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タイトル考える時間すらもったいない
2017/11/21 23:37 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「でもあえて言おう。指が重い、疲れた」「この記事では『疲れた』が頻発するため、ネガティブを完璧に排除すべきという思考体系をお持ちの方は読まない方がよい」

この疲れたことの表現を

 その、ツイッターとか、一昔前のSNS(ミクシィ)なんかだと、「疲れたー」といった一言の記事が投降されたりする。アメーバブログも、なんだかそういった傾向がある気がするのは偏見かもしれない。

 そういった短い記事に、僕は価値を見出せないのである。
 長くないと、ダメだ。

 それも、「疲れた疲れた疲れた」などと、コピペですむような奴はだめだ。しっかりと異なる表現で、それでいて、意味は破綻していなくて(論理的である必要などはない。ただ、そこに何らかのつながりがなければ、A.I.でなくても、単語の組み合わせと乱数を使えば簡単に「会話もどき」マシーンが作り出せるだろう)。


 しかし、今、僕がこのブログにおいて、この記事において表現「したい」ことといえば、「疲れた」という3文字になるだろう。

 どんなに頭をひねって、雅な言葉をつむぎだそうとしたとしても、その「テーマ性」は「疲れた」なのだ。

 それはどんだけ面白くないことだろうか。

夢をみた

 昔の、夢だった。夢とは、夜に見る奴のほうだ。「将来の夢」的なのではない。
 知人と、女性関係の話について語っていたので、その影響だろうか。
 起きてから、いやな気分になった。

 その夢の内容が良いか悪いかと言ったら、悪くはなかった。
 けれども、基本的に夢とは、良いものではないと思う。その夢が「良いもの」であろうが、「悪いもの」であろうが、それは「夢」であり、虚ろであるため、現実ではなく、いざ目が覚めて現実に戻った時、それは一概に虚しさを与えるのである。

 その一時の快楽について、「ああよかった。気持ちよかった」と満足できる人は幸いである。
 そういった人こそ、本当の悟りを得ているのかもしれない。


 何の話だ?

キノの旅

 お、アマゾンプライムで、キノの旅のアニメの新作やってるじゃないか。旧作はあるのを見つけて、時間をみつけて少しずつ見ていた。
 この作品は好きである。喋るモトラド(バイク)と旅人キノが、いろんな、変な……特徴のある国を旅をして、いろんな人と関わっていく。なんやかんや、ライトノベル的なのを初めて読んだのって、この作品だった気がする。

 お、前からある方が語っていて気になっていた、マジェスティックプリンスも出てるじゃないか。こりゃ「いぬやしき」なんてみている場合じゃねえ。でもキノの旅は気になる。

書かねばならぬ

 ところで、もう今すぐ寝たいぐらい眠い。
 目があまり開いていない。
 でも、書いている。何故か? はたからみたらお馬鹿さんである。でも、僕は、これが今すべき最重要課題であると認識している。

 書くことが。
 いただいたラインによるメッセージや、同窓会の案内に対する回答、友人グループからの忘年会の誘いへの回答、など……それら、現実におけるプライベート的なすべきことよりも、こうやって書くことが優先だというのか?

 そうだ、と僕は、その点は自信をもって言う。この判断は間違っていない。その根拠は、「これまでそうだったから」だ。つまり経験である。それも個人的な。だから、誰にでも当てはまるわけではない。そんなこと書き残して何になる? さぁな。でも、この、断片さ、壊れ具合が、人の話をシャットアウトしようというその姿勢が、「疲れた」というテーマ性をよく表現しているような気がする。

生きる意味がない

 若者を騙して何人も殺害した容疑者が、「生きる意味がない」などと、父親にもらしていたことが分かったという。
 何をどうして、そういった経緯が分かったのかは知らないが、やめてほしいものだ。

 生きる意味……なんてものを考えたりする人たち――すなわち僕のような人が、ますます奇異な目で、犯罪者のような軽蔑した目でみられるではないか。やめてほしい。
 僕は自動二輪車が好きで乗っているが、爆音のうるさい奴らが大嫌いである。まぁ、自動二輪車が嫌いな人にとっては同じ穴のムジナだろうが、なんでもかんでもひとくくりにされるのは気分がよくない。なにその、小学校の頃の連帯責任とか。え、小学校だけじゃなく、大人でもそういうのあるって? なにそれ、江戸時代の5人組なの?

 どうでもいいことを書いてしまった。これも疲れている証拠である。
 あの、「人生に絶望した」という表現について、よく犯罪者から引き出して大々的に報道しようとしたりする気がするけど、犯罪の動機を何故人は欲しがるのだろうか?
「納得」したいからだ。
「あいつは、犯罪を犯すような動機があった」と、理解したいからだ。

「そういう奴ら」というのを、スクリーニングの(ふるいにかける)ための方法を欲しているのだ。

 だから、アニメばっかりみていたとか、ゲームばっかりしていたとか、そういう「分かりやすい」理由を欲するのである。そういうのを好きな人と付き合わなければ、自分たちは安全なのだと、意識的・無意識的に思っているのである。

 ただ、いまやゲームもアニメも、それほど忌避されるものではなくなってきている。だからより一層、「犯罪者たるもの」が必要になってきている。

 次にスポットがあてられるとしたら、「絶望」である。

絶望とは

 絶望、と一言で表現したけれども、どっちかというと、精神科医フランクル氏のいうところの、「実存的空虚感」である。もっと砕くと、「生きている意味がわからない」的な感覚である。

