30分、いや、15分程度しかかけられないかもしれない。
超特急で、メモをする必要がある。
最短の時間で、僕のすべての思考を、書き残すこと、その技術がいる。
水に投げ込まれた石のたとえ。
石は、最短距離で、水底に到達する。私が目標を設定し、それを成し遂げようとするとき、それに対しての困難さは、一切にないのだ。
ということが、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」で表現されている。
上の表現は、僕の言葉であるが、小説の表現を、後でもう一度読み返そう、ただし、ここでメモしておかなければいけないのは、それに対しての彼の気持ちが、まさに、僕が表現しようとしていたことであったことだ。
もう一点は、あらゆる愛の技法を覚えた、カマラーとシッダールタが、お互いを、人を愛することができないのだ、と言い合うシーン。
もう一つは、乞食から金持ちになったシッダールタが、やはり、「幼児人間」たちと、一線を画すのだと、感じ始めた、第二章の終わり。
順番が逆転したが、第一章では、そう、これがメモすべきことだったが、「何ら師も欲せず、自我こそが、真我であると」感じ取り、そこから、彼の人生は、新しく、色づき始めるのである。
今書いていて、このシーンは、遠藤ひろき氏の「EDEN」という作品で、性や生に奔放に生きてきたソフィア――彼女は、これまで何ら現実世界に「実感」をもっていなかった――という女性が、幼児型の全身サイボーグに脳を移植し、そこから、すべての、それはコップをつかむだとか、花の色づきだとか、世界を感じ始めるというシーンと、同じだと思った。
こうした、メモを、分かりやすく表現することで、「よいレビュー」になると思う。
きっと、面白い「感想」をつくりあげることができると思う。
ただ、僕は今それをしない。単純に、もう出かける時間が迫っているということもあるが、問題なのは、僕の感じたこと、そのことを、忘れないようにすることだけなのだ。
それを、新たに引き起こすには、「表現」が必要なのだ。
しかしながら、既に起こったこと、僕の心の中で生じたことは、それは、表現のネタになるだろうが、それ以上、僕の心を変化させ、探し求めているものへ近づくものには成りえないのである。
と、ここまで書いてから、タイトル「自我が最良の師であったと気付くこと」と、入力した。
自我、……いや、ここでメモすべきは、結局、「自分自身」の、記憶であれ、身体であれ、思考であれ、できること、そのものこそが、そのすべてであるのだということ。
誰かに教えられるものではないのだということ。
シッダールタの、第一章は、そのことに気付くところで終わる。
そして、ああ、そうだ、ようやく思い出した、メモすべきことは、その、気付きにおいて、シッダールタに戦慄がはしるのである。
愕然とするのである。
身震いするのである。
それは、彼が、とても、この上なく、「孤独」であったということだ。
どのコミュニティ、……という表現は小説にはでてこないが、例えば、職人だとか、バラモンだとか、そうしたとあるコミュニティからはじかれた人たち、コミュニティでうまくやっていけない人たち、その人たちでさえも、シッダールタよりは、孤独ではなかったのだ。
シッダールタは、自分の孤独を知った。
しかし、それが、ようやく、自我に目覚めたという、「覚醒」したという、第一歩だと、彼はとらえ、一歩一歩、新しく芽吹き始めた世界を歩いていくのである。
最後に、メモ。
僕は、小説が好きでありながら、小説が好きではなかった。最短で、「作者のいいたいこと」を読み取ること、それが重視されるのであれば、小説という表現、媒体の必要性を感じなかった。
しかし、小説はやはり、価値があるものだ。それは、漫画でも、映画でも、アニメでも、ビジネス書でも、一般書でも、哲学書でもない。数学でも、物理でも、実験でも、科学でもない。
音楽でもない。ダンスでもない。瞑想でも、坐禅でもない。
小説というそのものの価値というのは、やはりあるのだと。
超特急で、メモをする必要がある。
最短の時間で、僕のすべての思考を、書き残すこと、その技術がいる。
水に投げ込まれた石のたとえ。
石は、最短距離で、水底に到達する。私が目標を設定し、それを成し遂げようとするとき、それに対しての困難さは、一切にないのだ。
ということが、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」で表現されている。
上の表現は、僕の言葉であるが、小説の表現を、後でもう一度読み返そう、ただし、ここでメモしておかなければいけないのは、それに対しての彼の気持ちが、まさに、僕が表現しようとしていたことであったことだ。
もう一点は、あらゆる愛の技法を覚えた、カマラーとシッダールタが、お互いを、人を愛することができないのだ、と言い合うシーン。
もう一つは、乞食から金持ちになったシッダールタが、やはり、「幼児人間」たちと、一線を画すのだと、感じ始めた、第二章の終わり。
順番が逆転したが、第一章では、そう、これがメモすべきことだったが、「何ら師も欲せず、自我こそが、真我であると」感じ取り、そこから、彼の人生は、新しく、色づき始めるのである。
今書いていて、このシーンは、遠藤ひろき氏の「EDEN」という作品で、性や生に奔放に生きてきたソフィア――彼女は、これまで何ら現実世界に「実感」をもっていなかった――という女性が、幼児型の全身サイボーグに脳を移植し、そこから、すべての、それはコップをつかむだとか、花の色づきだとか、世界を感じ始めるというシーンと、同じだと思った。
こうした、メモを、分かりやすく表現することで、「よいレビュー」になると思う。
きっと、面白い「感想」をつくりあげることができると思う。
ただ、僕は今それをしない。単純に、もう出かける時間が迫っているということもあるが、問題なのは、僕の感じたこと、そのことを、忘れないようにすることだけなのだ。
それを、新たに引き起こすには、「表現」が必要なのだ。
しかしながら、既に起こったこと、僕の心の中で生じたことは、それは、表現のネタになるだろうが、それ以上、僕の心を変化させ、探し求めているものへ近づくものには成りえないのである。
と、ここまで書いてから、タイトル「自我が最良の師であったと気付くこと」と、入力した。
自我、……いや、ここでメモすべきは、結局、「自分自身」の、記憶であれ、身体であれ、思考であれ、できること、そのものこそが、そのすべてであるのだということ。
誰かに教えられるものではないのだということ。
シッダールタの、第一章は、そのことに気付くところで終わる。
そして、ああ、そうだ、ようやく思い出した、メモすべきことは、その、気付きにおいて、シッダールタに戦慄がはしるのである。
愕然とするのである。
身震いするのである。
それは、彼が、とても、この上なく、「孤独」であったということだ。
どのコミュニティ、……という表現は小説にはでてこないが、例えば、職人だとか、バラモンだとか、そうしたとあるコミュニティからはじかれた人たち、コミュニティでうまくやっていけない人たち、その人たちでさえも、シッダールタよりは、孤独ではなかったのだ。
シッダールタは、自分の孤独を知った。
しかし、それが、ようやく、自我に目覚めたという、「覚醒」したという、第一歩だと、彼はとらえ、一歩一歩、新しく芽吹き始めた世界を歩いていくのである。
最後に、メモ。
僕は、小説が好きでありながら、小説が好きではなかった。最短で、「作者のいいたいこと」を読み取ること、それが重視されるのであれば、小説という表現、媒体の必要性を感じなかった。
しかし、小説はやはり、価値があるものだ。それは、漫画でも、映画でも、アニメでも、ビジネス書でも、一般書でも、哲学書でもない。数学でも、物理でも、実験でも、科学でもない。
音楽でもない。ダンスでもない。瞑想でも、坐禅でもない。
小説というそのものの価値というのは、やはりあるのだと。
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