今日の一言「目が覚めたら40歳だったらどうしよう」「ある意味、心が幼いまま30代に突入したのは同じぐらい悲劇」
めんどくせぇぇ……ってなって、何もできなくなることがよくある。もうすべて投げ出してしまいたい。自暴自棄と言われたっていい。そうだ、俺に、守るべきものなんて、そんな大層なものはもう持ち合わせていないんだ……。
そんな風に愚痴を唱えることに、残念ながら真摯に向き合えない性格特性である。僕は、そのような感情が生じたとき、すぐさま、その「愚痴状態」が良いものかどうかを総合的に考える(考えてしまう)。
はいはい、愚痴を言いたいのね。そうして、自己正当化をしたいわけね。いいよ、それで感情状態を平静に向かわせられるなら、どうぞやってください。できれば、私としては、それをする時間まで決めておいて頂けるとありがたいんですがね……まぁ、好きなようにおやりなさいよ。
お前誰だ!? みたいな、そんな奴がいるのである。
その、じゃあ、仮に「理性くん」と名付けたとして、そいつは、かなり昔から俺の中にいた。さかのぼれば、小学4年生ぐらいじゃあないかと、僕は思っている。何度かブログでも書いたけれども、ある友達とのエピソードで、僕は衝撃を受けた。そのとき、いや、最古の記憶、3歳~4歳ぐらいに、僕の誕生会を親戚をまじえてやってくれた、そのときから、理性くんはやってきたのだろうか。
なるほど、ブログとは、収益を目指すものから、何らか達成したいもの、得たいものを満たすために行われる。ブログである以上、それは他者の目を必ず意識するものである。誰かに読んでもらいたくないといって、ブログ媒体を選択する人は皆無である(少なくても論理性はない)。
で、あるならば、PV(ページビュー)という、すなわち、アクセス数、訪問者というものを意識しないわけにはいかない。
そのとき、どんな種類のPVを求めているのか、ということを、上の紹介記事では触れられているのである。
金貨、になると特殊な気がするのでこの場で特段記載はしないが、銅貨と、銀貨の違いというのはかなり大きいと思う。
銅貨は、即物的な答えを求めるそれである。銀貨は、一緒になって考えてくれる読者のとことである、と(敢えて抽出的に、恣意的な書き方をしてまとめるとそういうことになる)。
言うまでもなく、僕は、銀貨を求めている(もちろん、金貨であればもっといいが、銀貨と金貨の違いは僕はあまり感じない。その理由は、オフとオンの区別にさほど意味を求めていないことになるが、まぁこの辺は昔なんどか書いているので省略)。
もちろん、銅貨があったうえでの銀貨なのだろうけれど、得たいもしれない、アクセス数だけ増えても、逆に気味が悪いと思うだろう。それよか、コメントとかいただけたり、時折自身のブログのネタにしてもらったりしてくれる方が嬉しい。
そして、では、この上の知見を用いて、こういう分類って、何に役に立つの? という疑問が発生したときの感情と、論理性というものについて考えてみたい。
結局のところ、「目的」とは何か、を僕は常に問うている。(これは病的なまでに)
よく言われるところが、「結局、お金にならない活動は、社会に組み込まれていないのだから、役に立つものではない。お金がないと、生活できないのだから、お金に直結する活動を基盤にできていない人は、地に足がついていない浮浪者である」ということである。
日本が資本主義であることを、僕は認めないわけではない(まどろっこしい言い方をするな、「認めている」でいいだろうが)。
資本主義とは、生産と消費のサイクルによって人間の欲望を満たしながら成長していく社会システムのカタチである。
そこに用いられるのが、「お金」である。このお金という概念は、少々、僕らの若いころから、現在では意味が異なっていて、いわゆる「電子の」仮想通貨というものも含めて考える必要がある。というのは、ビットコインとか、スイカとかイコカといった電子マネーという意味だけでなく、証券や債券など金融資産といった有形無形のお金も含めて考える必要があるということだ。
決して、これまでも、これからも、お金の価値を否定するのではない。
何らかの行動をするには、……かなしきかな、何もしなくてもお金はかかる。
(賃貸アパートであれば言わずもがな、持ち家だったとしても固定資産税がかかってもってかれる)
お金は、あるにこしたことはない。不慮の事態……先日あった風邪ひいたとか、PCのクラッシュとかオートモービルの電子機器不良など、お金がかかる場面というのは事欠かない。