 正直。この疲れた思考と身体においては、頑張ろうが頑張らまいが、生きようが死のうが、気持ちよかろうが悪かろうが、大した意味はないと思っている。

 そして同時に、こういった思考がよくないものだと、言われていることも分かっている。
 いやお前、それは「わかっている」とは言わないのだぞと言われるが、分かることは分かるのだ。ただ、それが「間違っている」とは思えない状態である、というだけだ。

 ちなみに、何故間違っているのだろうか。それは、答えがないからだ。証明できないからだ。客観的ではないからだ。そういうものを考えることは、思うことは、感じることは、「間違っている」のである。


⇒いやお前、そんな、楽しいことばかりじゃないぞ。いやな思いや、苦しいと思うことも含めて、人間なんだ、感情なんだぞ?

 否。明確に否定する。それは、お前、それこそ人間の可能性に対する否定だぞ。――この表現嫌いだが、あえて使おう。その「人生楽ありゃ苦もあるさ」ってのは、諦めである。いいことも悪いこともあるのが人生? お前、そりゃ結果的に悪いこともあるかもしれないが、「悪いことがあっていい」というのは、お前らが嫌いな、「必要悪」みたいな考え方に過ぎないじゃないか。

 違うだろ。本当は、すべて良いことであるべきだ。悪いことなどあっちゃならないのだ。



 ……などといったことも含めて、「どうでもいい」という感覚。空虚感。そういった表現。


 例えば、僕が何らかの悪いことを犯したとして、このブログの記事が発見されたとしたら、まぁまぁ、きっと、「ああ、なるほどな」と、何が「なるほど」なのかも分からないままに、みんな「納得」するのである。ニュース報道的には、「会社や友人環境など恵まれていたようですが、ある一面で悩みを抱えていたようです」みたいにキャスターが言うのである。

 ま、確かに。生きる意味がない、ってのは、無気力ってのは、「人の命なんてどうでもいい」とか思ってそうに感じられるかもしれない。意味がないから殺してもよい、と思っているとか。

 そんなの、無気力でも、絶望でもなんでもない。
 無気力や絶望ってのは、「人を殺したい」という欲求すら浮かばない。いやむしろ、いくら絶望していたとしても、人を殺した瞬間、それは、欲求に変化するのである。(ここで「いや、人がどれぐらいで死ぬのか試してみたかったとか言うやつもいるじゃん」という反論があるとしたら、それはもともと無気力でも絶望もしていないので関係ない)

 何か、行動をしたいという思い、そして、その行動自体の意味について、意義を失っている状態、それが無気力である。
 絶望とは、欲求がなくなった状態である。

睡眠欲には勝てない

 ――だめだ。目が明かない。もうタッチタイピングで書くしかない。誤変換が多発するだろう。

 ああ、その、なんだ、「疲れた」という表現をするため、それなりの長さになったわけだが、さらに疲れた。でも、睡眠欲と闘いながら、書くということを優先させたのは、――そして、こんな意味のつながりがおかしい記事を投稿するのは……。


(かっこ書きである。何故書くのか。それは、書くことが、唯一、僕の現在の心(精神というか、目的というか、目標というか)において、「ダメ」と言われないことだからである。仕事をすることも、友人などと遊ぶことも、ゲームをやることも、ダメとは言われないけれども、なんだか、罪悪感や焦燥感が与えられるのだ。だからたぶん、消費的な行為行動で満足して生きることができるなら、それはもう満足した豚であって、悪いことではない。不満足なソクラテスが本当によいかは僕は分からない。でも、ただ食って寝て増えてといった本能的なものだけで人間が生きているのだとしたら、――いやむしろ、そうだとしたら、人類が抽象化の言語を獲得し、他のホモ属を淘汰し、地球の食物連鎖ピラミッドの頂点に達したのだろうか。……どうでもいいや、眠い)

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書くことがないのか書きたい気がないのか
2017/11/14 23:45 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「今日の目標はブログを書くことでした」

時間の感じる単位について

 11月である。
 前回、記事を書いたのは11月5日である。一週間はあっという間である。

 昔、社会人という存在になってからしばらくして、「一週間の単位」について愕然としたことがあった。若いころは、一日、一日が単位だった気がする。社会人は、一週間程度が単位な気がした。
 今は、それがさらに加速して、1か月ぐらいが、単位として感じられている気がする。

 この「単位」とは、時間経過を認識する期間である。確かに24時間が一日で、寝て起きて食べてを繰り返すわけであるが、それらが、ひとまとまりになったような感覚がある。それが単位である。経験単位とか、感覚単位とか言い表そうか。なんだか適当な言葉が浮かばないので、単位というのは造語である。

 以前にもまして、感覚単位が実時間に対して長くなった、ということである。

 そして、このことは、「書く」という行為がなくなったことで、更に加速していると考えられる。

いろいろやってる

 具体的な時間を書くと、忙しい自慢的でイヤであるけれど、後から読んだときに感覚として伝わってくるから書くと、23時を過ぎて帰ってくることが多い。土日も、予定が埋まっていることが多い(個人で完結する用事ではなく、人と関わる予定)。

