今日の一言「24時ぐらい帰宅」
ご心配おかけしました!
似たようなこともあるんですね~。私は最初、1日ぐらいかな、程度に思っていましたが、3日ぐらい続いて、そして「仮想ストレージの不具合」という情報をみてから、思った以上に深刻かもしれないとようやく思ったぐらいでした。
んで、ストレージということで、「データ大丈夫かな……」と、当初あまり情報もなくて少し不安でしたね。
未然の防止策というのは思いつきませんねぇ。複数SNSとかアカウントをもっていて、両方とも同じぐらい更新しているならともかく、そもそも、読者がどっちかしか知らなければ十分にお知らせできるものでもないですし。
予定が狂ってやきもき……というのはありましたが、まぁ無料でお借りしているからあまり文句はいえないですね(わらい)。ただ今回は、有料サービス利用の方々も同様の事態だった模様なので、無料ユーザはともかく、今後何かしら保障とかあるのか、どうでしょうね。
まえがき
えーあー、その、忍者ブログ復活してから、2回目のルーティン更新になるけれども、書くことが思い浮かばない……というよりも、帰宅してから書くという、その流れが構築できておらず、脳のニューラルネットワークが繋がらないような感覚だ(いみふ)。コメント返信を兼ねる
少しずるい気がするけれども、さっそくコメントいただいたので、過去コメントへの返信はお休みし(……そう、直近のルーチンはコメント返信にあてることとしていたのだ)、直近のコメントに書かせていただく。>忍者ツールズの公式ツイッターで障害発生中との情報を見た後はあまり心配せずに待っていた感じです。>未然に防ぐ方法も思いつかないですし、サービス元が復旧を諦めでもしていない限りは、復旧するのを待つしかありませんし。>定期更新している場合などはそれが滞ってしまったり、予定やモチベーションが狂ってしまったり、見通しが立たなくなってしまう辺りはやきもきするわけですが。
ご心配おかけしました!
似たようなこともあるんですね~。私は最初、1日ぐらいかな、程度に思っていましたが、3日ぐらい続いて、そして「仮想ストレージの不具合」という情報をみてから、思った以上に深刻かもしれないとようやく思ったぐらいでした。
んで、ストレージということで、「データ大丈夫かな……」と、当初あまり情報もなくて少し不安でしたね。
未然の防止策というのは思いつきませんねぇ。複数SNSとかアカウントをもっていて、両方とも同じぐらい更新しているならともかく、そもそも、読者がどっちかしか知らなければ十分にお知らせできるものでもないですし。
予定が狂ってやきもき……というのはありましたが、まぁ無料でお借りしているからあまり文句はいえないですね(わらい)。ただ今回は、有料サービス利用の方々も同様の事態だった模様なので、無料ユーザはともかく、今後何かしら保障とかあるのか、どうでしょうね。
あとがき
(かっこ書きである。眠すぎるので、かっこ書きである。思ったのだけれども、何らかの事故事件に巻き込まれたり身体を壊してしまったりと、外部要因などで、いっきに更新がしばらくできなくなることはあるかもしれない。それは僕だけでなく、誰しもそうだ。そうしたときに、エンディングノートといった試みがあるのかもしれないと、ふと思った。デジタル財産というか。手帳に、知人の連絡先をかいていれば、家族が連絡をとってくれるかもしれない……といったとき、リアル知人と同程度に、このブログ読者氏とか、別管理サイトの利用者さんとかには、何等かお伝えしなきゃいけない気がする。しかし、今のところ、それについては対策の見込みがない(リアル知人になんかそういうのやりたくない、家族も含め……)。なんか、そうだな、「この手紙を読んでるころには、私はもう皆さんの前にはいなくなっているでしょう……」的なそんな何かの方法があるものだろうか。などと益体もないことを考えながら布団に倒れこむ)PR
今日の一言「忍者ブログ復活」
表示は2日前ぐらいからされるようになっていたが、更新機能はあいもかわらずマヒしており、今日、帰ってきて開いたら、更新できるようになっていた。
ご心配をかけて申し訳ございませんでした。せめて、ブログ表示の際に、忍者ツールズで障害が発生しており表示できません、的なメッセを表示してもらえなかったのか、――おそらくそれどころではなかったのだろうが、それさえあれば読者さんへも心配かけずにすんで、不平不満もそれほど大きくならなかったのではとは思う。
とはいえ、ツイッターでは、「復旧がんばってください」的な、そんなあたたかいコメントもちらほらと見受けられたわけであるが。
無料でお借りしているわけだし、僕も特段文句があるわけではない。
最悪、データが残っていてよかったと思うほどだ。
まえがき
1月25日?ぐらいから、忍者ツールズ全般に、大規模な障害が発生した。表示は2日前ぐらいからされるようになっていたが、更新機能はあいもかわらずマヒしており、今日、帰ってきて開いたら、更新できるようになっていた。