ただ、昔から今も変わらない僕の価値観として、「お金のために生きるのではない」というものもある。
だが、何故ほしいのか? それは、単なる「安心」の購入である。
何に使うか分からない、けれども、いつなんどき、いくら必要になるかが分からない、だから取り敢えず「貯蓄」する。
この貯蓄という概念をもう少し広げると、僕は、投資であっても同様であると考えている(こんな頭でっかちなことを思ってるから、中々株をやろうと思えない)。つまり、いつまでに、いくら必要かという明確な目標がないゆえに、ただ、「安心」するがゆえに、お金のためにお金を稼ぐことをするために……それが、僕の目的にならんあいということだ。
分かりやすく書くと、「お金を貯める&稼ぐ」ということについての目標・目的がないのである。
よく、書店などで、「お金に困らない生き方をしよう!」とかいって、お金を稼ぐためのアプローチを延々述べられている書籍を見かける。
ずれたアプローチだと僕は思う。(いや、それが万人普遍に間違っているといいたいのではない)
ある意味、僕は、貧困であえぐ昨今増えているといわれている大多数の方に申し訳ないが、お金には全然困っていない(いまのところは。会社の状態もあまり芳しくないので、今後どうなるかも不明だ)。
お金に困っていない=お金がたくさんある、というわけではないことは重要な点だ。
つまり、まわりくどく書いてきたが、結局僕がいつも言っていることに巻き戻るのだけれど、大事なのは「欲望」ってことである。
欲望なのか、欲求なのか、欲動なのか、そこらへんの違いは、本記事では不問である。とにかく、「何かしたい!」という思いの大きさに応じて、お金の必要量がかかわってくる。
ここで、本当は、二つのアプローチがあるのである。一つは、お金を稼ぐこと、もう一つは、欲望を調整することだ。
資本主義社会とは、どうにも、前者のアプローチを肯定しすぎているように僕は思っている。そういう延長で、「努力したら必ず報われる!」的な標語が生じてくるのだと思っている。
結局は、「努力は(身の丈に合った)結果を与えてくれる」ということである。これはペシミスティックな、後ろ向きな発言ではない。ある意味、努力したら報われているのだ、必ず。だが、見落としてはならないところは、そのご本人が、如何なる「欲望」(目的)を抱いていたかという点だ。
同じ結果があるとする。テストで70点だったと。それは、客観的な指標だ。同じ問題を、同じ時間に、同じ条件で解いたのだ。だが、その70点という結果は、ある人にとっては悲観的なものであろうし、ある人にとっては僥倖であったりする。
閑話休題。
他者がどう思おうが、それはそれ。
ようは、俺は、いったい、どんな欲望をもっているのか、その点だ。これは最近ある方が、「感覚を研ぎ澄ませることが何より重要なのですよ。理屈ではない、感覚なのですよ」といっているのと、同じことだと思っている。
僕の言葉で言うと、「実感」。
実感のあるがままに生きる。これが本来、人間として正しい生き方ではなかろうか。
と思ったところで、冒頭に書いたように、「夢」とはなんとも暴力的である。
ある意味、幸せな夢であった。(後半、クレーマーとの言い合い合戦になったりして不快感マックスであったが)
幼いころの、家族に見守られ、ただ「子ども」として生きていたころの夢。
(こんな画像集をみるとなおさらダメージが大きくなるタイミングである)
なんだっけ……。ここ5日間ぐらいのことで、どうしても整理しておきたかったことがあったけど、いろいろすっ飛んでしまった。
俺は、……なんというか、嫌だ、苦しい、つらい、哀しいなどなど、もろもろ「不快」と呼ばれる感情が発生したとき、その理由を求めて、その解決に思考をめぐらすわけだが……そうじゃない人って本当に多いんだなって思ったりした。
ネガティブを、ただ、ネガティブとしてそれで甘んじて受けようとする人たち。
まぁいい、それだけであれば。そのネガティブを内部にもって、鬱屈としている人たちは儚く可愛らしい。
が。そういう人たちに限って(これは単に強調語に過ぎず一般的なことを言ってるのではない)、そのネガティブ性を愚痴として、他者への批判としてぶつけるのである。組織や社会が好んで使う言葉で表現すれば、「責任」を放棄しようとするのである。
自分の人生だろ? 自分で責任をとるしかないだろ。いつまで、親が守ってくれる子供でいるつもりなんだ?
