今日の一言「ゲームのことだけ書く」
いままでがどういったものか分からないが、「デジタルファンフェス」ということで、無料で配信された。(コロナ前は実際に現地でやってたのかな)
正直、どこかの会場でやる場合に足を運んだかというと、多分運ばなかったから、この形式はありがたかった。
ネタバレぽい内容が結構あって、見るのを途中でやめとこうと思ったところもあったけど、面白い試みだなと思った。
楽しめたと思う。
俳優さんとのトークも面白いと思った。
ピアノ演奏とか、バンドとか素敵だった。
知ってる曲が少なかったのが残念だね。もっと知ってる曲が多いと更にテンションが上がったと思う。
リヴァイアサンとタイタンはテンションあがるね。
小学校のころ、友達のうちにいって、スーファミとかするの楽しかったのに、中学校ぐらいになったらそういうことはなくなった。
でも、僕は相変わらずゲームは好きだった。
けど、「いい年してゲーム」という雰囲気があった。
いつか卒業しないといけないもんなんだろうな、と思った。
でも、FF14に出会って、「いい歳した大人たち」がゲームやってるの見て、ああ、こんな世界があってもいいんだな、と思った。
ファンフェスの、俳優の方とか、バンドの方とかも、実際にFF14やったことあるらしい。
いいね。こうやって、ちゃんと社会的に成功している人もゲームやってるってのは、良い世界になったと思う。
自分の件は、苦手な人もいるなぁ……という点である。
できるだけ、ストレスを感じないようにしようと思うけれども。
具体的には、なんだろ、まぁチャットのやり取りなんだけど、「そっけない」「つめたい」「配慮がない」――と、僕が感じる、ということ。
なんか、意図的に避けられている気もする――と、僕が感じる、ということ。
実際どうかは分からない。
ただ、正直あまり良い気分がしないことも事実。
かといって、まったくかかわらないでよい状況でもない。
ここら辺が、「コミュニティ」というのは難しい。
自分の好き嫌いでブロックしたりしていては、まわりまわって自分の信頼がなくなり、結果的にそもそも「楽しい付き合い」自体も壊れかねない。
友人の件は、コミュニティ運営に関してのトラブル。簡単にはメンバーを脱退させざる得なくなった、ということ。
中々つらい判断だと思うし、それによっての環境がどう変わるかという恐怖もあるだろう。
人間関係が苦手だ。
友人も少ない。
――にもかかわらず、それ以上に、「人間関係」に「楽しい」こともあるのだと、思った。
幻想、かもしれない。
当たり前だ。直接触れ合った関係というわけではない。
ただ、正直、僕が数年前にとっても落ち込むことになったリアルの事情で、そのときはさすがに心も折れそうだったけれど、立ち直れて――しかも、こうして遠慮なく書くことができる場所ができたというのは、「リアル」で知り合った方々ではなかった。
友人とは何故必要なのか。
ゲーム内の友人なんて、所詮……と、「いい歳した大人」は言うかもしれない。
しかし、友人というのが、困ったときに助けてくれる存在、という定義であれば、僕は「リアル」の友人よりかは、インターネットで知り合った友人の方に助けられたと、そう思っている。
(大学のときに、いろいろお話しして、それこそ遠慮なく色々語り合えた「友人」はいた、が、これも数年前出会ったときに、「お前、変なことばっか言ってたよなぁ、はは」「一人で学食行くの嫌だったから聞いてやってた」みたいに言われて、だいぶショック受けたというのもある(笑))
下のもののほかに、2枚ぐらい描いていたが、どうにもいまいちであった。
今回のは、それに比べたら、ということだが、そもそもかけられた時間が少なかったのもあり、今一つである――が、投稿させていただく。続けることが重要だ……といういつもの言い訳を添えて。
まえがき
FF14のファンフェスがこの土日に開催された。いままでがどういったものか分からないが、「デジタルファンフェス」ということで、無料で配信された。(コロナ前は実際に現地でやってたのかな)
正直、どこかの会場でやる場合に足を運んだかというと、多分運ばなかったから、この形式はありがたかった。
ネタバレぽい内容が結構あって、見るのを途中でやめとこうと思ったところもあったけど、面白い試みだなと思った。
楽しめたと思う。
俳優さんとのトークも面白いと思った。
ピアノ演奏とか、バンドとか素敵だった。
知ってる曲が少なかったのが残念だね。もっと知ってる曲が多いと更にテンションが上がったと思う。
リヴァイアサンとタイタンはテンションあがるね。
ゲーム
僕の周りで、まぁいなくはなかったけど、ゲームが好きな人は少なくて。小学校のころ、友達のうちにいって、スーファミとかするの楽しかったのに、中学校ぐらいになったらそういうことはなくなった。
でも、僕は相変わらずゲームは好きだった。
けど、「いい年してゲーム」という雰囲気があった。
いつか卒業しないといけないもんなんだろうな、と思った。
でも、FF14に出会って、「いい歳した大人たち」がゲームやってるの見て、ああ、こんな世界があってもいいんだな、と思った。
ファンフェスの、俳優の方とか、バンドの方とかも、実際にFF14やったことあるらしい。
いいね。こうやって、ちゃんと社会的に成功している人もゲームやってるってのは、良い世界になったと思う。
人間関係(ゲーム内)
大きく、自分の体験したことと、友人が体験したことの二つの出来事があった。自分の件は、苦手な人もいるなぁ……という点である。
できるだけ、ストレスを感じないようにしようと思うけれども。
具体的には、なんだろ、まぁチャットのやり取りなんだけど、「そっけない」「つめたい」「配慮がない」――と、僕が感じる、ということ。
なんか、意図的に避けられている気もする――と、僕が感じる、ということ。
実際どうかは分からない。
ただ、正直あまり良い気分がしないことも事実。
かといって、まったくかかわらないでよい状況でもない。
ここら辺が、「コミュニティ」というのは難しい。
自分の好き嫌いでブロックしたりしていては、まわりまわって自分の信頼がなくなり、結果的にそもそも「楽しい付き合い」自体も壊れかねない。
友人の件は、コミュニティ運営に関してのトラブル。簡単にはメンバーを脱退させざる得なくなった、ということ。
中々つらい判断だと思うし、それによっての環境がどう変わるかという恐怖もあるだろう。
人間関係
僕はそもそも、コミュ障である。人間関係が苦手だ。
友人も少ない。
――にもかかわらず、それ以上に、「人間関係」に「楽しい」こともあるのだと、思った。
幻想、かもしれない。
当たり前だ。直接触れ合った関係というわけではない。
ただ、正直、僕が数年前にとっても落ち込むことになったリアルの事情で、そのときはさすがに心も折れそうだったけれど、立ち直れて――しかも、こうして遠慮なく書くことができる場所ができたというのは、「リアル」で知り合った方々ではなかった。
友人とは何故必要なのか。
ゲーム内の友人なんて、所詮……と、「いい歳した大人」は言うかもしれない。
しかし、友人というのが、困ったときに助けてくれる存在、という定義であれば、僕は「リアル」の友人よりかは、インターネットで知り合った友人の方に助けられたと、そう思っている。
(大学のときに、いろいろお話しして、それこそ遠慮なく色々語り合えた「友人」はいた、が、これも数年前出会ったときに、「お前、変なことばっか言ってたよなぁ、はは」「一人で学食行くの嫌だったから聞いてやってた」みたいに言われて、だいぶショック受けたというのもある(笑))
イラストコーナー
それはそうとイラストコーナー。下のもののほかに、2枚ぐらい描いていたが、どうにもいまいちであった。
