すごい人は大勢いる
世界でトップになるどころか、日本でトップになることだって難しい。どんな分野でもそうだ。特に、創作活動においては、殊更にそうである。
すごい人を見て、知って、よし、俺もがんばるぞ! と思えているうちはいい。しかし、大半はそのレベルに到達できずに、やめてしまう。
だからこそ、続けることが大事だ、とこれまで述べてきたわけだ。
しかし、その続けることが、実に難しいのである。
ナンバーワンにならなくてもいいもともと特別なオンリーワン、なんて嘘っぱちだ
私は槇原敬之さんが好きだし、世界に一つだけの花という曲自体も好きだし、その歌詞だって好きだが、嘘だと思っている。オンリーワンでいいんだよ、というのは、理想ではあるが、どこのだれが、そんなことを言ってくれるのか。マッキーだけである。
しかし、唯一言ってくれるものはいる。
自分で自分を認められなきゃ誰に認めてもらえるというのか
自分だ。もちろん、承認欲求は、自分では満たせない。他者とのかかわり合いで欲求は充足される。しかし、だ。お山の大将、井の中の蛙でいれば、それでもよいだろうが、世界に目を向けたときに、自分はなんて矮小な存在なんだと感じることがある。
例えば、私はタイピングは速い方だ。間違いなく平均よりは上だ。だが、私より速い人は何万人もいるだろう。
といったことは、完全なる自分向けの記事(日記)では、まったく不要な記述だ。けれども、何らかのエピソードがあった方が、初めて読む人とか、あとから読んだときに分かりやすいのだ。
結局、そのエピソードで何をいいたいかというと、そういったことを考え出すと、きりがないということだ。
上をみてもきりがないし、下をみてもきりがない
そもそも、はっきりいって、自分ひとりいなくなったとしても、世界は何も変わらない。無価値である。
そんなことをいったら、有名な会社の社長さんだって、確かに大勢に影響を与えているが、世界的には、いなくなってもそれほど影響はない。
日本を出て、海外、特に発展途上国でがんばっている人が大勢いるという。そこで初めて生きがいを得られたとか、人との関係に温かみを覚えたとか、そういった感想があるという。日本はもはや、飽和しているのである。自分の価値を感じられなくなっているのである。
だからこそ、自分だけは、自分を認めてあげなければいけない。
でも無理だ。論理矛盾だ。その他大勢の凡人には、認められるだけの能力がない。
働いて税金を納めて消費活動をして、立派な社会人だ、日本人だ、人間だ、と思ったところで、そんなことで自分を納得させられるのか。
これは、例えばで書いているだけで、ニートであろうが社会人であろうが、同じ問題を抱える可能性をはらんでいる。
もちろん、この問題を抱えない人間も大勢いる。「生きる意味」を考えずに、自明のものとできる人間も大勢いるのだ。
それが本当の凡人だ。ゆえにこの記事は、凡人にすらなれない「クズ」に向けての記事である。
凡人宣言
こういった問題が存在するため、かなり昔に、「凡人宣言」を書いた。いつの記事かは忘れてしまったが、凡人宣言とは、生きることを自明に感じようという意味をもっている。だが、そういった考え方と、上昇志向とか、「できる社員になるためには!」、「お金持ちになる方法!」とかとは、矛盾が起きる。
大抵自己啓発本で有効とされているのが、「目標」を設定することだ。
私もそれは賛成している。しかし、目標を設定するというのは、凡人から外れたクズにはつらい作業である。何故なら、目標を具体化……、いや、抽象化していくと、いきつくのは、「生きる意味」になるからだ。
モチベーションを維持する方法
話しがずれてきているため、無理やりタイトルに引きずりもどそう。オンリーワンであることは間違いない
まず、やはり、オンリーワンなことは、間違いないということを認識することだ。確かに、自分より優れた能力をもつ人は大勢いる。
私はピアノも少々弾くことができるが、当然、もっとうまい人は星の数ほどいて、それも、プロじゃなくて趣味でやっている人たちというカテゴリにしたって、いくらでも上手な人がいるのだ。年齢で絞ろうが、小学生の部で絞ろうが、勝てる気がしない。
ただ、「私」として、できることを全部並べたときに、その小学生の部でピアノの頂点に立つ方に対して、私は勝てることがきっとたくさんある。