……で、その責任論になると、責任のとれる範囲というのが、結局なんだと思う? お金、だ。
だから、お金があった方がいいって……そうなるんだけど、俺はどうにもそういった生き方というか価値観というか考え方というか、そんなもんが面白くねぇと思ってしまう。
俺も今、こうやって書いているのは愚痴にしか過ぎないわけだけれども、それでも、何とかしたいとは思ってるんだろう。
うーむ、駄目だ、感情が先走って、頭の整理がうまくいかない。
本来、読み返して、修正していく作業に入るべきだが、これはこれで、いったん投稿することにしよう。そのうえで、再度時間をあけて書いていこう。
(PVの種類を明確に分類するとか、そういうのは価値ある作業に思える。しかし、「実存」問題を考える際には、常に明確な分類の適応は難しい。ああ、そうだ、「実存」と政治について書こうと思ったんだったっけ)
夢は潜在意識の顕在化なのか
色々と、やるべきこと、やった方がいいことが積み重なっている。めんどくせぇぇ……ってなって、何もできなくなることがよくある。もうすべて投げ出してしまいたい。自暴自棄と言われたっていい。そうだ、俺に、守るべきものなんて、そんな大層なものはもう持ち合わせていないんだ……。
そんな風に愚痴を唱えることに、残念ながら真摯に向き合えない性格特性である。僕は、そのような感情が生じたとき、すぐさま、その「愚痴状態」が良いものかどうかを総合的に考える(考えてしまう)。
はいはい、愚痴を言いたいのね。そうして、自己正当化をしたいわけね。いいよ、それで感情状態を平静に向かわせられるなら、どうぞやってください。できれば、私としては、それをする時間まで決めておいて頂けるとありがたいんですがね……まぁ、好きなようにおやりなさいよ。
お前誰だ!? みたいな、そんな奴がいるのである。
その、じゃあ、仮に「理性くん」と名付けたとして、そいつは、かなり昔から俺の中にいた。さかのぼれば、小学4年生ぐらいじゃあないかと、僕は思っている。何度かブログでも書いたけれども、ある友達とのエピソードで、僕は衝撃を受けた。そのとき、いや、最古の記憶、3歳~4歳ぐらいに、僕の誕生会を親戚をまじえてやってくれた、そのときから、理性くんはやってきたのだろうか。
PVの銀貨
話は少し変わる。ある友人が、こんな記事(シロクマの屑籠)を紹介してくれた。なるほど、ブログとは、収益を目指すものから、何らか達成したいもの、得たいものを満たすために行われる。ブログである以上、それは他者の目を必ず意識するものである。誰かに読んでもらいたくないといって、ブログ媒体を選択する人は皆無である(少なくても論理性はない)。
で、あるならば、PV(ページビュー)という、すなわち、アクセス数、訪問者というものを意識しないわけにはいかない。
そのとき、どんな種類のPVを求めているのか、ということを、上の紹介記事では触れられているのである。
金貨、になると特殊な気がするのでこの場で特段記載はしないが、銅貨と、銀貨の違いというのはかなり大きいと思う。
銅貨は、即物的な答えを求めるそれである。銀貨は、一緒になって考えてくれる読者のとことである、と(敢えて抽出的に、恣意的な書き方をしてまとめるとそういうことになる)。
言うまでもなく、僕は、銀貨を求めている(もちろん、金貨であればもっといいが、銀貨と金貨の違いは僕はあまり感じない。その理由は、オフとオンの区別にさほど意味を求めていないことになるが、まぁこの辺は昔なんどか書いているので省略)。
もちろん、銅貨があったうえでの銀貨なのだろうけれど、得たいもしれない、アクセス数だけ増えても、逆に気味が悪いと思うだろう。それよか、コメントとかいただけたり、時折自身のブログのネタにしてもらったりしてくれる方が嬉しい。
そして、では、この上の知見を用いて、こういう分類って、何に役に立つの? という疑問が発生したときの感情と、論理性というものについて考えてみたい。
収益を出すことが必ずしも必要なのか
仕事論になりそうな気がするが、それほど肩肘はるものでもない。結局のところ、「目的」とは何か、を僕は常に問うている。(これは病的なまでに)
よく言われるところが、「結局、お金にならない活動は、社会に組み込まれていないのだから、役に立つものではない。お金がないと、生活できないのだから、お金に直結する活動を基盤にできていない人は、地に足がついていない浮浪者である」ということである。
日本が資本主義であることを、僕は認めないわけではない(まどろっこしい言い方をするな、「認めている」でいいだろうが)。
資本主義とは、生産と消費のサイクルによって人間の欲望を満たしながら成長していく社会システムのカタチである。
そこに用いられるのが、「お金」である。このお金という概念は、少々、僕らの若いころから、現在では意味が異なっていて、いわゆる「電子の」仮想通貨というものも含めて考える必要がある。というのは、ビットコインとか、スイカとかイコカといった電子マネーという意味だけでなく、証券や債券など金融資産といった有形無形のお金も含めて考える必要があるということだ。
