今日の一言「青春をテーマにした作品はエンディングに関わらず黄昏を思う」「時間の不可逆性が虚しくさせるのかもね」
おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
「君の名は。」を映画館で見てきた
映画って、何か月上映するかというのは決まっていないらしい。1か月で上映を終える作品もあるらしい。シン・ゴジラは4か月ぐらいで、君の名は。は、それを超えてロングランになっている。おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
記憶と思い出の大切さ
※ここから若干ストーリーについても触れるため、ネタバレほどにはならないですが、気になる方は注意頂ければと思います。ただ、まだ見たことない方にもそれほど影響はないように配慮はしています。が、ハッピーエンドかバッドエンドか、それすら知りたくない人はブラウザバックでお願いします(ただ、何をもってハッピーとするかは人それぞれでしょうが)。本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
5年が過ぎる
そして更に、5年が過ぎ去る。そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmとの違い
秒速5cmを見ていると、最後のシーンが、単純にああよかったね~で終わらず、何だかしみじみとした、感傷というか、何とも表現しがたい思いになることができる。秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
さてここから感想
まとめとして、ストーリーとか、そういう点はともかく、映像が綺麗だし面白かったので、満足である。特に批判とかはありません、良い作品だったと思います。で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
虚しさを乗り越えるために
まぁ、こんな感想を持つ人は、殆どいないだろうな。ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
答えが欲しい、けど足りないと。
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
たき君とみつはさんのその後
何度も書いたが、今作の主人公・ヒロインの二人は最後に出会った。名前は思い出せずに、「君の名は……」と同時に問いかけるシーンで終わる。感動的なシーンだ。きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
PR
新海誠作品というと、私が一番印象に残っているのは「ほしのこえ」です。私が中学、高校辺りの頃にレンタルで借りて見た覚えがあります。確か、テーマソングが凄い気に入って、サントラか何かのCDを買って、見た当時はよく聴いていましたね。
というか、ぶっちゃけると「ほしのこえ」以外見たことがなかった気がします……。
なんとなくタイミングを逸してしまっているので、レンタルが始まったら見てみたいところです。