今日の一言「短いですが暗い内容のため部屋を明るくして心が落ち着いているときに読みましょう」
それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。
まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。
・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか
結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)
・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる
・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)
・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)
・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)
・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。
しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。
誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。
まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。
そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。
で、まぁそれはよいとしてだ。
仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。
なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。
人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。
にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。
あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?
共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。
まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
過去の自分、厳しい(かっこわらい)。
うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。
先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。
そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。
先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。
でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。
まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。
この相反する感情! アンビバレンス!
ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。
意味とは自ら付与するものだろうよ!
そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?
こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。
しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。
(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)
暗黒モード
以前、2016年の12月に、暗い記事を書いた。危険なくらい暗い日記(暗黒モード)それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。
まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。
・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか
暴力の人類史
暴力の人類史、下巻を超スピードでまとめの部分のみ読む。結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)
・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる
・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)
・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)
・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)
・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。
学術的な意味と実存的な意味
人類、暴力はよくないという方向に進んでいるということである。よいことだ。しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。
誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。
まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。
そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。
で、まぁそれはよいとしてだ。
仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。
かわいそうという感情へのいら立ち
最初に挙げた話のネタに戻るが、「かわいそうな人」や「かわいそうな動物」をみて、「何々しよう!」というロジックが嫌いである。なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。
人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。
にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。
あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?
共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。
代替不可能性について
なんだか、暴言を単に書き連ねただけな気がする。まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
昔の記事でも、煽られている。
……。おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
過去の自分、厳しい(かっこわらい)。
うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。
先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。
そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。
先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。
でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。
とにかくイライラするぜぃという記事
はぁ……。まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。
この相反する感情! アンビバレンス!
ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。
この記事意味あるの?
意味?意味とは自ら付与するものだろうよ!
そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?
こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。
しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。
(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)
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今日の一言「思い出って良いものとは思えない」「振り返りたい過去などない」
そしたら、古い携帯が出てきた。
ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。
ついた。
もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。
――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。
とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。
とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。
せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。
感傷。
今を生きる人には役に立たない感情。
よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。
それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。
そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。
そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。
話しが分かりにくくなった。
なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。
僕は人間が嫌いだ。
どちらでもあって、どちらでもない。
こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。
ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。
答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。
僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。
でも。
そう、こんなとき。
突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。
積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。
そんな気持ちに浸りたいだけ?
自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?
いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。
人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。
――でも。
それでも、無常だなって、思う。
僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。
とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。
親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
人は、環境になれてしまう。
僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。
でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。
今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。
そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。
楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。
いっぱい、いろんなことがある。
仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。
それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。
でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。
すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。
すべての物や、事や、人は、「ある」。
ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。
それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。
何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。
慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。
――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。
だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?
いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。
いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。
好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。
じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。
なぜか?
できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。
みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。
でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。
僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。
(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)
古い携帯が出土した
最近珍しく、早く帰ることができたので、部屋の片づけを実施。そしたら、古い携帯が出てきた。
ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。
ついた。
もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。
――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。
とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。
とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。
ある人のメール
あー。せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。
感傷。
今を生きる人には役に立たない感情。
よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。
それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。
そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。
そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。
話しが分かりにくくなった。
なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。
他者の痛みが分かる人間
僕は人間が好きだ。僕は人間が嫌いだ。
どちらでもあって、どちらでもない。
こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。
ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。
答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。
僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。
でも。
そう、こんなとき。
突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。
積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。
そんな気持ちに浸りたいだけ?
自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?
いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。
人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。
――でも。
それでも、無常だなって、思う。
親の死
僕の友人の何人かは、親がいなかったりする。僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。
とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。
親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
人は、環境になれてしまう。
僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。
でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。
今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。
無常
素晴らしいものや、ことや、人はたくさんあったり、いたりするという前提で。そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。
楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。
いっぱい、いろんなことがある。
仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。
それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。
でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。
すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。
すべての物や、事や、人は、「ある」。
ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。
それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。
中学生ぐらいならありかな
とまぁ、こういった文章が、彼女にふられたばかりの、中学生、高校生ぐらいならありかもしれない。何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。
慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。
――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。
だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?
いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。
いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。
感傷に浸っている?
僕は、文章を書くのが好きだ。好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。
じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。
なぜか?
できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。
みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。
でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。
僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。
(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)
今日の一言「良い人間になりたいと誰もが思うはずなのに、気づいたら悪いことをなしている」「誰かを喜ばせることをしたいけれども、その誰かも、それが何かも分からない」
I do. 好きな曲の一つ。
近況。
新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
仕事、帰宅時間、遅い。
まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。
あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。
とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。
多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。
しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。
そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。
……。
300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。
仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
……。うーむ……。
幻想ギネコクラシーが届く。
読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。
何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。
株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。
じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。
ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
何だか、上手く、いかないし。
俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。
複雑性。
地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。
恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。
遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。
地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。
むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。
悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。
先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。
ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。
英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。
自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。
そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。
僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。
その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。
僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。
迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。
空っぽ感。
実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。
ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。
その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。
だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。
ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。
けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。
そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。
まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。
じゃあ酒は? とか。
ゲームは?
なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?
いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。
なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。
もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。
そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。
それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。
ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。
(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)
I do. 好きな曲の一つ。
近況。
新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
仕事、帰宅時間、遅い。
まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。
あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。
とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。
多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。
しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。
そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。
……。
300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。
仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
……。うーむ……。
幻想ギネコクラシーが届く。
読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。
もはや二次元を飛び出すべきか
まーそもそも、22時過ぎに帰ってきて、風呂入ってなんなりしていると簡単に日付変更になるので、平日に何かクリエイティブなことを、または、消費を愉しむってことは難しいのかもしれない。何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。
株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。
じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。
ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
何だか、上手く、いかないし。
そして次の日
上まで書いてつまらなくてやめた。俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。
複雑性。
地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。
恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。
遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。
地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。
むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。
悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。
先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。
ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。
英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。
良い人間になりたい
正しい人になりたい。誰かの役に立つ人間になりたい。良い人間になりたい、と、その考えに反対する人は少ないだろう。自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。
そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。
僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。
その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。
僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。
迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。
空っぽ感。
実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。
仕事が忙しい、プライベートが忙しい
忙しい、いやなことがある、そんな状態が続くと、どうにも、精神的にすり減ってくるわけであるが、そのときに、何か大きな目標とか、「たのしいこと」ってのがあれば、きっと人は生きていけるんだと思う。ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。
その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。
だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。
ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。
けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。
そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。
まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。
じゃあ酒は? とか。
ゲームは?
なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?
人の残虐性は二次元のせいか?
話がすげーどうでもいいというか、変わっていくが、表現の規制に関する政策については、僕は基本断固反対する。(政治的主張だ!)いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。
なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。
もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。
そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。
それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。
ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。
(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)
今日の一言「途中まで書いてたの消えた」「眠れないから書こう」
友人からアドバイスをもらい、メモリの抜き差し(およびアルコール系で拭き清掃)を実施。だめ。8GB(DDR4)×2構成だが、×1にして起動。あ、動いた。
原因は、メモリの可能性もある、が、8GB(DDR4)×2は、1万5千円ぐらい。マザーボード不具合の可能性もあるのであれば、メモリを試しで購入するというのはリスクが怖い。
そんなこんなで、24時オーバー。
何だか意識が朦朧とし、まとめ系サイトのサーフィンをしてしまった1時間半は虚しき哉。
先日の、結果を出さなきゃだめだ、という記事は、あれは何だったのか。イライラして書いた、後悔はしていない……いや本当か?
たまに、むしゃくしゃしながら書いた記事が、案外、あとから読んで(同じタイミングでむしゃくしゃしているときは)面白かったりするのだけれど、今は到底読みたいと思わない記事である。
映画のロボジーを見た。結構面白かった。中盤のダレ感が気になって、飛ばしてみようかと思ったが、このダレダレの状態から、どうやって後半オチを付けるのだろうかと気になって、頑張って見続けた。なるほど、よい感じでまとめてきたな、といった感じだった。ヒロイン的な子が仲間になって一緒に研究をするようになってハッピーエンド、といったところから、結局同じ道を辿ることになってしまうという二段階オチにもなっていて、よかったと思った。
とかって書いていたら、途中まで書いていた記事を操作ミスで消してしまった。これは、PC不具合とか関係なく、完全に僕のミスだけれど、ショックはショックだ。
街中でトラブルに巻き込まれたり(かなり嫌な思いをした。が、まぁ後続の生活に影響するレベルではなかった)もするし、最近、ツキまわりがよくない気がする。
けれども、僕に言わせたら、つらい人生、どうしてあなた方は、ちっぽけな「幸せ」的な奴で満足しつつ生きていられるのですか? といった感じである。これは傲慢な感情なのか?
死刑執行前の気持ちは如何なるものだろう。先日、そんな感じの夢をみたと仰っていた方がいた。
いやぁ相当悪夢だと思う。
僕は、「死ぬ」夢をみたことがある。死ぬというか、「死んだ」夢だ。死者になった夢だ。意識だけはある、だが、死んでいるので、何もできない、何も見えない。何も感じられない。それでも、おぼろげな意識だけはある。自分が誰かも思い出せない、何もできない、身体の感覚も無い、それでも、意識だけはある。
これ、僕が生きてきた中で、これ以上の悪夢はない。まだ、上司にいびられたり、恋人にふられたり、借金を背負ったりとか、そんな夢の方がましだ。それらのつらい出来事は、まだまだ救いがある。「死」という救いがある。
死んだ夢には、救いがない。完璧な閉塞。完全なる絶望。
僕は以前、「死は無であって欲しい」と書いた。この意味は、意識だけが残ってしまった場合、これほど恐ろしいことはないからだ。ネットで、10億年ボタン? とか、そんな動画だか記事だかがあったと思う。あれもものすごく怖い。
概念的に、「意識の残った死」ほど怖いものはないと思う。
ここ数年で、大切な人の死をまた経験したけれども、本当に、安らかに眠って、いやその眠りとは、決して夢などみないように、深いノンレム睡眠であって欲しいと思う(いやはや、ネットでちょっと調べたら、ノンレム睡眠中でも夢は見ているのだそうだ、それが覚醒したら思い出せないだけだということだそうだが、まったく、いろんな説があるものだなぁ)。
最近うまい具合に生活がコントロールできていない(アンコントロール的な事象が多く起こっているせいだ)。
人は、コントロール感によって、生きる実感を得ているという表現も聞いたことがある。
自分の人生は、自分でコントロールできるということ、これが重要なことなのだ。そして、そのコントロールの範囲や多寡については、「お金」というものが大きくかかわってくる(人脈的なのもお金による! 社会関係資本! なんたることだ!)。
ので、なんだか夢とか希望とか、目標とか目的とかない人でも、取り敢えずお金が欲しくなる、というのは、そのコントロール感を得たいからだと言える。それは、本能に近いものである。生きたいという脳神経細胞の本能と、知りたいという本能によってつくり出されているのだろう。
うん、まぁその、コントロールできることも重要だが、取り敢えず、目下、今後、1か月でも、3か月でもいいから、この先々で、とっても面白いようなことが欲しい!