ご心配をかけて申し訳ございませんでした。せめて、ブログ表示の際に、忍者ツールズで障害が発生しており表示できません、的なメッセを表示してもらえなかったのか、――おそらくそれどころではなかったのだろうが、それさえあれば読者さんへも心配かけずにすんで、不平不満もそれほど大きくならなかったのではとは思う。
とはいえ、ツイッターでは、「復旧がんばってください」的な、そんなあたたかいコメントもちらほらと見受けられたわけであるが。
無料でお借りしているわけだし、僕も特段文句があるわけではない。
最悪、データが残っていてよかったと思うほどだ。
ルーチン更新
ただ、ルーチン更新は、途絶えてしまった。まぁ、やむを得ない事情、といえばそのとおりであるが、どうしよう、明日からまた復活しようかな。とりあえず、やらない理由はない、か。あとがき
(かっこ書きである。某氏が自身のブログで、僕のブログが表示されなくなったことについて心配してくださっていた。心配かけて申し訳ないという気持ちとともに、心配してくれてうれしいなぁという複雑な気持ちを抱いたことをメモしておこう。それにしても、ルーチンしているときは、面倒だと思ってしまうこともありながら、いざ書こうと思ってもかけない期間が続くと、「早く書きたい!」という気持ちが生じることが分かった。このあまのじゃく的な心情を、モチベーション維持理論に活用できないものか)
今日の一言「23時14分帰宅」
様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
それらをはねのけて、今僕はここにいる。
話題元
まえがき
そろそろ、ルーチン更新が飽きてくるころである。面倒だなぁという気持ちになってくる。今日くらいはいっかな、という気持ちになってくる。明日まとめてやれば、まいっかな、という気持ちになってくる。そもそもこんなこと続けても何にもならないよ、という気持ちになってくる。様々な怠惰な誘惑……さぼりたいという気持ち。
それらをはねのけて、今僕はここにいる。
コメント返信
話題元
>そして温厚か、神経質かそれは目的に対して影響度が低いものに関しては無関係であるから温厚でいられるし影響度が高いものに関しては関心が強い分、その成否に関してイライラするってことなんだと思います。例えばですが朝、仕事に行く前にコンビニによったときにレジがもたついていたり、並んでいるとイライラします。(700円以上買い上げのくじの期間とかは最悪ですね)でも、これはレジに時間がかかっていることに対してイラつくのではなく仕事に遅刻したらどうしようという不安からイライラしているのです。だから夜だとか後ろに何も急ぎの予定がないときにコンビニに列が出来ていても別にイライラしない。携帯でもいじりながらゆったり待ってます。そういう部分を見るとイライラしないというのは技術(とよんでいいかわからないが)であったりする部分もあるのです。朝のコンビニの列がイライラするならば事前に買い物をしておくかもうちょっとだけはやく家を出ればいいという話ですからね。
なるほど。ここでの文脈としては、「温厚」というのが、必ずしも良い意味ではない気もしてきますね。
一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。
性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。
太字下線は僕が行った部分。
前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。
一面的な性格についての見方を変えてくれる視点だと思います。
性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ、そんな気がしました。
コメント返信2
そして遠藤さんのいう初対面の人には「温厚そう」といわれ家族には「火のような性格だね」といわれるのもどういう場所や場面で会うかどういう繋がりがによって見えてくるものも違ってくると思うんですよ。というのも基本的に人ってなんらかの目的を持って繋がっています。そして、人ってその目的の部分や環境の一側面しか見ることができません。というのも家族であればプライベートの部分しか見ることができないですよね(遠藤さんの「火のような性格だね」といわれたのがどの時期のものかわからないのはありますが、それを学生時代だと想定すると)だって、家族と一緒に学校で勉強をしているわけでもないし逆にいうと親と一緒に仕事をしているわけでもない。家というその環境の一側面でしか、接点がないのです。そして、特に子供の頃はパワーバランスでいうと親側に傾いている。だから子供は親の機嫌を伺ったり、ある程度、歳をとって自分でこうしたいという思いやできる年頃になると反抗期ってのも出てくるんだと思います。そうなったときに「火のような性格だね」という元を辿ればそういわれる状況だったりそういう環境だった何かが出てくるのではないかな?という思っています。
