今日の一言「面白い物語欲しいようがー」「感動する曲がききたいようがー」
と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
キャッシュ
面白い物語に触れたい! と同時に書きたい! と思って、ちまちまと書き進める。しかし、面白いのか自分で分からない、というか、これ、説明多すぎやろ! 物語性ないやろ! うがーダメダダメダダメだ!!と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
まどかマギカ
魔法少女まどかマギカの、オープニングテーマは好きで、曲は知っていた。けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
エンターテイメント
そもそもエンタテインメントというものは「人生の意味を問いかける」純文学とは違って、「人生は生きるに値する」という前提から出発します。哲学や芸術を追求するのならばエンタメに手を出してはいけません。ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界です。目的はただ一つ、時間を忘れて楽しんでもらうこと。エンタメとは、不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在であることをけして忘れないでください。自分の主張や意見をただ発表してもしょうがないんです。読者に心の底から愉しんでもらえないと意味がないんです。http://www.0874296.com/skillup/processという講座を読んだ。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
消費的なエンタメと生産的なエンタメ
思うに、「うひゃひゃ! おもろかった! さーて、明日から仕事かー」的な作品と、触れた後、しばらく茫然自失して、己の魂魄や信念が揺さぶられるような、そんな生産的(再構築的)な作品と、二種類ある気がする。後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
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コメント
>わかる。非常にわかる。
いやぁったぁぁー!! 共感という所属欲求ゲットォォォ!!(夜遅くで変なテンション)
ややー、バールさんありがとうございます。そのお言葉により本日はとっても良い日になりました。(もう終わっちまったがな!)
>物語を愛せば愛すほど、なんというか生存領域が狭まってゆくような感覚。
これは忌々しき問題であります。バールさんが仰る「生存領域が狭まってゆくような感覚」というのは言い得て妙かと。
ちょうど本記事を書いた後、ある精神科医さんのブログが更新されていて「アニメやゲームには体力が要る、それか私が歳を取っただけなのか」と触れられていました。僕が書いたのは消費的なエンタメと生産的なエンタメという対比でしたが、結局どっちも体力(精神力)は使うんじゃないかということです。
確かに、年齢を重ねることによる、そういった身体的な問題もあると思いましたが、それとは別に、「感性の鋭敏化」故の「鈍感さ」みたいなのも生じる気がしますね。まぁ巷に溢れる表現を用いれば、金持ちは孤独だ、とか、偉くなるほど相談相手がいなくなる、とか、それと近いのかもしれません。
(はは、もちろん、異次元特異空間と化した書庫をお持ちのバールさんとは違い、私の場合はまだまだ知らない物語が多数あるのでしょうが)
さてその処方箋としての
>「飽きた」という感覚すらも経年劣化するということ
もまた、重要に思えます。
「はいはい、またこの手の話しね~」と思ったとして、3年くらい経ってちょっと違った観点になったりすれば、「ナニコレ! 今までありそうでなかった! 面白い!」とかなるのかもしれません。
うーむ。そういう意味で、できる限り、飾らない言葉で、現時点の自分の感性とか思考ってのを、もっとちゃんと残しておきたいものだ。
「こういう状況で、こういうタイミングで、こういう物語に触れたら、こういった感想をもった」
というのの積み重ねが、まさに自分というものの取り扱い説明書になるのかもしれませぬ。
いやぁったぁぁー!! 共感という所属欲求ゲットォォォ!!(夜遅くで変なテンション)
ややー、バールさんありがとうございます。そのお言葉により本日はとっても良い日になりました。(もう終わっちまったがな!)