31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳、39歳……と、30代というのはそれほど多くはない。
なんか、35歳でも、40歳でもいいけれども、なんか希望的な、この歳になったらこんなことがある! 的な、楽しいイベントはなかろうか。
入学、卒業、大学デビュー、車、マイホーム、結婚、子ども、まぁ、昔のライフイベント的なのはそんな感じだ。うーむ、どれも魅力がない。全然ない。
で、調べてみると、DELLのエイリアンウェアとか、見た目がかっこよい(ネーミングセンスは好みではないが……)。
そもそも、グラフィックボードは、「黒い砂漠」という3Dゲームをサクサク遊ぶために、GeForce980tiという、当時10万近くした気がする高価な装置を購入したわけだけれども、それが壊れているわけではどうやらなさそうなので、グラボがついていない状態でBTO(カスタマイズ通販パソコン)で購入し、後付けするのもいいかもしれない。
この際、自作を始めてみるのも楽しいかもしれない。
いやいや、そもそも、ホームページの開発環境(PHP言語)や、小説書くだけだったら、サーフェスとか、もっとスマートなPCとかタブレット的な奴でもいいかもしれない。
まぁそんなこと考えて、欲しいものを検討するというのは、ちょっと楽しい。
そう、欲しいものを買う、ということが、あんまり僕はないのだ。
物欲にまみれていなくてよいね、と言われるかもしれない。そんな気もする。だが、やっぱり、この資本主義社会というか、消費社会において、物を買うというのは、楽しいことであるべきなのだ。でなければ、楽しく社会を生きていけないのだ。欲しいものがあるから面倒でも働いて、お金を貯めて、買う。このサイクルが楽しい! って人は、別に「生きる意味」とかどうでもいいんだと思う。
僕も、必要なものは買う。でもそれは、必要にせまられているから買うだけであって、買ったときにカタルシスはない。ただお金が減っただけ。生活が激変するわけでもなく、まぁ変わらない。最新機種や装置になったとしても、いまや、別に感動するほど機能や性能が増えるわけじゃあない。(980tiはもうほとんど主流ではなくなったが、最新のグラボにもそこそこ迫る性能ではある。もっとも、消費電力とかそのあたりの付加要素はいろいろあるわけだが)
まぁ、ここしばらくは、パソコン買うのを検討することを楽しみに当座しのぐとしようかな。
まぁ、しかし、買って結局何をするのか、というと、今と何も変わらないわけで、そういう意味だと、結局、「必要に迫られて買う」程度のことでしかない。
あーなんか、欲しいものないかなぁ。
得たいものでも、成し遂げたいことでも、もらいたい評価でもいい。
なんかないかなぁ……。
ってのは、ほんと、ダメ人間だと思う。そんなこと思うのって、ほんとひどい話だと思う。
そう、そう思って、いつぞやか以前、「ダメ人間」カテゴリのブログ村登録をしようと思ったけれども、どうやら、一般に「ダメ」というのは、ギャンブル依存とか、なんか借金せおったとか、ニートとか、対人恐怖症とか、そういう系統でないと許されないらしい。
ダメ人間にもなれず、意識高い系にもなれず、エリートにもなれず、俺はいったい何なんだ、となる。
普通人間だ。
そう、僕は、ごく普通の、一般大衆、衆生に向けて常に語りかけているのである!!
と書くと、いやいや、お前そもそも、ちょっと変わってるねとか言われたりするだろう、と。
やっぱり、普通なんかじゃあないんじゃないか、と。
じゃあ一体なんなんだ、と。
なんなんだ、というのは、これはこれで一つテーマではあるけれども、それより、目下緊急、喫緊の必要なことは、楽しいことってないかなぁってことである。
(ああ、もう、こんなこと考えてしまうことがそもそも嫌気が指す! なんか違う方向に梶切してから終わりたいが、もう眠い、終わり!)
近況メモ
パソコンの調子が悪い。ASUSロゴから、フリーズ。F2またはDELキーでBIOSセットアップにうつれるが、キーも反応しない。友人からアドバイスをもらい、メモリの抜き差し(およびアルコール系で拭き清掃)を実施。だめ。8GB(DDR4)×2構成だが、×1にして起動。あ、動いた。
原因は、メモリの可能性もある、が、8GB(DDR4)×2は、1万5千円ぐらい。マザーボード不具合の可能性もあるのであれば、メモリを試しで購入するというのはリスクが怖い。
そんなこんなで、24時オーバー。
何だか意識が朦朧とし、まとめ系サイトのサーフィンをしてしまった1時間半は虚しき哉。
先日の、結果を出さなきゃだめだ、という記事は、あれは何だったのか。イライラして書いた、後悔はしていない……いや本当か?