 まぁそうすると、実際は、書く時間なんて取れないのである……というと嘘であり、睡眠時間を6時間程度確保したとしても、物理的な時間は十分にあるのである。

 あるけれども、この「書く」というのは、ある程度の「精神的余裕」がなければ成し遂げられないことである。――本来は。


 にも関わらず、僕がしばらく、毎日のように長々とブログを書くことができていたのは、それは、「精神的余裕」の無さゆえに、ゼロ秒思考(あんまり考えず、頭に浮かんだことをアウトプットする)によって書いていたのである。――今ふと、「ゼロ秒思考」って、やっぱり思考してないじゃん、と感じた。ただ、ここでいう思考は、「頭に浮かんだこと」という意味であるので、その浮かんだことを間髪入れずに「文字化」するという作業、それがゼロ秒思考アウトプットである。

 なんでこんなことをしていたかというと、「得体のしれないイライラ感」等により、とにかく落ち着かなかったからである。


 では最近は、そういった感覚がなくなったのか?

 否である。


他者に対しても気兼ねなく接している

 僕が抱える問題は、何ら解決していないと思う。
 その問題というのは、このブログのタイトルにあるものだ。

 ところが、体の疲れだったり、精神的な疲れだったりが相まって、書くことというか、考えることが、もうとてつもなく面倒になっている。

 静かに消えてなくなりたい……というのとは少し違う気がするが、「何もない時間」を欲していると思う。

全然筆が進まない

 久々に、「イライラ対処」のカテゴリにした。全然、書いていて楽しくない。――つまり、いまは、「書かなくていい期間」なのかもしれない。

 が、冒頭に書いたように、感覚単位が恐ろしく早くなっているため、いったん、今日は何とか、たとえ何時に帰ろうが、なんでもいいからブログを書こうと思ったのだ。

 そういった点で、今日の僕はよく頑張った。今日はとにかく書こうと思ったのは昼過ぎのことであったが、そこからしばらくして、状況もかわったのに、いま、こうして書くことができているのは、素直にほめてあげよう。えらいえらい。


 あー、ええと、寝具に十数万使ってみたというのとか、生きる意味って何だかずっと考えてます的なことを対人的に打ち明けたりとか、来週のデート的な約束をしたりとか、まぁ、書くことはある気がする、ある気がするが、気持ちが全然のらない……のにかかわらず、こうやってぐだぐだ書いているというのは、なんとも、読者をいらだたせるだけではないか?

 そうだろうけれども、でも、この……なんともいえない、やる気のなさというか、気力のなさを、なんとか表現したいと思っている。――それより、こう、友人と遊んだりとか、女性と食事にでかけたりとか、そういった行為の瑞々しさがどうにも感じられない。

 以前、赤面必須の、「恋」についても書いたことがあった気がするけど、そんな感覚って、もうないのかなぁと思ったりする。恋……。なんか、若いころは、「女の子と付き合いたい!」って思っていた気がする。それはなんというか、「女性と付き合う」という、そういうことができる自分、というのに憧れていた――とか、そんな解釈、あとからならいくらでもできるんだけど。

気分がのってきた

 ああ……分かった、気がする。
 なんというか、「こういうことを書いたら(言ったら)こう思われるだろうな」的な思考回路が先に進みすぎて、なんだか何も書きたく(言いたく)なくなっているのだろう。


 ほんとうは、100人いたら、90人は知っている事柄があったとしても、自分が対面した人が、その知らない10人だったとしたら、その事柄についての話はとても興味深いものかもしれない。

 コミュニケーションっていうか、人との関係って本当はそういうものなんだと思う。一回性と唯一性というのはフランクルさんの言葉だけど、本当にそれはそうだと思う。



 もう一つ理由として、「こうやって思われたい自分」というのを、無意識に醸成してしまっている気がする。ええい……そんなまどろっこしい書き方なんて今までしてなかったろう――つまりだ、僕は「いい人」と思われたがっているのではないか?


 その、ある人に悩みを打ち明けた……という表現もどうにも気に食わない。ええと、人が生きる意味について語り合ったとでもいおうか。その話の流れで、「お前は頑固な人間だ」というのと、「人の話を聞かない」と言われた。

 頑固、という表現は、ある程度親しくなった人に、笑いながら、あるいは真顔で言われることがたびたびあるので、まぁ、他者からみたらそういう人間なんだろうなぁと自分でも思うようにしている――が、僕の中では、全然そんなこと思っていないのである。――という表現がまさに、頑固で、人の話を聞かない、と言われる所以だとも思っているのだが。





 そうそう、ある人には、「お前は、結局納得してないんだろ」とか「わかってないんだろ」とかも言われたことがある。結構傷つく。

 頑固ってなんだ? 人の話を聞かないって何だ? 「わかる」ってなんだ?