>物語を愛せば愛すほど、なんというか生存領域が狭まってゆくような感覚。
これは忌々しき問題であります。バールさんが仰る「生存領域が狭まってゆくような感覚」というのは言い得て妙かと。
ちょうど本記事を書いた後、ある精神科医さんのブログが更新されていて「アニメやゲームには体力が要る、それか私が歳を取っただけなのか」と触れられていました。僕が書いたのは消費的なエンタメと生産的なエンタメという対比でしたが、結局どっちも体力(精神力)は使うんじゃないかということです。
確かに、年齢を重ねることによる、そういった身体的な問題もあると思いましたが、それとは別に、「感性の鋭敏化」故の「鈍感さ」みたいなのも生じる気がしますね。まぁ巷に溢れる表現を用いれば、金持ちは孤独だ、とか、偉くなるほど相談相手がいなくなる、とか、それと近いのかもしれません。
(はは、もちろん、異次元特異空間と化した書庫をお持ちのバールさんとは違い、私の場合はまだまだ知らない物語が多数あるのでしょうが)
さてその処方箋としての
>「飽きた」という感覚すらも経年劣化するということ
もまた、重要に思えます。
「はいはい、またこの手の話しね~」と思ったとして、3年くらい経ってちょっと違った観点になったりすれば、「ナニコレ! 今までありそうでなかった! 面白い!」とかなるのかもしれません。
うーむ。そういう意味で、できる限り、飾らない言葉で、現時点の自分の感性とか思考ってのを、もっとちゃんと残しておきたいものだ。
「こういう状況で、こういうタイミングで、こういう物語に触れたら、こういった感想をもった」
というのの積み重ねが、まさに自分というものの取り扱い説明書になるのかもしれませぬ。
posted by 遠藤at 2017/03/28 00:39 [ コメントを修正する ]
私にとってはぶっちゃけるとどうでもいい分類ですね!
エンターテイメントに一定のジャンル分けをすることはあっても、それをどう受け取るかは受け手次第で、作り手の意図とは違う受け取り方をする人だってどうしても出てくると思うんですよ。
単純に受け手が「何かを感じた」のであれば、それでもうエンタメとして成立しているんじゃないかなと思うわけです。その内容が善いものであれ悪いものであれ、方向性がどんなものであれ、対象が誰であれ(何か感じる人が1人でもいた時点で)。
作り手としても受け手としてもエンタメに触れ続けていたい身としては、その考察自体もある種エンタメじゃないかなーなんて思ったりするわけで。
というかそもそも、作り手側が、受け手視点に立った時「自分には哲学性や芸術性のある作品は面白いと思う、そう感じる受け手もきっといるはずだ」と考えて、哲学性や芸術性を追究した作品を出したとしたら、作り手側からしたらそれは「心の底から愉しめる作品である」と言えるんじゃないかと思うわけです。同じような感性を持った人にとっても。
それに、「自分が楽しいと思えないものなんて作る価値があるのか」って思っているぐらいなので、自分の主張や意見をただ発表しているような作品であっても、それが本人の楽しいと思う形で出されているのなら頭ごなしに否定するのはどうかなと。
とはいえ、個人的な好き嫌いはどうしようもないなとは思うんですが。
エンタメというものに、「してはいけないこと」や「これをやっては意味がない」なんてことは無いんじゃないかと思っています。
人の感性や個性は千差万別で、どれだけマイノリティであってもそれを面白いと思える人が1人でもいるなら、どんな形の作品であれエンタメとして成立するものだと私は考えているので、「妙な先入観や固定観念、縛りといったものこそエンタメに持ち込んではいけない」ものだと思っています。
個人的な好き嫌い、個人的な肯定否定は私だってしますけれどね。
面白い、というのは感情の触れ幅の大小がその度合いな気がしています。
それこそ、「これのここがおかしい!」とか「これ面白くないよ!」って意見も見方を変えれば感情が動いて出た言葉なのである意味では楽しんでいるように思えたり。
あと、まどマギは絵柄詐欺、血だまりスケッチ(キャラデザが「ひだまりスケッチ」というマンガ描いてる人なので)、なんて呼ばれてましたね。
エンターテイメントに一定のジャンル分けをすることはあっても、それをどう受け取るかは受け手次第で、作り手の意図とは違う受け取り方をする人だってどうしても出てくると思うんですよ。