たまに、むしゃくしゃしながら書いた記事が、案外、あとから読んで(同じタイミングでむしゃくしゃしているときは)面白かったりするのだけれど、今は到底読みたいと思わない記事である。
映画のロボジーを見た。結構面白かった。中盤のダレ感が気になって、飛ばしてみようかと思ったが、このダレダレの状態から、どうやって後半オチを付けるのだろうかと気になって、頑張って見続けた。なるほど、よい感じでまとめてきたな、といった感じだった。ヒロイン的な子が仲間になって一緒に研究をするようになってハッピーエンド、といったところから、結局同じ道を辿ることになってしまうという二段階オチにもなっていて、よかったと思った。
とかって書いていたら、途中まで書いていた記事を操作ミスで消してしまった。これは、PC不具合とか関係なく、完全に僕のミスだけれど、ショックはショックだ。
街中でトラブルに巻き込まれたり(かなり嫌な思いをした。が、まぁ後続の生活に影響するレベルではなかった)もするし、最近、ツキまわりがよくない気がする。
死んだ夢
なんか、「生きる意味なんて、考える意味わかりませんけど? かっこワラ」とか仰る方は多い。けれども、僕に言わせたら、つらい人生、どうしてあなた方は、ちっぽけな「幸せ」的な奴で満足しつつ生きていられるのですか? といった感じである。これは傲慢な感情なのか?
死刑執行前の気持ちは如何なるものだろう。先日、そんな感じの夢をみたと仰っていた方がいた。
いやぁ相当悪夢だと思う。
僕は、「死ぬ」夢をみたことがある。死ぬというか、「死んだ」夢だ。死者になった夢だ。意識だけはある、だが、死んでいるので、何もできない、何も見えない。何も感じられない。それでも、おぼろげな意識だけはある。自分が誰かも思い出せない、何もできない、身体の感覚も無い、それでも、意識だけはある。
これ、僕が生きてきた中で、これ以上の悪夢はない。まだ、上司にいびられたり、恋人にふられたり、借金を背負ったりとか、そんな夢の方がましだ。それらのつらい出来事は、まだまだ救いがある。「死」という救いがある。
死んだ夢には、救いがない。完璧な閉塞。完全なる絶望。
僕は以前、「死は無であって欲しい」と書いた。この意味は、意識だけが残ってしまった場合、これほど恐ろしいことはないからだ。ネットで、10億年ボタン? とか、そんな動画だか記事だかがあったと思う。あれもものすごく怖い。
概念的に、「意識の残った死」ほど怖いものはないと思う。
ここ数年で、大切な人の死をまた経験したけれども、本当に、安らかに眠って、いやその眠りとは、決して夢などみないように、深いノンレム睡眠であって欲しいと思う(いやはや、ネットでちょっと調べたら、ノンレム睡眠中でも夢は見ているのだそうだ、それが覚醒したら思い出せないだけだということだそうだが、まったく、いろんな説があるものだなぁ)。
楽しいこと探そう
ああ、もう、駄目だ駄目だ!最近うまい具合に生活がコントロールできていない(アンコントロール的な事象が多く起こっているせいだ)。
人は、コントロール感によって、生きる実感を得ているという表現も聞いたことがある。
自分の人生は、自分でコントロールできるということ、これが重要なことなのだ。そして、そのコントロールの範囲や多寡については、「お金」というものが大きくかかわってくる(人脈的なのもお金による! 社会関係資本! なんたることだ!)。
ので、なんだか夢とか希望とか、目標とか目的とかない人でも、取り敢えずお金が欲しくなる、というのは、そのコントロール感を得たいからだと言える。それは、本能に近いものである。生きたいという脳神経細胞の本能と、知りたいという本能によってつくり出されているのだろう。
うん、まぁその、コントロールできることも重要だが、取り敢えず、目下、今後、1か月でも、3か月でもいいから、この先々で、とっても面白いようなことが欲しい!