けれども時間がない

 なんか、「書きたい」思いは、ここまで書いてきてようやく戻ってきた。が、もう時間ぎれである。
 まぁ、その、なんだろ。

 僕は、やっぱり、いいひとでありたいと思う。善人でありたいと思う。みなと仲良くしたいと思う。

 これらは真に、心から思うのであるが、その良いだとか善いだとかいう、その感覚が、結局多様であると思っている。
 僕は、「真に」、普遍的に「良く」ありたいと思う。

 ただ、それは、子供じみた空想であるともわかっている。人は、一回性と唯一性の中で、折衷主義といわれようが、たゆまぬ不断の努力によって、よい生き方を模索し調整しながら生きていく必要があるのである。

 ――というような、一般論的なのが、どうしても腹立たしいのだ。どうしろっていうのだ?! そして、「どうすればいいんだよ!」というと、「それを『考える力』を養って、一人ひとり考えていかなければならないのです」とか言われるわけだが、それが輪をかけて腹立たしいのである。

 僕は、考えることは好きだが、考えることだけで実践――生活、現象がなければ意味がないと思っている。そして、一般的な真実が、必ずしも個人としての、実存としての真実でもないと思っている。

 ……ああ、いろいろ、ようやく言葉が戻ってきた。カオスな感じでまとまらない感じ。論理的に、分かりやすい構成にしようとすればするほど、つまらなく、気力が失われていくあの感じ。ゼロ秒思考が戻ってきた!!(かっこわらい)

 ――しかし今日は終わる。


(かっこ書きである。んあー全然創作活動できていない。アウトプットはおろか、インプットも。こういうときは、とにかく、今続けられているルーチンに、必死にしがみつく必要がある。まさに、今が、生活(ルーチン)の危機である。この期間に、どれだけ生活を崩さずに、当初の目標に向かって気持ちをコントロールできるかにかかっている。今、この時期は、現状維持すら難しい状況。この時期に、新しいことはできるだけしないほうが良い。むしろ、今続けていることのシェイプアップすら必要だ。焦らず、ゆっくりと。時間は不可逆のためそれは言うは容易く行うは難しいが、それでも、焦らず、ゆっくり、今できていることを可能な限り壊さないように……。明日も遅くなりそうだが、なんとか、書くことに時間を、気持ちを向けたい。そういえば、ウォーキングデッドの1シーズンは何話かみたな。まぁまぁ面白そうである。ゾンビものって、バイオハザードの映画を一つ途中でみたぐらいか。なんか、ホラーといっても、暗い感じのホラーじゃなくてまぁみられる。続きも、時間があったらみたいなぁ)


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暗黒モードは続く
2017/09/11 23:33 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「短いですが暗い内容のため部屋を明るくして心が落ち着いているときに読みましょう」


暗黒モード

 以前、2016年の12月に、暗い記事を書いた。危険なくらい暗い日記(暗黒モード)

 それよりは、暗くはならないと思うけれども、中途半端は好きではないので、ちょっとやそっとで、明るくなれないのならば、むしろ反転、突き進んで暗黒にひた走りたい。

 まず、話のネタとして、いくつか箇条書きにする。

・障害のある人の姿を見て強く生きようとするということ
・戦場や紛争地などの凄惨・残酷な場面をみて平和を意識するということ
・動物を解体するということ・と殺するということ、それを見て必ず発生する「かわいそう」という感情をいかに考えるか
・ペットの去勢や避妊は残酷なのか

暴力の人類史

 暴力の人類史、下巻を超スピードでまとめの部分のみ読む。

 結論。中世の騎士道とか、近代以前の時代が牧歌的で平和だったとか、暴力的な死を迎えるという確率や婦女暴行・子どもの虐待が発生する確率をみれば、ありえない空想であるということである。
 20世紀の世界大戦、核爆弾の恐怖、内線紛争、到底平和な時代などと思えなくても、あらゆる面で暴力は減少しているということだ。
 これは、今後も減り続けるという予言ではない。ただ、暴力が減ってきたという条件は、以下のように挙げられるという。(矢印の右側が、僕の超速解釈。読んだことある人で間違っていると思ったら指摘願いたい)

・リヴァイアサン→集権国家によって、当事者間の闘争の調整(第三者の審級・裁判)がされるため、暴力が割に合わなくなる

・穏やかな通商→正当な取引ができる方が儲かるなら、戦争は割に合わなくなる。(これ、『ドリフターズ』のシャイロック?協会の人たちの考え方を思い浮かべるとよいと思う。「軍船作ってた分を商船にしてたらもっと儲かっていたはず……」と)

・女性化→男性は女性の性的アクセスを巡って競争しがち。伝統とか地位や栄誉・名誉とかも重視しがち。女性はあんまりそういうのない。(まぁここはあんまり実感が少なかった。「女性はあまり争わないというのも「?」だけれど、それよりそもそもなんで女性化が進むようになったのかが疑問。ただ確かに事実として、女性の権利拡大はいろんな面で進んでいることだろう)

・輪の拡大→グローバル(コスモポリタン)な社会によって、同情心が芽生えだした。たとえ暴力で勝利しても、相手への同情心で罪悪感で心が痛みやすくなれば、暴力は抑制される可能性が高くなる。(確かにそうかもしれないと思うけれども、とある国などでナショナリズム(自国優先主義)的な政策が支持され始めたという傾向から、「輪の拡大」なるものがちゃんと広まっているのかは疑問。ただ、暴力が抑制されるという理由(条件)としてはアリだと思う。その点、上にあげた話のネタの、平和主義者や動物愛護者や菜食主義者などの「かわいそう」という気持ちは、必ずしも否定されるべきものではないかもしれない。とはいえ、人は肉を食らう)

・理性のエスカレーター→人身供犠、魔女狩り、血の中傷、異端審問、特定民族のスケープゴート、奴隷制、独裁制、拷問、宗教迫害、動物虐待、児童虐待、女性への暴力、浅はかな戦争、同性愛者の迫害……は、理性的に、正義ではないとされるようになっていった。