今回のは、それに比べたら、ということだが、そもそもかけられた時間が少なかったのもあり、今一つである――が、投稿させていただく。続けることが重要だ……といういつもの言い訳を添えて。
あとがき
(かっこ書きである。時間が足りない。土日あっという間に終わってしまう。平日もあっという間に終わってしまう。ところで、緊急事態宣言で、ひとつ困ったことがあった。メガネが調子が悪くなってしまったのだが、買い替えようにも、使っていた大手の眼鏡ショップが軒並み休業になってしまっていたのだ。知らなかった。困った……。予備の眼鏡を数年前に用意していたのでなんとかなったけど、この予備もなかったら、割と緊急事態だった。新型コロナのために、色々と生活様式が変わったことは、悪い面だけではなかったと思う――とかっていうと、不謹慎すぎるんだが、しかし、人は痛みを伴わないと変革を中々しないものなのだ――とはいえ、もうそろそろ、メリハリをつけて頂かないと困るなぁという感想である)PR
今日の一言「他のやりたいことや楽しいこと面倒なことつらいことがあっても、このブログは続ける」
イラストの練習も、続けよう。
と。だいぶ忙しかったから、改めて決意を書いておいた。
ただ、ゴールデンウィークは、ちゃんとカレンダー通りにお休みだったので、可能なら毎日更新ぐらいしようかなとも思っていたのだけれど、結局1回だけだったな。
ただ、オンラインゲームであって、ゲーム内以外のやり取りも増えた、ということが理由もある。
そのため、ゲームする時間自体は減った。
でも何か、それはそれでイイというか、何かもっとより楽しい気がする。
ただ、やり過ぎると、たぶん、「疲れる」と思う。
この塩梅が非常に難しい気がする――自分の性格や能力もあいまって。
すごいな、と思った人がいる、ということか。
まず、僕をそのゲームに誘ってくれて、最初に楽しみ方とか操作とか細かいところも含めて丁寧にレクチャーしてくれた友人。
そのこと自体もすごいなと思うけれども、今回その新しいコミュニティを作ろうとしているときも、とても丁寧にアドバイスなどくれた。
性格悪いことを書けば――とにかく、このブログは忌憚を完全排除したものなので、書いてしまうが、「自分が関係ないことにも丁寧に対応する人」というのはホントすごいと思う。
これは、仕事でもそうだ。直接担当じゃない仕事でも、相談したら、丁寧に、的確に考えてくれる人がいた(異動しちゃったけど)。
同じゲームする仲間である――というと聞こえはいいけれども、僕が新しいコミュニティ作るということは、その方と関係する時間は相対的に少なくなるわけである。
ひどい言い方をすれば、「裏切り」と捉えられる可能性だってあるわけだ。
(僕は、基本的に人間不信なので――という表現が適切じゃないことも知ってるが、要は、「人間怖い」と思ってるというか、小心者なのでそう思うだけかもしれないが)でも実際、そういう捉え方(もう自分のことはどうでもいいって思ってるのね! みたいな)する人もいると思う。
だからこそ。その友人のことを、すごいなと、素直に思った。
上手く表現できているか分からないが、その、「物語的な真実」を実感――実体験できた気がして、とても嬉しかった。
同じ観点だけれども、もう一人の方もすごいなと思った。
僕が所属させてもらっていたコミュニティのマスターさんも、上の友人と同じように相談にのってくれた――それ以上に、僕が新しく作ろうとしているコミュニティの宣伝までしてくれた。
すごいなと、素直に思った。
ただ、今回は、GW中に練習していたものを掲載。先にブログを終わらせるため。
今日は、この後、時間が許す限りイラスト練習しようと思う。
一枚目は、先日から途中まで描いていたものを、一応全身描いてみた、と。手足をちゃんと描かないとやっぱり駄目だね……。あと、棒立ちだとやっぱり何ら感慨がわかないというか魅力がわかないというか。
2枚目は、同じく、アタリをしっかり目にかいて、身体の比率を学ぼうという習作。
ただ、コントラポスト(軸を傾けるポーズ)をかけると、少し「絵」という感じがしてくる。
なんか、「物語」が生じるというのはある。
「上手いんだけど魅力に欠ける絵」というのがあるらしい。
僕はそもそも上手くはないが、ただ、そのイラストから何が伝わってくるのか、何を伝えようとしているのか、というテーマがあるイラストが、やっぱり「いいね」を押したくなるということなのだろうと思う。何となく分かる気がする。
まえがき
週末、泊りで朝から翌日夜まで旅行、みたいなことがない限り、このブログは続ける。イラストの練習も、続けよう。
と。だいぶ忙しかったから、改めて決意を書いておいた。
ただ、ゴールデンウィークは、ちゃんとカレンダー通りにお休みだったので、可能なら毎日更新ぐらいしようかなとも思っていたのだけれど、結局1回だけだったな。
忙しい理由
ゲームが原因なんだけどね。ただ、オンラインゲームであって、ゲーム内以外のやり取りも増えた、ということが理由もある。
そのため、ゲームする時間自体は減った。
でも何か、それはそれでイイというか、何かもっとより楽しい気がする。
ただ、やり過ぎると、たぶん、「疲れる」と思う。
この塩梅が非常に難しい気がする――自分の性格や能力もあいまって。
すごいなと思うこと
簡単に言えば、新しいコミュニティを作ってみよう、という試みをしているということだけど、すごいなと思ったことがある。すごいな、と思った人がいる、ということか。
まず、僕をそのゲームに誘ってくれて、最初に楽しみ方とか操作とか細かいところも含めて丁寧にレクチャーしてくれた友人。
そのこと自体もすごいなと思うけれども、今回その新しいコミュニティを作ろうとしているときも、とても丁寧にアドバイスなどくれた。
性格悪いことを書けば――とにかく、このブログは忌憚を完全排除したものなので、書いてしまうが、「自分が関係ないことにも丁寧に対応する人」というのはホントすごいと思う。
これは、仕事でもそうだ。直接担当じゃない仕事でも、相談したら、丁寧に、的確に考えてくれる人がいた(異動しちゃったけど)。
同じゲームする仲間である――というと聞こえはいいけれども、僕が新しいコミュニティ作るということは、その方と関係する時間は相対的に少なくなるわけである。
ひどい言い方をすれば、「裏切り」と捉えられる可能性だってあるわけだ。
(僕は、基本的に人間不信なので――という表現が適切じゃないことも知ってるが、要は、「人間怖い」と思ってるというか、小心者なのでそう思うだけかもしれないが)でも実際、そういう捉え方(もう自分のことはどうでもいいって思ってるのね! みたいな)する人もいると思う。
だからこそ。その友人のことを、すごいなと、素直に思った。
上手く表現できているか分からないが、その、「物語的な真実」を実感――実体験できた気がして、とても嬉しかった。
同じ観点だけれども、もう一人の方もすごいなと思った。
僕が所属させてもらっていたコミュニティのマスターさんも、上の友人と同じように相談にのってくれた――それ以上に、僕が新しく作ろうとしているコミュニティの宣伝までしてくれた。
すごいなと、素直に思った。
イラストコーナー
唐突に始まるイラストコーナーだ。ただ、今回は、GW中に練習していたものを掲載。先にブログを終わらせるため。
今日は、この後、時間が許す限りイラスト練習しようと思う。
一枚目は、先日から途中まで描いていたものを、一応全身描いてみた、と。手足をちゃんと描かないとやっぱり駄目だね……。あと、棒立ちだとやっぱり何ら感慨がわかないというか魅力がわかないというか。