で、話を戻しますが温厚である、神経質であるというよりも元を辿れば何が大事で、何が大事じゃないのかのほうか重要であるといえるしそれはどういう葛藤を抱えているか(いたか)やそのことに対してどういう情報を持っているかで動き方や見え方も変わってくるのだと思います。だから、性格というのはその人にどのような目的がありその目的にたどり着くためにその人の能力や技術であったりどういった方法論をとっているかという部分を簡略化して説明しているもの、と僕は捉えています。
太字下線は僕が行った部分。
前の小見出しにおいて、僕は今日「性格、というものがあるのではなくて、「目的」が存在していて、その目的に向かう影響度や興味の多寡によって、自己の振る舞いが変わってくる。その一面を切り取ったものを、人は「性格」と呼ぶ」と表現したけれども、コメント主さんも同じ意味を表現しているのではないかと思う。コメ主さんの表現の方が分かりやすい気がする。
あとがき
(かっこ書きである。ルーティンなので、今後もコメント返信は続けていくが、しかし、ふと思ったのは、個々のポイントに返信することで、全体が見えなくなってしまってはいないか、ということである。要は、このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ものを「目的」としているのであって、それに対しての知見というか考えというか感情というか思考というか技術というか知識というか、そういったサムシングについてが、求められていることなのではないか。そうした内容になっていない記事は、無価値なのではないか、そんな感想を(自分の書いている記事自体に)抱いたのである。整理しよう――というか、僕の現状の考えはどうなのか。生きる意味はあるのか、ないのか。これに対しての答えは、あるともいえるし、ないともいえる、という回答になる。生きる意味は「ない」とすれば、考える必要すらないのであるから、そもそも問いの立て方(生きる意味を徹底して考える)が意味をなさないのではないか(だから、消去法的に「ある」としかいえないのではないかと)、と言われるかもしれないが、「ない」としても、だからといって、考えることそれ自体の否定にはならないと、僕は思うのでその批判は当たらないと考える。ただ、生きる意味は「ない」という結論になったときに、それは即ち速やかな自殺の勧奨となるのだろうから、生きる意味は「ある」と言っておくことが正しいと思われる。もう一つ言えることとしては、生きる意味とは、万人共通普遍に存在するものでは「ない」ということである。生きる意味の次元について、コメ主さんは以前「>1.宇宙と私 2.人類と私 3.社会と私 4.個人と私」と挙げられていた。生きる意味とは、何かとの関係の中で生じるものであるという考えに僕は同意する。そして、自己と世界(環境すべて)の関係性は、流転し、予測のつかないものである。そうしたときに、確固たる自己――ないしは、生きる意味というのは、見出しようが「ない」と、僕は考える。その次元において、僕は、生きる意味は「ない」と回答するだろう。一方で、家族と自分――としたとき、家族にとってみれば、自分がいなくなってしまうと、悲しい思いをするだろう。夫ないしは妻、兄ないしは弟、子供ないしは親……その所属的な役割は、「生きる意味」と呼称するのに、十分ではないだろうか。その意味においては、生きる意味は「ある」と僕は回答するだろう。――しかし、一方で、その所属としての役割が強固だとしても、それでも僕自身の存在が「何か」において必ず必要か、というと、そうではないのである。僕は「世界」の十分条件であって、必要条件ではないのだ(僕は世界の一部であるが、世界であれば僕であるわけではない)。つまり、僕の回答としては、最初に戻るが簡単に言えば、「生きる意味はあるけれども、ない」ということになるのだ。ただ、あるけれどもないとかという、仏教の禅問答や空(くう)のような答えというのは、いささかに座りが悪いので、「徹底して考える」必要があるということになる。ここでふと思うに、キリスト教的な生き方というのは、そうした不安定な要素を、「神が認めてくれる(神がみている)」として信仰することにより、それ以外の(人生)活動を円滑にしてくれるというわけである。つまり、僕の問題意識を換言すれば、「信仰」の対象を探している、といえるかもしれないのである)
今日の一言「コメント返信は一時お休み」
思ったより簡単にできてしまった。なお、口座開設は既に済み状況であった。
検討を始めた際の記事
2019/06/15 (Sat)
リンク元
ところが、証券会社の投資信託の画面に飛ぶと、どうやら、ポートフォリオを決めると――要するに、国内株式は何%、新興国債券は何%と、数字を選ぶだけで、適切な銘柄を自動的に選んでくれるみたいである。ここはもしかして拘るポイントなのかもしれないと思いつつ、「面倒くさかった」ので、何%を決めるだけで購入に踏み切ろうという気持ちになった。