決して、これまでも、これからも、お金の価値を否定するのではない。
何らかの行動をするには、……かなしきかな、何もしなくてもお金はかかる。
(賃貸アパートであれば言わずもがな、持ち家だったとしても固定資産税がかかってもってかれる)
お金は、あるにこしたことはない。不慮の事態……先日あった風邪ひいたとか、PCのクラッシュとかオートモービルの電子機器不良など、お金がかかる場面というのは事欠かない。
ただ、昔から今も変わらない僕の価値観として、「お金のために生きるのではない」というものもある。
欲望を満たす道具
お金が欲しいか? と問われたら、欲しいです、と答える。だが、何故ほしいのか? それは、単なる「安心」の購入である。
何に使うか分からない、けれども、いつなんどき、いくら必要になるかが分からない、だから取り敢えず「貯蓄」する。
この貯蓄という概念をもう少し広げると、僕は、投資であっても同様であると考えている(こんな頭でっかちなことを思ってるから、中々株をやろうと思えない)。つまり、いつまでに、いくら必要かという明確な目標がないゆえに、ただ、「安心」するがゆえに、お金のためにお金を稼ぐことをするために……それが、僕の目的にならんあいということだ。
分かりやすく書くと、「お金を貯める&稼ぐ」ということについての目標・目的がないのである。
よく、書店などで、「お金に困らない生き方をしよう!」とかいって、お金を稼ぐためのアプローチを延々述べられている書籍を見かける。
ずれたアプローチだと僕は思う。(いや、それが万人普遍に間違っているといいたいのではない)
ある意味、僕は、貧困であえぐ昨今増えているといわれている大多数の方に申し訳ないが、お金には全然困っていない(いまのところは。会社の状態もあまり芳しくないので、今後どうなるかも不明だ)。
お金に困っていない=お金がたくさんある、というわけではないことは重要な点だ。
つまり、まわりくどく書いてきたが、結局僕がいつも言っていることに巻き戻るのだけれど、大事なのは「欲望」ってことである。
欲望なのか、欲求なのか、欲動なのか、そこらへんの違いは、本記事では不問である。とにかく、「何かしたい!」という思いの大きさに応じて、お金の必要量がかかわってくる。
ここで、本当は、二つのアプローチがあるのである。一つは、お金を稼ぐこと、もう一つは、欲望を調整することだ。
資本主義社会とは、どうにも、前者のアプローチを肯定しすぎているように僕は思っている。そういう延長で、「努力したら必ず報われる!」的な標語が生じてくるのだと思っている。
結局は、「努力は(身の丈に合った)結果を与えてくれる」ということである。これはペシミスティックな、後ろ向きな発言ではない。ある意味、努力したら報われているのだ、必ず。だが、見落としてはならないところは、そのご本人が、如何なる「欲望」(目的)を抱いていたかという点だ。
同じ結果があるとする。テストで70点だったと。それは、客観的な指標だ。同じ問題を、同じ時間に、同じ条件で解いたのだ。だが、その70点という結果は、ある人にとっては悲観的なものであろうし、ある人にとっては僥倖であったりする。
閑話休題。
だから俺の欲望は何なのか
何だか延々と続きそうだったから強制中断。上のようなことは正直どうでもいいのだ。他者がどう思おうが、それはそれ。
ようは、俺は、いったい、どんな欲望をもっているのか、その点だ。これは最近ある方が、「感覚を研ぎ澄ませることが何より重要なのですよ。理屈ではない、感覚なのですよ」といっているのと、同じことだと思っている。
僕の言葉で言うと、「実感」。
実感のあるがままに生きる。これが本来、人間として正しい生き方ではなかろうか。
と思ったところで、冒頭に書いたように、「夢」とはなんとも暴力的である。
ある意味、幸せな夢であった。(後半、クレーマーとの言い合い合戦になったりして不快感マックスであったが)
幼いころの、家族に見守られ、ただ「子ども」として生きていたころの夢。
(こんな画像集をみるとなおさらダメージが大きくなるタイミングである)
なんだっけ……。ここ5日間ぐらいのことで、どうしても整理しておきたかったことがあったけど、いろいろすっ飛んでしまった。
俺は、……なんというか、嫌だ、苦しい、つらい、哀しいなどなど、もろもろ「不快」と呼ばれる感情が発生したとき、その理由を求めて、その解決に思考をめぐらすわけだが……そうじゃない人って本当に多いんだなって思ったりした。
ネガティブを、ただ、ネガティブとしてそれで甘んじて受けようとする人たち。
まぁいい、それだけであれば。そのネガティブを内部にもって、鬱屈としている人たちは儚く可愛らしい。
が。そういう人たちに限って(これは単に強調語に過ぎず一般的なことを言ってるのではない)、そのネガティブ性を愚痴として、他者への批判としてぶつけるのである。組織や社会が好んで使う言葉で表現すれば、「責任」を放棄しようとするのである。
自分の人生だろ? 自分で責任をとるしかないだろ。いつまで、親が守ってくれる子供でいるつもりなんだ?