2枚目は、同じく、アタリをしっかり目にかいて、身体の比率を学ぼうという習作。
ただ、コントラポスト(軸を傾けるポーズ)をかけると、少し「絵」という感じがしてくる。
なんか、「物語」が生じるというのはある。
「上手いんだけど魅力に欠ける絵」というのがあるらしい。
僕はそもそも上手くはないが、ただ、そのイラストから何が伝わってくるのか、何を伝えようとしているのか、というテーマがあるイラストが、やっぱり「いいね」を押したくなるということなのだろうと思う。何となく分かる気がする。
あとがき
(かっこ書きである。思うんだけど、コミュニティって、――例えばサークル。学校の部活・サークルとかでも、社会人サークルでも何でもいいけど。僕は、「一人でやってても楽しい」ことじゃないと続かないし、本当は楽しめないんじゃないかと思う。「あの人に会いたいから」その場に行く――というのはあると思う。それも事実だろうし、マイディーさんもそんなことを言っていた気がする。卵が先か鶏か、の議論かもしれないし、どっちが正しいということもないと思うが、僕は、「人」自体ではなくて、「一緒にやること」があることが重要だと思う。もちろんよく聞くところの、オンラインゲームで、「ゲーム自体はもう飽きたけど、ギルメン(FCとかクランとかのメンバー)」に会いたいからインするんだよな、というのも実際あるんだろう。ただ、それは長続きしないというか、いびつさを僕は思う。それはきっと、その人との「お喋り」がしたいんだろうが、その状態ではきっと、そのうちそのゲームはしなくなるんだろうと思う。だから、やはり、「コンテンツ」が重要だと思うのだ。これは、戦闘系のコンテンツとか、新しいストーリーが、というだけを言いたいのではない。ただ、フィールドをまったりと散歩するのだって、一つの提供されるコンテンツだと思う。そこには、「やりたいこと」があるのだ。いやいや、でも、誰かと協力しないとクリアできないコンテンツ、というのもある、というのはそうだろう。だから、一人でやって楽しめることよりも、みんなでやって楽しめることの方が高尚だ、というのはそうかもしれない。二転三転したことを書いているのは自分でもそう思うが、結構、これまでの価値観とのパラダイムシフトな気もするような。――まぁその、何を書きたいかと整理すれば、楽しいんだけど、割と消耗はしている気がする。いい意味で。たぶん。コミュニティ関係の記事を書いて公開した日の翌日とか、25時ぐらいに寝たのに5時ぐらいに目が覚めたからね(笑)。先日書いた、ツイッターのさばき(情報を追うこと)も大変だ(基本、通知しか追わないようにすることにしたが、やっぱり気になってホームからスクロールしたり)。まぁでも、今は少し過渡期だと思うから、多少負荷があっても、自分の「ちょうどいい」を模索したいと思う)
今日の一言「イラストに費やした」
メモ大事。しかし、メモするまでもないと思ってしまうのが、そもそもよくないんだろう。いや実際、とるに足らないことなのだろうが、しかし、そういうのが逆に生きる上で大事だったりするのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
さてゴールデンウィークだ。嬉しい。
GW中もお仕事の方もいるようだが、僕は1~4時間ぐらい家で準備すれば終わりそうな程度で、基本カレンダー通りなので問題なかろう。
平和だ。
というか、おそらく、5月中は割と忙しくはないと思われる。6月から、年度末にかけて忙しそうだ。さらに年度末は、きっと異動になるだろう。9割ぐらいの確率に思う。
これから先、いつまで、今の仕事を続けるのか。
正直、状況は年々厳しくなっていくように思える。さらに、立場上(経歴、年数)という問題も、より仕事を厳しいものとしていくだろうと思える。
何のために生きるのか?
この問いに答えられる人は、多くない。真剣に考えたことがある人も、多くないのではないだろうか、というと、少し語弊はありそうだ。
現なる僕は、というと、たぶん、ここ数年、一時期よりは、全然真剣に考えていないだろうと思える。
ブログタイトル詐欺である。
しかし、ライトなことしか考えられない昨今であっても、それでも、「何故生きるのか?」というワードは、日々……というと大げさだが、生活している中でたびたび沸き起こる問題ではあり続けている。
例えばそう、「異動」ということを考えたときも、そうだ。
キャリア形成とか、スキルアップ、結婚や子供、親など家族のこと、引っ越し、住居、年金、健康、運動、――つらつら挙げられるワードの根底には、常にあり続ける問題に思われる。
成長、をやめた人間は、退化していくだけに思われる。「現状維持」というのが、僕は目指すところであるが、しかし、現状維持をするにも、漸進的な成長が不可欠に思われる。
その一方で、「成長」に対しての伸びしろは様々だ。そして、おそらく、年数を重ねるごとに、伸びしろは減っていくだろう。理由は、思考・体力的な問題。「体」というのは、年数に対して衰えていくものだという認識がある。違うかな。若者は別だろう。しかし、30代以降は、衰えていくんじゃないかな。
筋トレは、ルーチン復活する、といつぞやか、書いたけれど、一応続けられている。1か月にはなったかな?
調べてみると、直近は、4月11日分はやったとのことだ。こういうことを調べるときに、ブログは便利だなと思う。――しかし、1か月にはまだなってなかったのか(笑)。
まぁ、3週間ぐらい続けられると、しばらくは惰性化することができる。「惰性」という文字はよくないけれども、慣性の法則的に続くという意味である。とりあえず続けていこう。
「生か、死か」
について悩んでいた10代(20代?)とは異なり、30代になったら、とりあえず「生きていること」は前提として考えられるように――感じられるようになった。
これは大きい変化に思われる。――今、そう思っているだけかもしれない。ただ、こういうことを書いたことはなかったように思われるので、とりあえず書いておこう。
んでまぁ、生きている、生きる――ということを前提にしたとき、何が一番大事か、というと、「健康」に思われる。もちろん、精神的な健康もそうだが、肉体的にも大事だ。
そんな風なことを思い始めたのは、数年前な気がするけれども、特に意識するようになったのは、癌で亡くなってしまった「光のお父さん」原作者のマイディーさんのブログを読んだというのは一つ契機ではあると思う。
んでな。割と死ぬのって、一瞬に思われる。何を当たり前、と自分でも思うし、そもそも、むかしから、「メメントモリ」(死を思え)的なことは感じ、むしろ意識するようにと思っていた。
ただ、上のマイディーさんのブログを、亡くなる1年前ぐらいから続けて読んでみれば、「死ぬ気はなかった」というのがひしひしと伝わってくる。
それでも、最後は、――光のお父さん追悼の映画の最後に、お父さんからのメッセージが流れるんだけど、そこでのマイディーさんの最後の言葉は、「もうええやろ」といったものだったという。
癌の苦しみ――痛み、僕など、想像も及ばないものだろう。
ただ、卑近な例であれだが、胃カメラをやったとき、あの苦しさが毎日続くなら、これは死んだ方がいいな、と思ったりした。大の大人が、涙を浮かべて悶える。
ともかく、そう、死は突然やってくるということである。
だから、毎回僕が思うこととして、1日1日を大切にしようということだ。
後悔がない人生にした方がいい。誰もかれも。
ただ、「公共の福祉」じゃあないが、他者の人生の邪魔をしてはならないと思う。
「自由」というのは簡単ながら、実現は非常に難しい概念に思われる。「平和」というのも同じく。