いやむしろ、それならば、もっとカテゴリを広げたって、勝てる人が増える。
例えば、「ピアノがちょっと弾ける」に加えて、
・PHPのプログラミングがちょっとできる
・小説の初歩を理解しており、感想や批評がちょっと書ける
という項目をプラスすると、戦える幅が広がるのだ。
いやはや、当たり前だが、こんなことは勝ち負けではない。そういうわけではなく、どうやって「自分さん」を認めてあげるかという問題を考えているわけだ。
戦う相手は他人じゃない、自分だ
だったら、もういいじゃないか、次に戦う相手は、「自分」だ。せめて、昨日の自分には勝ってやろうじゃないか。
他人と比べたって意味はない。
どうせ勝てないんだ。勝てない戦いを続けて楽しいならいいが、絶対楽しくない。絶対という言葉を使うことは滅多にないが、絶対に勝てない戦いを続けるのは、絶対に楽しくない。
過去の自分にだったら、勝てることがあるはずだ。
それが、自分の目指す分野においてだって、勝てる可能性があるのだ。
もちろん、スポーツとか、先ほどの例で挙げたピアノは、昔の自分の方がすぐれていることがあるだろう。
体力的な衰えには、抗えないことはある。人間だもの。
それでもダメなら「死」を強く意識しよう
では、次はこうしよう。「どうせ死んでしまうんだ」ってことを、強く認識させることだ。これは、若い人に言ってもダメかもしれない。本当に死んでしまうかもしれないし。過去の自分に言っても、なんら効果がない時期があったと思う。
まぁそうなのだけれども、これをもとにやり直せたこともある。「どうせ失敗しても、死ぬだけなんだから、じゃあ、やってやろうじゃないか」というわけで、まぁ、本当に死ぬはずはなかったのだけれども、そういった覚悟で取り組んだこともある。まぁ、それである程度、運よく、かもしれないが、成功できたからよかったものの。失敗していたら、今頃どうなっていたか分からない。まぁだから、人生、運要素はある。だから、私は、いくら長生きして、たくさん経験して、知恵を身につけられたとしても、したり顔で若い人にアドバイスすることは無いだろう。
「まぁ、こういう方法もあるかもね」ぐらいは言うかもしれない。けれども、それがその人にとってベストかどうかなんてわからない。
というよりも、話しは戻るが、結局、他者のアドバイスで自分の行動を変えることができるなんて、それすら信じていない。
もちろん、大げさにいっているだけだ。だが、結局、自分の行動を取り仕切っているのは、自分なのだ。他者のアドバイスを聞いて、「ああ、そのとおりだ」と思ったから、自分で行動をかえるのである。
もちろん、極論だろうし、「仕事の命令」とか、「主人と奴隷の関係」とか、批判することはいくらでもできる。そういった事細かな条件設定を綿密に積み重ねていって、一つの「真実」を求めるのが、いわゆる人文科学と呼ばれるものだ。
自然科学以外は科学じゃない、という人もいるという。ただ、本当の文系の科学って、ものすごく難しいものなのだ。ただ、証明自体が難しいから、「なんとなく、納得できる!」という理論がまかりとおってしまう分野でもある。
とにかく、ものすごい難しい科学的証明をすることなど、凡人の私にできるはずもないので、上で述べていることのすべては、「ある条件下」を想定しているということを理解する必要がある。そして、その条件下を、上手く説明できずに逃げていることもよく理解するべきである。
いわゆる、何がいいたいかというと、駄文であるということだ。にもかかわらず、公共の、ブログという場でこのような文章をのっけてしまうのは、「害悪」ではないと考えるからだ。
この文章について、怒りを覚える人すらいるかもしれない。だが、それは読まなければいいだけだ。
しかし、少なくても、私は、昔の、こういったイライラしたときに書いた、自分を含めた他者向けの記事を読んで、納得したり、やる気がでたり、イライラの溜飲がさがったりと、効果があったことも知っている。
ゆえに書き残したのだ。
だから、そうだ、まぁ、一生ないかもしれないが、50年ぐらいの間で、一人ぐらい、こういった文章を読んで、1秒程度の心の動き(それを感動という)を与えられたなら、私が生きた意味が、少しはあったのではないか、と思うわけだ。
とかく、人の世は生きづらい。
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