肉親とはどこまでを指すのか。ただ、血が繋がっている親族と考えてよいだろう。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
骨
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
葬儀の流れ
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
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人生を見つめなおすブログにしようと思う、のだけれども、まだ、書き始めるための前提がそろっていない。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
仕事の先輩、人生の先輩と話す機会があった。
国の政策の話しになって、納得させられた。選挙での立場表明をしていない人が多いなか、そして、選挙の結果がでたとき、デモはいかほどの意味があるのか、正当性はどちらにあるのか、ということだ。
総論は賛成で、各論は反対というのが一番嫌いだといっていた。私もそう思う。政治はよく分からないが、その点が納得いった。
そこで、決定についての想像力をもたなければいけないということだ。今の職場の人たちにはその能力が不十分だといっていた。若者は、とは言わないところが流石だと思う。年取ってもつかえないやつはつかえないし、若くてもできるやつはできると。その点も同意だ。
具体的に仕事の内容に関連付けた話しは面白かった。
仕事の飲み会は、そういう場であるべきだと思う。ある先輩は、自分の成功談を語る、それは参考になるはずが、若かったときの話しに過ぎず、いまの会社がこれからどうあるべきか、そもそも正しいことは何かを語るまでには至らない。
6ヶ月間の中で事務処理が必要なのに、実はシステムの中でその機能が抜けていることを見抜き、それを会議で指摘しなかった部下を叱責しつつ、裏で手をまわして解決したという話しは面白いし、業務のことも勉強になる。
若かったときは出張の接待で朝まで騒いでも、次の日もまた飲み会をしたとか、それはすごいことだと思うが、正直興味ないし面白くないし、なんの参考にもならない。
ゆえに、若い人が集まる飲み会で、どんな話しをしたらいいのかといえば、そういう、現場と、いまの自分の立場における仕事のみえかたと、あるべき姿を語るべきなのだ。
そういう話しを面白くないとして、若い女の子をどう攻略したのかという話しをしたい人はそれはそれでいいが、会社の飲み会なんて、所詮は仕事ありきでしかない。本当の友人などできるはずがない。
とかくと、言い過ぎだが、そう考えるべきだという戒めである。
まぁ、人それぞれだ。価値観はいろいろ。人生はいろいろ。
だからこそ、けれども、とはいえ、自分はどう思うのか。どう感じるのか。
もう学生ではないのだから、今の自分を中心に考えるしかない。そして、今の自分が、カオスではないことは認めてあげていい。
この考え方は、快楽殺人者には通用しないが、私の思考の中においては、例外として、切り捨ててよい。
すなわち、私の考え方や価値観は、正しいのだということだ。
数年前の記事を読んでも、カオスではあるが、根源は変わっていない気がする。環境による影響があるが、考え方の骨格は同じだ。
表現の仕方によって、変人扱いされるだろうが、一般大衆と違うことが悪いことではない。快楽殺人者は別だ、という前提はここにきいてくる。
ここに、凡人を目指せというこれまでの方針との齟齬が生まれる可能性がある。
おさらいすると、凡人を目指す必要があるのは、幸せの追求をしてはならないからだ。幸せは相対的概念のため、追求をすればするほど遠ざかる。
凡人とは何かと言えば、今を必死に、満足して生きる人の概念である。
この概念を崩す必要はない。ただし、これば、具体的な目標や指針にはなりえない。必死に、満足してという言葉は、抽象概念であり相対概念でもあるため、幸せの追求との相違点を的確に示しているのではない。重要な点は、幸せとは、ゴールではなく、過程の中にこそあるのだ。
例えば、ワイルドスピードのブライアンオコナーは、六作目のユーロミッションの冒頭で、大金を手にし、引き渡し協定がない国に妻と移り住み、息子が生まれ、幸せな日常を過ごしている。しかし、スリルのあった前の生活が忘れられず、悶々と悩み続けている。
自分で幸せだと認識しない限りは幸せではない。その認識は無限に広がる。だから、凡人になるとは、あるがままでいいとか、楽をするとか、そういういみではないと、前の記事で述べたはずだ。
すなわち、自分を認め、普通の人の感覚と違う方向に進もうが、凡人を目指せという目標との齟齬は発生しないのだ。
長くなったため、まとめよう。
若手との飲み会では、仕事の内容に関連付けて、あるべき姿を語ろう。
んん、何だか違うような。