31歳、32歳、33歳、34歳、35歳、36歳、37歳、38歳、39歳……と、30代というのはそれほど多くはない。
なんか、35歳でも、40歳でもいいけれども、なんか希望的な、この歳になったらこんなことがある! 的な、楽しいイベントはなかろうか。
入学、卒業、大学デビュー、車、マイホーム、結婚、子ども、まぁ、昔のライフイベント的なのはそんな感じだ。うーむ、どれも魅力がない。全然ない。
魅力のある生き方
パソコンの調子が悪い。で、調べてみると、DELLのエイリアンウェアとか、見た目がかっこよい(ネーミングセンスは好みではないが……)。
そもそも、グラフィックボードは、「黒い砂漠」という3Dゲームをサクサク遊ぶために、GeForce980tiという、当時10万近くした気がする高価な装置を購入したわけだけれども、それが壊れているわけではどうやらなさそうなので、グラボがついていない状態でBTO(カスタマイズ通販パソコン)で購入し、後付けするのもいいかもしれない。
この際、自作を始めてみるのも楽しいかもしれない。
いやいや、そもそも、ホームページの開発環境(PHP言語)や、小説書くだけだったら、サーフェスとか、もっとスマートなPCとかタブレット的な奴でもいいかもしれない。
まぁそんなこと考えて、欲しいものを検討するというのは、ちょっと楽しい。
そう、欲しいものを買う、ということが、あんまり僕はないのだ。
物欲にまみれていなくてよいね、と言われるかもしれない。そんな気もする。だが、やっぱり、この資本主義社会というか、消費社会において、物を買うというのは、楽しいことであるべきなのだ。でなければ、楽しく社会を生きていけないのだ。欲しいものがあるから面倒でも働いて、お金を貯めて、買う。このサイクルが楽しい! って人は、別に「生きる意味」とかどうでもいいんだと思う。
僕も、必要なものは買う。でもそれは、必要にせまられているから買うだけであって、買ったときにカタルシスはない。ただお金が減っただけ。生活が激変するわけでもなく、まぁ変わらない。最新機種や装置になったとしても、いまや、別に感動するほど機能や性能が増えるわけじゃあない。(980tiはもうほとんど主流ではなくなったが、最新のグラボにもそこそこ迫る性能ではある。もっとも、消費電力とかそのあたりの付加要素はいろいろあるわけだが)
まぁ、ここしばらくは、パソコン買うのを検討することを楽しみに当座しのぐとしようかな。
まぁ、しかし、買って結局何をするのか、というと、今と何も変わらないわけで、そういう意味だと、結局、「必要に迫られて買う」程度のことでしかない。
あーなんか、欲しいものないかなぁ。
得たいものでも、成し遂げたいことでも、もらいたい評価でもいい。
なんかないかなぁ……。
ってのは、ほんと、ダメ人間だと思う。そんなこと思うのって、ほんとひどい話だと思う。
そう、そう思って、いつぞやか以前、「ダメ人間」カテゴリのブログ村登録をしようと思ったけれども、どうやら、一般に「ダメ」というのは、ギャンブル依存とか、なんか借金せおったとか、ニートとか、対人恐怖症とか、そういう系統でないと許されないらしい。
ダメ人間にもなれず、意識高い系にもなれず、エリートにもなれず、俺はいったい何なんだ、となる。
普通人間だ。
そう、僕は、ごく普通の、一般大衆、衆生に向けて常に語りかけているのである!!
と書くと、いやいや、お前そもそも、ちょっと変わってるねとか言われたりするだろう、と。
やっぱり、普通なんかじゃあないんじゃないか、と。
じゃあ一体なんなんだ、と。
なんなんだ、というのは、これはこれで一つテーマではあるけれども、それより、目下緊急、喫緊の必要なことは、楽しいことってないかなぁってことである。
(ああ、もう、こんなこと考えてしまうことがそもそも嫌気が指す! なんか違う方向に梶切してから終わりたいが、もう眠い、終わり!)
今日の一言「言葉だけの人間は信用されない」「言葉で表現できない場合は評価されない」
むさくるしい、こんな、自己啓発的な冒頭は、僕の嫌いなところであるけれども、いつもどおり本音本心マックスファイアーでいこう。
・エロマンガ先生のアニメを少しだけ見たが、結構面白そう
・クレヨンしんちゃんのアマゾンオリジナル作品を見たが、エイリアンと戦う奴はいまいちだった(とはいえ結局ENDING気になって最後まで見てしまった)が、おもちゃウォーズは面白かった。なんというか、おもちゃ系に僕は弱いのかもしれない。涙がこぼれた。
・PCの調子がすこぶる悪い。先日、CMOS初期化(電池はずして付け直し)したらなおったと書いたが、結局またASUS(エイスースと読むらしい)のロゴでフリーズ。CMOS電池をはずすとまた動くけれども、毎回グラボのネジはずして、グラボはずして……とかやってられない。「CR2032」というマザーボード用の電池を交換してみる。これでしばらくよくなるといいのだが……。
おっと、近況のメモはともかく、そう、結果が大事だ。
なんというか、僕は、言葉を優先する……(思考で現象をとらえようとする)のだけれども、いや、それはまぁ今回の記事と直接的に関係しないが、結局のところ、何らかの「結果」がない場合、他者にはゼロとしかうつらない、ということだ。
なるほど、あるコンサルタントの話しで、ある黒い会社で、手を止めて考えているような社員がいたら、「さぼるな! 働け!」と怒号が飛び交う会社があったという。いやはや、ライン仕事だったり、パンチャーの仕事じゃあないのだから、タイピングの指がとまって、画面とにらめっこする時間だって必要だろう。
ただ、そんな極端なことはともかくとして、何らか、「かたち」に見えるようにならなければ、人は、人を、価値ある存在としてみなさないのである。
いやいや、そんなことないよ! 生きているだけでみんな、価値があるんだ!
なるほど、そういった標語は必要だろう。確かに、価値あることだけを絶対視するような社会システムは、遊びのないアクセルやブレーキペダルのようなもので、危険極まりないだろう。
が、それは概念的な話であって、実際問題、「無価値な人間」という存在が、尊敬されたり、大事にされたりすることがあり得るだろうか?
否。
まず、この前提は認めるべきである。
いやはやすぐさま、その「価値」とは何ぞや、という問いが浮かぶのであるが、それはここではわきに置いておこう。取り敢えず、「価値がある」ことは重要だ。
さて、般若心経においては、「舎利子よ、よく聞きなさい。この世は、空(縁起)なのですから、生まれるでもなく、滅するでもなく、清いでもなく汚いでもなく、増えるでもなく減るでもないのですよ」と言われるが、まぁ、まちたまえ。
美人と、ブスと、どちらがよいか?
この二者択一は、美人、である。ここで、「性格の悪い美人」とか、「内面は美しいブス」とか、そんな形容は一切無視する。取り敢えず、美しいものと、汚いもの、どちらがいいのか? きれいなものだ、当たり前だ!