単純に受け手が「何かを感じた」のであれば、それでもうエンタメとして成立しているんじゃないかなと思うわけです。その内容が善いものであれ悪いものであれ、方向性がどんなものであれ、対象が誰であれ(何か感じる人が1人でもいた時点で)。
作り手としても受け手としてもエンタメに触れ続けていたい身としては、その考察自体もある種エンタメじゃないかなーなんて思ったりするわけで。
というかそもそも、作り手側が、受け手視点に立った時「自分には哲学性や芸術性のある作品は面白いと思う、そう感じる受け手もきっといるはずだ」と考えて、哲学性や芸術性を追究した作品を出したとしたら、作り手側からしたらそれは「心の底から愉しめる作品である」と言えるんじゃないかと思うわけです。同じような感性を持った人にとっても。
それに、「自分が楽しいと思えないものなんて作る価値があるのか」って思っているぐらいなので、自分の主張や意見をただ発表しているような作品であっても、それが本人の楽しいと思う形で出されているのなら頭ごなしに否定するのはどうかなと。
とはいえ、個人的な好き嫌いはどうしようもないなとは思うんですが。
エンタメというものに、「してはいけないこと」や「これをやっては意味がない」なんてことは無いんじゃないかと思っています。
人の感性や個性は千差万別で、どれだけマイノリティであってもそれを面白いと思える人が1人でもいるなら、どんな形の作品であれエンタメとして成立するものだと私は考えているので、「妙な先入観や固定観念、縛りといったものこそエンタメに持ち込んではいけない」ものだと思っています。
個人的な好き嫌い、個人的な肯定否定は私だってしますけれどね。
面白い、というのは感情の触れ幅の大小がその度合いな気がしています。
それこそ、「これのここがおかしい!」とか「これ面白くないよ!」って意見も見方を変えれば感情が動いて出た言葉なのである意味では楽しんでいるように思えたり。
あと、まどマギは絵柄詐欺、血だまりスケッチ(キャラデザが「ひだまりスケッチ」というマンガ描いてる人なので)、なんて呼ばれてましたね。
白銀さんコメントありがとうございます!
>私にとってはぶっちゃけるとどうでもいい分類ですね!
生産的であれ、消費的であれ、エンタメはエンタメなんだ! それだけで尊いんだ! というのはその通りですね!
>エンターテイメントに一定のジャンル分けをすることはあっても、それをどう受け取るかは受け手次第で、作り手の意図とは違う受け取り方をする人だってどうしても出てくると思うんですよ。
いるでしょうなぁ……。それをひねくれた読者だとして切り捨てる作者も、そういった見方ができるんだ! と尊ぶ作者もいるでしょうねぇ。
>単純に受け手が「何かを感じた」のであれば、それでもうエンタメとして成立しているんじゃないかなと思うわけです。その内容が善いものであれ悪いものであれ、方向性がどんなものであれ、対象が誰であれ(何か感じる人が1人でもいた時点で)。
そうですね! そして、1人でもいるってことは、70億人の世界中にはもっと共感してくれる人がいるってことだと思います。
ちなみに、ここでの白銀さんのコメントにおける「1人」には、自分自身も含められているのでしょうか?
概念的な「面白さ」は、もちろん上のとおり、自分を含めて1人でもいればエンタメとして成り立つと思いますが、実際現実卑近な問題として、他言語でつくられた作品は、その中身がどんなに素晴らしくても、理解できない場合は面白いと思えないと思います(映像作品は別の可能性が秘められている気がしますが、それでも、本質的な意味では絵画と変わらなくなると推察)。
となると、エンタメとして成り立つ条件として、やはり「自分自身」は含めてはならないと思います。
つまり、自分でいくら「おもしれー」と思っても、それが、他者にとって理解できないものであれば、不十分であると。独善に至らないため、他者の忌憚ない意見は非常に貴重に思います。
>作り手としても受け手としてもエンタメに触れ続けていたい身としては、その考察自体もある種エンタメじゃないかなーなんて思ったりするわけで。
非常に可能性を秘めたコメントに思います。つまり、われわれのこういったコメントのやり取り自体が、すでにエンタメとしての種として芽吹いているのでは!
