今日の一言「言葉だけの人間は信用されない」「言葉で表現できない場合は評価されない」
むさくるしい、こんな、自己啓発的な冒頭は、僕の嫌いなところであるけれども、いつもどおり本音本心マックスファイアーでいこう。
・エロマンガ先生のアニメを少しだけ見たが、結構面白そう
・クレヨンしんちゃんのアマゾンオリジナル作品を見たが、エイリアンと戦う奴はいまいちだった(とはいえ結局ENDING気になって最後まで見てしまった)が、おもちゃウォーズは面白かった。なんというか、おもちゃ系に僕は弱いのかもしれない。涙がこぼれた。
・PCの調子がすこぶる悪い。先日、CMOS初期化(電池はずして付け直し)したらなおったと書いたが、結局またASUS(エイスースと読むらしい)のロゴでフリーズ。CMOS電池をはずすとまた動くけれども、毎回グラボのネジはずして、グラボはずして……とかやってられない。「CR2032」というマザーボード用の電池を交換してみる。これでしばらくよくなるといいのだが……。
おっと、近況のメモはともかく、そう、結果が大事だ。
なんというか、僕は、言葉を優先する……(思考で現象をとらえようとする)のだけれども、いや、それはまぁ今回の記事と直接的に関係しないが、結局のところ、何らかの「結果」がない場合、他者にはゼロとしかうつらない、ということだ。
なるほど、あるコンサルタントの話しで、ある黒い会社で、手を止めて考えているような社員がいたら、「さぼるな! 働け!」と怒号が飛び交う会社があったという。いやはや、ライン仕事だったり、パンチャーの仕事じゃあないのだから、タイピングの指がとまって、画面とにらめっこする時間だって必要だろう。
ただ、そんな極端なことはともかくとして、何らか、「かたち」に見えるようにならなければ、人は、人を、価値ある存在としてみなさないのである。
いやいや、そんなことないよ! 生きているだけでみんな、価値があるんだ!
なるほど、そういった標語は必要だろう。確かに、価値あることだけを絶対視するような社会システムは、遊びのないアクセルやブレーキペダルのようなもので、危険極まりないだろう。
が、それは概念的な話であって、実際問題、「無価値な人間」という存在が、尊敬されたり、大事にされたりすることがあり得るだろうか?
否。
まず、この前提は認めるべきである。
いやはやすぐさま、その「価値」とは何ぞや、という問いが浮かぶのであるが、それはここではわきに置いておこう。取り敢えず、「価値がある」ことは重要だ。
さて、般若心経においては、「舎利子よ、よく聞きなさい。この世は、空(縁起)なのですから、生まれるでもなく、滅するでもなく、清いでもなく汚いでもなく、増えるでもなく減るでもないのですよ」と言われるが、まぁ、まちたまえ。
美人と、ブスと、どちらがよいか?
この二者択一は、美人、である。ここで、「性格の悪い美人」とか、「内面は美しいブス」とか、そんな形容は一切無視する。取り敢えず、美しいものと、汚いもの、どちらがいいのか? きれいなものだ、当たり前だ!
その当たり前を、まず前提とおく勇気があるか、否か。
そんな、当たり前だけど、みんな中々おおっぴらには言えないこと。それらを、まず根底としておくことが重要である。その前提がないと、言葉は、創造は、システムは、どうにもおかしなことになる。
そのうえで。そうはいっても、「美人」といったって、人の好き好みは様々だとか、効率を重視して中間管理職を省いたら組織が停滞するとか、そういう積み重ねた議論がようやく生じるのである。
だが、議論が積み重なればなるほど、その「根本的な価値観」がなおざりになっていく。
「お客様のためです!」「国民のためです!」
営業とか、政治家とかは言う。それは本心かもしれない。が、その根本的な価値観は何だ? もうけたい、お金が欲しい、人から尊敬されたい、認められたい……結局、そんなマズローの五段階欲求……いやもっといえば、性欲食欲睡眠欲の三大欲求に還元されてしまうようなものかもしれない。
ここで、頭のいい人たちは、「そうはいっても」という。「そうはいっても、たかだか三大欲求と、人のためになりたいという、承認欲求や自己実現欲求とは、次元が違うのだ。愛のあるセックスは、ただの生殖行為とは違うのだ」と……。
メメント・モリ!
ああしかし、すべての芸術は、「死」という事態からの、単なる逃避でしかないと言ったある哲学者(?)よ。彼のその言は、一瞬で人々の息の根を止める呪文である。悪魔の囁きである。禁断の魔術だ。
しかし光あれ! しかし屈しはしない。人の、生きたいと思う心、良き存在でありたいと希うその魂の叫びは、邪知妄執を振り払うのである。
「結果を出せる人間が信用を得る」
だから、何だ?