5月3日は、憲法記念日である。憲法について覚えていることをメモしておく。
3つの原則。国民主権。平和主義。そして基本的人権の尊重。
基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
基本的人権は、公共の福祉の範囲で認められる。
しかし、公共の福祉とは何か。比較衡量論と、二重の基準論というものがある。
比較衡量論とは、人権を制限した場合と、制限しなかった場合のメリットデメリットで結論する方法。
二重の基準論は、経済的制限よりも、精神的制限の方が、厳しく判断するというもの(精神的な制限をしてしまうと、それが誤りだったり良くなかった場合にも、取り返しがつかなくなりやすい)。
どんどん他の事思い浮かんでしまうんだよな。
まぁ、気にせず今回のイラストコーナー。
今回は――がんばったんだ。がんばったんだが、これぐらいしかできませんでした(進撃の巨人風に。ええと、最終巻って何月だっけ? 6月9日らしい。まだまだか)。
前回のイラストのときかいたとおり体をかいてみる。
正面からの立ち絵というのは、モチベーション的に非常に難しいことが分かった。
面白くないんだよなぁこれが。
けれども、身体の比率をいまいちど勉強しなおそうと思った。
確かに、本とかで、6.5頭身が標準的で、それ用のアタリとか比率も解説されてるんだけど、その方法が大変なんだよな。
そもそも、「1/5の位置」とかってのが、至難の業である。
1/3の位置のとりかたは、こちらのサイトで分かった。
すげー。これは便利かもしれない。
が。それでも、フリーハンドでかこうとすると、そもそもアタリをかくのが大変である。
図形ツールをつかえば、まぁ、そこそこ簡略化できるものの、それすら面倒である。面倒というか、細かいズレとかが逆に気になり始めるというのもある。フリーハンドだと、もはや「ずれ」しかありえないから、かなり諦めがつく(かっこわらい)。
(※)
というように、あれこれ調べたり試したりかきなおしたりしているうちに、4時間以上は費やした。
そして完成にはいたらず。練習のみでお茶を濁す。――しかし、そもそも、色付けたとしても、立ち絵だと、「完成!」って気分にもなれない気がする。まぁ、その感覚自体が、成長といえなくもない気もするが。
※上の画像だけど、頭身の位置をクリップスタジオPROの「定規」という機能の「ガイド」という機能を使ってみた。ペンとか、範囲指定ツールなどの設定で、「スナップ」をオンにすると、ガイドのとおりまっすぐ描けることが分かった。便利な気もする。ただ、まだ使いこなせない。あと、「ガイド」だと、画像化した場合に表示されないようだ。
まえがき
なんか、その、色々書こうかな、と思っていたことがあっても、色々他のことしているうちに雲散霧消。メモ大事。しかし、メモするまでもないと思ってしまうのが、そもそもよくないんだろう。いや実際、とるに足らないことなのだろうが、しかし、そういうのが逆に生きる上で大事だったりするのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
さてゴールデンウィークだ。嬉しい。
GW中もお仕事の方もいるようだが、僕は1~4時間ぐらい家で準備すれば終わりそうな程度で、基本カレンダー通りなので問題なかろう。
平和だ。
というか、おそらく、5月中は割と忙しくはないと思われる。6月から、年度末にかけて忙しそうだ。さらに年度末は、きっと異動になるだろう。9割ぐらいの確率に思う。
異動
異動というワードで少し考えてみたくなった。これから先、いつまで、今の仕事を続けるのか。
正直、状況は年々厳しくなっていくように思える。さらに、立場上(経歴、年数)という問題も、より仕事を厳しいものとしていくだろうと思える。
何のために生きるのか?
この問いに答えられる人は、多くない。真剣に考えたことがある人も、多くないのではないだろうか、というと、少し語弊はありそうだ。
現なる僕は、というと、たぶん、ここ数年、一時期よりは、全然真剣に考えていないだろうと思える。
ブログタイトル詐欺である。
しかし、ライトなことしか考えられない昨今であっても、それでも、「何故生きるのか?」というワードは、日々……というと大げさだが、生活している中でたびたび沸き起こる問題ではあり続けている。
例えばそう、「異動」ということを考えたときも、そうだ。
キャリア形成とか、スキルアップ、結婚や子供、親など家族のこと、引っ越し、住居、年金、健康、運動、――つらつら挙げられるワードの根底には、常にあり続ける問題に思われる。
成長、をやめた人間は、退化していくだけに思われる。「現状維持」というのが、僕は目指すところであるが、しかし、現状維持をするにも、漸進的な成長が不可欠に思われる。
その一方で、「成長」に対しての伸びしろは様々だ。そして、おそらく、年数を重ねるごとに、伸びしろは減っていくだろう。理由は、思考・体力的な問題。「体」というのは、年数に対して衰えていくものだという認識がある。違うかな。若者は別だろう。しかし、30代以降は、衰えていくんじゃないかな。
筋トレ
全然、上のサブタイトル「異動」というのがそぐわない内容になった気がするけれども、気にしないで先に進む。筋トレは、ルーチン復活する、といつぞやか、書いたけれど、一応続けられている。1か月にはなったかな?
調べてみると、直近は、4月11日分はやったとのことだ。こういうことを調べるときに、ブログは便利だなと思う。――しかし、1か月にはまだなってなかったのか(笑)。
まぁ、3週間ぐらい続けられると、しばらくは惰性化することができる。「惰性」という文字はよくないけれども、慣性の法則的に続くという意味である。とりあえず続けていこう。
「生か、死か」
について悩んでいた10代(20代?)とは異なり、30代になったら、とりあえず「生きていること」は前提として考えられるように――感じられるようになった。
これは大きい変化に思われる。――今、そう思っているだけかもしれない。ただ、こういうことを書いたことはなかったように思われるので、とりあえず書いておこう。
んでまぁ、生きている、生きる――ということを前提にしたとき、何が一番大事か、というと、「健康」に思われる。もちろん、精神的な健康もそうだが、肉体的にも大事だ。
そんな風なことを思い始めたのは、数年前な気がするけれども、特に意識するようになったのは、癌で亡くなってしまった「光のお父さん」原作者のマイディーさんのブログを読んだというのは一つ契機ではあると思う。
想像以上に死は身近
上の前の小見出しも、「筋トレ」と全然関係なくなったけれども、気にせず続ける。んでな。割と死ぬのって、一瞬に思われる。何を当たり前、と自分でも思うし、そもそも、むかしから、「メメントモリ」(死を思え)的なことは感じ、むしろ意識するようにと思っていた。
ただ、上のマイディーさんのブログを、亡くなる1年前ぐらいから続けて読んでみれば、「死ぬ気はなかった」というのがひしひしと伝わってくる。
それでも、最後は、――光のお父さん追悼の映画の最後に、お父さんからのメッセージが流れるんだけど、そこでのマイディーさんの最後の言葉は、「もうええやろ」といったものだったという。
癌の苦しみ――痛み、僕など、想像も及ばないものだろう。
ただ、卑近な例であれだが、胃カメラをやったとき、あの苦しさが毎日続くなら、これは死んだ方がいいな、と思ったりした。大の大人が、涙を浮かべて悶える。
ともかく、そう、死は突然やってくるということである。
だから、毎回僕が思うこととして、1日1日を大切にしようということだ。
後悔がない人生にした方がいい。誰もかれも。