……で、その責任論になると、責任のとれる範囲というのが、結局なんだと思う? お金、だ。
だから、お金があった方がいいって……そうなるんだけど、俺はどうにもそういった生き方というか価値観というか考え方というか、そんなもんが面白くねぇと思ってしまう。
俺も今、こうやって書いているのは愚痴にしか過ぎないわけだけれども、それでも、何とかしたいとは思ってるんだろう。
うーむ、駄目だ、感情が先走って、頭の整理がうまくいかない。
本来、読み返して、修正していく作業に入るべきだが、これはこれで、いったん投稿することにしよう。そのうえで、再度時間をあけて書いていこう。
(PVの種類を明確に分類するとか、そういうのは価値ある作業に思える。しかし、「実存」問題を考える際には、常に明確な分類の適応は難しい。ああ、そうだ、「実存」と政治について書こうと思ったんだったっけ)
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今日の一言「タイトルが胡散臭いね」「疑いにきりがあると思ってはならない」
その面倒なことを一つずつ書いていこうかとも思ったが、それ自体が面倒な作業になるだろうから、やはり、いつもどおり思いつくままに書いていこう。
まず、体調がよくない。おそらく、風邪だろう。体調が悪いながらも、仕事はまってくれずに、次から次へと舞い込んだ一週間だった。それでも、何とか乗り越えることができた(いやもちろん、来週や後ろに回しただけではないかということも言えるけれども、それでも、一週間は終わったのだ)。
次に、所有しているオートモービルの電子機器の調子が良くない。かれこれ、もう5年以上も使っているので、そろそろ交換の時期かもしれないのだが、出費に頭を悩ます。
所用ででかけるも、諸事情で引き返すはめになり、二度手間になる。
会社での仕事内容プラス人間関係における難儀な事態にも頭を悩ます。どうにも、難しい、この「難しい」ということは、後ほど触れる可能性がある。
さらに、パソコンの調子が悪くなった。これが決定的に僕を落ち込ませた。何せ、この土日は、手がけるサイトの改築工事及び、寄せられたコメントへの返信、小説の書き進めなど、色々とやろうと思っていたのだ。金曜日、遅い時間に帰宅しつつ、さぁ、少しでも作業を進めるぜ! とPCのスイッチを入れる。「ASUS」(マザーボードのロゴ)が表示されてから、一向に進まない。
前にSSDクラッシュにより修理に出したばっかりで、また故障か、と思う。
取り敢えず、ファンの誇りを取り除き、簡易的に清掃をする、駄目。
電源プラグを抜いて放電を試したり、グラフィックボードを抜いて、オンボードで動くか試し、駄目。
友人が、マザーボードのロゴもでないなら、HDDのせいじゃなくて、メモリとかのせいじゃない? とアドバイスをくれる。
メモリの接触不良ということもあるので、一度抜いてから差し込む。ビープ音が鳴り響く。「ビービー、ビービー」。びっくりする。どうやら、メモリがちゃんとはまっていなかった模様。メモリを指さない状態で電源スイッチ押すと、激しいことになることが分かる。(メリット1)
HDDも全部抜いてみる。駄目。HDDを抜いても、マザーボードのロゴ(ASUS)までは表示されることが分かった。(メリット2)
もうこりゃ駄目だ、買い替えだな、と諦めたところ、友人がいってた、メモリとかのせいじゃないか、ということを思い出し、ダメもとで、CMOS電池を外してから、しばらく(90秒)放置し、再度つけてみる。……動いた!!(メリット3)
※CMOS電池とは上の画像の赤丸部分。コンセントからの電源がなくても、マザーボードに電気を供給して、時刻同期とか保っている。縦置きのまま外したらカシャっと落ちて、電源ユニットの中に入って焦ったのは内緒。
※参考になったサイト「BIOS初期化」
しかし、さすが素人、Dドライブだけ抜き取って、ケーブルを取っておくのを忘れていた。電気屋に走る。SATA(シリアル・ATA)ケーブルを購入する。600円ぐらいだった。
上の図の青い線がSATAケーブル。上の赤丸がマザーボード側のSATAの接続端子。下の赤楕円の方に、内臓HDDのスロットがあり、接続されている。
結果、問題なく認識された。しかし、何故かフォーマットが要求されてしまい、中身のデータは取り出せなかった。(実は、内臓HDDを外付HDDとしてUSB接続できる機器(いわゆるHDDケース)を使って、接続も試みたが、どうにもフォーマットされていないディスクということで、読み込めなかった。win7で作ったDドライブだから、win10では駄目だったのか、そこらへんはよくわからなかった。一方、現状のPCのDドライブを、一度外してから再度接続したら、それはちゃんと読み込めた。よくわからん)
というわけで、メモリ交換、グラボ接続ぐらいしかPCの中身はいじくれなかったけれども、内臓HDD交換(接続)というスキルも手に入れたッ! レベルアップだ!(しょぼい)
もう壊れたと思ってダメもとで色々いじくったけれども、意外と壊れないときは壊れないもんだな、パソコンさんよ。静電気で駄目になるとかよく聞くけど、もう素手でべたべたいろんなとこ触ってたよ。(まぁ端子部分はさすがに気を使ったが……)
まぁ、なんというか、いろいろと面倒だとかイライラしたこととかを書きたいと思っているのだけれども、取り敢えずここまでにしておこう。なににせよ体調が完全ではないし、何分疲れた……。
(そして本来やろうと思っていたことは何一つできていないのである)
面倒なことのオンパレード
最近面倒な出来事が続いている。ひとまず、少しだけ落ち着いたのはこの時間だ(22時)。その面倒なことを一つずつ書いていこうかとも思ったが、それ自体が面倒な作業になるだろうから、やはり、いつもどおり思いつくままに書いていこう。
まず、体調がよくない。おそらく、風邪だろう。体調が悪いながらも、仕事はまってくれずに、次から次へと舞い込んだ一週間だった。それでも、何とか乗り越えることができた(いやもちろん、来週や後ろに回しただけではないかということも言えるけれども、それでも、一週間は終わったのだ)。
次に、所有しているオートモービルの電子機器の調子が良くない。かれこれ、もう5年以上も使っているので、そろそろ交換の時期かもしれないのだが、出費に頭を悩ます。
所用ででかけるも、諸事情で引き返すはめになり、二度手間になる。
会社での仕事内容プラス人間関係における難儀な事態にも頭を悩ます。どうにも、難しい、この「難しい」ということは、後ほど触れる可能性がある。