結果とは何だ? それがどうした? 当たり前ではないか?
いやそもそも、信用とは何だ? 誰からの信用だ? 何のために必要なのか?
ネットサーフィンしていたら、胸糞悪い記事にであった。若いころは遊びほうけて、ちやほやされて、お金もあって好き放題やっていたが、40歳過ぎて、なんか人生うまくいかなくなった、死にたい死にたい……とか。
はぁ? 俺は若いころからずっと悩み考えてきて、今も生きたいか死にたいかよくわからないってのに、やっぱり、世の中の人たちは、それなりに楽しんで生きてるってんだな。そいでもって、お金もなくなって、保険もなくて、資産も無くて、ただ、年を取ったら年金くれ、金をくれ、パチンコに行かせてくれとか、ふざけんのもたいがいにしやがれ!! ……というよりも、いやしかし、「凡人」としての生き方としてはまさしく、いや本当に正しい庶民としての生き方なのかもしれない。
俺もまぁ、本当に、ひがみかもしれないが、「好き勝手」生きてみたかった。思考何て、そんな金にもならない、只周りの人から変人扱いされるようなモノなんて、好き好んで手に入れたわけではない。
そうしなければ、現実と、自分との存在が、距離感が、規定がおかしくなってしまっていた。少なからず、調整する必要があった。僕は、「僕」としての存在であることを許されなかった。
とかって表現。いかがだろう? 誰かの心に、響くことはあるのではなかろうか。
いや、上の表現が「ウソ」なわけではないけれども、じゃあ、普遍的に僕の心を完璧に、余すことなく表現できたかというと、きっとそうではないのだ。あくまで、「表現」に過ぎないのである。
それでも。
16歳ぐらいの若い男の子に、何だか学校でもうまくいかなくて、勉強も友人も恋人とも上手くいかなくて、それでも、生きてかなきゃいけないけれども、何だか違和感がずっとまとわりついている少年に、少しは、「あぁ、こんな人もいるんだな」って、思ってもらえるんじゃなかろうか。
いやもちろん、「うわ、おっさんきめえ(わら)」とか思う少年も多いことだろう。
で、これは、エピソードなのだけれど、上のようなことも、「結果」といっていいんじゃないかと思っている。
上のようなことというのは、僕の書いた文章もそうだし、僕を胸糞悪い気分にさせてくれたブログ記事もそうだ。それも「結果」だ。
つまり、「結果」というのは、世界に、目に見える形にアウトプットすることである。
テストの点数をとるのも結果。
プレゼンをしてお客さんを納得させるのも結果。
資料をつくるのも結果。
プログラムを書いてツールやアプリを作るのも結果。
小説を書くのも結果。
ブログを書くのも結果。
人を笑わせるとか、情報を伝えるとか、それらも全部結果、ではある。
だが、僕が言いたいのは、できるだけ、「カタチ」にのころものを重視したいということである。
コピペできる情報ではなく、自分だからこそできること。
僕は、私は、こんなことが「できる」人間なんだと。そういった積み重ね、総体こそが、人、そのものだと思う。
そして、その「できること」が多くなっていったとき、それを紐づけて、より価値を高めてくれるのが、「言葉」であるのだ。
「私は、他人を幸せにすることができます」といったら、怪しげな宗教だが、マザーボードに使用するコンデンサーを作って、みんなが使うパソコンやスマホの基盤を支えることで、人々に笑顔を与え幸せにしますとか、……例が陳腐でアホらしいけれど、でも、なんというか、「できること」を、他者に伝わるように変換して(言葉にして)表現するということは重要である。
そして今日も僕は筋トレを少しだけ続ける。
体調不良だった数日間はできなかったが、それは免除規定該当のため問題なし。かれこれ、一応230日以上続けられている。このように、そのやってることの中身はともかく、「続けられること」というのも、立派な「できること」の一つである。
そして、「愚痴を言うこと」も「できること」である。
そう。何らかの生産行為は、それがポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、良いことでも悪いことでも関係ない。全部「結果」だ。
で、その「結果」の先に、どういったことが発生するのか。
その発生したことに対する原因を担うというのが、「責任を負う」という言葉の意味である。
そして僕は、この記事では、ポジティブなことと、ネガティブなこと、良いこと悪いこと、美人ブス、きれいなもの汚いものが、具体的にどんなものか、何なのかは一切示していない。
繰り返しになるが、この記事は、「結果」が大事である、という主張までである。
この意味についてくんでくれた未来の僕に、次に書いた方がよいことの判断を託す。
(最初、「目的・目標」カテゴリだったけど、途中から「イライラ対処」カテゴリに変更になった。理由はいわずもがな。ああ……面倒なことが多いものだ……)
