今日の一言「つかれたー」「ものすごくぐちゃっと書きたくなった」
イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
リアリティ
内容の無い記事は書きたくないが、まとまった時間が取れないので、つらつら徒然に書く。イライラ対処というカテゴリだが、別に苛々しているわけではない。ただ決して、玲瓏清みわたった気分というわけでもない。ただ、単に疲れている。
書いたところで癒えるものではないが、しかし、猛然と獰猛に噛み千切られていく時間の中で、ただ一点の楔を打ち込む。そして突き立てた杭に僅かばかりをひっかけ、いま、ここ、を思索する。
何点か、思ったことはあって、書いておきたいこともあったのだが、いま思い出せるのは、ある人生の先輩が、リアリティと没入感の関係について記載されていたことである。
彼の方は、軍事知識に造詣が深いため、ガンスリンガーガールという、心身に重傷を負った少女が、秘密国家機関により戦闘用に改造(義体化)される作品は、面白くないという。
なるほど確かに、当該作品は、何故少女が対象なのかは明かされない。
その方は、物語の設定の、現実との距離感について「固さ」、と表現されていたが、ノリ、重さ、といってもよいだろう。すなわち、作品のテイストと、現実世界との乖離が大きいほど、没入感(感情移入の度合)が減じてしまうだろうという見解、これはもっともに思える。
この見解は、かなり頑強性をもった示唆と思う。
個々人の現実感
一方、では僕は、何故ガンスリンガーガールを面白いと思うのか。(ただし、アニメ二期を除く。そしてこれがそもそも、今回の話題のポイントにもなりえる)ひとつ、僕の、軍事知識の欠乏による、現実認識の欠如。
これは大きな理由のひとつだろう。
ただ、これは、その人自身の現実認識の多寡が問題であって、没入感が損なわれる原因とは言えない。(なにせ、その人は、その人のもつ現実感(=知識が欠乏した現実)を「正」としているのである)
一瞬、詭弁のようであるが、
「物語の設定の現実との距離感が、物語のテイスト(固さ・ノリ)と一致している場合、没入感(感情移入の度合)が強くなり、面白いと感じられる可能性が高くなる」
という見解(示唆)のポイントは、万物普遍で正当完璧な「世界」認識ではない。
では何故、僕自身は、現実感に折り合いをつけられているのか。
これは無意識である(この無意識というのは重要。無意識ゆえに、おそらく、軍事知識を綿密に与えられて、その作品の矛盾を列挙されたとしても、それほど大きく面白いと思う感情は左右されないと思われる)。
その折り合いとは何か。
少女が機械の身体を与えられるのは、ひとつ、単純にその方がかわいいからだ。(は?)
理由にもならない理由だが、別にその点をそれほど拘っていない、というのが理由でもある。
例えば、少年も義体化の対象であったと、そんな後付けの設定があればいいのでは、と思うというのもある。もちろん、本編で少年の義体化の例は触れられていないので、この想定は意味がない。
条件付けの理由
僕がガンスリンガーガールの現実感(リアリティ)をそれほど意識しなかったのは、次の理由が大きい。それは、義体化する上で、「条件付け」という洗脳も必要になるのだが、その条件付けが、「愛情」に似たものであるという示唆がなされていることだ。
これは実際にそういった表現がなされるシーンもあるし、この「愛情」というのが、悲劇的な結果に結びつくエピソードもあるため、「条件付け」と「愛情」との関係については、関連性があることは間違いないだろう。
義体化された少女には、担当官と呼ばれる男性があてがわれ、兄妹のように四六時中一緒にいるので、フラテッロ(イタリア語で兄妹という意)と呼ばれる。
身の回りの世話や、戦闘訓練などの責任は、一手にその担当官が担うわけである。
そうした生活を送る中で、担当官の命令は絶対である。拳銃のエイムを鍛えるように命じられた義体は、雨が降っても、一睡もせずに練習し続ける。担当官がやめろと言うまでは。
そこまでの狂わしい服従の心を、僕らは知っている。時に命を奪うこともある熱病、恋って奴だ。
条件付けとは、人のもつ、異性を恋しいと思う気持ちを利用(転用)した技術なのではないだろうか。
だから、義体は、少女でなければならなかった――。
……と、そんなこと思いながら見たり読んだりしていたわけではなくて、先日、彼の方の記事を読んで思ったのだった。
まぁ、だったら、別に少年と女の人とのフラテッロだって良さそうだし、あんまり理由になってないだろう。
ただまぁ、少年兵って別に珍しくないだろうし、やっぱりか弱そうで可愛らしい女の子の方が、敵も油断するとか、そんなのもあるんじゃなかろうか。
つれづれ
ああ、……つれづれ、特に考えないで書いたので、よく分からない意見になったろう。というのも、言い訳じみた記載である。
もともと、他にも書いておこうと思ったことはあったし、そもそも、連載を決めた小説も、書き進められた部分はあるのだけれども、単純に、その投稿、切り張りに時間をとれていない。
そもそも、睡眠時間を削ってまで、ブログを書くということはしないことにしている、していた。
が、今日は、もう限界だ。そんなことをやっていたら、もうしばらく更新ができなそうである。
そこまでして、ブログ更新をしないといけないのは何故か?