さらに、パソコンの調子が悪くなった。これが決定的に僕を落ち込ませた。何せ、この土日は、手がけるサイトの改築工事及び、寄せられたコメントへの返信、小説の書き進めなど、色々とやろうと思っていたのだ。金曜日、遅い時間に帰宅しつつ、さぁ、少しでも作業を進めるぜ! とPCのスイッチを入れる。「ASUS」(マザーボードのロゴ)が表示されてから、一向に進まない。
前にSSDクラッシュにより修理に出したばっかりで、また故障か、と思う。
取り敢えず、ファンの誇りを取り除き、簡易的に清掃をする、駄目。
電源プラグを抜いて放電を試したり、グラフィックボードを抜いて、オンボードで動くか試し、駄目。
友人が、マザーボードのロゴもでないなら、HDDのせいじゃなくて、メモリとかのせいじゃない? とアドバイスをくれる。
メモリの接触不良ということもあるので、一度抜いてから差し込む。ビープ音が鳴り響く。「ビービー、ビービー」。びっくりする。どうやら、メモリがちゃんとはまっていなかった模様。メモリを指さない状態で電源スイッチ押すと、激しいことになることが分かる。(メリット1)
HDDも全部抜いてみる。駄目。HDDを抜いても、マザーボードのロゴ(ASUS)までは表示されることが分かった。(メリット2)
もうこりゃ駄目だ、買い替えだな、と諦めたところ、友人がいってた、メモリとかのせいじゃないか、ということを思い出し、ダメもとで、CMOS電池を外してから、しばらく(90秒)放置し、再度つけてみる。……動いた!!(メリット3)
※CMOS電池とは上の画像の赤丸部分。コンセントからの電源がなくても、マザーボードに電気を供給して、時刻同期とか保っている。縦置きのまま外したらカシャっと落ちて、電源ユニットの中に入って焦ったのは内緒。
※参考になったサイト「BIOS初期化」
SATAケーブルで内臓HDD追加
で、それとなくパソコンのオーバーホールになったので、以前のデスクトップPCから抜き取っておいたDドライブに使ってたHDDもくっつけてみようと思った。しかし、さすが素人、Dドライブだけ抜き取って、ケーブルを取っておくのを忘れていた。電気屋に走る。SATA(シリアル・ATA)ケーブルを購入する。600円ぐらいだった。
上の図の青い線がSATAケーブル。上の赤丸がマザーボード側のSATAの接続端子。下の赤楕円の方に、内臓HDDのスロットがあり、接続されている。
結果、問題なく認識された。しかし、何故かフォーマットが要求されてしまい、中身のデータは取り出せなかった。(実は、内臓HDDを外付HDDとしてUSB接続できる機器(いわゆるHDDケース)を使って、接続も試みたが、どうにもフォーマットされていないディスクということで、読み込めなかった。win7で作ったDドライブだから、win10では駄目だったのか、そこらへんはよくわからなかった。一方、現状のPCのDドライブを、一度外してから再度接続したら、それはちゃんと読み込めた。よくわからん)
というわけで、メモリ交換、グラボ接続ぐらいしかPCの中身はいじくれなかったけれども、内臓HDD交換(接続)というスキルも手に入れたッ! レベルアップだ!(しょぼい)
もう壊れたと思ってダメもとで色々いじくったけれども、意外と壊れないときは壊れないもんだな、パソコンさんよ。静電気で駄目になるとかよく聞くけど、もう素手でべたべたいろんなとこ触ってたよ。(まぁ端子部分はさすがに気を使ったが……)
まぁ、なんというか、いろいろと面倒だとかイライラしたこととかを書きたいと思っているのだけれども、取り敢えずここまでにしておこう。なににせよ体調が完全ではないし、何分疲れた……。
(そして本来やろうと思っていたことは何一つできていないのである)
今日の一言「つかれたー」「ものすごくぐちゃっと書きたくなった」
イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
リアリティ
内容の無い記事は書きたくないが、まとまった時間が取れないので、つらつら徒然に書く。イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
個々人の現実感
一方、では僕は、何故ガンスリンガーガールを面白いと思うのか。(ただし、アニメ二期を除く。そしてこれがそもそも、今回の話題のポイントにもなりえる)ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
条件付けの理由
僕がガンスリンガーガールの現実感(リアリティ)をそれほど意識しなかったのは、次の理由が大きい。それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
つれづれ
ああ、……つれづれ、特に考えないで書いたので、よく分からない意見になったろう。というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
学歴コンプレックス
28年度で、東大の入学者総数は、全学部で約3000人である。しかし、その中でも優劣はある。学部間の優劣もあるだろう。ゼミの優劣もあるだろう。そもそも、世界規模で見たら、東大のランクも一位ではない。(※)そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
一般的コンプレックス
僕は基本的に学歴コンプレックスはないのだけれども、たまに、気になることがないわけでもない。自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。あーなるほどなぁと、思う。確かに、文系(人文科学)であっても、「研究」では、とにかく主観が悪とされ、排除される。客観的、論理的な思考が要求される。
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
論理性の放棄
あー。最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
たまたまをルーチン化
が。その、上手くいった条件を使って利益を出すのは、今後、ロボットとか、AIとかいわれる技術によって、可能になっていく、なっている、のである。ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
今日の一言「つらつら無為に書いていこう」「これはイライラ対処の記事である」
宣伝:創作進捗グラフ作成ツールVer0.3として、文字数カウント機能等を追加しました。
浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)
そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