その当たり前を、まず前提とおく勇気があるか、否か。
そんな、当たり前だけど、みんな中々おおっぴらには言えないこと。それらを、まず根底としておくことが重要である。その前提がないと、言葉は、創造は、システムは、どうにもおかしなことになる。
そのうえで。そうはいっても、「美人」といったって、人の好き好みは様々だとか、効率を重視して中間管理職を省いたら組織が停滞するとか、そういう積み重ねた議論がようやく生じるのである。
だが、議論が積み重なればなるほど、その「根本的な価値観」がなおざりになっていく。
「お客様のためです!」「国民のためです!」
営業とか、政治家とかは言う。それは本心かもしれない。が、その根本的な価値観は何だ? もうけたい、お金が欲しい、人から尊敬されたい、認められたい……結局、そんなマズローの五段階欲求……いやもっといえば、性欲食欲睡眠欲の三大欲求に還元されてしまうようなものかもしれない。
ここで、頭のいい人たちは、「そうはいっても」という。「そうはいっても、たかだか三大欲求と、人のためになりたいという、承認欲求や自己実現欲求とは、次元が違うのだ。愛のあるセックスは、ただの生殖行為とは違うのだ」と……。
メメント・モリ!
ああしかし、すべての芸術は、「死」という事態からの、単なる逃避でしかないと言ったある哲学者(?)よ。彼のその言は、一瞬で人々の息の根を止める呪文である。悪魔の囁きである。禁断の魔術だ。
しかし光あれ! しかし屈しはしない。人の、生きたいと思う心、良き存在でありたいと希うその魂の叫びは、邪知妄執を振り払うのである。
「結果を出せる人間が信用を得る」
だから、何だ?
結果とは何だ? それがどうした? 当たり前ではないか?
いやそもそも、信用とは何だ? 誰からの信用だ? 何のために必要なのか?
ネットサーフィンしていたら、胸糞悪い記事にであった。若いころは遊びほうけて、ちやほやされて、お金もあって好き放題やっていたが、40歳過ぎて、なんか人生うまくいかなくなった、死にたい死にたい……とか。
はぁ? 俺は若いころからずっと悩み考えてきて、今も生きたいか死にたいかよくわからないってのに、やっぱり、世の中の人たちは、それなりに楽しんで生きてるってんだな。そいでもって、お金もなくなって、保険もなくて、資産も無くて、ただ、年を取ったら年金くれ、金をくれ、パチンコに行かせてくれとか、ふざけんのもたいがいにしやがれ!! ……というよりも、いやしかし、「凡人」としての生き方としてはまさしく、いや本当に正しい庶民としての生き方なのかもしれない。
俺もまぁ、本当に、ひがみかもしれないが、「好き勝手」生きてみたかった。思考何て、そんな金にもならない、只周りの人から変人扱いされるようなモノなんて、好き好んで手に入れたわけではない。
そうしなければ、現実と、自分との存在が、距離感が、規定がおかしくなってしまっていた。少なからず、調整する必要があった。僕は、「僕」としての存在であることを許されなかった。
とかって表現。いかがだろう? 誰かの心に、響くことはあるのではなかろうか。
いや、上の表現が「ウソ」なわけではないけれども、じゃあ、普遍的に僕の心を完璧に、余すことなく表現できたかというと、きっとそうではないのだ。あくまで、「表現」に過ぎないのである。
それでも。
16歳ぐらいの若い男の子に、何だか学校でもうまくいかなくて、勉強も友人も恋人とも上手くいかなくて、それでも、生きてかなきゃいけないけれども、何だか違和感がずっとまとわりついている少年に、少しは、「あぁ、こんな人もいるんだな」って、思ってもらえるんじゃなかろうか。
いやもちろん、「うわ、おっさんきめえ(わら)」とか思う少年も多いことだろう。
で、これは、エピソードなのだけれど、上のようなことも、「結果」といっていいんじゃないかと思っている。
上のようなことというのは、僕の書いた文章もそうだし、僕を胸糞悪い気分にさせてくれたブログ記事もそうだ。それも「結果」だ。
つまり、「結果」というのは、世界に、目に見える形にアウトプットすることである。
テストの点数をとるのも結果。
プレゼンをしてお客さんを納得させるのも結果。
資料をつくるのも結果。
プログラムを書いてツールやアプリを作るのも結果。
小説を書くのも結果。
ブログを書くのも結果。
人を笑わせるとか、情報を伝えるとか、それらも全部結果、ではある。
だが、僕が言いたいのは、できるだけ、「カタチ」にのころものを重視したいということである。
コピペできる情報ではなく、自分だからこそできること。
僕は、私は、こんなことが「できる」人間なんだと。そういった積み重ね、総体こそが、人、そのものだと思う。
そして、その「できること」が多くなっていったとき、それを紐づけて、より価値を高めてくれるのが、「言葉」であるのだ。
「私は、他人を幸せにすることができます」といったら、怪しげな宗教だが、マザーボードに使用するコンデンサーを作って、みんなが使うパソコンやスマホの基盤を支えることで、人々に笑顔を与え幸せにしますとか、……例が陳腐でアホらしいけれど、でも、なんというか、「できること」を、他者に伝わるように変換して(言葉にして)表現するということは重要である。
そして今日も僕は筋トレを少しだけ続ける。
体調不良だった数日間はできなかったが、それは免除規定該当のため問題なし。かれこれ、一応230日以上続けられている。このように、そのやってることの中身はともかく、「続けられること」というのも、立派な「できること」の一つである。