ただ、「公共の福祉」じゃあないが、他者の人生の邪魔をしてはならないと思う。
「自由」というのは簡単ながら、実現は非常に難しい概念に思われる。「平和」というのも同じく。
5月3日は、憲法記念日である。憲法について覚えていることをメモしておく。
3つの原則。国民主権。平和主義。そして基本的人権の尊重。
基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
基本的人権は、公共の福祉の範囲で認められる。
しかし、公共の福祉とは何か。比較衡量論と、二重の基準論というものがある。
比較衡量論とは、人権を制限した場合と、制限しなかった場合のメリットデメリットで結論する方法。
二重の基準論は、経済的制限よりも、精神的制限の方が、厳しく判断するというもの(精神的な制限をしてしまうと、それが誤りだったり良くなかった場合にも、取り返しがつかなくなりやすい)。
イラストコーナー
僕の思考って、上の小見出しのように、「深く」考えることができないんじゃあないだろうかと悲しくなる。どんどん他の事思い浮かんでしまうんだよな。
まぁ、気にせず今回のイラストコーナー。
今回は――がんばったんだ。がんばったんだが、これぐらいしかできませんでした(進撃の巨人風に。ええと、最終巻って何月だっけ? 6月9日らしい。まだまだか)。
前回のイラストのときかいたとおり体をかいてみる。
正面からの立ち絵というのは、モチベーション的に非常に難しいことが分かった。
面白くないんだよなぁこれが。
けれども、身体の比率をいまいちど勉強しなおそうと思った。
確かに、本とかで、6.5頭身が標準的で、それ用のアタリとか比率も解説されてるんだけど、その方法が大変なんだよな。
そもそも、「1/5の位置」とかってのが、至難の業である。
1/3の位置のとりかたは、こちらのサイトで分かった。
すげー。これは便利かもしれない。
が。それでも、フリーハンドでかこうとすると、そもそもアタリをかくのが大変である。
図形ツールをつかえば、まぁ、そこそこ簡略化できるものの、それすら面倒である。面倒というか、細かいズレとかが逆に気になり始めるというのもある。フリーハンドだと、もはや「ずれ」しかありえないから、かなり諦めがつく(かっこわらい)。
(※)
というように、あれこれ調べたり試したりかきなおしたりしているうちに、4時間以上は費やした。
そして完成にはいたらず。練習のみでお茶を濁す。――しかし、そもそも、色付けたとしても、立ち絵だと、「完成!」って気分にもなれない気がする。まぁ、その感覚自体が、成長といえなくもない気もするが。
※上の画像だけど、頭身の位置をクリップスタジオPROの「定規」という機能の「ガイド」という機能を使ってみた。ペンとか、範囲指定ツールなどの設定で、「スナップ」をオンにすると、ガイドのとおりまっすぐ描けることが分かった。便利な気もする。ただ、まだ使いこなせない。あと、「ガイド」だと、画像化した場合に表示されないようだ。
あとがき
(かっこ書きである。あれ、割と長くなったので、タイトルにある「SNS疲れ」ということについて書く。そんなに、悪い意味じゃあないんだけど、最近、FF14用のツイッターを開設してみた。そうすると、フレンドさんたちがまぁ、つぶやいてくれて、まぁ、面白いんだけど、ただ、情報が早すぎて疲れる、ということである。あと、そもそも、自分が知らないこと話したりしていたり、盛り上がったりしていると、疎外感――と書くと大仰だが、なんか寂しくなる。仕方がない、というのは分かっている。これは構造的な問題だろう。むしろ、知らないことを知るためのツールでもあるんだろうから、それを嫌だと思うならそもそもやらない方がいい。でも、気になる情報もあるし、自分も参加したいイベントごとを知るきっかけになったりするし、有用なのも間違いない。――それに何より、「楽しい」のも間違いない。自分のつぶやきに反応してくれる人がいるのも嬉しいし、好きになった人とゲーム外でも繋がれるのは楽しいことだ。今、「好き」と書いたが、他者とは、「好き」「嫌い」「知らない(目に入らない)」のどれかしかない。そして、「好き」というのも、「おーるすべてかんぜんに好きー!」というのではなく、人とは多面的多元的なので、ある部分が好き、というに過ぎない。でも僕は、一部分だけでも、「ああ、この人はいい人だなぁ」と思えることは価値があることだと思うし、そういう人と繋がれるのはとても嬉しいことに思うのである。とかってまぁいろいろ考えたり感じたりしていると、僕は、悪い癖というか、性格なのか、よくないことと思うんだが、「面倒だ」と思い始めるわけである。この「面倒」というのは、「このいい関係性が壊れたら嫌だな」というのとか、「なんか乗り遅れたらいやだな」とか「嫉妬」とか、まぁ色々ひっくるめて生じることに起因するように思われる。――まぁそれらは、今後なるようになっていくんだろうと思うのだけど、一つ、愚痴的に書いておかないと気が済まないことがあって――というのは、そもそも今回にかかわらず、ツイッター自体が好きになれてなかった理由でもあることなのだが、「単発で意味が分からないことを連発されるとイライラしてしまう」ということなのである。どういうことか、これは少し詳しく書かなければ多大な誤解を生みそうだが、もはやあとがきのレベルを超えてしまいそうだ。ああ、そうか、そもそも、ここら辺のことを記事にしようと最初思ってたのかもしれない。簡単に書く。いやそもそも、ツイッターって、「つぶやき」なんだから、「単発で意味の分からないこと」もあっていいと思う。ただ、「●●って、▽▽なんだなぁ」というつぶやきはいいんだ。その「●●」部分がない状態のつぶやきが多い人が多いと、面倒くささが飛び上がる。「みなきゃいい」が通じないのがツイッターの仕組みであるように思う(通知オフという機能があることは知っているが、そういう問題じゃないんだよな)。要はまぁ、主語にあたることがないと、意味がとれない、ということだ。さらに、その「●●」が、自分の興味のないことだったり、知らないことばっかりだったりすると、それはそれで嫌になってくるのである。でも、人に強要することでもないし。困ったもんだね。いやじゃあそもそも、そういう人をフォローしなきゃいいじゃん? ってなるじゃん? そういう問題でもないんだなぁ、そこが難しいところである)
今日の一言「早めに着手する」「余裕をもって仕上げようとすると書きたい気持ちは薄い」
一切外に出ないようにする、というのは、緊急事態宣言が出たからというのはあまり関係ない。そもそも後から、ああ、今日からだったんだっけ、ぐらいの認識だった。
東京より、大阪の方が緊急事態のようである。
今回の目的がおそらく、GWを見据えてのものなんだろうなぁとは思う。
緊急事態も何も、移動や営業が制限されたこういった社会が通常になるのかもしれないな。
日本国憲法では、公共の福祉に反しない限り、財産権や、居住、移転、職業選択の自由が保障されるから、おおっぴらに制限される世の中というのは難しいだろう。
とはいえ、「緊急」が、1週間も2週間も、1か月も2か月も続くようでは、「慣れ」が生じるのは致し方ないと思う。
「戦争をしている」
というのは、いついかなる時に敵から攻められて、殺されるか分からない状況。
現代戦では、空から爆弾が降ってくる。
平和な日本で生まれた僕は、それがとても怖かった。
いや、体験したわけではないが、想像するだけで怖かった。到底、まともな精神で、まともに日常など送れない気がした。
しかし意外と、新聞で戦果が報じられる程度に、人々は「戦争」というのを、遠いものに感じていたかもしれない。
「怖い」