バランスよりもまずは根源
結果にコミットしよう。むさくるしい、こんな、自己啓発的な冒頭は、僕の嫌いなところであるけれども、いつもどおり本音本心マックスファイアーでいこう。
・エロマンガ先生のアニメを少しだけ見たが、結構面白そう
・クレヨンしんちゃんのアマゾンオリジナル作品を見たが、エイリアンと戦う奴はいまいちだった(とはいえ結局ENDING気になって最後まで見てしまった)が、おもちゃウォーズは面白かった。なんというか、おもちゃ系に僕は弱いのかもしれない。涙がこぼれた。
・PCの調子がすこぶる悪い。先日、CMOS初期化(電池はずして付け直し)したらなおったと書いたが、結局またASUS(エイスースと読むらしい)のロゴでフリーズ。CMOS電池をはずすとまた動くけれども、毎回グラボのネジはずして、グラボはずして……とかやってられない。「CR2032」というマザーボード用の電池を交換してみる。これでしばらくよくなるといいのだが……。
おっと、近況のメモはともかく、そう、結果が大事だ。
なんというか、僕は、言葉を優先する……(思考で現象をとらえようとする)のだけれども、いや、それはまぁ今回の記事と直接的に関係しないが、結局のところ、何らかの「結果」がない場合、他者にはゼロとしかうつらない、ということだ。
なるほど、あるコンサルタントの話しで、ある黒い会社で、手を止めて考えているような社員がいたら、「さぼるな! 働け!」と怒号が飛び交う会社があったという。いやはや、ライン仕事だったり、パンチャーの仕事じゃあないのだから、タイピングの指がとまって、画面とにらめっこする時間だって必要だろう。
ただ、そんな極端なことはともかくとして、何らか、「かたち」に見えるようにならなければ、人は、人を、価値ある存在としてみなさないのである。
いやいや、そんなことないよ! 生きているだけでみんな、価値があるんだ!
なるほど、そういった標語は必要だろう。確かに、価値あることだけを絶対視するような社会システムは、遊びのないアクセルやブレーキペダルのようなもので、危険極まりないだろう。
が、それは概念的な話であって、実際問題、「無価値な人間」という存在が、尊敬されたり、大事にされたりすることがあり得るだろうか?
否。
まず、この前提は認めるべきである。
いやはやすぐさま、その「価値」とは何ぞや、という問いが浮かぶのであるが、それはここではわきに置いておこう。取り敢えず、「価値がある」ことは重要だ。
さて、般若心経においては、「舎利子よ、よく聞きなさい。この世は、空(縁起)なのですから、生まれるでもなく、滅するでもなく、清いでもなく汚いでもなく、増えるでもなく減るでもないのですよ」と言われるが、まぁ、まちたまえ。
美人と、ブスと、どちらがよいか?
この二者択一は、美人、である。ここで、「性格の悪い美人」とか、「内面は美しいブス」とか、そんな形容は一切無視する。取り敢えず、美しいものと、汚いもの、どちらがいいのか? きれいなものだ、当たり前だ!
その当たり前を、まず前提とおく勇気があるか、否か。
二進法ではない世界
美人がいいし、イケメンがいいし、お金はある方がいいし、きれいなものがいいし、効率がよいほうがいい。そんな、当たり前だけど、みんな中々おおっぴらには言えないこと。それらを、まず根底としておくことが重要である。その前提がないと、言葉は、創造は、システムは、どうにもおかしなことになる。
そのうえで。そうはいっても、「美人」といったって、人の好き好みは様々だとか、効率を重視して中間管理職を省いたら組織が停滞するとか、そういう積み重ねた議論がようやく生じるのである。
だが、議論が積み重なればなるほど、その「根本的な価値観」がなおざりになっていく。
「お客様のためです!」「国民のためです!」
営業とか、政治家とかは言う。それは本心かもしれない。が、その根本的な価値観は何だ? もうけたい、お金が欲しい、人から尊敬されたい、認められたい……結局、そんなマズローの五段階欲求……いやもっといえば、性欲食欲睡眠欲の三大欲求に還元されてしまうようなものかもしれない。
ここで、頭のいい人たちは、「そうはいっても」という。「そうはいっても、たかだか三大欲求と、人のためになりたいという、承認欲求や自己実現欲求とは、次元が違うのだ。愛のあるセックスは、ただの生殖行為とは違うのだ」と……。
メメント・モリ!
ああしかし、すべての芸術は、「死」という事態からの、単なる逃避でしかないと言ったある哲学者(?)よ。彼のその言は、一瞬で人々の息の根を止める呪文である。悪魔の囁きである。禁断の魔術だ。
しかし光あれ! しかし屈しはしない。人の、生きたいと思う心、良き存在でありたいと希うその魂の叫びは、邪知妄執を振り払うのである。
情報ではなく技術や結果が重要だ
さてこの記事の目的は何だ?「結果を出せる人間が信用を得る」
だから、何だ?
