国民会議、という本を読んだ。といっても、まだ数十ページだけれど。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。
民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。
その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。
しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。
最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。
と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。
それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。
同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。
これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。
結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。
と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。
言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。
ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。
一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。
こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。
本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。
なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。
夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。
その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。
いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。
で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。
幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。
それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。
敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。
ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。
自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。
何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。
とにかく、時間切れ。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。
民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。
その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。
しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。
最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。
と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。
引き寄せの法則
いや、まぁ、僕も、「すごいもの」に憧れたい、信じたい、という気持ちはあるのだと思う。そもそも、宗教とは何かといえば、超然たる存在に従い、教示を受け、信仰することである。それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。
同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。
これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。
表現による真実性の隠蔽
僕は、映画も漫画も小説も好きだし、表現することはとても楽しいことだと思いながら、それがエンターテイメントじゃなくなったとき、欺瞞を感じ、気持ち悪いと思う。結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。
と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。
言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。
ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。
一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。
こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。
本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。
なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。
死の恐怖
まぁ、久々の、この日常カテゴリだから、このまま書き連ねていこう、徒然。夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。
その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。
いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。
で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。
幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。
それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。
敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。
ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。
自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。
何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。
とにかく、時間切れ。
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肉親とはどこまでを指すのか。ただ、血が繋がっている親族と考えてよいだろう。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
厳密な定義は必要とは思わない。
離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。
不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。
骨
たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。
にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。
本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。
葬儀の流れ
宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。
その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。
通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。
人生を見つめなおすブログにしようと思う、のだけれども、まだ、書き始めるための前提がそろっていない。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
仕事の先輩、人生の先輩と話す機会があった。
国の政策の話しになって、納得させられた。選挙での立場表明をしていない人が多いなか、そして、選挙の結果がでたとき、デモはいかほどの意味があるのか、正当性はどちらにあるのか、ということだ。
総論は賛成で、各論は反対というのが一番嫌いだといっていた。私もそう思う。政治はよく分からないが、その点が納得いった。
そこで、決定についての想像力をもたなければいけないということだ。今の職場の人たちにはその能力が不十分だといっていた。若者は、とは言わないところが流石だと思う。年取ってもつかえないやつはつかえないし、若くてもできるやつはできると。その点も同意だ。
具体的に仕事の内容に関連付けた話しは面白かった。
仕事の飲み会は、そういう場であるべきだと思う。ある先輩は、自分の成功談を語る、それは参考になるはずが、若かったときの話しに過ぎず、いまの会社がこれからどうあるべきか、そもそも正しいことは何かを語るまでには至らない。
6ヶ月間の中で事務処理が必要なのに、実はシステムの中でその機能が抜けていることを見抜き、それを会議で指摘しなかった部下を叱責しつつ、裏で手をまわして解決したという話しは面白いし、業務のことも勉強になる。
若かったときは出張の接待で朝まで騒いでも、次の日もまた飲み会をしたとか、それはすごいことだと思うが、正直興味ないし面白くないし、なんの参考にもならない。
ゆえに、若い人が集まる飲み会で、どんな話しをしたらいいのかといえば、そういう、現場と、いまの自分の立場における仕事のみえかたと、あるべき姿を語るべきなのだ。
そういう話しを面白くないとして、若い女の子をどう攻略したのかという話しをしたい人はそれはそれでいいが、会社の飲み会なんて、所詮は仕事ありきでしかない。本当の友人などできるはずがない。
とかくと、言い過ぎだが、そう考えるべきだという戒めである。
まぁ、人それぞれだ。価値観はいろいろ。人生はいろいろ。
だからこそ、けれども、とはいえ、自分はどう思うのか。どう感じるのか。
もう学生ではないのだから、今の自分を中心に考えるしかない。そして、今の自分が、カオスではないことは認めてあげていい。
この考え方は、快楽殺人者には通用しないが、私の思考の中においては、例外として、切り捨ててよい。
すなわち、私の考え方や価値観は、正しいのだということだ。
数年前の記事を読んでも、カオスではあるが、根源は変わっていない気がする。環境による影響があるが、考え方の骨格は同じだ。
表現の仕方によって、変人扱いされるだろうが、一般大衆と違うことが悪いことではない。快楽殺人者は別だ、という前提はここにきいてくる。
ここに、凡人を目指せというこれまでの方針との齟齬が生まれる可能性がある。
おさらいすると、凡人を目指す必要があるのは、幸せの追求をしてはならないからだ。幸せは相対的概念のため、追求をすればするほど遠ざかる。
凡人とは何かと言えば、今を必死に、満足して生きる人の概念である。
この概念を崩す必要はない。ただし、これば、具体的な目標や指針にはなりえない。必死に、満足してという言葉は、抽象概念であり相対概念でもあるため、幸せの追求との相違点を的確に示しているのではない。重要な点は、幸せとは、ゴールではなく、過程の中にこそあるのだ。
例えば、ワイルドスピードのブライアンオコナーは、六作目のユーロミッションの冒頭で、大金を手にし、引き渡し協定がない国に妻と移り住み、息子が生まれ、幸せな日常を過ごしている。しかし、スリルのあった前の生活が忘れられず、悶々と悩み続けている。
自分で幸せだと認識しない限りは幸せではない。その認識は無限に広がる。だから、凡人になるとは、あるがままでいいとか、楽をするとか、そういういみではないと、前の記事で述べたはずだ。
すなわち、自分を認め、普通の人の感覚と違う方向に進もうが、凡人を目指せという目標との齟齬は発生しないのだ。
長くなったため、まとめよう。
若手との飲み会では、仕事の内容に関連付けて、あるべき姿を語ろう。
んん、何だか違うような。
自分の考え方は既に確立して正しいとの認識のもと、今この時を一生懸命生きよう。