そして、「愚痴を言うこと」も「できること」である。
そう。何らかの生産行為は、それがポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、良いことでも悪いことでも関係ない。全部「結果」だ。
で、その「結果」の先に、どういったことが発生するのか。
その発生したことに対する原因を担うというのが、「責任を負う」という言葉の意味である。
そして僕は、この記事では、ポジティブなことと、ネガティブなこと、良いこと悪いこと、美人ブス、きれいなもの汚いものが、具体的にどんなものか、何なのかは一切示していない。
繰り返しになるが、この記事は、「結果」が大事である、という主張までである。
この意味についてくんでくれた未来の僕に、次に書いた方がよいことの判断を託す。
(最初、「目的・目標」カテゴリだったけど、途中から「イライラ対処」カテゴリに変更になった。理由はいわずもがな。ああ……面倒なことが多いものだ……)
バランスよりもまずは根源
結果にコミットしよう。むさくるしい、こんな、自己啓発的な冒頭は、僕の嫌いなところであるけれども、いつもどおり本音本心マックスファイアーでいこう。
・エロマンガ先生のアニメを少しだけ見たが、結構面白そう
・クレヨンしんちゃんのアマゾンオリジナル作品を見たが、エイリアンと戦う奴はいまいちだった(とはいえ結局ENDING気になって最後まで見てしまった)が、おもちゃウォーズは面白かった。なんというか、おもちゃ系に僕は弱いのかもしれない。涙がこぼれた。
・PCの調子がすこぶる悪い。先日、CMOS初期化(電池はずして付け直し)したらなおったと書いたが、結局またASUS(エイスースと読むらしい)のロゴでフリーズ。CMOS電池をはずすとまた動くけれども、毎回グラボのネジはずして、グラボはずして……とかやってられない。「CR2032」というマザーボード用の電池を交換してみる。これでしばらくよくなるといいのだが……。
おっと、近況のメモはともかく、そう、結果が大事だ。
なんというか、僕は、言葉を優先する……(思考で現象をとらえようとする)のだけれども、いや、それはまぁ今回の記事と直接的に関係しないが、結局のところ、何らかの「結果」がない場合、他者にはゼロとしかうつらない、ということだ。
なるほど、あるコンサルタントの話しで、ある黒い会社で、手を止めて考えているような社員がいたら、「さぼるな! 働け!」と怒号が飛び交う会社があったという。いやはや、ライン仕事だったり、パンチャーの仕事じゃあないのだから、タイピングの指がとまって、画面とにらめっこする時間だって必要だろう。
ただ、そんな極端なことはともかくとして、何らか、「かたち」に見えるようにならなければ、人は、人を、価値ある存在としてみなさないのである。
いやいや、そんなことないよ! 生きているだけでみんな、価値があるんだ!
なるほど、そういった標語は必要だろう。確かに、価値あることだけを絶対視するような社会システムは、遊びのないアクセルやブレーキペダルのようなもので、危険極まりないだろう。
が、それは概念的な話であって、実際問題、「無価値な人間」という存在が、尊敬されたり、大事にされたりすることがあり得るだろうか?
否。
まず、この前提は認めるべきである。
いやはやすぐさま、その「価値」とは何ぞや、という問いが浮かぶのであるが、それはここではわきに置いておこう。取り敢えず、「価値がある」ことは重要だ。
さて、般若心経においては、「舎利子よ、よく聞きなさい。この世は、空(縁起)なのですから、生まれるでもなく、滅するでもなく、清いでもなく汚いでもなく、増えるでもなく減るでもないのですよ」と言われるが、まぁ、まちたまえ。
美人と、ブスと、どちらがよいか?
この二者択一は、美人、である。ここで、「性格の悪い美人」とか、「内面は美しいブス」とか、そんな形容は一切無視する。取り敢えず、美しいものと、汚いもの、どちらがいいのか? きれいなものだ、当たり前だ!
その当たり前を、まず前提とおく勇気があるか、否か。
二進法ではない世界
美人がいいし、イケメンがいいし、お金はある方がいいし、きれいなものがいいし、効率がよいほうがいい。そんな、当たり前だけど、みんな中々おおっぴらには言えないこと。それらを、まず根底としておくことが重要である。その前提がないと、言葉は、創造は、システムは、どうにもおかしなことになる。
そのうえで。そうはいっても、「美人」といったって、人の好き好みは様々だとか、効率を重視して中間管理職を省いたら組織が停滞するとか、そういう積み重ねた議論がようやく生じるのである。
だが、議論が積み重なればなるほど、その「根本的な価値観」がなおざりになっていく。
「お客様のためです!」「国民のためです!」
営業とか、政治家とかは言う。それは本心かもしれない。が、その根本的な価値観は何だ? もうけたい、お金が欲しい、人から尊敬されたい、認められたい……結局、そんなマズローの五段階欲求……いやもっといえば、性欲食欲睡眠欲の三大欲求に還元されてしまうようなものかもしれない。
ここで、頭のいい人たちは、「そうはいっても」という。「そうはいっても、たかだか三大欲求と、人のためになりたいという、承認欲求や自己実現欲求とは、次元が違うのだ。愛のあるセックスは、ただの生殖行為とは違うのだ」と……。
メメント・モリ!