私が断りなく「エンタメ」と書いたり言ったりする場合は、基本的に「創作物語」を指しています。ブログとか講座とかコメントとかは、エンタメには含めて考えていませんでした。
しかしおっしゃるとおり、例えば某巨大掲示板のまとめサイトとか、コラム、もっと広げたらエッセイ(ノンフィクション)なんかも、エンタメっつーたら、エンタメですよね。
>というかそもそも、作り手側が、受け手視点に立った時「自分には哲学性や芸術性のある作品は面白いと思う、そう感じる受け手もきっといるはずだ」と考えて、哲学性や芸術性を追究した作品を出したとしたら、作り手側からしたらそれは「心の底から愉しめる作品である」と言えるんじゃないかと思うわけです。同じような感性を持った人にとっても。
おー、そうですそうです、(多分)自分もとある講座を読んで、本記事においてそんなことを表現したかったんです。
>それに、「自分が楽しいと思えないものなんて作る価値があるのか」って思っているぐらいなので、自分の主張や意見をただ発表しているような作品であっても、それが本人の楽しいと思う形で出されているのなら頭ごなしに否定するのはどうかなと。
これが、最初に書いた、「1人には自分も含めるのか」「独善は回避すべきではないか」という内容に繋がっていて、無批判に「そうですね!」と言えないところであります。
いやぁ、まぁ、その人が楽しければそれはもちろん他者がとやかく言うことではないのですが、やっぱり、その時点では「楽しい妄想」レベルであって、もっといってしまえば「他言語表現」に近いものであって、やはりエンタメとしては成立していないのではないかと思います。
やっぱり、1人でもいい、でも誰か自分以外の人にとって、「面白い」と思ってもらえる、そういった作品になった時点で、初めてエンタメとして成立するのではないかと思います。
>とはいえ、個人的な好き嫌いはどうしようもないなとは思うんですが。
そしてそのとおりですね(笑)
白銀さんが最初に仰っているとおり、「作者の想いとは異なる感想を抱く人がいる」ことは防ぎようがありません、というか、そんなの読み手の勝手だ! と思います。だから、できるだけフラットな目線で、忌憚なく率直な感想を言ってくれるような人にたくさん自分の作品が見てもらえたら、そんな環境があったらいいんだろうな、って思います。
それについては、ちょっと自サイトの改修面で構想だけは考えていて、そのユーザーが、どんな趣味嗜好をもっている人なのか、明確になるといいなと。
例えばになりますが、SFが好きで沢山読んでいる人と、学園恋愛ものが好きな人とが、ある同じ作品を読んだとしても、抱く感想は全く異なることだと思います。他にも、自分自身作品を書いたことがある人なのか、ROMなのかとか。熱い物語を求める人なのか、萌えを求める人なのか。好き嫌いというのは個人の趣向に過ぎません。いろんな人がいるでしょう。で、そんな色んな人からみて、自分の作品に対してどういった感想をもってもらえるのか。どうしたら、もっとよくなるのだろうか、そういった成長ができるような環境をつくれたらいいなぁと思います。
>エンタメというものに、「してはいけないこと」や「これをやっては意味がない」なんてことは無いんじゃないかと思っています。 「妙な先入観や固定観念、縛りといったものこそエンタメに持ち込んではいけない」ものだと思っています。 個人的な好き嫌い、個人的な肯定否定は私だってしますけれどね。
そうですよね。その、個人的な好き嫌いってのも、とっても大事に思うわけです。ただ、難しいのは、ある程度お互いの信頼関係がないと、単純に「面白くなかった」「自分には合わなかった」というのが、言われた側にとって「批判」どころか「人格否定」にまで思ってしまうようなことがあること。この世の炎上はそうしてできあがったいくんですなぁ。
>面白い、というのは感情の触れ幅の大小がその度合いな気がしています。
それこそ、「これのここがおかしい!」とか「これ面白くないよ!」って意見も見方を変えれば感情が動いて出た言葉なのである意味では楽しんでいるように思えたり。
あーなるほど。僕はよく「感動」という言葉を、「良い」「悪い」関係なく、心が動いた場合に使いますが、「面白い」というのも似ているかもしれませんね。
自分としては、「面白い」という語を使った場合は、どちらかというと「良い意味」を含めているような気がします。
・感動しすぎて落ち込んだ
というのは僕はよくありますが、
・面白すぎて落ち込んだ
というのがあまりないが故に。
例えば、感情の振れ幅を「面白い」としてしまうと、愛しの恋人に先立たれて慟哭する人は、感情の振れ幅はマイナス方面で凄い状態でしょうが、それに「面白い」という表現を当てはめるの厳しいかなぁと。あー、まぁ、それをいってしまうと、「感動」という語も不適切な気がしますが。ただ、僕が勝手に感動という語を「感情が、動いている」的な意味で使ってるんですねー、後で辞書ひいてみよう……。
>あと、まどマギは絵柄詐欺、血だまりスケッチ(キャラデザが「ひだまりスケッチ」というマンガ描いてる人なので)、なんて呼ばれてましたね。
うめてんてーですね! 私も見る前にいろいろ調べてて知りました(笑)
んー、まぁ、まだ4話までしか見てませんが、そんなに「血だまり」な感じはありませんね。同じ可愛い系の絵柄で凄惨だったのはエルフェンリートでしたね。いつ見たのかも覚えてませんが、絵柄とのギャップで非常に印象に残っています。
>私にとってはぶっちゃけるとどうでもいい分類ですね!