学術的な意味と実存的な意味

 人類、暴力はよくないという方向に進んでいるということである。よいことだ。
 しかし大事なのは、それが生得的になされるものではなく、「とある条件」によって成り立っていると考えることである。それが、歴史を学ぶ意義であると僕は思う。

 誰と誰が敵対して、争って、戦争になって、どっちが勝ったとか、その結果などどうでもよい(いやテストでは点を取れないが)。意味がある歴史学習としては、「何故?」その争いが起こったのかを突き詰めることである。「金」の場合もある。「宗教」の場合もある。「名誉」の場合もあるかもしれない。息子を王にしたかったとか、見栄とか復讐とかいろいろあるかもしれない。
 その「理由」を学ぶことで、外交交渉に役立つ……かは分からないが、とりあえず、相手の主張を知らずして、調整ごとなど出来やしないのだ。

 まぁ、それはそれで良いとして、僕が歴史を(大したほどではないが)勉強して思ったのは、「人間って……」ということである。

 そういう意味において、暴力の人類史は、書いてある内容は結構具体的な記述がされていて、ところどころグロテスクな表現が散見されるけれども、結論的にはとってもポジティブなお話で、僕はとても良い本だと思った(ほとんど流し読みであるが。いやはや、とても長いのである)。

 
 で、まぁそれはよいとしてだ。
 仮に世界は良い方向に向かっていっているとして、実存的にはどうなのだ? ということである。

かわいそうという感情へのいら立ち

 最初に挙げた話のネタに戻るが、「かわいそうな人」や「かわいそうな動物」をみて、「何々しよう!」というロジックが嫌いである。

 なんでかというと、「自分より悲惨な人をみて悦に浸る」のと同じだと思うからである。

 人と比べるのが嫌いだ。競争が嫌いというのではなくて、上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないと思っているのである。

 にもかかわらず、なんで、「障害のある人」とか、あえて取り上げないといけないというのか。
 僕はメガネをかけているが、目がよい人に比べたらハンディキャップである。(喧嘩になって眼鏡を飛ばされたらまず確実にボコられるだろう)
 ――などというのは、卑近なつまらない例であるが、まぁどこまでを支援が必要なレベルとして、どこからを健常とみなすかなど、介護の要支援・要介護の判定などもそうであるが、一定の基準・解釈なのだ。


 あともう一つ、「かわいそう」というのは、どうにも、「自分じゃなくてよかった!」という感情が見え隠れしているような気がする。いや、純粋な「同情心」なるものがあるのかもしれない。
 が、そもそも、同情って、なんか嫌な雰囲気ないだろうか? 俺だけか?

 共感はなんかよい。何らかの目的や目標に対して、同じ感情の方向を向いているといった場合に使う気がする。
 同情というと、なんだか、「上から目線」な気がする。だから、「同情するなら金をくれ!」と昔のドラマで怒られたのかもしれない(みたことないけど)。

代替不可能性について

 なんだか、暴言を単に書き連ねただけな気がする。
 まぁ、なんというか、色々書こうと思った矢先、「危険なくらい暗い日記(暗黒モード)」を読んで、「あー、結局、9か月前ぐらいと大体同じ感情気分状態になってるわけね。やっぱ、これが初めてじゃないとは思ってたけど、つまりそういうことね。はいはいループループ」と思ってしまい、何だか書くべきこと、書きたいことがよく分からなくなってしまった(では書くなという話ではない。何せもう書いてしまった)。
 昔の記事でも、煽られている。

 おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?
 うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
 この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
 ……。
 過去の自分、厳しい(かっこわらい)。

 うーむ、自分の過去記事を読んで癒されでもしたら、それは完全に自慰であるなぁ。
 しかし、かの記事に、確かに今の僕は共感するのである。

 先日、「代替不可能性」の部分で書こうとして、あまりに暗くなるから書けなかったが、昔の記事では書かれていた。
 僕じゃなきゃいけないって思ってくれるのは、期待をしてくれる仕事じゃあなくて、両親なんだろうなぁと。

 そういう意味で、「恋人」って存在を、すっげー希求していた時期もあった。
 けど、そんな幼稚な心性じゃあ、恋愛なんてうまくいきはしない。
 ある程度「お作法」を身に着けて、恋人をつくって結婚するということもしてきた。しかし、そこには、実は最初のほうから「恋」ってもの、「好き」って感情が、「お作法」とともに抜け落ちていっていたんじゃあなかろうかと、そんな風にも、いまや思う。

 先日、美人で若い女性が、婚活市場で男を見定めするブログを読んだと書いたけれども、なんか、僕が求めるのは「シンデレラ的な恋」なのであって(キモッ!)、そういう女性ばっかりだとしたら、全然絶対独身を選ぶなぁと思う。

 でも正直、「代替不可能性」を異性に求めるってのが、そもそも、女性の社会進出的なのとともに、なくなって(なくなりはせずとも希少になって)きているのではなかろうか……とか書くと、フェミニストさんたちから石を投げられるか。

とにかくイライラするぜぃという記事

 はぁ……。
 まぁその、いってしまえば、「あーなんか面白いことないかなぁ」と嘆く記事である。
 そういう奴、嫌いなんだよな! ぐだぐだ言ってないで、自分で楽しいこと見つけろよ! しっかり生きろよ! って、思う。それが、自分の「超自我」(理性)的な奴。
 一方で、僕の「イド」(無意識の欲動)とか自我的には――僕の言葉だと「実感」では――
「ああ、もうつまんねーよ! 何でもかんでもどうでもいいよ!」ということになっている。

 この相反する感情! アンビバレンス!