無量寿経の中に、極楽の描写がある。
ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。
その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。
そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)
宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。
仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。
宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。
なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。
最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。
そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。
……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)
凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。
しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
もっと前には、
基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。
ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
それがよく分からなくなっているのである。
いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。
仰る通り。
言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。
欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)
ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。
欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。
自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。
……。
気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、
・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。
などと否定語が浮かぶ。
時間切れである。
しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。
結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。
「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」
というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)
本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。
やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。
(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)
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浄土信仰について
僕は、「仏教すげーぜ!」的なことをたまに書いている。それは本心なのだけれども、儀式的な仏教や極楽浄土を説くような信仰、全部が全部好きというわけではない。浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)
そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
無量寿経の中に、極楽の描写がある。
「無量寿国のもろもろの天人、衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡・微妙の音声・所居の舎宅・宮殿・楼観、その形色に称う。高下大小なり。61あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随いて、念に応じてすなわち至る。」無量寿国(極楽浄土)は、清く美しく、着るものも食べるものも住むところも、心の思うがままに現れる、と。とにかく幸せなところなのだと。
ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。
その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
極楽浄土に至る道
諸行無常諸法無我とは、世のモノ・コトは永遠不変絶対なものはなく、移り変わっていくものである、ということである。で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。
そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)
宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。
仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。
宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。
なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。
欲望を満たし続ける一切皆苦
さて。ところで、今、僕はとてもイライラしているのである。最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。
そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。