うーん、何だか違うような。つまり、言いたいことはないということか。本来ブログとしては削除すべきだが、未来の自分のために残しておこう。
もしかすると、全く関係のない通りがかりの人が、コメントをしてくれるかもしれない。
そのコメントは、批判かもしれない。批判であれば、どう批判するのか興味もあるし、ありがたい。
バカ、アホ、死ね、というコメントは、何がダメなのかあればいいが、それだけでは愚かな自分は分からないのでいらない。
どうなんだろう。まぁ、普通の人が読めば気持ち悪いんだろうな。こういうブログを探したこともあったが、見たことない。需要もないし、そもそもこういうことを、普通の人は思わないのだろう。
ただ、それでも、このブログが残っているのは、2009年に知り合った人が、すごかったからだ。
その人は、私の中途半端さというか、美意識の低さに結局愛想つかして去ってしまった。
悲しい寂しいとかそんな気持ちを抱くほど余裕もなかったから、そのまま時間が過ぎたが、思考の分野でも到底勝ち目がない人もいるのだとそのとき、知識ではなく心から感じられたので、とても、謙虚になれたと同時に、「生きてていいんだ」と思うことができた。
感謝している。
本当に長くなったためここまで。
国の政策の話しになって、納得させられた。選挙での立場表明をしていない人が多いなか、そして、選挙の結果がでたとき、デモはいかほどの意味があるのか、正当性はどちらにあるのか、ということだ。
総論は賛成で、各論は反対というのが一番嫌いだといっていた。私もそう思う。政治はよく分からないが、その点が納得いった。
そこで、決定についての想像力をもたなければいけないということだ。今の職場の人たちにはその能力が不十分だといっていた。若者は、とは言わないところが流石だと思う。年取ってもつかえないやつはつかえないし、若くてもできるやつはできると。その点も同意だ。
具体的に仕事の内容に関連付けた話しは面白かった。
仕事の飲み会は、そういう場であるべきだと思う。ある先輩は、自分の成功談を語る、それは参考になるはずが、若かったときの話しに過ぎず、いまの会社がこれからどうあるべきか、そもそも正しいことは何かを語るまでには至らない。
6ヶ月間の中で事務処理が必要なのに、実はシステムの中でその機能が抜けていることを見抜き、それを会議で指摘しなかった部下を叱責しつつ、裏で手をまわして解決したという話しは面白いし、業務のことも勉強になる。
若かったときは出張の接待で朝まで騒いでも、次の日もまた飲み会をしたとか、それはすごいことだと思うが、正直興味ないし面白くないし、なんの参考にもならない。
ゆえに、若い人が集まる飲み会で、どんな話しをしたらいいのかといえば、そういう、現場と、いまの自分の立場における仕事のみえかたと、あるべき姿を語るべきなのだ。
そういう話しを面白くないとして、若い女の子をどう攻略したのかという話しをしたい人はそれはそれでいいが、会社の飲み会なんて、所詮は仕事ありきでしかない。本当の友人などできるはずがない。
とかくと、言い過ぎだが、そう考えるべきだという戒めである。
まぁ、人それぞれだ。価値観はいろいろ。人生はいろいろ。
だからこそ、けれども、とはいえ、自分はどう思うのか。どう感じるのか。
もう学生ではないのだから、今の自分を中心に考えるしかない。そして、今の自分が、カオスではないことは認めてあげていい。
この考え方は、快楽殺人者には通用しないが、私の思考の中においては、例外として、切り捨ててよい。
すなわち、私の考え方や価値観は、正しいのだということだ。
数年前の記事を読んでも、カオスではあるが、根源は変わっていない気がする。環境による影響があるが、考え方の骨格は同じだ。
表現の仕方によって、変人扱いされるだろうが、一般大衆と違うことが悪いことではない。快楽殺人者は別だ、という前提はここにきいてくる。
ここに、凡人を目指せというこれまでの方針との齟齬が生まれる可能性がある。
おさらいすると、凡人を目指す必要があるのは、幸せの追求をしてはならないからだ。幸せは相対的概念のため、追求をすればするほど遠ざかる。
凡人とは何かと言えば、今を必死に、満足して生きる人の概念である。
この概念を崩す必要はない。ただし、これば、具体的な目標や指針にはなりえない。必死に、満足してという言葉は、抽象概念であり相対概念でもあるため、幸せの追求との相違点を的確に示しているのではない。重要な点は、幸せとは、ゴールではなく、過程の中にこそあるのだ。
例えば、ワイルドスピードのブライアンオコナーは、六作目のユーロミッションの冒頭で、大金を手にし、引き渡し協定がない国に妻と移り住み、息子が生まれ、幸せな日常を過ごしている。しかし、スリルのあった前の生活が忘れられず、悶々と悩み続けている。
自分で幸せだと認識しない限りは幸せではない。その認識は無限に広がる。だから、凡人になるとは、あるがままでいいとか、楽をするとか、そういういみではないと、前の記事で述べたはずだ。
すなわち、自分を認め、普通の人の感覚と違う方向に進もうが、凡人を目指せという目標との齟齬は発生しないのだ。
長くなったため、まとめよう。
若手との飲み会では、仕事の内容に関連付けて、あるべき姿を語ろう。
んん、何だか違うような。
自分の考え方は既に確立して正しいとの認識のもと、今この時を一生懸命生きよう。
うーん、何だか違うような。つまり、言いたいことはないということか。本来ブログとしては削除すべきだが、未来の自分のために残しておこう。
もしかすると、全く関係のない通りがかりの人が、コメントをしてくれるかもしれない。
そのコメントは、批判かもしれない。批判であれば、どう批判するのか興味もあるし、ありがたい。
バカ、アホ、死ね、というコメントは、何がダメなのかあればいいが、それだけでは愚かな自分は分からないのでいらない。
どうなんだろう。まぁ、普通の人が読めば気持ち悪いんだろうな。こういうブログを探したこともあったが、見たことない。需要もないし、そもそもこういうことを、普通の人は思わないのだろう。
ただ、それでも、このブログが残っているのは、2009年に知り合った人が、すごかったからだ。
その人は、私の中途半端さというか、美意識の低さに結局愛想つかして去ってしまった。
悲しい寂しいとかそんな気持ちを抱くほど余裕もなかったから、そのまま時間が過ぎたが、思考の分野でも到底勝ち目がない人もいるのだとそのとき、知識ではなく心から感じられたので、とても、謙虚になれたと同時に、「生きてていいんだ」と思うことができた。
感謝している。
本当に長くなったためここまで。
創造的な仕事ができるのは10年、という。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