最大でも、年間40万円枠しかない買い物なのである。うだうだ行動できないほうが、「機会損失」のリスクだ。
結果、以下のポートフォリオになった。
最初、債券はいれないつもりだったが、「債権も入れた方が安定する(ただし日本債権以外)」とのコメントを頂いたこともあったので、
日本株10%
日本債権1%
先進国株30%
先進国債権25%
新興国株15%
新興国債権20%
のようなイメージで買うことにした。
(実際は、最初に証券会社サイトでのオススメの比率をもとに組み合わせたので、やや異なる数字になっている。REIT(不動産投資)も入っている。コモディティというよく分からないのも入っている。先進国株にもっと極振りでもよかったような……後から考えると色々思うところもあるが)
そんな、かなりあやふやな状態でのスタートとなった(一番やってはいけないのだろう)。
自分の資産の内訳としては、預貯金、株式投資、つみたてNISA、終身保険、の構成になる。
つみたてNISAは、制度が少し変わって、2037年までに始めれば、20年間の積み立てができるということだ。自分の場合は、2020年に始めたので、2039年までの20年間が積み立て期間となる。
すると、36万円×20年=720万円が必要となるわけだ。そしてこれが、5%増えたとすれば、756万円(36万円)の利益となる。(そんなにすごく増えるわけじゃないなというのが正直な感想。銀行に預けておくよりはましなぐらいか)
まえがき
少し時間ができたので、前々から「やろうやろう」と思っていた、積立NISAを始めてみた。思ったより簡単にできてしまった。なお、口座開設は既に済み状況であった。
検討を始めた際の記事
2019/06/15 (Sat)
リンク元
ポートフォリオ
僕は、今日手続きを進めるまで、個別の投資ファンド(銘柄?)を一つ選んで、それでポートフォリオ(国内外の株式・債権の組み合わせ)を決定するものだと思っていた。(通常の株取引はそんなイメージだったからだ)ところが、証券会社の投資信託の画面に飛ぶと、どうやら、ポートフォリオを決めると――要するに、国内株式は何%、新興国債券は何%と、数字を選ぶだけで、適切な銘柄を自動的に選んでくれるみたいである。ここはもしかして拘るポイントなのかもしれないと思いつつ、「面倒くさかった」ので、何%を決めるだけで購入に踏み切ろうという気持ちになった。
最大でも、年間40万円枠しかない買い物なのである。うだうだ行動できないほうが、「機会損失」のリスクだ。
結果、以下のポートフォリオになった。
最初、債券はいれないつもりだったが、「債権も入れた方が安定する(ただし日本債権以外)」とのコメントを頂いたこともあったので、
日本株10%
日本債権1%
先進国株30%
先進国債権25%
新興国株15%
新興国債権20%
のようなイメージで買うことにした。
(実際は、最初に証券会社サイトでのオススメの比率をもとに組み合わせたので、やや異なる数字になっている。REIT(不動産投資)も入っている。コモディティというよく分からないのも入っている。先進国株にもっと極振りでもよかったような……後から考えると色々思うところもあるが)
そんな、かなりあやふやな状態でのスタートとなった(一番やってはいけないのだろう)。
今後を見てみる
ちなみに、毎月3万円の積み立てで、年間36万円、40万円以内の見積もり。自分の資産の内訳としては、預貯金、株式投資、つみたてNISA、終身保険、の構成になる。
つみたてNISAは、制度が少し変わって、2037年までに始めれば、20年間の積み立てができるということだ。自分の場合は、2020年に始めたので、2039年までの20年間が積み立て期間となる。
すると、36万円×20年=720万円が必要となるわけだ。そしてこれが、5%増えたとすれば、756万円(36万円)の利益となる。(そんなにすごく増えるわけじゃないなというのが正直な感想。銀行に預けておくよりはましなぐらいか)
あとがき
(かっこ書きである。取りあえず、昨年から立てた目標の一つを達成した――厳密にはお金がまだ動いていないけれど。取り急ぎは、数か月、注視しておこうと思う。何等か手続きに不備があったかもしれないし。今回は始めた、というメモまで)
今日の一言「22時半ぐらい帰宅」
話題元
太字部分は僕が引いたところ。重要な点だと思う。
僕も、同じように思う。いや、大人たちは、みんなそんなこと分かっているのか。そのあたりがよく分からない。ただ、「こういうキャラクター」という、そんな表現が用いられることがあるだろう。テレビの中だけではなく、聞いたこと、みんなあるだろう。いったことがある人もいるかもしれない。「俺って(私って)〇〇だから~」というのも似たようなものだ。
自己認識、というのは誰しも持っている。