 ははは、情けなくて愚かしくて笑いがこみあげてくるぜ。

この記事意味あるの?

 意味?
 意味とは自ら付与するものだろうよ!

 そう、例えば、「暗黒モード」と書いておいて、所詮はこの程度なのである。
 もっともっと暗い気持ちに引きずり込めるようなことを書けないのか?

 こんなの、10代の少年が時折頭によぎる程度のことじゃあなかろうか。
 この程度の「暗さ」なんて、何にも面白くない、深くもない広くもない。

 しかしだ。いきなり、そんな「暗い」ものを表現しようとしても、凡人の俺には難しい。
 ならば、この記事はひとつ、踏台、たたき台としての意味を与えてやってはいかがであろうか。

(かっこ書きである。えーまぁ、こういう日もある。そういうときは、酒を飲んで風呂に入って寝よう。しかし睡眠とは、確かに体調を回復させる効果はあるかもしれないが、精神を必ず回復させるかというと、そうではないと思う。で思うのだけれども、この症状は、「面白い物語不足症候群」な気がする。こう、魂魄を刺激させられる作品の欠乏である。現実生活を刺激的なものにすればいいじゃない! と、マリーアントワ何ちゃらさんは言うかもしれないが、そういう問題ではない。シュタインズ・ゲートはかなりいい線いっていたが、最後の爆発力に欠けていた気がする。しかしそれでも、最近触れた作品の中ではかなり良かった。サムライチャンプルーを見始めたが、――確かに面白いが、片手間のテレビ的なレベルの面白さである。そういう、お菓子を食べて美味しいといったレベルの作品はとても沢山ある、が、本当に心をぐらつかせてくれる作品は中々見当たらない。――ああ別に、作品じゃなくても、現実生活の中でもいいのだけれども、正直、「事実は小説を中々超えない」。やはりこれはPSvitaを買ってしばらくゲームに身をやつす必要があるのか。いやいや、ちょっと待て。先般、高らかに宣言したのをもう忘れたのか。自分で、自分を揺るがせられるような作品を書きたいと、書くのだと、いったではなかろうか。言った。言った確かに書いた。しかし……どうなんだろうか。僕が小説を書き始めたときは、自分の中にある思いというか物語を外在化させたいという動機だった。それは確かに自分自身が面白いと思ったものであった。残念ながら、それを表現するだけの力が、中学生ぐらいの自分にはなかったわけであるが、逆に言ってしまうと、今の自分に、「面白い!」と手放しで感じられるモノが、自分の中にはない気がする。……なんて、大作家がスランプに陥った時みたいなことを書いてしまい汗顔の至りである。ああ……しかし、ほんと、どうしたもんか)

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すごい感傷的な記事
2017/07/12 21:11 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「思い出って良いものとは思えない」「振り返りたい過去などない」

古い携帯が出土した

 最近珍しく、早く帰ることができたので、部屋の片づけを実施。
 そしたら、古い携帯が出てきた。
 ふと。ACアダプタもセットになっていたので、接続し、スイッチを入れる。

 ついた。

 もう3年以上はとっくに過ぎているだろうに、古い、日焼けして黄ばんだ携帯は、ピロリンと安っぽい音を出して起動した。



 ――こんなこと書くと、僕のブログに、みじめな男であるということを期待して頂いた方々をがっかりさせるだろうが、いろいろ、「リア充」的な写真や、メールなどが見つかった。古い携帯は、ちょうど、「彼女」がいたころが、直近として時を止めていたのだった。


 とある作品を最近読んで、感傷的な気分もあいまったのだろう。ついつい、こんなことを書いてしまっている。
 他にも、「愛とは何か」について書かれたブログさんを読んだのもあったのかもしれない。

 とにかく、他にすべきことはたくさんあるだろうに、何をもってしても、この感傷としか言えない、役立たずな気持ちを、少しばかり書き残したいと思ってしまった。

ある人のメール

 あー。
 せっかく、早く帰れたのに、腹痛が、ひどい。たまに、こうなる。超音波検査などいってみたが、異常はなかった。空腹とか、そんなせいかもしれない。

 感傷。
 今を生きる人には役に立たない感情。

 よく言われるのは、「つらいことだって、そういった感情があるから、人生って素晴らしいんだ」というようなもの。人生は波であるとか、そんな風なもの。

 それはそうなんじゃないかな、と思う。ただ、その思いは、「まぁ、君がそう思うならそうなんだろうね」といったレベルだ。
 それに関して思うのは、「つらいことや苦しいことだって、人生を鮮やかにするために必要なんだ」なんて言えるのは、その「つらかったことや苦しかったこと」(以下「マイナス事象」という)を、乗り越えた人たちだけだ。

 そのマイナス事象の、重い軽いはここでは問題にならない。
 人それぞれ、乗り越えられる苦難なんて別々だ。「え、なんでそんなことで?」というので死んでしまう人だっているだろう。それに、他者の苦難について、どの程度「重いか」なんてのは、主観で決まってしまう。他者がその重さを、本当の意味で分かってあげることなどできない。