自分の考え方は既に確立して正しいとの認識のもと、今この時を一生懸命生きよう。
うーん、何だか違うような。つまり、言いたいことはないということか。本来ブログとしては削除すべきだが、未来の自分のために残しておこう。
もしかすると、全く関係のない通りがかりの人が、コメントをしてくれるかもしれない。
そのコメントは、批判かもしれない。批判であれば、どう批判するのか興味もあるし、ありがたい。
バカ、アホ、死ね、というコメントは、何がダメなのかあればいいが、それだけでは愚かな自分は分からないのでいらない。
どうなんだろう。まぁ、普通の人が読めば気持ち悪いんだろうな。こういうブログを探したこともあったが、見たことない。需要もないし、そもそもこういうことを、普通の人は思わないのだろう。
ただ、それでも、このブログが残っているのは、2009年に知り合った人が、すごかったからだ。
その人は、私の中途半端さというか、美意識の低さに結局愛想つかして去ってしまった。
悲しい寂しいとかそんな気持ちを抱くほど余裕もなかったから、そのまま時間が過ぎたが、思考の分野でも到底勝ち目がない人もいるのだとそのとき、知識ではなく心から感じられたので、とても、謙虚になれたと同時に、「生きてていいんだ」と思うことができた。
感謝している。
本当に長くなったためここまで。
国の政策の話しになって、納得させられた。選挙での立場表明をしていない人が多いなか、そして、選挙の結果がでたとき、デモはいかほどの意味があるのか、正当性はどちらにあるのか、ということだ。
総論は賛成で、各論は反対というのが一番嫌いだといっていた。私もそう思う。政治はよく分からないが、その点が納得いった。
そこで、決定についての想像力をもたなければいけないということだ。今の職場の人たちにはその能力が不十分だといっていた。若者は、とは言わないところが流石だと思う。年取ってもつかえないやつはつかえないし、若くてもできるやつはできると。その点も同意だ。
具体的に仕事の内容に関連付けた話しは面白かった。
仕事の飲み会は、そういう場であるべきだと思う。ある先輩は、自分の成功談を語る、それは参考になるはずが、若かったときの話しに過ぎず、いまの会社がこれからどうあるべきか、そもそも正しいことは何かを語るまでには至らない。
6ヶ月間の中で事務処理が必要なのに、実はシステムの中でその機能が抜けていることを見抜き、それを会議で指摘しなかった部下を叱責しつつ、裏で手をまわして解決したという話しは面白いし、業務のことも勉強になる。
若かったときは出張の接待で朝まで騒いでも、次の日もまた飲み会をしたとか、それはすごいことだと思うが、正直興味ないし面白くないし、なんの参考にもならない。
ゆえに、若い人が集まる飲み会で、どんな話しをしたらいいのかといえば、そういう、現場と、いまの自分の立場における仕事のみえかたと、あるべき姿を語るべきなのだ。
そういう話しを面白くないとして、若い女の子をどう攻略したのかという話しをしたい人はそれはそれでいいが、会社の飲み会なんて、所詮は仕事ありきでしかない。本当の友人などできるはずがない。
とかくと、言い過ぎだが、そう考えるべきだという戒めである。
まぁ、人それぞれだ。価値観はいろいろ。人生はいろいろ。
だからこそ、けれども、とはいえ、自分はどう思うのか。どう感じるのか。
もう学生ではないのだから、今の自分を中心に考えるしかない。そして、今の自分が、カオスではないことは認めてあげていい。
この考え方は、快楽殺人者には通用しないが、私の思考の中においては、例外として、切り捨ててよい。
すなわち、私の考え方や価値観は、正しいのだということだ。
数年前の記事を読んでも、カオスではあるが、根源は変わっていない気がする。環境による影響があるが、考え方の骨格は同じだ。
表現の仕方によって、変人扱いされるだろうが、一般大衆と違うことが悪いことではない。快楽殺人者は別だ、という前提はここにきいてくる。
ここに、凡人を目指せというこれまでの方針との齟齬が生まれる可能性がある。
おさらいすると、凡人を目指す必要があるのは、幸せの追求をしてはならないからだ。幸せは相対的概念のため、追求をすればするほど遠ざかる。
凡人とは何かと言えば、今を必死に、満足して生きる人の概念である。
この概念を崩す必要はない。ただし、これば、具体的な目標や指針にはなりえない。必死に、満足してという言葉は、抽象概念であり相対概念でもあるため、幸せの追求との相違点を的確に示しているのではない。重要な点は、幸せとは、ゴールではなく、過程の中にこそあるのだ。
例えば、ワイルドスピードのブライアンオコナーは、六作目のユーロミッションの冒頭で、大金を手にし、引き渡し協定がない国に妻と移り住み、息子が生まれ、幸せな日常を過ごしている。しかし、スリルのあった前の生活が忘れられず、悶々と悩み続けている。