生産的であれ、消費的であれ、エンタメはエンタメなんだ! それだけで尊いんだ! というのはその通りですね!
>エンターテイメントに一定のジャンル分けをすることはあっても、それをどう受け取るかは受け手次第で、作り手の意図とは違う受け取り方をする人だってどうしても出てくると思うんですよ。
いるでしょうなぁ……。それをひねくれた読者だとして切り捨てる作者も、そういった見方ができるんだ! と尊ぶ作者もいるでしょうねぇ。
>単純に受け手が「何かを感じた」のであれば、それでもうエンタメとして成立しているんじゃないかなと思うわけです。その内容が善いものであれ悪いものであれ、方向性がどんなものであれ、対象が誰であれ(何か感じる人が1人でもいた時点で)。
そうですね! そして、1人でもいるってことは、70億人の世界中にはもっと共感してくれる人がいるってことだと思います。
ちなみに、ここでの白銀さんのコメントにおける「1人」には、自分自身も含められているのでしょうか?
概念的な「面白さ」は、もちろん上のとおり、自分を含めて1人でもいればエンタメとして成り立つと思いますが、実際現実卑近な問題として、他言語でつくられた作品は、その中身がどんなに素晴らしくても、理解できない場合は面白いと思えないと思います(映像作品は別の可能性が秘められている気がしますが、それでも、本質的な意味では絵画と変わらなくなると推察)。
となると、エンタメとして成り立つ条件として、やはり「自分自身」は含めてはならないと思います。
つまり、自分でいくら「おもしれー」と思っても、それが、他者にとって理解できないものであれば、不十分であると。独善に至らないため、他者の忌憚ない意見は非常に貴重に思います。
>作り手としても受け手としてもエンタメに触れ続けていたい身としては、その考察自体もある種エンタメじゃないかなーなんて思ったりするわけで。
非常に可能性を秘めたコメントに思います。つまり、われわれのこういったコメントのやり取り自体が、すでにエンタメとしての種として芽吹いているのでは!
私が断りなく「エンタメ」と書いたり言ったりする場合は、基本的に「創作物語」を指しています。ブログとか講座とかコメントとかは、エンタメには含めて考えていませんでした。
しかしおっしゃるとおり、例えば某巨大掲示板のまとめサイトとか、コラム、もっと広げたらエッセイ(ノンフィクション)なんかも、エンタメっつーたら、エンタメですよね。
>というかそもそも、作り手側が、受け手視点に立った時「自分には哲学性や芸術性のある作品は面白いと思う、そう感じる受け手もきっといるはずだ」と考えて、哲学性や芸術性を追究した作品を出したとしたら、作り手側からしたらそれは「心の底から愉しめる作品である」と言えるんじゃないかと思うわけです。同じような感性を持った人にとっても。
おー、そうですそうです、(多分)自分もとある講座を読んで、本記事においてそんなことを表現したかったんです。
>それに、「自分が楽しいと思えないものなんて作る価値があるのか」って思っているぐらいなので、自分の主張や意見をただ発表しているような作品であっても、それが本人の楽しいと思う形で出されているのなら頭ごなしに否定するのはどうかなと。
これが、最初に書いた、「1人には自分も含めるのか」「独善は回避すべきではないか」という内容に繋がっていて、無批判に「そうですね!」と言えないところであります。
いやぁ、まぁ、その人が楽しければそれはもちろん他者がとやかく言うことではないのですが、やっぱり、その時点では「楽しい妄想」レベルであって、もっといってしまえば「他言語表現」に近いものであって、やはりエンタメとしては成立していないのではないかと思います。
やっぱり、1人でもいい、でも誰か自分以外の人にとって、「面白い」と思ってもらえる、そういった作品になった時点で、初めてエンタメとして成立するのではないかと思います。
>とはいえ、個人的な好き嫌いはどうしようもないなとは思うんですが。
そしてそのとおりですね(笑)
白銀さんが最初に仰っているとおり、「作者の想いとは異なる感想を抱く人がいる」ことは防ぎようがありません、というか、そんなの読み手の勝手だ! と思います。だから、できるだけフラットな目線で、忌憚なく率直な感想を言ってくれるような人にたくさん自分の作品が見てもらえたら、そんな環境があったらいいんだろうな、って思います。
