今日の一言「5分はあっという間」
これは、難しい。
まず、始めることさえできれば、5分、10分は余裕である。
ところが、1分でさえ、「本を読む」という行為を行うことが意外に難しい。
嫌なことから逃げ続けてはいけない。やるべきことは早めにやった方がよいというのは、とっかかりが大事ということを示している。
あと、後回しにすればするほどに、問題が大きくなることが多い。
言葉で説明するのが難しいが、図をみれば、誰しも「ああ、あれのことか」と思い出すはずである。錯視みたいなやつ。ルビンの壺みたいなやつ。老婆と少女の絵に見えるやつ。
意識というものが虚構であるという。そのことを示す事例で用いられる。
グレーに見えるというのは、人間の目の機能であって、実際に「グレー」が、その絵図に存在しているわけではない。たぶん、色を読み取る機械にかけたら、数値上は「白」があるだけなのだ。
しかし、人間の目には、「グレー」に映る。
だから、意識は虚像虚構なのだと。
だが、そうはいっても、グレーはあるのだ。
でも、だからといって、「グレー」が「見える」こと自体は嘘ではない。
実際に「意識」されている。
そのことに着目するのが「実存主義」である。
デカルトとはちょっと違うという。
デカルトの「我思う故に我あり」というのは、「私が思うことができる、だから「私」は存在する」といいきっている点が違うという。言いきっているというか、「私」の存在を、「そういう存在」として認めている点が違うという。
「そういう存在」
というのは、二元論的な、心身のうちの、「心」として、存在するのだという主張である。
物的一元論……つまり、身体というものしかなくて、その身体の機能によって心というものが生じている(に過ぎない)というのが、実存主義に近くて、デカルトは、二元論的な考え方をしている点が違うという。
この説明で分かるのだろうか。自分の中では腑に落ちているが、果たして他者が見て意味が通じるのか。そして、未来の私が読んで分かるのか。また、過去の私に聞かせたときに分かるのか、分からない。
まえがき
本を、1分読んで、感想を書く。これは、難しい。
まず、始めることさえできれば、5分、10分は余裕である。
ところが、1分でさえ、「本を読む」という行為を行うことが意外に難しい。
嫌なことから逃げ続けてはいけない。やるべきことは早めにやった方がよいというのは、とっかかりが大事ということを示している。
あと、後回しにすればするほどに、問題が大きくなることが多い。
ヘルマンの格子
ヘルマンのコウシ。等間隔に、縦横に並んだ白黒の四角形の間の白い部分は、グレーに見えるというやつだ。言葉で説明するのが難しいが、図をみれば、誰しも「ああ、あれのことか」と思い出すはずである。錯視みたいなやつ。ルビンの壺みたいなやつ。老婆と少女の絵に見えるやつ。
意識というものが虚構であるという。そのことを示す事例で用いられる。
グレーに見えるというのは、人間の目の機能であって、実際に「グレー」が、その絵図に存在しているわけではない。たぶん、色を読み取る機械にかけたら、数値上は「白」があるだけなのだ。
しかし、人間の目には、「グレー」に映る。
だから、意識は虚像虚構なのだと。
だが、そうはいっても、グレーはあるのだ。
驚くべき人
錯視という状況があるように、人間とは不完全な存在だ。でも、だからといって、「グレー」が「見える」こと自体は嘘ではない。
実際に「意識」されている。
そのことに着目するのが「実存主義」である。
デカルトとはちょっと違うという。
デカルトの「我思う故に我あり」というのは、「私が思うことができる、だから「私」は存在する」といいきっている点が違うという。言いきっているというか、「私」の存在を、「そういう存在」として認めている点が違うという。
「そういう存在」
というのは、二元論的な、心身のうちの、「心」として、存在するのだという主張である。
物的一元論……つまり、身体というものしかなくて、その身体の機能によって心というものが生じている(に過ぎない)というのが、実存主義に近くて、デカルトは、二元論的な考え方をしている点が違うという。
この説明で分かるのだろうか。自分の中では腑に落ちているが、果たして他者が見て意味が通じるのか。そして、未来の私が読んで分かるのか。また、過去の私に聞かせたときに分かるのか、分からない。
あとがき
(かっこ書きである。「分かる」ということについて書いたこともあった。分かるというのは、物事を分類できるということだ。つまり分類できなければ分かったことにはならない。「完全な理解」というときは、付随するすべての事象が、すべてのときに、誤りなく分類できるということである。逆に、分からない、というのは、まず僕は、「存在しない」と思う。だって、「広い」意味で、分からないことなどないだろう。だって今、僕は「日本語」を書いている。そういう意味で、「分かる」。つまり、「分かる」というのは、次元がたくさんあるのである。宇宙玉ねぎのように、剥いても剥いても終わりはない。物質とは何か? 原子である。原子とは何か。陽子と中性子と電子である。陽子とはなにか。クォークである。クォークとは何か。アップクォークとダウンクォークである……。要は素粒子である……。と、まぁ、分類はできる。全く分類できないことはあるだろうか? 異界の言語であれば分からないかもしれない。でも、それが「言語」であることは分かるかもしれない。「知らない人」というのはいる。でも、その人が、人間なのか、男女かどちらかは分かるだろう。アンドロイドという存在が当たり前になれば、「人間」の分類が曖昧になる。そんなときは、新たに、「ヒト型」という概念が必要になるかもしれない。概念というのは、分類における「ラベル」である。目印。名前。言語学者の……誰だっけ、名前が出てこない、あのその……、ああ、もう頭のラベルがすり減っている。その……あれだよ、シグニティ……じゃなかったっけ、シグニフィカント……違う、なんだっけ、シニフィエと、シニフィアンだ。それそれ。えっと……、シニフィエというのが、定義された名前であって、シニフィアンというのは、その物自体であって……とかって。結局思うに、「記憶力」がないと、「思考」ってできないのだと思う。中学生とかのとき、そこらへんを分かってなかった。数学の公式を覚えるのがなんか「負けた」気がして嫌だった。よく考えたら中二病的精神である)PR
結局思うに、「記憶力」がないと、「思考」ってできないのだと思う。中学生とかのとき、そこらへんを分かってなかった。数学の公式を覚えるのがなんか「負けた」気がして嫌だった。よく考えたら中二病的精神である
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これはマジ。自分も中学の頃思ってましたよ。今になって考えるとインプットないのにアウトプットできるわけないだろって思うんだけど、自分の頭の中だけで無限の創造ができるなんて思ってたんだよね。
なんか久しぶりな気もします。元気にしてますか?たぶんブログ書いていない間は仕事とかFFで元気なんだと思っているんですが。
遠藤さんがFFやっていると知ってから、なんとなくFFに関係するYoutubeとか見たりしてたんですが、FF14の運営はすっげー頑張っていますね。吉田さんみたいな運営?がいてFF14にとってはよかったんだなぁなんておもったりして、FF少しやりたくなってきたりもしています。ちょっと時間がないのでできないのですが、個人的には遠藤さん視点のFF14についてブログで見てみたいななんて思ったりもしています(強制力はゼロ)