という観点では、交通事故(電車、車、飛行機事故)などで、一瞬で命が奪われる可能性もある。「でも」普通に生活できている。
意外に、人間の精神は図太くできているのだろう。
差し迫った恐怖がなければ、生活に影響が及ぶほどの「怖い」という感情は生じないのだろう。もしくは、最初は生じても、たいていの人は適用(慣れ)するのだろう。
逆に、不謹慎かもしれないが、「慣れ」というのは、必要な精神であると思う。
慣れることもなく、ずっと「怖い」を感じていたら、精神崩壊するだろう。
あと、表情をちゃんと描いてみようと思った。怒った表情か、困った表情かにしようとして、困った方にした。
初心にもどって、顔のパーツの配置を、本を参考に正確にするように心がけてみた。下描きもしっかり描いた。
今のところの全力だ。これ以上は、できない。
全力っていって、こんなもんかーっと思われるだろう。
驚くことなかれ、これでも3時間弱ぐらいは要している。
まず、「線」がやっぱりちゃんと引けないことが分かった。線を引く、これだけが、まずもって難しい作業なのである。
あとバランス。左右反転は必須。
しかし、左右反転して、おかしいところをなおしはじめると、みるみる時間がなくなっていく。
1枚かくときの、最初の左右反転が怖いね。「お、割とうまくかけたかな」って時は、左右反転しても、さほど直しが不要の場合がある。
今回は、反転しながらなおしていった。反転の怖いところは、反転させてなおして、また戻したら、またさらに直して――と、無限ループになる場合があることだ(笑)。
まぁ、とりあえず、今の自分としては、これぐらいのクオリティの場合は、アップロードしてもいいかな、という気持ちになる。
ので、これをベースに、来週は身体を描いていこうかな。体も、改めて、正しい配置(割合)というのを調べなおしながらやってみようかな。
ちなみに、今回の顔のアタリのやり方はちょっと難しかった。
参考に、下に載せておく。
まえがき
今日は、一切外に出ないことを決めた。そうすると、食事が味気なくなってしまうが、備蓄を整理するという意味でもよいだろう。一切外に出ないようにする、というのは、緊急事態宣言が出たからというのはあまり関係ない。そもそも後から、ああ、今日からだったんだっけ、ぐらいの認識だった。
東京より、大阪の方が緊急事態のようである。
今回の目的がおそらく、GWを見据えてのものなんだろうなぁとは思う。
緊急事態も何も、移動や営業が制限されたこういった社会が通常になるのかもしれないな。
日本国憲法では、公共の福祉に反しない限り、財産権や、居住、移転、職業選択の自由が保障されるから、おおっぴらに制限される世の中というのは難しいだろう。
とはいえ、「緊急」が、1週間も2週間も、1か月も2か月も続くようでは、「慣れ」が生じるのは致し方ないと思う。
戦時下
不謹慎なことを書いてしまうけれども、僕は小さいころ、「戦時中」というマインドが不思議で仕方がなかった。「戦争をしている」
というのは、いついかなる時に敵から攻められて、殺されるか分からない状況。
現代戦では、空から爆弾が降ってくる。
平和な日本で生まれた僕は、それがとても怖かった。
いや、体験したわけではないが、想像するだけで怖かった。到底、まともな精神で、まともに日常など送れない気がした。
しかし意外と、新聞で戦果が報じられる程度に、人々は「戦争」というのを、遠いものに感じていたかもしれない。
「怖い」
という観点では、交通事故(電車、車、飛行機事故)などで、一瞬で命が奪われる可能性もある。「でも」普通に生活できている。
ウイルス下
「緊急事態」の中での生活というのは、意外とそんなものかもしれない。意外に、人間の精神は図太くできているのだろう。
差し迫った恐怖がなければ、生活に影響が及ぶほどの「怖い」という感情は生じないのだろう。もしくは、最初は生じても、たいていの人は適用(慣れ)するのだろう。
逆に、不謹慎かもしれないが、「慣れ」というのは、必要な精神であると思う。
慣れることもなく、ずっと「怖い」を感じていたら、精神崩壊するだろう。
イラストコーナー
今日は、顔だけに特化して描くことにした。あと、表情をちゃんと描いてみようと思った。怒った表情か、困った表情かにしようとして、困った方にした。
初心にもどって、顔のパーツの配置を、本を参考に正確にするように心がけてみた。下描きもしっかり描いた。
今のところの全力だ。これ以上は、できない。
全力っていって、こんなもんかーっと思われるだろう。
驚くことなかれ、これでも3時間弱ぐらいは要している。
まず、「線」がやっぱりちゃんと引けないことが分かった。線を引く、これだけが、まずもって難しい作業なのである。
あとバランス。左右反転は必須。
しかし、左右反転して、おかしいところをなおしはじめると、みるみる時間がなくなっていく。
1枚かくときの、最初の左右反転が怖いね。「お、割とうまくかけたかな」って時は、左右反転しても、さほど直しが不要の場合がある。
今回は、反転しながらなおしていった。反転の怖いところは、反転させてなおして、また戻したら、またさらに直して――と、無限ループになる場合があることだ(笑)。
まぁ、とりあえず、今の自分としては、これぐらいのクオリティの場合は、アップロードしてもいいかな、という気持ちになる。
ので、これをベースに、来週は身体を描いていこうかな。体も、改めて、正しい配置(割合)というのを調べなおしながらやってみようかな。
ちなみに、今回の顔のアタリのやり方はちょっと難しかった。
参考に、下に載せておく。
あとがき
(かっこ書きである。あとがきは、FF14のことを書こうか。最初、FF14をはじめたばかりのころ、「ストーリーがちゃんとしてて面白い」と書いた。しかし、その気持ちも、徐々に少なくなっていっていた。ただ歩いてまわるだけで楽しかった街並みも、「移動が面倒」と思うほどには、慣れてきてしまっていた。ダンジョンの攻略や、新しいジョブに挑戦してみたり、CWLS(クロスワールドリンクシェル。異なるワールドの人ともグループチャットができる機能)に参加したり、当面飽きることはなさそうだなと思いつつも、逆にメインストーリーへの求心力(僕のモチベーション)は少なくなっていた。――逆に、そのCWLSとか、フレンドさんの進捗的に、僕の知らないことを話していたりする(先のコンテンツのこと)ので、一緒に遊べなくてつまんないなと思ったりしていた。そういう意味で、同じぐらいの進捗の人とも遊べたらと思う。とはいえ、それだって、1夜にしてその進捗状況だって変わるのだから、仕方がない。であれば、メインストーリーを、自分も進めるしかない、そんな風に思っていた。――ということで、あまり乗り気ではなかったけれども、まぁ、進めてみたところ、突然、蒼天編に突入する前のストーリーが、急展開を見せた。なんとなく、「こんな感じになりそうだ」ということは、伏線が十分にはられていたので推測できた。方向性はあっていた。しかし、見事に推測を超えた展開になって驚いた。……いやはや、人間不信になったね(笑)。てゆーかさー、もみあげ長い、元グリダニア国の兵士とか、あいつを仲間に入れるの反対だったんだよな。あいつ、帝国に情報売ってたくそ野郎だぜ? そもそも、グリダニアぬるすぎだと思った。何故そんな重罪者、反逆者をクビにするだけで済ましてるんだよ。森のおきてかなんかで、処刑はできないにしても、数か月で放免とか、ぬるすぎっしょや。まぁ……でも、僕も、「あのときは悪かったよ~」とかいってたから、「ああ、会心して仲間になるパターンか」とか思ってたよ。そしたら、やっぱり裏切るのかよ! と。逆にすがすがしい展開だ。金に目がくらむような悪い奴はどこまでいっても悪いやつなんだな……。悪い奴が改心して仲間になる、という展開はおとぎ話にすぎないんだな……って、これ(FF14)も物語なんだが。まぁそんなこんなで、急展開を見せたストーリーで、僕は改めて、ストーリーに引き込まれた。怒りと憎しみをもって。だが、その憎しみは、某ウルダハ国の戦士が少し晴らしてくれた。だから僕は、少し落ち着いてこの先のストーリーを進めようと思う)