それについては、ちょっと自サイトの改修面で構想だけは考えていて、そのユーザーが、どんな趣味嗜好をもっている人なのか、明確になるといいなと。
例えばになりますが、SFが好きで沢山読んでいる人と、学園恋愛ものが好きな人とが、ある同じ作品を読んだとしても、抱く感想は全く異なることだと思います。他にも、自分自身作品を書いたことがある人なのか、ROMなのかとか。熱い物語を求める人なのか、萌えを求める人なのか。好き嫌いというのは個人の趣向に過ぎません。いろんな人がいるでしょう。で、そんな色んな人からみて、自分の作品に対してどういった感想をもってもらえるのか。どうしたら、もっとよくなるのだろうか、そういった成長ができるような環境をつくれたらいいなぁと思います。
>エンタメというものに、「してはいけないこと」や「これをやっては意味がない」なんてことは無いんじゃないかと思っています。 「妙な先入観や固定観念、縛りといったものこそエンタメに持ち込んではいけない」ものだと思っています。 個人的な好き嫌い、個人的な肯定否定は私だってしますけれどね。
そうですよね。その、個人的な好き嫌いってのも、とっても大事に思うわけです。ただ、難しいのは、ある程度お互いの信頼関係がないと、単純に「面白くなかった」「自分には合わなかった」というのが、言われた側にとって「批判」どころか「人格否定」にまで思ってしまうようなことがあること。この世の炎上はそうしてできあがったいくんですなぁ。
>面白い、というのは感情の触れ幅の大小がその度合いな気がしています。
それこそ、「これのここがおかしい!」とか「これ面白くないよ!」って意見も見方を変えれば感情が動いて出た言葉なのである意味では楽しんでいるように思えたり。
あーなるほど。僕はよく「感動」という言葉を、「良い」「悪い」関係なく、心が動いた場合に使いますが、「面白い」というのも似ているかもしれませんね。
自分としては、「面白い」という語を使った場合は、どちらかというと「良い意味」を含めているような気がします。
・感動しすぎて落ち込んだ
というのは僕はよくありますが、
・面白すぎて落ち込んだ
というのがあまりないが故に。
例えば、感情の振れ幅を「面白い」としてしまうと、愛しの恋人に先立たれて慟哭する人は、感情の振れ幅はマイナス方面で凄い状態でしょうが、それに「面白い」という表現を当てはめるの厳しいかなぁと。あー、まぁ、それをいってしまうと、「感動」という語も不適切な気がしますが。ただ、僕が勝手に感動という語を「感情が、動いている」的な意味で使ってるんですねー、後で辞書ひいてみよう……。
>あと、まどマギは絵柄詐欺、血だまりスケッチ(キャラデザが「ひだまりスケッチ」というマンガ描いてる人なので)、なんて呼ばれてましたね。
うめてんてーですね! 私も見る前にいろいろ調べてて知りました(笑)
んー、まぁ、まだ4話までしか見てませんが、そんなに「血だまり」な感じはありませんね。同じ可愛い系の絵柄で凄惨だったのはエルフェンリートでしたね。いつ見たのかも覚えてませんが、絵柄とのギャップで非常に印象に残っています。
posted by 遠藤at 2017/03/28 21:33 [ コメントを修正する ]
私は自分のブログとかでもそうなんですが、「誰かの目に晒されていて、誰がそれを見ることができる状態(有償無償問わず)にあるあらゆるモノ」はある種エンターテイメントと捉えていまして、故にそれの成立には「自分以外の存在(作り手本人以外にそれを受け取る人)」が条件となります。
なので、「その1人に作り手本人は含まれるのか?」という問いへの私の返答は「NO」となります。
ただ、前回のコメントにもあります通り、いくら作り手側の人間といえど、他の作り手の作品の前に立てば受け手の1人には他なりませんから、「まず自分が面白いと思えるものを作る」という姿勢は作り手側であっても必要なことだと思っています。
「エンタメは自分以外にも向けられているもの」と考えているので、そういう意味では、自分1人だけで完結するのではなく、自分以外が見て何かを感じられるように表現を工夫する、伝えやすく表現する、というのは大切なことだと思います。受け手がどう受け取るかはまた別の問題として。