自分で幸せだと認識しない限りは幸せではない。その認識は無限に広がる。だから、凡人になるとは、あるがままでいいとか、楽をするとか、そういういみではないと、前の記事で述べたはずだ。
すなわち、自分を認め、普通の人の感覚と違う方向に進もうが、凡人を目指せという目標との齟齬は発生しないのだ。
長くなったため、まとめよう。
若手との飲み会では、仕事の内容に関連付けて、あるべき姿を語ろう。
んん、何だか違うような。
自分の考え方は既に確立して正しいとの認識のもと、今この時を一生懸命生きよう。
うーん、何だか違うような。つまり、言いたいことはないということか。本来ブログとしては削除すべきだが、未来の自分のために残しておこう。
もしかすると、全く関係のない通りがかりの人が、コメントをしてくれるかもしれない。
そのコメントは、批判かもしれない。批判であれば、どう批判するのか興味もあるし、ありがたい。
バカ、アホ、死ね、というコメントは、何がダメなのかあればいいが、それだけでは愚かな自分は分からないのでいらない。
どうなんだろう。まぁ、普通の人が読めば気持ち悪いんだろうな。こういうブログを探したこともあったが、見たことない。需要もないし、そもそもこういうことを、普通の人は思わないのだろう。
ただ、それでも、このブログが残っているのは、2009年に知り合った人が、すごかったからだ。
その人は、私の中途半端さというか、美意識の低さに結局愛想つかして去ってしまった。
悲しい寂しいとかそんな気持ちを抱くほど余裕もなかったから、そのまま時間が過ぎたが、思考の分野でも到底勝ち目がない人もいるのだとそのとき、知識ではなく心から感じられたので、とても、謙虚になれたと同時に、「生きてていいんだ」と思うことができた。
感謝している。
本当に長くなったためここまで。
創造的な仕事ができるのは10年、という。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
韓国に、侮辱発言をさせた時点で、今までの外交が失敗だったといえる。
論理より感情が優先されるという、明らかなことに目を向けなければいけない。
ビジネスが合理性を追求するのは、合理的であることが幸せであるということが、その場において信じられているからだ。
合理的でない人間を排除するシステムが稼働しているからだ。
客観的真実など存在しないと、高校の友人と論争したことがある。僕がどちらの立場だったか忘れたが、今は、主観優位主義である。
主観も、その場の構成員全員が一致していれば、客観と呼ぶことは可能だろう。ただ、出発点は主観なのだ。
文系的であり、数学や物理を学ぶものからは嘲笑されるだろう。
ただし、普遍的な数式も、それを理解するものが多数でなければ、客観として機能しない。
いくら言葉で納得させても、生理的欲求には抗えないし、ましてや、社会化されていない野獣に対しては、一切が無意味である。
こうした帰結で戦争は起こる。
戦争する前は、戦争に反対する者が非国民である。
負けると平和を希求する。
また空腹になると戦争を望む。
人間とはかくも愚かな生き物だ。
私は違う、ということではなくて、これは自明でありながら、誰もが自覚的ながら、抗うことができない「衝動」である。
1945年8月から、戦争はもう起きないのだろうと、誰もが思っている。
私もそう「感じる」、しかしながら、人間という生物が、たかだか67年ちょっとで進化するものだろうか。
戦前の軍部の人間たちは、負ける戦争を望むほど愚か者だけだったのか。
論理より感情が優先されるという、明らかなことに目を向けなければいけない。
ビジネスが合理性を追求するのは、合理的であることが幸せであるということが、その場において信じられているからだ。
合理的でない人間を排除するシステムが稼働しているからだ。
客観的真実など存在しないと、高校の友人と論争したことがある。僕がどちらの立場だったか忘れたが、今は、主観優位主義である。
主観も、その場の構成員全員が一致していれば、客観と呼ぶことは可能だろう。ただ、出発点は主観なのだ。
文系的であり、数学や物理を学ぶものからは嘲笑されるだろう。
ただし、普遍的な数式も、それを理解するものが多数でなければ、客観として機能しない。
いくら言葉で納得させても、生理的欲求には抗えないし、ましてや、社会化されていない野獣に対しては、一切が無意味である。
こうした帰結で戦争は起こる。
戦争する前は、戦争に反対する者が非国民である。
負けると平和を希求する。
また空腹になると戦争を望む。
人間とはかくも愚かな生き物だ。
私は違う、ということではなくて、これは自明でありながら、誰もが自覚的ながら、抗うことができない「衝動」である。
1945年8月から、戦争はもう起きないのだろうと、誰もが思っている。
私もそう「感じる」、しかしながら、人間という生物が、たかだか67年ちょっとで進化するものだろうか。
戦前の軍部の人間たちは、負ける戦争を望むほど愚か者だけだったのか。