 そういう意味で、僕のこの、おもっ苦しい気持ちを、誰かに理解してもらおうなんてのは、やめた。あきらめた。
 でもそれは、他者を敬遠するということではない。他者と、適切な距離をとるってことを学んだに過ぎない。さめた人間? ――かもしれない。人とかかわることが臆病な人間? ――かもしれない。けれども、こうした諦めによって、僕の「世界」は、ずいぶんと住みよく、心地よく変化したことは、間違いないのである。


 話しが分かりにくくなった。
 なんというか、感情のまま生きるって、いいことだなぁ、と。……いや、そうなると、言いたいことが真逆になってしまう。おかしいな、混乱しているんだな、俺は。お腹痛い。

他者の痛みが分かる人間

 僕は人間が好きだ。
 僕は人間が嫌いだ。

 どちらでもあって、どちらでもない。

 こんな表現、読んだだけで気分が悪くなるだろう。人は無意識に分かりやすさを求める。答えを求める。

 ゼロから、自分で考えるなんて、非効率なことは誰もがしたくない。

 答えをくれる人を頼りたい。道を示してくれる人に付き従いたい。



 僕はそんな凡人たちとは違う! などと表現したいわけではない。僕も、分かりやすさが欲しいし、答えが欲しい。一般的な人間だ。

 でも。

 そう、こんなとき。

 突如、ふとした瞬間、とても、感傷的な気分になったとき。



 積み上げられたものも、自分という人格も、知識も、技術も、お金も、持ち物も、身体さえも、――ほんとうに、無常を思う。

 そんな気持ちに浸りたいだけ?
 自分は他の人たちと違うんだって思いたいだけ?
 卑屈になることで自分のいたらなさを慰めている?

 いろいろ批判はできるだろう。簡単に言ってしまえば、いわゆる、気持ちの悪い人間だろう。そうだ、だから、僕は、多くの人前では、そんなこと絶対言うまい、思うまいと思っていた。

 人生は、前向きに、ポジティブに、建設的に、楽しく、みんなでワイワイ、パーティピーポーになるのが大事なんだって、そう思っていた――思うようにしていた。
 いや、今も思っている。それがきっと、「正しい」。正しいんだ。だって時間は有限だ。人生は限りがある。楽しく、うれしくやっていくのが当たり前に大事なんだ。



 ――でも。


 それでも、無常だなって、思う。


親の死

 僕の友人の何人かは、親がいなかったりする。
 僕は、両親ともに生きている。素晴らしいことだ。ひどく、落ち込んでいた時期も、とりあえず、親が生きているうちは生きてみるか、と思ったりもしていた。

 とりあえず、親は、僕が死んだら悲しんでくれるだろうと、そう「信じれる」から。

 親が若いうちに死んでしまった人たちは、一般的には、「かわいそう」だろう。
 しかし、悲しみを乗り越える機会が早いほうが、その後自分が長く生きるとしたらよいのかもしれない。
 人は、環境になれてしまう。

 僕も、僕を大切にしてくれた肉親の死を最近経験した。いろいろ思い出もあいまって、泣いた。悲しんだ。

 でも、それも、もう1年くらい経って、慣れてしまった。

 今でも、思い出すと、もう会えないことにとても残念な気持ちになる。それでも、毎日目を真っ赤に泣きはらすことはない。


無常

 素晴らしいものや、ことや、人はたくさんあったり、いたりするという前提で。

 そのうえで、やっぱりこの世は無常なんだと思う。



 楽しんだり、笑ったり、喜んだり、うれしかったり、恥ずかしかったり、怒ったり、泣いたり、苦しんだり、嫉妬したり。

 いっぱい、いろんなことがある。

 仕事だとか勉強だとか創作だとか遊びだとか世話だとかやることもたくさんある。


 それでも、どうして、「生きる意味を徹底して考える」みたいなことを、僕はしなきゃならないのかって、たまに疑問になることもある。
 やっぱり、感情的に、物欲的に生きるのが「正解」なんじゃないかって、良いことがある度に思ったりする(まぁ、そんなにイイことなんてあんまないが)。

 でもやっぱり、こうやって、感傷的な感覚になると、よく分かる。
 やっぱり、すべては、うつろいゆくものなのだということ(諸行無常)。

 すべて幻影だとか、幻想だとか、そういうわけではない。

 すべての物や、事や、人は、「ある」。

 ただそれは、「現象」しているだけである。唯一不変の根源などもっていない(諸法無我)。

 それを信じたくない人が、量子物理学を研究するのかもしれない。物質の根源は、「ある」のだと。分子、原子、陽子・中性子・電子、クォーク……と、小さく、小さく自然を探求していく。
 物質の根源はあるのだと。そして、僕ら人間の根源もあるのだと、そう信じて。

中学生ぐらいならありかな

 とまぁ、こういった文章が、彼女にふられたばかりの、中学生、高校生ぐらいならありかもしれない。
 何をまぁ、30代のおっさんが言っているのか。

 慕ってついてきてくれる後輩も、先日知り合った女性も、こんなん読んだらドン引きである。



 ――と、いつもそうおもうのだけど、実際どうだろうか。
 まぁ、経験上、ドン引きされる確率が高いのだけれども、ただ、よく考えると、だれしもこの手のことは考えているのではなかろうか。

 だって、人はいずれ死ぬってことに、異議を唱えるひとはいまい。
 小学生ぐらいだったら、死という概念もわからないかもしれない。他者の死というのは、動かなくなったり、会えなくなるということで、理解できるかもしれない。でも、自分の死というのは、幼い子は理解できるのだろうか?