私がブログの更新とかがおざなりになりがちだったのはこの辺りのことが理由の一つで、「これ読んでて面白いんだろうか?」っていう疑問に自分が頷けないと中々記事を更新できないし、そもそも常日頃の愚痴程度をそのまま吐き出したところで自分自身が面白いと思わない時は記事にならなかったりもして、「自分以外が見た時、少しでも何か感じられるようなこと(他人が見て娯楽性を感じると私自身が思えたこと)」でなければ書く意義を見出せなかったんですよね。
めんどくさがりで、特に何もなかった一日の中で自分がしていたことや、考えていたことを面白おかしく表現できない、表現しようとしなかったという怠慢もあるとは思うんですけれど。
週刊更新や連載については、書くコンセプトや方向性をあらかじめ決めていて、連載部分に至っては自分の書く小説そのものなわけですから、対外的なエンタメ性とか、そういった問題は解消されるのでとりあえず気が済むまで続けてみようかなと思えているのです。
それと、「面白い」や「感動」という言葉はニュアンス的にはプラス方面で使うことが多いですが、マイナス方面の表現に対して使っても良いんじゃないかなと思うわけです。
凄惨で悲劇的な場面や作品を見て、「ああ、面白かった!楽しかった!」と言うのは不謹慎に聞こえるかもしれませんが、間違っているとは思わないんですよね。
辞書の中には「興味がそそられれ、心がひかれるさま」というのもあるようなので、興味深い、惹かれる、という感想に「面白い」を使うのも間違った用法ではないでしょうし。
「感動」についても同様で、プラスであれマイナスであれ、「何かを感じた」「心が動いた」「感情を動かされた」時には使って良い表現だと思いますよ。
文脈によってニュアンスが変わるから言葉って難しいですよね……。
なので、「その1人に作り手本人は含まれるのか?」という問いへの私の返答は「NO」となります。
ただ、前回のコメントにもあります通り、いくら作り手側の人間といえど、他の作り手の作品の前に立てば受け手の1人には他なりませんから、「まず自分が面白いと思えるものを作る」という姿勢は作り手側であっても必要なことだと思っています。
「エンタメは自分以外にも向けられているもの」と考えているので、そういう意味では、自分1人だけで完結するのではなく、自分以外が見て何かを感じられるように表現を工夫する、伝えやすく表現する、というのは大切なことだと思います。受け手がどう受け取るかはまた別の問題として。
私がブログの更新とかがおざなりになりがちだったのはこの辺りのことが理由の一つで、「これ読んでて面白いんだろうか?」っていう疑問に自分が頷けないと中々記事を更新できないし、そもそも常日頃の愚痴程度をそのまま吐き出したところで自分自身が面白いと思わない時は記事にならなかったりもして、「自分以外が見た時、少しでも何か感じられるようなこと(他人が見て娯楽性を感じると私自身が思えたこと)」でなければ書く意義を見出せなかったんですよね。
めんどくさがりで、特に何もなかった一日の中で自分がしていたことや、考えていたことを面白おかしく表現できない、表現しようとしなかったという怠慢もあるとは思うんですけれど。
週刊更新や連載については、書くコンセプトや方向性をあらかじめ決めていて、連載部分に至っては自分の書く小説そのものなわけですから、対外的なエンタメ性とか、そういった問題は解消されるのでとりあえず気が済むまで続けてみようかなと思えているのです。
それと、「面白い」や「感動」という言葉はニュアンス的にはプラス方面で使うことが多いですが、マイナス方面の表現に対して使っても良いんじゃないかなと思うわけです。
凄惨で悲劇的な場面や作品を見て、「ああ、面白かった!楽しかった!」と言うのは不謹慎に聞こえるかもしれませんが、間違っているとは思わないんですよね。
辞書の中には「興味がそそられれ、心がひかれるさま」というのもあるようなので、興味深い、惹かれる、という感想に「面白い」を使うのも間違った用法ではないでしょうし。
「感動」についても同様で、プラスであれマイナスであれ、「何かを感じた」「心が動いた」「感情を動かされた」時には使って良い表現だと思いますよ。
文脈によってニュアンスが変わるから言葉って難しいですよね……。
感動、なんて、本来軽々しく使うべきではない。何故なら、人の心は、相互関係においては常に動くものだから。
それにも関わらず、よいコメタイトルだと思いました!