何故なんだ?
ブログで収入を得ている人も多いらしい。
僕は、一銭も得たことがない!
うらやましいなと、思う。と同時に、まぁ、このブログは、稼げなくていいかな、と思う。と、いうよりも、その方がいいだろうと。
そして、思い出した、その一つは、他者との比較の無意味性についてだ。
学歴コンプレックス
28年度で、東大の入学者総数は、全学部で約3000人である。しかし、その中でも優劣はある。学部間の優劣もあるだろう。ゼミの優劣もあるだろう。そもそも、世界規模で見たら、東大のランクも一位ではない。(※)そもそも、じゃあ、何をもって優劣とするのか。知識の量か、判断力か、カリスマ性か。ただし、そうなってくると、「学歴」という基準から問いがズレてくるため、ここまでにする。
言いたいこととしては、コンプレックスとは、対象(モノ・コト)について、その人自身が拘るかどうか、によって発生するということである。
※とはいえ、きっと、東大卒の人で、「学歴コンプレックス」という状態の人はいないだろうが。
一般的コンプレックス
僕は基本的に学歴コンプレックスはないのだけれども、たまに、気になることがないわけでもない。自然演繹では矛盾から如何なる命題も導ける
↑の記事は、何だかすごい明快な気がするのだけれども、やっぱり僕の頭程度では理解できない。そもそも記号の図示が良く分からない。誰か僕に分かるように教えて欲しい……。
んで、上の記事の作者は、どうやら東大卒のようである。なるほど、やっぱり東大卒の人はすげーんだな……みたいに思ったりしないでもなくもない。仕事上、東大とかそれに準じる高偏差値の大学出身の人と関わったりもしていると、頭の回転の速さとか処理能力に圧倒される場合が少なくない。
また、同じこと書いたり、言ったりしても、後から「実は東大卒です」みたいなことを聞くと、おーすげーなぁみたいになることも、なくはない。これって既に学歴コンプレックスと言われても仕方がないようにも思う。
物を書くのは畢竟一人称である
大学の研究室にいると、基本的に「一人称」というのは認められない。僕個人がこうしたとか、僕個人がこう思ったとか、そういう個別的なことは、だからどうしたと言われて終わりである。事実ならば再現性が、思考ならば論理性が、要求される。「私は・・・と思う」という文章は書けないのである。あーなるほどなぁと、思う。確かに、文系(人文科学)であっても、「研究」では、とにかく主観が悪とされ、排除される。客観的、論理的な思考が要求される。
「稼げるブログ」とか、「役に立つブログ」ってのは、きっとそういうもんなんだろう。
事実ならば再現性。思考ならば論理性。
そういう意味で、リアリティと没入感に関して書かれた記事は、論理的で読みやすくて、分かりやすかった。
ただ、僕の場合、そんなことばっかり考えて、ブログ書こうと思ったら、きっとものすごくつまらないだろうと思うのである。
論理性の放棄
あー。最近、書こうと思っても、「時間がない」とか言い訳して書けなくなったのは、その、頭の良い人たちの記事を読んで、感動したからってのはありそうだ。
もっとちゃんとしたこと書かなきゃいけないって、そんな風に。
実際問題、再び、最近、帰宅が23時オーバーの傾向が強いため、本当に書いている暇がないというのはあるのだけれども、一番大事なことは何か?