その自己認識を広く表現したもの、それが「性格」なのだと僕は思う。しかし反転して、その「性格」とされる表現……例えば、「まじめ(そう)」「がんこ(そう)」「ちゃら(そう)」「面白(そう)」(?)といったものは、逆に自己表現の幅を狭くしていると思う。つまり、性格というのは、自己表現の手段などではなくて、「分かりやすい自分」「理解されやすい自分」を作るための手段なのだと、僕は思う。
ちょっと前までは……ということで、今は違うのかもしれませんが、私は今もツーリング趣味(といえば趣味)です。
一人でも、複数人でも行ったりします。複数人のときは、自分でプランニングはしないですね。単に面倒だというか、思いつかないだけなのか。一人で行くときは、そりゃあ一人なので何らかの「計画」は必要です。が、「この道を通ろう」「この施設(温泉とか)に行こう」とか、漠然と決めて、僕も偶然性を楽しみたいと思ったりしている気がします。それははたから見れば計画性がないようであり、一方で、それ自体が旅行なりツーリングの「目的」なんですよね。だから、それはある意味で計画的、でもある、と思います。
まえがき
時間がNOぉぉということで、早速ルーティーンに入る。返信
話題元
>まず、「性格」の話から。遠藤さんは「性格」に対して絶対不変なものだとは思えていない、それが、ある意味、不変なものである、と思えている人が自己認識、自信の強度が強い人だと考えている、というように僕は理解しましたが僕のスタンスでは逆です。(いや、逆ではないか)というのも自分がこういう性格だ、という自己認識している人のほうが自己に対する理解がない人なのだと、僕は思っています。なぜなら、私はこういう性格だ、と認識していることは「性格」というものを絶対不変なものだ、と認識しているようなもので「性格」というものは絶対不変なものではなくそのときの「目的」や「環境」によって変わるものだ、という認識のほうが僕は正しい(というよりは認識の精度が高い)と考えているからです。
太字部分は僕が引いたところ。重要な点だと思う。
僕も、同じように思う。いや、大人たちは、みんなそんなこと分かっているのか。そのあたりがよく分からない。ただ、「こういうキャラクター」という、そんな表現が用いられることがあるだろう。テレビの中だけではなく、聞いたこと、みんなあるだろう。いったことがある人もいるかもしれない。「俺って(私って)〇〇だから~」というのも似たようなものだ。
自己認識、というのは誰しも持っている。
その自己認識を広く表現したもの、それが「性格」なのだと僕は思う。しかし反転して、その「性格」とされる表現……例えば、「まじめ(そう)」「がんこ(そう)」「ちゃら(そう)」「面白(そう)」(?)といったものは、逆に自己表現の幅を狭くしていると思う。つまり、性格というのは、自己表現の手段などではなくて、「分かりやすい自分」「理解されやすい自分」を作るための手段なのだと、僕は思う。
返信その2
(たぶん、返信その4ぐらいまでいきそうであるが、それは明日にまわす)例として僕のことをあげるとするとちょっと前まではバイクのツーリングが趣味でした。そして、だいたい、いつも友達と一緒にいっていました。で、僕と友達のツーリングの日程を他の人から見ると計画性がないといわれると思います。というのも、僕はツーリングのだいたいの目的地を決めて、適当に走る(最短距離ではなく)のです。でもね、「計画性」というのはねツーリング、まあ、旅行みたいなもので旅行の計画性というとこの時間にここにいって、この店でご飯を食べて、次はどこにいって…というようなここに行きたい、という想定があるから計画するもので僕と友達はこの辺り、ここに行きたいという目的地はあるけれどもその目的地につくまでの道のりや、そこで出会う想定していないもの、食事もなんとなくそこで出会うものある意味、偶然を楽しみにして、旅行に出掛けています。だから、計画性を重視するとその偶然性が消えてしまう。そういうところでいうと僕と友達のツーリングというものは計画性がない、というよりは偶然の出会いを目的としていて計画してしまうと偶然性を失ってしまうから計画しないのだ、そして、偶然を目的としていることを計画しているのだ、といえます。
ちょっと前までは……ということで、今は違うのかもしれませんが、私は今もツーリング趣味(といえば趣味)です。
一人でも、複数人でも行ったりします。複数人のときは、自分でプランニングはしないですね。単に面倒だというか、思いつかないだけなのか。一人で行くときは、そりゃあ一人なので何らかの「計画」は必要です。が、「この道を通ろう」「この施設(温泉とか)に行こう」とか、漠然と決めて、僕も偶然性を楽しみたいと思ったりしている気がします。それははたから見れば計画性がないようであり、一方で、それ自体が旅行なりツーリングの「目的」なんですよね。だから、それはある意味で計画的、でもある、と思います。