今日の一言「久しぶりにお酒を飲みながら書く」
――と、書き始めると、「え、どうした?」と心配をしてくれる方もいるかもしれない。
オカルトでも、スピリチュアルでも、新興宗教でもマルチ商法でもない。逆にそう書いた方が怪しいかもしれない。
いや実際、スピリチュアル系のブログ記事がふと目に留まって読ませていただいたというのがきっかけではある。
しかし、問いとしては、「生命とは何か」、というものだった。
これは、見方を変えれば、科学的でもあれば、現実的でもある。
その理屈、ロジック、そこに至る過程、アプローチなどによって、「うさんくさ」くもなり、「アカデミック」にもなるのだろうと思う。
ちなみに、そのきっかけとなった記事においては、「――だから、すべての、人間以外の生命に対しても責任や尊敬の念をもつことが必要だ」という主張だと思われた。(生命には、「ウイルス」も含まれるという定義であった)
そして、霊魂とは「エネルギー」のことだという。
エネルギーというのも、「物理学」的でもありながら、スピリチュアル的なニュアンスも含む言葉に思う。
ちなみに、僕の中でのエネルギーという言葉の定義、というか、イメージは、「移動を発現させるための原因」というものだ。「動力」といってもよいかもしれない。もっといえば、単に「力」といってもいいかもしれない。エネルギー=力。
要は「動き」の発生源。
物理的な観点での、位置エネルギー運動エネルギーというイメージはその通りだが、それだけじゃなくて、口頭による情報伝達もまた、エネルギーだと思う。「情報」という、物理ではないけれども、見えないものが動く、というイメージ。磁力や、光もそうだろうが、目に見えないものでも、「力」は伝わるのだ。
万物の起源は「素粒子」だ。光は「光子」だし、原子は「クォーク」だったりする。
で、魔法が発生するのは、世界に、魔法の元となる粒子が豊富に漂っているからだ。
ファイナルファンタジーでは、それを「エーテル」という。
自然のエーテルを体内に取り込み(もしくは変換)して、魔法を使う。それが幻術士。強大な魔法は、エーテルを大量に消費し、その土地を枯渇させる。だからより強大な白魔法は禁忌とされた。
一方、赤魔導士は、体内にあるエーテルだけを使って魔法を使うそうだ。
へー。っとなった。あ、ファイナルファンタジー14での設定の話だ。
どうやら、完結したらしい。まじか。
そろそろ完結だという噂はなんか見た気がしていたが、も終わっちゃったのか。
本屋さんに最終巻、単行本も出ているか見に行ったけど、それは6月ぐらいらしい。
どんな最後なんだろうか。
楽しみだが、寂しいな。
まぁ、終わらない物語はない。ネバーエンディングストーリーは無いのだ。
いやしかし、ほんと、ネタバレされると殺意すらわきそうである。
しかしそれは、かなり楽しみにしている作品だからこそである。
どうでもいい作品は、むしろ「おち」だけ知りたい、という場合すらある。
ネタバレ、で思い出したけれども、以前、「不快な情報」問題を、僕も、そして他の友人のブログでも論じられておられたことがあった気がする。
エログロ的な、衝撃的なコンテンツについて、「不快なら、見なきゃいいじゃないか」というのは、僕はその通りに思う。なんでも規制する必要があるとはおもえない。
ただ、「ネタバレ」に置き換えたらどうだろうか。
ネタバレが気になるなら、それに類する情報をみなければいい……それは確かに。
しかし、巧妙に、ネタバレじゃないように装いながら、――もしくは、ヤフートップページの記事タイトル的にネタバレが仕込まれていたら。
「見なきゃいい」
これは正しいことに思うが、「見ないことの保障」もされるべきに思った。
ということはやっぱり、「ゾーニング」ということになると思う。
「このコンテンツは不適切な云々……」とか「ここから先はネタバレを含みます」とか、そんな風に注釈があって、自分の意志で「クリック」しなければ見えないような仕組み、それがあればいいと思う。
そういう仕組みがあれば、何も、表現的なコンテンツにおいて、規制というのは一切必要ないんじゃないか、すら思う。
イラストモチーフは、FF14のリテイナー(倉庫番)さん。アイテムやお金(ギル)を預かってくれる。それだけじゃなくて、冒険に行ってアイテムを集めてもくれる頼れる雇人だ。
体が雑……ではあるが、しかし、前回、前々回と比べると、手と体の全体を描こうとしていることは評価に値する。あと、さらに雑だが、オブジェクトも描いてみた試みは褒めてやろう。
(褒めないと、来週も頑張れない……!(かっこわらい))
いやぁしかし、なかなか上達が見られませんなぁ。
しかし、ふと、かなりイラスト始めたばかりのころ……色付け始めのころのイラストをみてみると、「あれ、今の方が上手くないか?!」と思った。
所要時間は同じぐらいのはずなのだが……。
しかしながら、「まぁまぁできたな!」という感触的には、当時の方があったきがする。
その頃は、目標レベルも低かったのだろう。
今はなんか、高くなっちゃったわけではないが、ピクシブに投稿されている作品なども見始めたことによって、なんかモチベーションが低く(比べることはできないのに、比べてしまう)状況になったのかもしれない。
メインストーリーの話だ。ネタバレ……は、このブログには書いてもいい気もするが、まぁ、何が起こるか分からない世界だからぼかして書くか。
何が書きたいかというと、ですね、なんかその、「冒険者って色々頼まれ過ぎでしょ!」と思うわけであった。
便利屋過ぎる。
いいように使われる。
政治の道具。
「ありがとう」
「おねがいね」
「貴様を冒険者部隊の隊長にする」
「無事でよかった」
「さすがは英雄殿」
必要としてくれるのはありがたい。でもですね、みなさん、ちょっとこき使いすぎじゃないですかね!!(かっこわらい)
と思ったのであった。
うーむ。これは、僕が、「いい大人」になってしまったからだろうか。
若いうち、――小学生ぐらいだったら、「勇者になって頑張るぞ!」的な感性だけだったかもしれない。「偉い人、大人に認められていく!」ということに快感すらあったのかもしれない。
僕はだいぶ、不信感がつのっていった(笑)。
いくら「超える力」があるとはいえ、星の加護があるとはいえ、こきつかいすぎでしょう!!
「アシなんとかさん」という、人外の……人外どころか、生命という枠組みすらはずれた存在との戦いに駆り出されるのは、まぁ、わからないでもない。それは僕しかできないことだ。
でもですよ、他国との政権争いとか、北方の鎖国国家とドラゴン族との戦いとか、「関係なくね?」と思ったりした。
そもそも、「蛮神」や「アシなんとかさん」との戦いのときに、援軍を求めたが、冷たくあしらわれたことなど、ボクは忘れてない。都合よすぎるなじゃあないかなぁ! 勝手に滅んでしまえ! ぐらいに思った。
――でも、ゲーム内のボクは、決意を帯びた表情で、強く頷く。
何も言わない。すべて分かっているといわんばかりに。
エオルゼア全土の太平のためには、必要なことなのだと。
金銀名誉等報酬はいらない。使命感と責任感で、それで十分だと。
――か、かっこいいじゃないか。
分かったよ。じゃあ、一緒にやってやろうじゃないか!!