……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)
凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。
しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
とにかく、気付いたことがある。いや、分かったことだ。10年ぐらい前の文章である。楽な仕事なんてないし、楽をして生きられることなんてないのだ。この世の中は苦しみに満ちている。どこまでいったって、ずっと永遠に苦しみが続くわけだ。なんて、仏教の一切皆苦と同じことなのだけど、言葉じゃなくて、実感として分かったよ。公務員なら楽、先生ならきついとか、そんなことを考えるようではもう 自殺 するしかない。死ぬしかないのだよ。分かってたんだけど、忘れてた。思い出したよ。人生は、特に、ボクの人生は苦しみしかないのだ。その苦しみの中で、どう苦しみと付き合っていくのかを、それを考えるしかなかったのだ。
――生きる意味を徹底して考える(2007/2/3)
もっと前には、
こんなことも言っている。欲望が満たされなくなったとき、人は悩むのだ。苦しむのだ。辛いのだ。結局人は、死ぬ。その直前まで、欲望を満たし続けなければならないのである。人の個性というのは、すなわち欲望の違いということができるであろう。無償の愛の典型とされるボランティア活動さえも、「人の役に立ちたい。」という欲望の域を抜けていないのだ。人はもっと、正直になるべきなのだ。もっと自分の利益を積極的に肯定し、追求してよいのだ。その個々人の欲望を調整するのが国家であるといえよう。
――生きる意味を徹底して考える(2004/11/22)
基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。
ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
それがよく分からなくなっているのである。
自己言及的な生き方
そこで、現在新たに提示しているのが、フランクルさんとかが仰る、「人は皆、生きているだけで意味があるのだ」ということ。いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。
仰る通り。
言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。
欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)
ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。
欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
欲動
精神分析学の用語。人間を常に行動へと向ける無意識の衝動。フロイトによれば、心的なものと身体的なものとの境界概念と位置付けられ、自己保存欲動と性欲動(のちに生の欲動と死の欲動)とに二分された。――大辞林
無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。
自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。
……。
気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、
・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。
などと否定語が浮かぶ。
全然書きたいことに到達しない
イライラに任せて書いては、到底まとまるはずはなかった。時間切れである。
しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。
結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。
「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」
というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)
本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。
やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。
(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)
今日の一言「実体のある言葉と修辞的な言葉の違いに注意」「言葉で表現される世界と実感の世界との違いにも注意」
さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)
不安の概念
この記事においては、そもそも、不安(≒焦燥)とは何かを定義し、それに対しての対応策について述べることとする。さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
実感の表現
上の小見出し(節)において、不安と焦燥の、表層的な定義については明らかにできた。不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
不安を何故避けようと思うのか
僕らは、何故、不安を忌避するのだろうか。安心を求めるのだろうか?それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
恐れの根源への旅
もう一つ具体的な事例で考えてみよう。「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
不安への対処
ここまで書いてくると、不安への対処がだんだんとわかってくる。その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
思考次元
僕らの思考は、単一のものに向いていると思いきや、実は何層もの次元が生じている場合がある。しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
漠然とした不安
今日は、この辺で締めくくろうと思うが、最後に、話をもう一度「不安」に戻そう。ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)