結果とは何だ? それがどうした? 当たり前ではないか?
いやそもそも、信用とは何だ? 誰からの信用だ? 何のために必要なのか?
ネットサーフィンしていたら、胸糞悪い記事にであった。若いころは遊びほうけて、ちやほやされて、お金もあって好き放題やっていたが、40歳過ぎて、なんか人生うまくいかなくなった、死にたい死にたい……とか。
はぁ? 俺は若いころからずっと悩み考えてきて、今も生きたいか死にたいかよくわからないってのに、やっぱり、世の中の人たちは、それなりに楽しんで生きてるってんだな。そいでもって、お金もなくなって、保険もなくて、資産も無くて、ただ、年を取ったら年金くれ、金をくれ、パチンコに行かせてくれとか、ふざけんのもたいがいにしやがれ!! ……というよりも、いやしかし、「凡人」としての生き方としてはまさしく、いや本当に正しい庶民としての生き方なのかもしれない。
俺もまぁ、本当に、ひがみかもしれないが、「好き勝手」生きてみたかった。思考何て、そんな金にもならない、只周りの人から変人扱いされるようなモノなんて、好き好んで手に入れたわけではない。
そうしなければ、現実と、自分との存在が、距離感が、規定がおかしくなってしまっていた。少なからず、調整する必要があった。僕は、「僕」としての存在であることを許されなかった。
とかって表現。いかがだろう? 誰かの心に、響くことはあるのではなかろうか。
いや、上の表現が「ウソ」なわけではないけれども、じゃあ、普遍的に僕の心を完璧に、余すことなく表現できたかというと、きっとそうではないのだ。あくまで、「表現」に過ぎないのである。
それでも。
16歳ぐらいの若い男の子に、何だか学校でもうまくいかなくて、勉強も友人も恋人とも上手くいかなくて、それでも、生きてかなきゃいけないけれども、何だか違和感がずっとまとわりついている少年に、少しは、「あぁ、こんな人もいるんだな」って、思ってもらえるんじゃなかろうか。
いやもちろん、「うわ、おっさんきめえ(わら)」とか思う少年も多いことだろう。
で、これは、エピソードなのだけれど、上のようなことも、「結果」といっていいんじゃないかと思っている。
上のようなことというのは、僕の書いた文章もそうだし、僕を胸糞悪い気分にさせてくれたブログ記事もそうだ。それも「結果」だ。
結果の行く末が責任である
短い記事になったが、ここでまとめよう。つまり、「結果」というのは、世界に、目に見える形にアウトプットすることである。
テストの点数をとるのも結果。
プレゼンをしてお客さんを納得させるのも結果。
資料をつくるのも結果。
プログラムを書いてツールやアプリを作るのも結果。
小説を書くのも結果。
ブログを書くのも結果。
人を笑わせるとか、情報を伝えるとか、それらも全部結果、ではある。
だが、僕が言いたいのは、できるだけ、「カタチ」にのころものを重視したいということである。
コピペできる情報ではなく、自分だからこそできること。
僕は、私は、こんなことが「できる」人間なんだと。そういった積み重ね、総体こそが、人、そのものだと思う。
そして、その「できること」が多くなっていったとき、それを紐づけて、より価値を高めてくれるのが、「言葉」であるのだ。
「私は、他人を幸せにすることができます」といったら、怪しげな宗教だが、マザーボードに使用するコンデンサーを作って、みんなが使うパソコンやスマホの基盤を支えることで、人々に笑顔を与え幸せにしますとか、……例が陳腐でアホらしいけれど、でも、なんというか、「できること」を、他者に伝わるように変換して(言葉にして)表現するということは重要である。
そして今日も僕は筋トレを少しだけ続ける。
体調不良だった数日間はできなかったが、それは免除規定該当のため問題なし。かれこれ、一応230日以上続けられている。このように、そのやってることの中身はともかく、「続けられること」というのも、立派な「できること」の一つである。
そして、「愚痴を言うこと」も「できること」である。
そう。何らかの生産行為は、それがポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、良いことでも悪いことでも関係ない。全部「結果」だ。
で、その「結果」の先に、どういったことが発生するのか。
その発生したことに対する原因を担うというのが、「責任を負う」という言葉の意味である。
そして僕は、この記事では、ポジティブなことと、ネガティブなこと、良いこと悪いこと、美人ブス、きれいなもの汚いものが、具体的にどんなものか、何なのかは一切示していない。
繰り返しになるが、この記事は、「結果」が大事である、という主張までである。
この意味についてくんでくれた未来の僕に、次に書いた方がよいことの判断を託す。
(最初、「目的・目標」カテゴリだったけど、途中から「イライラ対処」カテゴリに変更になった。理由はいわずもがな。ああ……面倒なことが多いものだ……)
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