ああしかし、すべての芸術は、「死」という事態からの、単なる逃避でしかないと言ったある哲学者(?)よ。彼のその言は、一瞬で人々の息の根を止める呪文である。悪魔の囁きである。禁断の魔術だ。
しかし光あれ! しかし屈しはしない。人の、生きたいと思う心、良き存在でありたいと希うその魂の叫びは、邪知妄執を振り払うのである。
情報ではなく技術や結果が重要だ
さてこの記事の目的は何だ?「結果を出せる人間が信用を得る」
だから、何だ?
結果とは何だ? それがどうした? 当たり前ではないか?
いやそもそも、信用とは何だ? 誰からの信用だ? 何のために必要なのか?
ネットサーフィンしていたら、胸糞悪い記事にであった。若いころは遊びほうけて、ちやほやされて、お金もあって好き放題やっていたが、40歳過ぎて、なんか人生うまくいかなくなった、死にたい死にたい……とか。
はぁ? 俺は若いころからずっと悩み考えてきて、今も生きたいか死にたいかよくわからないってのに、やっぱり、世の中の人たちは、それなりに楽しんで生きてるってんだな。そいでもって、お金もなくなって、保険もなくて、資産も無くて、ただ、年を取ったら年金くれ、金をくれ、パチンコに行かせてくれとか、ふざけんのもたいがいにしやがれ!! ……というよりも、いやしかし、「凡人」としての生き方としてはまさしく、いや本当に正しい庶民としての生き方なのかもしれない。
俺もまぁ、本当に、ひがみかもしれないが、「好き勝手」生きてみたかった。思考何て、そんな金にもならない、只周りの人から変人扱いされるようなモノなんて、好き好んで手に入れたわけではない。
そうしなければ、現実と、自分との存在が、距離感が、規定がおかしくなってしまっていた。少なからず、調整する必要があった。僕は、「僕」としての存在であることを許されなかった。
とかって表現。いかがだろう? 誰かの心に、響くことはあるのではなかろうか。
いや、上の表現が「ウソ」なわけではないけれども、じゃあ、普遍的に僕の心を完璧に、余すことなく表現できたかというと、きっとそうではないのだ。あくまで、「表現」に過ぎないのである。
それでも。
16歳ぐらいの若い男の子に、何だか学校でもうまくいかなくて、勉強も友人も恋人とも上手くいかなくて、それでも、生きてかなきゃいけないけれども、何だか違和感がずっとまとわりついている少年に、少しは、「あぁ、こんな人もいるんだな」って、思ってもらえるんじゃなかろうか。
いやもちろん、「うわ、おっさんきめえ(わら)」とか思う少年も多いことだろう。
で、これは、エピソードなのだけれど、上のようなことも、「結果」といっていいんじゃないかと思っている。
上のようなことというのは、僕の書いた文章もそうだし、僕を胸糞悪い気分にさせてくれたブログ記事もそうだ。それも「結果」だ。
結果の行く末が責任である
短い記事になったが、ここでまとめよう。つまり、「結果」というのは、世界に、目に見える形にアウトプットすることである。
テストの点数をとるのも結果。
プレゼンをしてお客さんを納得させるのも結果。
資料をつくるのも結果。
プログラムを書いてツールやアプリを作るのも結果。
小説を書くのも結果。
ブログを書くのも結果。
人を笑わせるとか、情報を伝えるとか、それらも全部結果、ではある。
だが、僕が言いたいのは、できるだけ、「カタチ」にのころものを重視したいということである。
コピペできる情報ではなく、自分だからこそできること。
僕は、私は、こんなことが「できる」人間なんだと。そういった積み重ね、総体こそが、人、そのものだと思う。
そして、その「できること」が多くなっていったとき、それを紐づけて、より価値を高めてくれるのが、「言葉」であるのだ。
「私は、他人を幸せにすることができます」といったら、怪しげな宗教だが、マザーボードに使用するコンデンサーを作って、みんなが使うパソコンやスマホの基盤を支えることで、人々に笑顔を与え幸せにしますとか、……例が陳腐でアホらしいけれど、でも、なんというか、「できること」を、他者に伝わるように変換して(言葉にして)表現するということは重要である。
そして今日も僕は筋トレを少しだけ続ける。
体調不良だった数日間はできなかったが、それは免除規定該当のため問題なし。かれこれ、一応230日以上続けられている。このように、そのやってることの中身はともかく、「続けられること」というのも、立派な「できること」の一つである。
そして、「愚痴を言うこと」も「できること」である。
そう。何らかの生産行為は、それがポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、良いことでも悪いことでも関係ない。全部「結果」だ。
で、その「結果」の先に、どういったことが発生するのか。
その発生したことに対する原因を担うというのが、「責任を負う」という言葉の意味である。
そして僕は、この記事では、ポジティブなことと、ネガティブなこと、良いこと悪いこと、美人ブス、きれいなもの汚いものが、具体的にどんなものか、何なのかは一切示していない。
繰り返しになるが、この記事は、「結果」が大事である、という主張までである。
この意味についてくんでくれた未来の僕に、次に書いた方がよいことの判断を託す。
(最初、「目的・目標」カテゴリだったけど、途中から「イライラ対処」カテゴリに変更になった。理由はいわずもがな。ああ……面倒なことが多いものだ……)