すべてはエンタメ、これは非常に重要な視点を含んでいると思います。
ひとつは、人生はすべて暇潰しなのではないか? という問いへのアプローチになるからです。
もうひとつは、他者存在すべてが自分を楽しませてくれるエンターテイナーに感じることができる可能性があるからです。
上のことは一旦おいておいて、白銀さんの、特に何もなかった日の、とりとめのないなんてことのない、ふつーの、そんなことが、僕はとっても気になるというか、面白いと思うと思います。
そのことが、白銀さん自身が面白いと思わなくても、何だかきっと面白そうだなと思うのです。
しかし、きっと、なにもない日の、とりとめのかい思考に面白さを感じる人などあまりいないでしょう。
だから、あまり、僕が求めるblogさんとか、あんまり見つからないのかなぁ、と思いました。
面白いだろ? ほら面白がれよ!
という態度の文章とか表現に興味をもてないというか。
むしろ、あーこれ、面白くないかも、でも、書かなきゃどうしようもねぇ! 表現したい、できない、うあぁでもやってやる!! みたいな、そんな狂気きみちた、必要性に迫られたものが欲しい。
レトリックとか、小説表現を否定するのではなく、その表現せれるべきもの、その概念事態の示唆、そのことに対する強い思いみたいなのを見せて欲しい。
そんな風に思うわけですが、、、なんて、俺は何をいってるんだ!!
苛々しながらネットをみていて、白銀さんのコメントで狂喜乱舞しながら、変なこと書いてしまいました、すみません。
とか思ってるわりに投稿しやがるってのは全然すまねぇとか思ってねぇ!!くそう、俺はやっぱりダメなやつなんだうああああ
(コメ主の精神異常が発生したため強制終了)
それにも関わらず、よいコメタイトルだと思いました!
すべてはエンタメ、これは非常に重要な視点を含んでいると思います。
ひとつは、人生はすべて暇潰しなのではないか? という問いへのアプローチになるからです。
もうひとつは、他者存在すべてが自分を楽しませてくれるエンターテイナーに感じることができる可能性があるからです。
上のことは一旦おいておいて、白銀さんの、特に何もなかった日の、とりとめのないなんてことのない、ふつーの、そんなことが、僕はとっても気になるというか、面白いと思うと思います。
そのことが、白銀さん自身が面白いと思わなくても、何だかきっと面白そうだなと思うのです。
しかし、きっと、なにもない日の、とりとめのかい思考に面白さを感じる人などあまりいないでしょう。
だから、あまり、僕が求めるblogさんとか、あんまり見つからないのかなぁ、と思いました。
面白いだろ? ほら面白がれよ!
という態度の文章とか表現に興味をもてないというか。
むしろ、あーこれ、面白くないかも、でも、書かなきゃどうしようもねぇ! 表現したい、できない、うあぁでもやってやる!! みたいな、そんな狂気きみちた、必要性に迫られたものが欲しい。
レトリックとか、小説表現を否定するのではなく、その表現せれるべきもの、その概念事態の示唆、そのことに対する強い思いみたいなのを見せて欲しい。
そんな風に思うわけですが、、、なんて、俺は何をいってるんだ!!
苛々しながらネットをみていて、白銀さんのコメントで狂喜乱舞しながら、変なこと書いてしまいました、すみません。
とか思ってるわりに投稿しやがるってのは全然すまねぇとか思ってねぇ!!くそう、俺はやっぱりダメなやつなんだうああああ
(コメ主の精神異常が発生したため強制終了)
posted by 遠藤at 2017/04/03 22:36 [ コメントを修正する ]
わかる。非常にわかる。肯定しかしてこないとわかりきっている相手の肯定は空しいばかりだと思います。
「肯定されるかわからない」からの「肯定された!」なら感情は動くのですが、我々ぐらい物語に耽溺してしまうと肯定してくる作品ってのが事前になんとなくわかるようになってしまって、落差がないために「あ、ふーん」って感じになってしまう。
物語を愛せば愛すほど、なんというか生存領域が狭まってゆくような感覚。
どうしようかなーってどうしようもないので定期的に初心に帰るわけですが。しかしこの「初心に帰った」も所詮自己欺瞞でしかない。うまく自分を騙す必要があるが、その方法はよくわからない。
ひとつ救いがあるとするならば、「飽きた」という感覚すらも経年劣化するということでしょうか。この事実をフル活用してなんとかやりくりしていくしかなさそうです。