仕事?
違う。
生きる意味を明白にして、生きることだろう。もしくは、死ぬことだろう。
仕事は生きがいかもしれない。手段かもしれない。それすらよく分かっていないその状況で、考えることを放棄して、ただ、一瞬も止め置けない過ぎ去る時間に身を任せるというのが、一番許せないことである。
眠い? ふざけんな、そんなこと言ってる場合じゃない。
仕事が終わらない? ふざけんな、そんなことばかりやってる場合じゃない。もっと大事なことがあんだろうが、お前には。
ああ、段々とイライラしてきた。書いていると落ち着くといつも書いているけれども、今回は逆パターンだ。
これは、「論理性」なんかを考え始めたからってのはありそうだ。
論理っていうけどな、それって、実は、感情だって場合はよくあることだ(よくあることだ、なんていうと、その根拠は? みたいになるけどな!)。
いかにも、「論理的です(キリッ)」みたいに説明すると、その論拠が不明でも、納得してしまうことがあるだろう。
いやそもそも、「電気」の仕組みをどこまで完璧に人は理解できているのか。その電磁気学と、実学は異なるということかもしれないが、結局、「再現性」は100%の真理ではない。
となったとき、「不安」を取り除くことができるのは、「安心」という「感情」を与えることである。
結局、所与の条件で、その環境において、時間の許す範囲で、正しいと思われる根拠を集めて、それを適切に(その適切というのも、相手に応じてという意味に過ぎないが)並び組み立てる。それが仕事である。
先日、僕は何かつくるのが好きなんだと思った、と、書いた。
そりゃ、仕事で、誰かから感謝されたり、すごいねと頼りにされたりするのはうれしいことだ。けれども、それは、「真理」ではない。たまたま上手くいった程度のものだ。いやもちろん、「仕事」ってのは、その「たまたま」上手くいったのを、その要素を抽出して、「誰でも同じように利益が出せるようにすること」だという、よくある啓蒙の言を無視するのではない。
たまたまをルーチン化
が。その、上手くいった条件を使って利益を出すのは、今後、ロボットとか、AIとかいわれる技術によって、可能になっていく、なっている、のである。ので、「たまたま」を創り出す人、クリエイティブな層のみが、生き残れる社会になっていくということである。
まーそりゃ避けられないことな気がする。
ので、僕は、その「上手くいく」ことを日々探してやってきているのであるが、結局、……これは性格もあいまって、「いくら成功したとしても、それが喜びにはならない」ということである。
いや、これは、仕事に限らない。
何かいいことがあっても、「たまたま」。逆に、悪いことがあっても、最近は、まぁ何とかなるだろうとしか思えなくなっているが、どっちにせよ、超越的な(運命的な)なんらかに平伏してしまっている気がする。
能動感がないのだ。自分で自分を生きている感覚がないのだ。欲がないのだ。無気力なのだ……いや、行動はしているし、感情もあるので、決して無気力ではないのだが……。
その原因は、やはり、時間に身を任せざるを得ない状況になるということであって、その流れにおぼれている状態で、藁を掴むというのが、この、「書く」ということなのだ、と、今思った。
だから、この記事は、論理性もほとんどなければ、感情の吐露すら上手くいっていない。
けれども、書かなければならなかった。書かなければ、ついぞ溺れてしまうのだ。
(全デリートしたい気分。しかし敢えて載せて、明日読んで、やっぱり駄目なら消そう。しかし、時折消える記事があるブログというのは、印象が悪いということを聞いたことがある。まぁ、それこそお金を稼ぐようなブログであれば、言ったことに責任をもって頂きたいところもあるし、「納豆ダイエットすごいですよ!」的なこと書いておいて、実は嘘でしたって該当記事を削除するようなブログは、二度と見るか! と思いたくもなるだろう。この記事は、というよりも、このブログ全体がそもそも、そんな思いを抱かせるような内容ではなかろう。)
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