています。
最近〇さんが書き込みしてくれていましたが、おそらく〇さんも、そのうちつらくなるのかなぁと――え、楽しんでいる? と、とんでもない!
とはいえ、そのレベルの思考次元をもった人と、もっとたくさん話したいなーとは思っています。
いわゆる、「概念壊しちゃった(こわれちゃった)(初めから無かった)人」。
COMMENT:
AUTHOR: 白銀DATE: 10/18/2009 00:55:55
>テーマ
そうですね、私の場合は「面白さ」は重視してます。というか、「エンターテイメント性」を重視した構成の中に私の思考の中にある「何か」をテーマとして織り込んでいる形です。
そう言う意味では、遠藤さんの言う通りですね。
『ライト・ブリンガー』は「生き方」を通してのテーマと設定していますが、それとは別に物語としての面白さは自分なりに追求しているつもりです。
私の場合はライトノベルと小説の線引きの認識が結構曖昧なのでちょっと突っ込んだだけだったりします(笑)
言い換えるなら、「面白さ、は当然のもの、他に重視する何かがあるかどうか」って認識です。
ただ面白いだけじゃつまらないな、と感じるが故に、何らかの思考テーマを込めているのが実際のところです。その時思っていること、考えていることを込めて、最後にその時なりの結論を出す感じで。
折角なら「面白い+α」の感想なり思いを持ってもらえたらいいな、と。そもそも、「面白い」ことは作品に必須な要素だと思っているので(´ω`)
もちろん、この「面白い」は単に「感動した」とか「笑った」とか「わくわくどきどき」とかいう意味だけではない色んな意図を包括しているのは察してもらえると思いますが。
でも、確かに書き手の意図している方向性が解るものは意見(感想なり批評なり)もしやすいですね。
>永遠に懐疑の対象
それが解っていると判別できる人の意見はかなり吸収し易いですね、私としては。
私の場合は「その時感じた私の意見」という趣旨にすることにしています。
他のコメントにも関連してくるんですが、私があまり思考をブログとかの記事にしないのは、その時の判断をもっと煮詰めたかったり、まだ自分なりの答えを一つも弾き出せてなかったり、と迷っているからなのかもしれません。(かもしれません、と曖昧に書くのはそれすら答えだと判別できるまでに固まっていないから)
遊多望さんは今の思考の一つ上(向こう側とも言い換えられるかな?)に辿り着ければ大きく意識の拡張ができて余裕ができるんじゃないかなぁ、と思ってます(´ω`)
私は大学に来て環境が変わったことで一つ先の思考に辿り着けた気がしますが。
それが楽なのか苦なのかは本人次第なんでしょうけれどねヽ(´ー`)ノ
COMMENT:
AUTHOR: 白銀DATE: 10/18/2009 02:22:31
>プラスアルファ
それがある作品って、上手下手はともかくやっぱり良く考えられてるんじゃないかと思うんです。そこまで考えられているなら、当然「面白さ」だって追求されている(あるいはできている)はず、と。
そう書くと上から目線ですが、私の場合は「面白さだけじゃなくてもっと色々感じて欲しい」という思いからなんですけど。(と謙遜してみる)
自分の思考がその人の意識の糧になったらいいな、という遠藤さんの言う「自己世界への引き込み」ですね(笑)
それが全てとは言いませんがヽ(´ー`)ノ
あー、とらドラ、私も見れませんでした。放映時にちらっと見ましたが、数分見ただけでも正直魅力を感じず、面白くなかったです。興味の対象にはできませんでしたねぇ。
ゲームは色々やってますが、最近何かの続編とかではなくてまったく新しいもので面白いものって中々ないなぁとは思います。
>オンライン小説の中では、それが全くない
だから困るというか何というか(;´д`)
読む気すら起こらないものが多くて、いちゃもん付ける気にもならなかったり。というかそういうとこに文句とか付け始めるときりが……(苦笑)
>「優柔不断」「逃げ」
そこは前提条件の問題ですね。意識の違いはどうしても完全には消し去れないので、相手に了承してもらうしかないかなと思います。
自分の主観(主観的か客観的かではなくて個人の思考フィルタを通しての意見という意味で)が混じるのは避けられないと思ってますので、裏を返せば「優柔不断」とか「逃げ」という意見すら『主観』じゃないと言えるのかな、とも。
-----