 いや、それを言ったら、僕らも同じだ。人の死は容易に想像できるが、自分の死というのは、どこか、遠い事象のように思っている。明日、無事目が覚めることを疑うことはない。
 ――そうやって、脳機能ができている。死の恐怖に取りつかれないようになっている。死刑を宣告され、ずた袋をかぶされ、首をはねられる瞬間まで、自分の死を覚悟することはない(わけでもなかろうが)。

 いやいや、当たり前だ。こんなことばかり考えていたら、まともに生活など送れない。
 死なんて、どっか遠いできごとなのだ。
 だから、どこか遠い死を実感するために、僕らは物語を欲する。どこか知らない誰かの死を思うことで、自分ではなかったと、自分は違うのだと信じるために。

感傷に浸っている?

 僕は、文章を書くのが好きだ。

 好き、なのだが、今楽しんでいるかというと、非常に陰鬱な気分である。


 じゃあやめればいい。誰も、お前に、そんな苦しみながら書くことを求めていない。
 わかっている、わかっているが、しかし、やっぱり、書かないといけないだろう。


 なぜか?
 できるだけ多くの人に、こんなめんどくさい思いをさせなくて済むようにだ。

 みんな忙しいだろう。家族に、恋人に、友人に、子供に、後輩に、上司に、お客さんに、いろいろ、やることたくさんあるだろう。考えている暇なんてないだろう。

 でも、たまーに、ごくまれに、「〇〇」という思いが生じる人もいるだろう。
 そういった人のために、少しでも、考えるプロセスというか、要素の洗い出しというか、流れの整理というかを、先んじてやっておきたい。

 僕なんかがやらなくても、いろいろ、先人の「表現」がいろいろあるだろう。
 けれども、「僕の」表現言語によってしか、伝わらないことってのもあると思う。大雑把なくくりの中で、30代の男ってカテゴライズされてしまうに過ぎないけれども、それでも、僕の「感覚」によって表現する「〇〇」というのは、きっと、唯一性と一回性が備わっているのである。



(携帯つながりで最後にメモだけれど、格安SIMに切り替えたスマホの調子は悪くない。MVNOだからといって、やはり回線スピードが著しく遅くなるなんてことはなかった。通話料は、auだと、5分間以内は無料で、5分超は30秒20円であり、格安SIMのプランは、5分間以内無料がないだけで、料金は同じである。電話をよく使う人は、MNOの方がよい場合もあるかもしれないが、大半の人はMVNOで十分なんじゃあないかと思う。まぁ、首都圏でのレビューであって、地方の回線事情とかとは違うかもしれないが)



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役に立つこと
2017/06/15 22:00 | Comments(2) | イライラ対処
今日の一言「良い人間になりたいと誰もが思うはずなのに、気づいたら悪いことをなしている」「誰かを喜ばせることをしたいけれども、その誰かも、それが何かも分からない」




 I do. 好きな曲の一つ。

 近況。
 新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
 仕事、帰宅時間、遅い。

 まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。

 あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
 しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。

 とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。

 多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。

 しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。

 そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。

 ……。
 300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。

 仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
 ……。うーむ……。

 幻想ギネコクラシーが届く。

 読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。

もはや二次元を飛び出すべきか

 まーそもそも、22時過ぎに帰ってきて、風呂入ってなんなりしていると簡単に日付変更になるので、平日に何かクリエイティブなことを、または、消費を愉しむってことは難しいのかもしれない。

 何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。

 株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
 じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。

 じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。

 ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
 じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
 何だか、上手く、いかないし。

そして次の日

 上まで書いてつまらなくてやめた。
 俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
 人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。

 複雑性。

 地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。

 恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。

 遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。

 地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
 なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
 そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。

 むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
 悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
 だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。

 悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。

 先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
 なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
 僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。

 ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。

 英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。

良い人間になりたい

 正しい人になりたい。誰かの役に立つ人間になりたい。良い人間になりたい、と、その考えに反対する人は少ないだろう。

 自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。

 そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。

 僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。

 その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。

 僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。


 迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
 そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。

 空っぽ感。

 実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。

仕事が忙しい、プライベートが忙しい

 忙しい、いやなことがある、そんな状態が続くと、どうにも、精神的にすり減ってくるわけであるが、そのときに、何か大きな目標とか、「たのしいこと」ってのがあれば、きっと人は生きていけるんだと思う。

 ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。

 その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。

 だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。



 ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。

 けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。

 そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
 煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。

 まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。

 じゃあ酒は? とか。

 ゲームは?



 なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?

人の残虐性は二次元のせいか?

 話がすげーどうでもいいというか、変わっていくが、表現の規制に関する政策については、僕は基本断固反対する。(政治的主張だ!)

 いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
 でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
 僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。

 なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。

 もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
 いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。

 そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。

 それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
 そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。

 ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
 はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。


(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)



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