――てな感じで、不満も大きくなりつつも、それを込みでストーリーも楽しんでいる。
まえがき
「すべての生命には、霊魂が宿っている」――と、書き始めると、「え、どうした?」と心配をしてくれる方もいるかもしれない。
オカルトでも、スピリチュアルでも、新興宗教でもマルチ商法でもない。逆にそう書いた方が怪しいかもしれない。
いや実際、スピリチュアル系のブログ記事がふと目に留まって読ませていただいたというのがきっかけではある。
しかし、問いとしては、「生命とは何か」、というものだった。
これは、見方を変えれば、科学的でもあれば、現実的でもある。
その理屈、ロジック、そこに至る過程、アプローチなどによって、「うさんくさ」くもなり、「アカデミック」にもなるのだろうと思う。
ちなみに、そのきっかけとなった記事においては、「――だから、すべての、人間以外の生命に対しても責任や尊敬の念をもつことが必要だ」という主張だと思われた。(生命には、「ウイルス」も含まれるという定義であった)
そして、霊魂とは「エネルギー」のことだという。
エネルギーというのも、「物理学」的でもありながら、スピリチュアル的なニュアンスも含む言葉に思う。
ちなみに、僕の中でのエネルギーという言葉の定義、というか、イメージは、「移動を発現させるための原因」というものだ。「動力」といってもよいかもしれない。もっといえば、単に「力」といってもいいかもしれない。エネルギー=力。
要は「動き」の発生源。
物理的な観点での、位置エネルギー運動エネルギーというイメージはその通りだが、それだけじゃなくて、口頭による情報伝達もまた、エネルギーだと思う。「情報」という、物理ではないけれども、見えないものが動く、というイメージ。磁力や、光もそうだろうが、目に見えないものでも、「力」は伝わるのだ。
エーテル
いきなり物語とかゲームの話になるが、「魔法の世界」の、魔法が顕現する原因は、「魔素」だったりする。万物の起源は「素粒子」だ。光は「光子」だし、原子は「クォーク」だったりする。
で、魔法が発生するのは、世界に、魔法の元となる粒子が豊富に漂っているからだ。
ファイナルファンタジーでは、それを「エーテル」という。
自然のエーテルを体内に取り込み(もしくは変換)して、魔法を使う。それが幻術士。強大な魔法は、エーテルを大量に消費し、その土地を枯渇させる。だからより強大な白魔法は禁忌とされた。
一方、赤魔導士は、体内にあるエーテルだけを使って魔法を使うそうだ。
へー。っとなった。あ、ファイナルファンタジー14での設定の話だ。
進撃の巨人の完結
話がいきなりかわるが、進撃の巨人が、週刊誌? 月刊誌? では、もう完結したらしい。どうやら、完結したらしい。まじか。
そろそろ完結だという噂はなんか見た気がしていたが、も終わっちゃったのか。
本屋さんに最終巻、単行本も出ているか見に行ったけど、それは6月ぐらいらしい。
どんな最後なんだろうか。
楽しみだが、寂しいな。
まぁ、終わらない物語はない。ネバーエンディングストーリーは無いのだ。
いやしかし、ほんと、ネタバレされると殺意すらわきそうである。
しかしそれは、かなり楽しみにしている作品だからこそである。
どうでもいい作品は、むしろ「おち」だけ知りたい、という場合すらある。
ネタバレ、で思い出したけれども、以前、「不快な情報」問題を、僕も、そして他の友人のブログでも論じられておられたことがあった気がする。
エログロ的な、衝撃的なコンテンツについて、「不快なら、見なきゃいいじゃないか」というのは、僕はその通りに思う。なんでも規制する必要があるとはおもえない。
ただ、「ネタバレ」に置き換えたらどうだろうか。
ネタバレが気になるなら、それに類する情報をみなければいい……それは確かに。
しかし、巧妙に、ネタバレじゃないように装いながら、――もしくは、ヤフートップページの記事タイトル的にネタバレが仕込まれていたら。
「見なきゃいい」
これは正しいことに思うが、「見ないことの保障」もされるべきに思った。
ということはやっぱり、「ゾーニング」ということになると思う。
「このコンテンツは不適切な云々……」とか「ここから先はネタバレを含みます」とか、そんな風に注釈があって、自分の意志で「クリック」しなければ見えないような仕組み、それがあればいいと思う。
そういう仕組みがあれば、何も、表現的なコンテンツにおいて、規制というのは一切必要ないんじゃないか、すら思う。
イラストコーナー
そしていきなりイラストコーナーに入る。イラストモチーフは、FF14のリテイナー(倉庫番)さん。アイテムやお金(ギル)を預かってくれる。それだけじゃなくて、冒険に行ってアイテムを集めてもくれる頼れる雇人だ。
体が雑……ではあるが、しかし、前回、前々回と比べると、手と体の全体を描こうとしていることは評価に値する。あと、さらに雑だが、オブジェクトも描いてみた試みは褒めてやろう。
(褒めないと、来週も頑張れない……!(かっこわらい))
いやぁしかし、なかなか上達が見られませんなぁ。
しかし、ふと、かなりイラスト始めたばかりのころ……色付け始めのころのイラストをみてみると、「あれ、今の方が上手くないか?!」と思った。
所要時間は同じぐらいのはずなのだが……。
しかしながら、「まぁまぁできたな!」という感触的には、当時の方があったきがする。
その頃は、目標レベルも低かったのだろう。
今はなんか、高くなっちゃったわけではないが、ピクシブに投稿されている作品なども見始めたことによって、なんかモチベーションが低く(比べることはできないのに、比べてしまう)状況になったのかもしれない。
FF14の話
思い出したので、FF14のことを書く。メインストーリーの話だ。ネタバレ……は、このブログには書いてもいい気もするが、まぁ、何が起こるか分からない世界だからぼかして書くか。
何が書きたいかというと、ですね、なんかその、「冒険者って色々頼まれ過ぎでしょ!」と思うわけであった。
便利屋過ぎる。
いいように使われる。
政治の道具。
「ありがとう」
「おねがいね」
「貴様を冒険者部隊の隊長にする」
「無事でよかった」
「さすがは英雄殿」
必要としてくれるのはありがたい。でもですね、みなさん、ちょっとこき使いすぎじゃないですかね!!(かっこわらい)
と思ったのであった。
うーむ。これは、僕が、「いい大人」になってしまったからだろうか。
若いうち、――小学生ぐらいだったら、「勇者になって頑張るぞ!」的な感性だけだったかもしれない。「偉い人、大人に認められていく!」ということに快感すらあったのかもしれない。
僕はだいぶ、不信感がつのっていった(笑)。
いくら「超える力」があるとはいえ、星の加護があるとはいえ、こきつかいすぎでしょう!!
「アシなんとかさん」という、人外の……人外どころか、生命という枠組みすらはずれた存在との戦いに駆り出されるのは、まぁ、わからないでもない。それは僕しかできないことだ。
でもですよ、他国との政権争いとか、北方の鎖国国家とドラゴン族との戦いとか、「関係なくね?」と思ったりした。
そもそも、「蛮神」や「アシなんとかさん」との戦いのときに、援軍を求めたが、冷たくあしらわれたことなど、ボクは忘れてない。都合よすぎるなじゃあないかなぁ! 勝手に滅んでしまえ! ぐらいに思った。
――でも、ゲーム内のボクは、決意を帯びた表情で、強く頷く。
何も言わない。すべて分かっているといわんばかりに。
エオルゼア全土の太平のためには、必要なことなのだと。
金銀名誉等報酬はいらない。使命感と責任感で、それで十分だと。
――か、かっこいいじゃないか。
分かったよ。じゃあ、一緒にやってやろうじゃないか!!
――てな感じで、不満も大きくなりつつも、それを込みでストーリーも楽しんでいる。