今日の一言「正解は、無い。あるのは妥協だけだ」
いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)
それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。
そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。
しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。
厖大に増えていく表現媒体。
そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。
本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。
例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。
ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。
年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。
うん、それはとても大事だ。
大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。
しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。
本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。
(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)
ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。
ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。
まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。
何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。
いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。
いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。
でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
もう一個引用すると、
「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)
とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!
何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、
僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。
その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。
その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。
願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。
しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……
時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。
オタクとアニメ
昔、アニメが好き、とか言うと、スクールカースト最下層であった。いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)
それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。
そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。
厖大な数の作品
その中には、低予算でつくられて、放映時間もあんまりよくなくて、殆ど見られず忘れられていった作品も多いことだろう。しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。
厖大に増えていく表現媒体。
そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。
本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。
趣味の枝分かれによる個人化
ところが、今は、趣味の多様化、分化が進んでいると思われる。(注:勝手な妄想だ)例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。
ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。
年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。
うん、それはとても大事だ。
大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。
一般論の無意味性とその標準化
まぁ、それは究極的にどうでもいい話である。上のような疑問立てをして、それを検証していくのが、文系学問の命題やお仕事である。しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。
本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。
(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)
あれアニメ感想じゃなかったの?
先日の記事で、サイコパスの公安局の局長が、「悪役っぽいんだけど明快な説明してくれるんだよね~悪役っぽいけど」って書いてたら、ホントに悪役だった(笑)。ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。
ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。
まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。
何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。
深くシニカルな群像劇
そして、群像劇が面白い。マサオカのとっつぁんカッコいい。上司と部下との軋轢に悩むギノザ監察官。「いったい何が正解なんだ……」それに答えるマサオカのとっつぁん、「正解はない、あるのは妥協だけだ」って。いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。
いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。
でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
もう一個引用すると、
「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)
とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!
まぁ自分の参考にはあまりならない
いやぁ面白いけど、このまま最後まで見てたら時間がやばい、ということで、そんなことを思っていたら、この記事の最初みたいなことを書いていたわけだ。何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、
僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。
その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。
精神力の回復
今年……いや去年かに読んだ、ある超人完璧な高校生が、神と合体して悪魔を倒していくという小説読んだときや、ヘルマンヘッセのシッダールタを読んだときとか、ああそう、無職転生も面白かったし、その他、色々思い返せばあるだろう。その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。
願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。
しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……
時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。
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